- 599 名前:白馬青牛 ◆8mr41B7alChB [2012/01/31(火) 23:51:23.11 ID:0hhJUSpk]
- >>597
ほいから、朝鮮沿岸民の倭人じゃに。井上秀雄氏の描いた図。 www.d7.dion.ne.jp/~sekai/uniue.gif この図は近代的領域図で問題があるが、朝鮮南端の住民は 倭人が多かったろう。 ほいから、伽耶北方木槨墓人こそ、広開土王の倭そのものじゃ。 www.financial-j.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=192870 「●埋葬品に見られる支配者の交代 弁韓すなわち狗邪韓国の時代に行われていた木棺墓(もっかんぼ)が、 金官伽耶の時代になると木槨墓(もっかくぼ)に変わってくる。 木槨墓からは騎乗用の甲冑、馬具類、各種の鉄製武器類が大量に 普遍的に埋葬されるようになった。また、木槨墓からは殉葬の風習も確 認されていて、この時代には比較的大規模な征服戦争が行われたことを 想像させる。 こうした鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国され た金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えた と思われる。たとえば、金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多 量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。金官加耶がすでに4世紀に は強力な騎馬軍団をもっていたことを伺わせ、政治的・軍事的色彩の濃 い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。 金官加耶の成立が3世紀末、百済・新羅の成立は遅れて4世紀中頃という ことから考えると、古墳が急激に騎馬的になったのは、加耶を支配した 扶余族が列島支配にも上陸してきたのかもしれない。 その後の5世紀になると高句麗によって金官加耶の支配者は解体し、 日本へ逃亡してきたのではないか。」 伽耶の支配層は北方木槨墓人で奴隷階級は、現地の韓人、倭人。 blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/888107.html 殉葬(支配者の墓に配下の人々を殺し共に埋めた風習)されたまま 発見された10代女性の人骨から、「同じ年頃の現代韓国女性とは多少違う。 あごの骨が現在より短かったために、顔は左右が広く上下は短い。」 と、広顔、低顔で縄文系南方系の形質の典形じゃないか。
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