- 287 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/31(火) 01:05:13.96 ID:jmInZSHu]
- >>285
大阪のポジションというのは「(徳川本家である)江戸東京をサポートするための都市」 これは1615年以来、今に至るまで変わっていない。 徳川家康は、大坂の陣で焦土となった「豊臣の旧都」大坂を破却するのではなく、敢えて復興させる道を取った。 それはなぜか? 幕府は、江戸という当時の僻地に巨大都市建設し、徳川譜代の田舎大名だけでなく、 京都の絢爛豪華な安土桃山文化を知る織豊系の外様大名たちにも参勤交代で妻子ともども江戸在住を要求した。 江戸では、土地以外何もかも足りない。 そこでどうしても外から物資を「輸入」せざるを得ない。 また、初期の江戸では経済中枢機能も果たせなかった。 石高制における年貢米の換金は、近畿以外には集約できなかった。 そこで朝廷のお膝元の京都ではなく、江戸に船で直通できる大阪湾岸の地に商業上の特権を与え、 徳川直轄の「江戸への物資集約・移出拠点都市」「江戸に出来なかった経済中枢機能を担う都市」を設ける必要があった。 この時点で、大坂の都市の性質は以前と全く違うものになった。 ところが、サポート役というのは本家が成長して自活できればお払い箱になる。 本家が成長して機能を担えるスペックを持てば、機能は次々接収されることになる。 こうやって18世紀くらいから、次々と「江戸東京本家」から機能接収をひたすら受け続けたのが大阪。 江戸時代の中期〜末期にも、現在と似たような江戸東京一極化による凋落を経験していたのだ。 それは「徳川の商都」という利権を与えられた1615年から、運命付けられていたことでもある。 「権力から自立したあきんどの都市」というのは、実は神話に過ぎない。
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