- 411 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2018/08/23(木) 20:37:50.23 ID:wihhxQWT.net]
- ◆嘗て邪馬台国北部九州説が優勢だった頃、朝鮮半島から押しかけて来た人々が北部九州で富を蓄え、強大な軍事力を擁して東を制圧したと信じられていた。
◆纏向遺跡の様子が明確になってくると、この推理は難しくなってきた。ヤマト建国の地に、九州の影響は殆ど見られないからだ。 ◆纏向遺跡には、地方から人々が集まり、ヤマト建国に貢献していた。いわゆる外来系の土器が全体の15〜30%とされる。 その内訳は、東海49%、山陰・北陸17%、河内10%、吉備7%、関東5%、近江5%、西部瀬戸内3%、播磨3%、紀伊1%。 ◆北部九州沿岸部では、縄文の伝統を引く道具を使う先住の人々が、稲作を自主的に選択していた事が分かった。 ◆縄文時代と弥生時代の断絶は無かった。 ◆弥生時代、人々は集落の周囲に壕や濠を巡らせ、外敵から身を守った。 ◆弥生時代中期の終わり頃(紀元前後)、西日本各地の高地に集落が営まれた。農作業の現場から少し離れた生活に不便な場所だが、目的は砦、見張りのためで、狼煙を上げる事もあった。 ◆北部九州は朝鮮半島との交易で富を蓄えた。特に、文明の利器である鉄器を大量に保有し、他地域を圧倒していた。北部九州より東側の地域の人々は警戒し、緊張が走ったのだ。 ◆北部九州沿岸地帯では、紀元前3世紀末頃、首長(王)が登場し、国が生まれつつあった。 ◆第一次高地性集落は、瀬戸内海沿岸部から淀川を遡り、石川県まで到達している。 ◆1世紀から2世紀にかけて、第二次高地性集落の時代が到来する。これは、奴国が後漢の後ろ盾を得た事と関係がありそうだ。 ◆高地性集落そのものは、3世紀に近畿と周辺で第三のピークを迎えた後、消えて行く。 ◆高地性集落は中世戦国時代の砦や城と遜色無いほどの数にのぼっていて、並々ならぬ混乱状況だった事が分かる。 ◆稲作が始まっているのに、縄文的な道具が使われ続けるという現象が確認されている。 ◆日本列島に渡来人が押し寄せて土着の縄文人を駆逐したわけではない事が分かってきた。 ◆5000〜4000年前(縄文時代中期末〜後期)に地球全体が寒冷化し、東に偏っていた縄文人が西に移動を始め、植物を栽培する比重が増えた。 ◆出雲では強い王が出現したようで、それまでの集落ごとに行われていた青銅器を使った祭祀を取りやめ、巨大な四隅突出型墳丘墓が出現している。 ◆吉備には、楯築弥生墳丘墓が出現した。 ◆2世紀末から3世紀の初頭、それまで何も無かった三輪山山麓の扇状地に、各地から人が集まり始め、政治と宗教に特化された都市が誕生した。 ◆前方後円墳の原型は吉備で生まれ、ヤマトに持ち込まれたが、さらに各地の埋葬文化が寄せ集められてヤマトの前方後円墳は完成した。前方後円墳は、寄せ集めのヤマト政権を象徴している。 ◆弥生時代のある時期まで、瀬戸内海から東側には、政治力を持った王は君臨せず、比較的平等な、階級差の無い社会が広がっていた。 ◆畝傍山と橿原宮の周囲に九州の海人が陣取っていた。それが大伴氏と久米氏だ。海人とは、海に潜り貝を採り、船に乗って漁をし、外洋に飛び出して交易を行った人々だ。 https://image01.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/_r8RZiRD2O.jpg
|

|