- 91 名前:shin mailto:shintakahashi@hb.tp1.jp [2011/07/06(水) 14:18:38.84 ID:QYJ1jUGI.net]
- >>90
石油が金融を攻撃した事件というと、1973年の第一次石油ショックでしょう。アメリカはベトナム戦争以降のドル流出から、金本位制を放棄 しましたが、その直前にヨーロッパはドルと金との交換を要求いたしました。その後に中東産油国が結束して、原油価格を引き上げました。これと 同時に金の価格も引き上げ、アメリカの金準備から引き出しておいた金に重きを置き、ドルを紙くずとするやり方を採りました。そしてヨーロッパ 諸国は結束してランブイエ・サミットを開き、アメリカを吊るし上げます。ドルはさらに値を下げ、円に対しても切り下げて行きました。1971年 までは1j=360円でしたが、最近では1j=80円くらいになっています。ベトナム戦争は、インドシナ戦争の後を受けてアメリカが始めた戦争ですが、 共産主義の北ベトナムに対して、南ベトナムを資本主義とし、北を資本主義化することを目的としていました。これは資本主義対共産主義という冷戦 対立の構造を踏まえていました。ベトナム戦争はアメリカが撤退するという形で終結しました。アメリカは北ベトナムに対して共産主義を巻き返せな かったのです。石油ショックや金とドルとの交換停止、さらにはブレトンウッズ体制の崩壊とランブイエ・サミットはすべてこの後に起きた事件です。 共産主義勢力は、中東のイスラム勢力と結束して、アメリカを攻撃しました。またイスラエルに対してヨーロッパ人は金を買い占める政策に出たと思 われます。石油ショックは1973年と1978年の二度に渡って起きました。二度目はパリに亡命していたイランのホメイニが帰国してイラン革命を起こす という事件から始まりました。この後、東京サミットと関税と貿易の一般協定が東京で開かれ東京ラウンドと呼ばれました。このときアメリカはガット に東ヨーロッパの国々も入れました。ブルガリアというのは東ヨーロッパの国で当時共産主義でしたが、東京ラウンドに招かれました。「ブルガリア ヨーグルト」という商品が日本で出回っているのはこのためです。このように冷戦対立は経済にも大きな影響を与えました。この時のソビエトの書記 長はブレジネフ書記長でした。東京サミットの後、ソビエトのミグ29が北海道に飛来してきて政治的な問題となりました。日本はサンフランシスコ講 和以来、アメリカ資本主義陣営についていたのですが、憲法第九条にもかかわらず、日本も冷戦対立に巻き込まれていったのです。これに先立って、 アメリカはブレトンウッズ体制を放棄すると同時期に、中華民国(台湾)との国交を断って、中華人民共和国(中国)との国交を開きました。日本も これに合わせて中華民国(台湾)との国交を断ち中華人民共和国(中国)との友好条約を結びました。バンデンバーグ決議以来、アメリカでは台湾に 亡命した蒋介石の味方をして、共産主義の毛沢東とは対立してきたのですが、毛沢東の共産主義と付き合うことに転換してしまったのです。これはニ クソン・ショックと呼ばれました。共産主義勢力は、ベトナム戦争におけるアメリカの撤退以降、ブレトンウッズ体制を崩壊させ、中東産油諸国をま とめてOPEC(石油輸出国機構)を設立して原油価格の独自化を図り、アメリカに中華民国(台湾)を放棄させて中華人民共和国(中国)を承認さ せました。さらに、イスラエルに対してパレスチナ解放機構を国連を通じて承認させ、アメリカとイスラエルを牽制しました。そして、ヨーロッパ諸 国は結束して、サミットを開催し、アメリカに当たるようになったのです(この動きは西にも東にも与しないというフランスの独自性と呼ばれます。) ベトナム戦争における撤退はアメリカにあまりに大きな代償を支払わせました。アメリカにはベトナム・シンドロームといって、ベトナム戦争におけ る撤退が繰り返されるのではないかという不安があります。ブラック・マンデーといって、1929年の株価大暴落が繰り返されるのではないかという不安 がウォール街にはありますが、同様のシンドローム(症候群)が政府にはあります。
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