- 416 名前:ドレミファ名無シド mailto:sage [2010/09/26(日) 09:34:15 ID:DHtYQaqP]
- 著作権の世界では「作曲」と「編曲」は別個の概念みたいに思えるが(法制定者が芸術文化をさほど知らんのかも?w)、
示された譜面をそのまま弾く場合であっても、実は楽器奏者は編曲をしてるんだよな。 あるメロディに対して必ず奏者ごとの「解釈(interpretation)」が加味される。 誰かの完コピってこともあるんだが・・・(みんなそう考えるかも知れないが、特に一般人は)、 実際には(クラシック界であっても)逆にそこまでコピーを神経質には強いられるもんじゃない。 「楽器奏者は演奏のたびに、常に必ず自分なりの解釈を示している」ことになる。 早い話が「その曲をどう考えているか」だ。役者が舞台をどう演じるかという問題と同じ。 だからブルース・ギタリストはみんな同じメロディ弾いても、各奏者の「解釈」によって千差万別な作品が生まれる。 (ブルースマンの場合、そんなに深くは考えておらず、各々好きなようにやってるだけだろうが、結果はそうなっている) まあ、歌なんか楽器演奏以上に各人の「解釈」が表に現れるよね。 セゴビアもイエペスもバッハの曲をアレンジしているけど、 バッハは元々ギター曲なんか作っていない(バッハ当時のギターは今と違ったし、別の楽器の曲を直している)。 多かれ少なかれギター奏者は自分なりの「解釈」を「アレンジ」で示す必要があるんだよな。 それは創作であっても然り、既成曲のアレンジであっても然りで。 「編曲」を全然しないと、それって誰かが既にやったことをなぞるだけになっちゃうんだよな。 そこにはcreationが無い。 既存のアレンジが山のようにある楽器なら「コピー」だけで一生間に合うかも知れんけど、ギターはそうも行かない。 ギターという楽器は、「作曲」と「編曲」は相通じるもので、少なくとも同等の価値を持っていることは認識したい。
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