1 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 19:24:08 ] でもまあ、いいんじゃないか? 掃き溜めにも咲く花はあるさ。
2 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 19:24:56 ] 【戦争奇譚】 土方歳三の話。京都時代にある隊士が見回り中に武士の幽霊を見たと報告したら、土方は激怒して「武士とも あろうものが、この世に未練を残して化けて出るとは許せん、俺が斬ってやる」と、幽霊の出る場所に一晩中 幽霊が出るのを待っていたそうだ。 今も酒処として有名な伏見。ここで昭和初期まで蔵元だった家の話。地元じゃ知る人ぞ知る話でもあるそうだ。 鳥羽伏見の戦いの時、この家に懇意にしていた新撰組隊士の一人深手を負って落ち延びてきた。知っての通り、 この戦いは幕府軍のボロ負け、将軍が江戸へ逃げてしまう始末。それで、密かに匿われていた隊士は、家人に 頼んで迷惑にならないようにその家の庭で切腹。家人はその隊士の言うとおり、薩長に庭で新撰組が勝手に 切腹しておりましたと届け出でた。しかし、薩長はその切腹した隊士の遺体を、わざわざ四条河原まで運んで 晒した挙句、首を刎ねた。それ以来、しばしばその蔵元の庭には無念の形相すさまじい隊士の幽霊が出るように なったという。 中島三郎助親子の話。中島三郎助は浦賀与力でペリー来航の時に、一番最初に黒船に乗り込み交渉した気骨 あふれる人物でした。長崎海軍伝習所第一期生として機関術、砲術を学び勝海舟とは同期生です。また、俳人と しても知られ「ほととぎす われも血を吐く 思いかな」の句がある。箱館戦争では箱館奉行並に推され、千代ヶ岡 陣屋を守り、最後まで降伏せずに戦いました。しかし、明治2年5月16日、胸を撃たれ戦死。 その後、長男の中島恒太郎が敵陣に斬り込み、次男の中島英次郎とともに銃で撃たれて親子ともども壮絶な戦死 をとげました。戦死した場所は彼ら親子の名前を取って「中島町」と名付けられました。三男の与曽八は、父の 意思を受け継ぎ、のちに海軍機関中将になりました。
3 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 19:25:42 ] 【戦争奇譚】 硫黄島の戦友腹を切り裂き、そこから取り出した内臓を体に巻き付けて死体の様に偽装し、突然攻撃してくる 日本兵。アメリカ兵からすれば想像を越えた存在だったのだろう。また硫黄島では「メディーック!」と叫ぶと しばしば「イエァー!」と叫ぶ、米軍の軍服を着て偽装した日本兵が爆弾抱えて突っ込んできたらしい。 ある歩兵小隊が、敵の盛んな銃撃を受けて、竦んでいた。背後に自軍の砲兵隊の陣地があるが、敵の砲撃に 比べその活動はどうみても活発ではない。さらに自軍の砲兵陣地に敵弾が落ち、沈黙した。砲の援護もなく、 最後かと思った歩兵小隊の背後から、ただ一門の野砲だけが必死の援護射撃を開始した。感動を勇気に、 小隊は突撃し、敵を撃退した。その最後まで、ただ一門きりのその砲は吼え続けていた。 敵の退却を確認した後、小隊長は、礼を言おうと、たった一門の砲兵陣地に向かった。砲の横で、最後の砲兵 が敬礼をしていた。背の低い兵だった。小隊長は、まだ遠かったが、敬礼を返しつつ、砲に向かった。だが、 近づくにつれ、怪訝になった。砲兵の背が低すぎるのだ。そして、最後の硝煙が晴れたとき、小隊長はようやく、 あることに気づいた。よくみると、その砲兵には、下半身が無かった。
4 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 19:27:24 ] 【戦争奇譚】 会津若松飯盛山には有名な白虎隊の墓地がある。その墓地から歩いていける範囲に、建築好きなら知っている サザエ堂という、二重螺旋構造の珍しいお堂がある。そこから下へ行ける石段を下ると、猪苗代湖から引かれて いる用水の出口があるが、そこでの話だ。 戊辰戦争当時、この付近では奥州列藩同盟の雄、会津藩と官軍の激戦が行われた。ここは街道の要所で、 戦略的に重要な地点。劣勢ながらも会津藩士たちは必死の防戦を試みた。その激しさはこの地に残る旧滝沢 本陣の弾痕や刀傷の数々からも想像に難くない。 しかし、装備兵力ともに勝る官軍には敵わず、会津藩士達は多くの死傷者を残し会津若松城内に撤退、以後 篭城することになる。当時、官軍の布告により、近くの農民達は賊軍である会津藩士達の遺体に手を出すことは できず、負傷者もそのまま捨て置かれ、そのうめき声は3町先からも聞こえるほどの凄まじいものだったという。 やがてその声も聞こえなくなり、近隣の農民は家の中で密かに成仏を祈念した。 それから数週間を過ぎたころ、夜半密かに数名の農民が様子を見に出かけた。滝沢峠へ続く街道やその周囲には 幾人もの会津藩士の遺体が打ち捨てられ、悲惨きわまる状態だった。彼等が旧正宗寺の用水近くまで来ると、 そこには末期の水を求めたのか、用水に首を入れたり、用水の中に倒れ伏す数多くの会津藩士の遺体があった。 しかし、あったのは遺体だけではない。周囲からはあるはずのない灯火や戦の物音、凄まじいうめき声が…。 必死の思いで逃げ出した農民達は後日、密かに、そして丁重に藩士達を弔ったということだ。
5 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 19:46:47 ] 【戦争奇譚】 軍隊狸の話、1。愛媛県周桑郡壬生川町、松谷みよ子氏より。伊予の喜左衛門狸は日露戦争に出征した。小豆に 化けて大陸を渡り、上陸するとすぐ豆をまくようにパラパラと全軍に散り、赤い服を着て戦った。敵将クロパトキンの 手記には「日本軍の中にはときどき赤い服を着た兵隊が現れて、この兵隊はいくら射撃してもいっこう平気で進ん でくる。 この兵隊を撃つと目がくらむという。赤い服には、○に喜の字のしるしがついていた」と書かれている。 軍隊狸の話、2。香川県高松市 室津源太郎氏より。日露戦争の時、高松のじょうがん寺の狸の総指揮の元、 狸たちが出征した。兵隊に化けて山を作り、ロシア兵が登るなり山をひっくり返したりした。凱旋の時には狸までが 提灯行列をしたという。 軍隊狸の話、3。中国上海中支派遣軍八一〇一部隊 松谷みよ子氏より。昭和十五年冬。柳橋という場所で友軍の 一個小隊が敵軍に包囲されて全滅に瀕しているという報告が入り、K氏所属の一個小隊は待機を命じられた。 その後Kさんと戦友三名が偵察の命を受けた。小高い丘で動き回っている敵軍を発見し、報告に引き返そうとした 途端に銃撃を受け、気がついた時には大陸の広野の果てしない暗闇の中に震えていた。その時、一人の戦友が 「あっ提灯」と叫んだ。Kさんが振り向くと、目の前には懐かしい大三島神社の定紋入りの提灯の明かりがあった。 「五六だぬきや、五六さんが氏神さんの提灯持って迎えにきてくれたか」そういって提灯の後をついて走り、無事に 帰りつくことができた。 いずれも『現代民話考(松谷みよ子 立風書房)』より
6 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 19:48:57 ] 【戦争奇譚】 ニューギニアのある戦場でのこと。大規模な戦闘をした部隊の前線基地に、その戦闘後、夜な夜な死んだ兵隊 たちが現われるようになった。彼らはいずれも、足がちゃんとあり、懐かしそうに「よおっ!」と言いながら現われる のだ。現れたのはいずれも確かに戦死した連中ばかり。神主の息子の兵士がまじないをやったり、お経をよめる 兵士がお経を詠んだりしても、まったく効き目無し。そのうち、ズカズカと兵舎にまで上がり込んできて、貴重な飯 をバクバク食う始末。しかも、いきなり手がスルスルっと伸びて、木の実を取ったりと、明らかに化け物化している 様子。怖いやら迷惑やらで困っていたのだが、なんとも手の施しようが無い。 見るに見かねた中尉か大尉の隊長さんが、幽霊たちが集まっているところへ、ツカツカと歩いていって、いきなり 大声で、「全員、整列!」と言うと、彼らは全員素直に整列した。そして、隊長は「貴様らは、全員戦死した兵隊で ある。よってこの世にいてはならん。全員あの世へ行って成仏するように。これは命令である!」と叫んだ。隊長 が涙を流しながらこの命令を下すと、幽霊たちはしばらく呆然とした顔で佇んでいたが、そのうち全員が泣き始め、 やがてボロボロと土人形のように崩れていった。 あとにはその土だけが残り、彼らは二度と現われることはなかった。兵隊たちはその土の大部分は現地に埋め、 残りを少しづつ日本に持って帰って、供養した。
7 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 20:44:46 ] 【戦争奇譚】 第二次世界大戦が激しさを増してきた時のこと。陸軍が硫黄島に増援部隊を送るために、若き兵士を船に乗せて 出発させた。次の日の夜、彼らが去った後の兵舍に残っていた別の兵士たちが、軍靴の音を聞いて目を覚ます。 こんな遅くに、なんだろうと。窓を開け、外を見ると、昨日出撃した部隊が、自分の兵舍に向かって行進している。 が、その顔は悲しみに満ち溢れ、ほとんどの兵が俯きながら歩いていたという。翌日、現場を見た兵は上官に昨晩 自分が目にした光景のことを話した。すると上官は「ここに帰ってから、靖国にむかったのか」と溜息をついた。 上官の話によると、港を出発した部隊は、すぐに米軍の潜水艦に発見され撃沈。部隊の生存者はいなかった。 その時間は、ちょうど兵が恐るべき現場を目の当りにした時間とほぼ同時だった。 第一次世界大戦フランス戦線での話。イギリス軍の塹壕がドイツ軍の集中砲撃を受けて、そのほとんどが埋まって しまった。その場所はドイツ軍の占領されていたが、数ヵ月後イギリス軍が奪還に成功した。イギリス軍は塹壕を 使うために掘り起こしてみると、退避壕(中が部屋のようになっている)に生きている兵士たちがいたのである。 兵士たちはすでに狂っており、退避壕の中には食い荒らされた死体が多数残っていた。壕を掘り起こしていた部隊 の指揮官は、狂った兵士たちに食事を与え、その後彼らを銃殺した。 ビルマ奥地にはインパールがらみで未だに彷徨ってる兵隊さんがいると。奥地の原住民が夜中に足音や声をよく 聞くらしい。原住民にどんな声聞くのか聞いてみたところ、「ガンバレガンバレ」「モウスコシダ」「グンソウドノ」「ミズ、 ミズ」などと、日本語知らないはずの原住民が答えた、という。
8 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 20:45:39 ] 【戦争奇譚】 差し入れてもらったおにぎりを食べられなかった日本人兵士の話。そのうちの一人の兵隊がなぜか憑かれたように 立ち上がり、傍に建てられた粗末な墓に握り飯を添えて、全身をふるわせながら「オレにはこの握り飯は食えない」 と慟哭するのである。「どうしたのですか?」福島報道班員はきいた。傍の兵隊が、それを説明した。「あの墓には、 Bという高砂義勇隊員が眠っているのです。ニューギニアの作戦の当初から、われわれはBとともに戦ってきました。 食料のない日が何日も続きました。ある日、Bはずっと後方の兵站基地にさがって、食料を運ぶことになりました。 ところが、その次にBに出会った時には、Bは死んでいました。五十キロの米をかついだまま、Bはジャングルの中 で飢え死にしていたのです。背中の米には一指もつけずに!」 大戦後、日本海軍連合艦隊で唯一生き残った戦艦である長門は米軍に徴用され、核実験の標的鑑として沈め られるされる運命にあった。昭和21年7月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁第一回の空中核実験が行われたが、 長門は殆ど無傷であった。7月25日第二回の水中核実験が長門の至近距離で行われたが、約5度の傾斜を 生じたのみであった。その「長門、沈まず」の報を聞き元艦長の未亡人曰く「幾万もの英霊たちが水底をささえて いるのですよ」その後長門は、29日夜間に誰にも見取られる事なく静か、静かに沈んでいった。日本海軍が最後 の最後で米軍の度肝をぬいた瞬間であった。 核の直撃を受け傾斜したものの未だ浮いている長門に驚嘆した米海軍の被害調査隊の一人は、長門の艦橋に こう書き残したという。"Old Navy Never Die!(海の古強者は死なず!)"
9 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 20:47:33 ] 【戦争奇譚】 米軍から奪ったトンプソンで戦った元日本兵の方の手記より。当時フィリピン戦線では銃も弾も不足し、彼らは 米軍の偵察兵を襲撃して奪って使っていた。そのうちに、彼のいた分隊の生き残り全員がトンプソンを持つように なったとか。終戦になり現地の武装勢力に投降した時、銃や装備が米軍の物では処刑されると指摘され、武装 勢力の持っていた日本の小銃や装備と交換して米軍に投降した。 硫黄島の話。施設関係の仕事で、自衛隊の航空機に乗って硫黄島に渡り、1週間ほど滞在したことがある。島内 には自衛隊しか居らず、寝泊りしたのも自衛隊の施設内だったが、その建物の一室がいわゆる開かずの間だった。 他の隊員から聞いた話によると、そこは「出る」らしい。部屋の中にはコップが置かれていて、毎日、新鮮なお水を お供えしているそうだ。その部屋だけでなく、色々なところにコップに入った水が置かれているのだけど、ちゃんと コップの水係りを決めて、毎日新鮮な水をお供えしているのだと。 案内してくれた隊員曰く、日米関係なく先の大戦で亡くなった多くの兵士のための供養だという。それを聞いて、 水不足で苦しんだのは日本の兵隊さんだけだよな、と思いつつ、自衛隊のその心に感動した。ちなみに、コップの 水はエライ勢いで減るという。 なお島内には娯楽施設はなく、非番の隊員さんたちが何をしているのかというと、釣りをしたり、時には遺骨収集を したりもすると言っていた。島内には自然の間欠泉があり、隊員さん達で作った自然のサウナがある。そこに案内 されて一緒に天然サウナを楽しんでいたときに年配の隊員さんから聞いたのだが、その天然サウナ(洞窟)には 兵隊さんの幽霊が出るらしい。その話を聞いて驚いていると、その隊員さんが、「大丈夫!怖がる必要はないよ。 同じ日本人なんだから。出たら頭を下げて、ご苦労様でした!と労ってあげればいいんだよ」と言っていた。 その通りだと思った。
10 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:09:53 ] 【戦争奇譚】 昔、谷口ジローの単行本に、原作者の関川夏央が函館戦争以後も生き残った土方歳三の話を書いていた。以下 がその要約である。勿論この話はフィクションである。 択捉に日本政府から北方調査のために派遣された軍人の白瀬一行は、択捉で一人の年老いた武士に遭遇する。 彼の顔面の半分にはひどい焼けどの痕があった。どうやらその老人は旧幕臣のようだった。この老人のたっての 願いで白瀬一行は彼を同行させることにした。この老武士は薬に関する知識が豊富であり、壊血病で苦しむ隊員 達に、ビタミンの的確な補給法を教えたりする。 ある日のこと、彼ら一行は同じく択捉の探査にやって来たロシアの軍人達と鉢合わせしてしまい、彼らと小競り合い を起こしてしまう。辺りは見渡す限りの荒野で遮蔽物は何処にも無い。もしここで銃撃戦を起せば、仮に運良く勝て たとしても甚大な被害を出してしまうような状況であった。 その時、この老武士が紛争の解決案を白瀬に提案する。その案とは、お互い一人ずつ選んだ代表者同士で戦って 雌雄を決し、それで事を収めようと。さらにその老武士は、自らその役を買って出た。 彼は白瀬に借りた軍刀を抜いて2、3度素振りをくれて鞘に収め、サーベルを持った熊のように大きなロシア人に つつと歩み寄った。ロシア人はパイプをくわえたままで、この老武士を侮りの目で見下ろしていたが、その刹那、 抜く手も見せずに鞘ばしった軍刀が閃き、ロシア人が口に咥えていたパイプが綺麗に切り落とされた。 一瞬の出来事に唖然とし、驚くロシア兵。結局、この老武士の手練の技に感心したしたロシア人達は、事を丸く 治める事を快く承諾し、解決した。 その後、老武士は白瀬に、「ワシは死ぬまでに1度でいいから、メリケン国をこの目で見てみたい」といい、米国籍 の船に渡りをつけて欲しいとねだる。彼はこの老武士の願いを聞きいれ、乗船の手配をしてやった。この老武士が 米国籍の船に乗り、日本を発った。老武士は、向こうへ到着したら必ず手紙を出すと約束した。だがその後、この 老武士行方は遥として判らなくなってしまった。果たして、この老武士は土方歳三だったのだろうか?
11 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:20:50 ] 【戦争奇譚 ~米軍を攪乱させた幻の艦隊と幽霊部隊・一兵も残さなかった奇跡のキスカ島撤収作戦~】 ① 太平洋戦争で最初の玉砕の場所、アリューシャン列島のアッツ、キスカ島玉砕での話。太平洋戦争中の昭和17年 6月、日本軍はミッドウェー海戦と併行して、アリューシャン列島のアッツ、キスカ両島の占領作戦を敢行した。 このうち、ミッドウェー海戦は惨憺たる敗北に終わったが、アッツ、キスカ作戦のほうはうまくいき、殆ど抵抗らしい 抵抗もないまま、両島を占領した。ところがいざ占領してみると、これが大変な島。夏は濃霧に閉じ込められ、冬は 暴風雨が荒れ狂って、とても軍事作戦を展開するどころではない。米軍の方もそれを知ってか、奪回に来るわけ でもなく、日本軍のなすがままにまかせていた。 しかし、1年も居座られると、さすがに面白くない、それないばかりか「ひょっとして日本の狙いはアラスカにあるので はないか?」という憶測がアメリカ国民の間に流れるようになった。地図を見ればわかるとおり、アリューシャン列島 は千島列島からアラスカへ連なる島。南太平洋での戦況が思わしくなくなった日本が、矛先を北に転じてアラスカを 襲わないともかぎらない。つまりアッツ、キスカ島の日本軍は、アメリカにとっては喉もとに突きつけられた短刀に 等しかったのだ。そこで米軍は、昭和18年5月、1万1000人の兵をもってアッツ島を攻撃することにした。これに対し 日本軍の兵力は約2600人。司令官のブラウン少将は、攻撃に先立ち「赤子の手をひねるようなものだ」と豪語した。 ところが、日本軍が水際での戦いをさけ、山岳部にこもって抵抗する戦法をとったため、予想外の苦戦を強いられる ことになった。加えて寒さは聞いていた以上の厳しさ。カリフォルニアの緑野で訓練を受けてきた兵士は、ヒヨコの ようにふるえあがり、凍傷による戦闘不能者が続出した。しかし、それでも戦力の差は歴然としている。日本軍は じりじりと山地に圧迫され、5月30日、29人の捕虜をのぞいて、ついに全員が戦死した。太平洋戦争における最初の 玉砕である。
12 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:21:42 ] ② アッツ島を制圧した米軍の次の目標は、当然、キスカ島に向けられた。けれどもアッツ島での思わぬ苦戦に懲りた 彼らは、すぐに上陸攻撃をかけることをせず、暫くは近海を艦隊で固めて日本軍の補給路を断ち、様子を見守る ことにした。そして兵力を3万に増強し、さらに耐寒訓練を受けたカナダ兵5000人を加えて上陸にそなえた。 これに対し、日本軍の参謀本部は、意外にもキスカ島の全兵力5639人を撤退させる方針をとった。キスカ島の 死守はむだな消耗戦になると読んだからである。 この命令はただちにキスカ島の守備隊にも打電され、これを聞いた将兵は踊りあがって喜んだ。但し島の周囲に は米艦隊が目を光らせている。その間隙をどうぬって撤退するのか、見通しは決して明るくなかった。 事実、当初こころみた潜水艦による撤退作戦は効率が悪く、一度に運べるのは80人が限度で、とても5000余人を 帰還させるのは無理であった。そこで7月12日、駆逐艦を中心とする14隻の救援艦隊を派遣し、濃霧に隠れて キスカ湾に接岸、一気に撤収をはかる作戦に出た。ところが皮肉にも、その日にかぎって島を覆うはずの霧が すっかり晴れて、作戦は延期となった。 キスカ島の将兵は深い絶望の沈んだ。彼らの脳裏にあるのは、アッツ島で玉砕した戦友たちの姿だった。そこへ 再び朗報が入った。救援艦隊が再度島をめざしているというのだ。 一方、米軍のほうも、着々と上陸の準備を整えていた。補給路を断ってあるから、守備隊の食料はそろそろ底を つくはずである。それを待って一気に攻撃をかけるというのが彼らの算段だった。 7月26日、米艦隊のレーダーは、霧の彼方に日本艦隊らしき船団を捉えた。そこでひとまず島の監視を解き、 全艦をもって敵艦を追跡、いっせいに砲撃を開始した。当時、日本軍にはレーダーがなく、霧に中の戦いとなれば 米軍の有利はいうまでもない。
13 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:23:32 ] ③ ところが、ここに不思議なことが起きた。どんなに撃ちまくっても、レーダーから日本軍の艦影が消えないのだ。 海上を見ても、艦船が炎上している気配はまったくなく、ただ味方の曳光弾だけがむなしく霧の中へ消えていく。 「これはどういうことだ?」「まるで幽霊艦隊じゃないか」砲撃と追跡は29日まで続き、燃料を消耗しつくした米艦隊 は何がなんだかわからないまま、給油のためにいったん戦場を離脱しなければならないはめになった。 この幻ともいうべき艦隊がなんであったのかは、今もって謎とされているが、キスカ島をめざしていた日本の救援 艦隊でなかったことだけは確かだといってよい。というのも、ちょうどそのころ、キスカ湾には日本の救援艦隊が 到着し、撤収作業のまっただなかだったからだ。しかもこのときは、海上全体が霧に包まれれていたにも関わらず、 キスカ湾のみが50メートルの高さでポッカリと霧の穴が開くという好条件に恵まれた。おかげで、撤収はわずか 1時間で一兵の残もなく完了した。 しかし、もちろん米軍はそんなことは知らない。再度艦隊を組んでキスカに戻った彼らは、今度こそ守備隊の息の 根をとめてやろうと、まず航空機をもって40日にわたる空爆を続けた。霧のため、成果は確認しがたがったが、 出撃のたびに搭乗員は、「地上からの対空砲火を受けた」と報告した。これもまた不思議なことで、当時、島は既に 無人、対空砲火など上がるはずもない。
14 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:24:19 ] ④ が、米軍は、それを日本軍健在の証拠だと判断した。業を煮やした米軍は、8月15日、91隻の艦艇の支援の下に、 ついにキスカ上陸を開始した。だが、予想された日本軍の反撃は全くなかった。恐る恐る前進した将兵たちが霧の 中に発見したのは、ゴーストタウンのように放棄された兵舎と3匹の子犬だけであった。 ”奇跡の撤退”として、戦後まで語り草となったこの作戦は、米軍を翻弄した幽霊艦隊と、年に一度あるかなきかの 霧の穴という気象の妙の上に成立したわけだが、おまけとして謎の対空砲火という怪奇まで生んだのである。 あるいはこの対空砲火は、島にとりついた日本軍将兵の魂魄が幽霊となって打ち上げていたのかもしれない。 ちなみに、幽霊艦隊については、ミッドウェー海戦に敗れて沈んだ日本の機動部隊の亡霊ではないかとの噂が 流れたことがある。(学研ムーブックス『奇譚集』より)
15 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:45:53 ] 【戦争奇譚】 昭和20年6月のこと。運送船「恋瀬丸」が便乗の乗客16名と荷物を積んで航行中、突如現れたP-51戦闘機2機に 機銃掃射を受けた。雨と降り注ぐ機関砲弾に、たちまち船内は阿鼻叫喚図となった。弾丸が薄い鋼板を貫通して 乗客たちを粉砕する。肉片が飛び散る…。大穴の開いた船底からはドッと水が溢れ、瞬く間に船は沈下。そのうち 機関が射抜かれたらしく缶が破裂。船体は真っ二つに折れ、高熱の蒸気が船内に充満する。視界を妨げる大量 の蒸気と大混乱、沈没速度のあまりの早さに脱出も思うように行かず。結局恋瀬丸は沈没し、便乗中の水兵一人 を含む乗員乗客18名が戦死。生き残りも殆どが重傷を負った。同日には常磐線や各地の学校、航空隊 そして 歩行者も攻撃を受け多数の死傷者を出している。(恋瀬は茨城県石岡市の町) その後、毎年6月頃の夜になると、恋瀬丸沈没地点付近で巨大な青白い光球が走り回ったり、湖面上をびしょ濡れ の人々がぞろぞろと歩き回ったり、誰もいないのに夜の湖面からすすり泣く声が聞こえたり、様々な現象が発生 するようになった。今現在でも現れる事があるらしい。 昭和19年11月14日の夜のこと。水戸歩兵第2連隊で突如営門が真一文字に開き、同時に進軍ラッパが遠くから 響いてきた。衛兵が警戒して見ていると、一個連隊ほどの部隊が行進してくる。その先頭で連隊長の中川大佐が 馬に乗り抜刀し、それに兵士が無言でついて来る衛兵司令は直感的に「捧げ銃」を命令。衛兵が不動の姿勢で 出迎えると、営庭の途中で部隊の姿が掻き消すように見えなくなった。 その日は村井少将と中川大佐が自決 生き残りが最後の突撃を敢行、玉砕した日だった。この時点で玉砕は誰も 知らされていなかった。 アッツ島で玉砕した山崎大佐の留守部隊である旭川師団でも似たような事があった(行進ラッパの音が近づいて くるが、部隊営門近くになるとかき消すように聞こえなくなる)。最初は上官も「ウソつくな!」と衛兵司令を叱って いたらしいが、念のため将校を歩哨につけたところ、やっぱり聞こえたため、上官も信じるようになった。
16 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:48:21 ] 【戦争奇譚】 ガダルカナル島も凄まじい戦いがあった。そこでは日本兵3000人が救援物資が来るのを信じて待っていた。 しかし待てども待てども救援部隊はおろか日本軍の船も見えない。そうこうする内にとうとうアメリカ軍が島に侵攻 してきた。この時置き去りの日本兵3000人に対してアメリカ兵70000人。圧倒的な戦力の差は明らかだったが 日本兵は必死で戦った。この戦いの凄さは、戦闘により精神異常となって本国に帰されたアメリカ兵が30000人 以上いたという。いかに日本兵が凄まじい戦い方をしたかって事が伝わってくる。 以下はガダルカナル島で生き残ったアメリカ兵の証言。「日本兵は正確に弾を撃ってくる」「動きも速いし狙いが 定まらない(戦い方が上手かったとも言っている)」「火炎放射器のバックパックに弾が直撃して爆発炎上。周りの 仲間も燃えた」「浜辺から上陸した戦車が砲塔を日本兵の方に向けたら、全速力で突進してきたかと思うと砲塔の 中に銃を向けて弾を放った。途端に主砲の中の大弾に触れたのか中で爆発を起こして熱気が凄かった。中にいた 搭乗員は皆オレンジ色のスライム状になって中から溢れてきた。それを見た周りの仲間も嘔吐をもよおしたりして 気が狂った人達もいた。もし砲塔に向かって撃つ時に先に我々が撃っていたら日本兵は死ぬ。日本兵は死を覚悟 して尋常ならざる決意で戦っていた事がそこで解かる。」
17 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:49:34 ] 【戦争奇譚】 ビルマのメイミョウ 昭和19年1月26日のことだった。敵の攻撃が激しくなったので偕行社(将校サロン)を後方の キョウセに移転する事になった。若い女性たちがいたからである。別れの宴が行われた日、女性の一人上野山 さんは南少尉に手のひらを見せ、「私はもう間もなく死にそうだ。遺品と思って受け取ってください」と、母から貰った という木のふちの四角い手鏡と、赤い縁飾りをした手作りの白いハンカチをくれた。 偕行社が移って何日目かの真夜中、南少尉は何気なく手鏡を取り出し、今頃彼女たちはどうしてるだろうと思った。 その時、何か赤い影がすうっと後をよぎる気配がした 振向いたが誰もいない。ドアを開けてみても誰もいない。 不思議に思いながらハンカチを開くと、真っ白なハンカチに赤いしみが広がっていた。少尉は胸をつかれた。一体 何が起こったのだろうか。 その時キョウセにいた偕行社の娘たちは全員爆弾で木っ端微塵に吹き飛ばされていたのである。報せが入り遺体 収容のため南少尉らはキョウセに車を飛ばした。しかし建物も娘たちもすっかり吹き砕かれ、どこに遺体があるの かも分からない。呆然として見回すと、赤い靴を履いた女の片足だけがころがっていた。上野山さんの足であった。
18 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:55:25 ] 【戦争奇譚】 第二次世界大戦ヨーロッパ戦線での話。電撃作戦によってフランス軍を散々打ち負かして進撃を続けるドイツ軍。 そんな折、あるドイツ軍の歩兵中隊が小村を占領しました。暫くして1人の兵士が、ある農家に立派なワイン貯蔵庫 があるのを発見。上官に報告すると、「そのワインを持って来い」と言うので、彼は地下にあるワイン倉に入っていき ました。でも、いくら経ってもその兵士はワイン倉から戻ってこない。しびれを切らした上官は別の部下2人に様子を 見てくるように命令しました。しかし、今度はその2人も戻って来ない。上官は更に別の部下2人を行かせましたが 結果は同じでした。上官は「ならば俺が見に行く!」と言って残りの部下(何人かは不明)を従え、地下室に降りて いきました。地下室はごく普通のワイン倉で、別に変った所も無い。彼は先に送り込んだ部下5人を探しましたが、 どこにも見当たりません。しかし彼はその地下室に降りた時から、言いようの無い不安と恐怖に襲われていました。 「ここには人間以外の何かが居る」直感的にそう判断した彼は、捜索を打ち切り早々に地下室を後にしました。 彼は戦争を生き延び、何十年後かに再びその小村へ行く機会を得ました。恐る恐る地下室に降りた彼は、違和感を 覚えました。「この地下室、こんなに床が高かったか…?」以前見た時に比べ、確実に数十センチ程床が高くなって いました。しかし彼は敢えてその事には言及せず、その場を去ったのです。「人間以外の何か」とはどういうモノだっ たのでしょうか?
19 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:56:33 ] 【戦争奇譚】 第一次大戦勃発直後のお話。ドイツ軍の猛攻にさらされ、追い詰められたイギリス軍の部隊が、「聖ゲオルギウスよ、 イギリスを守りたまえ!」と叫びながら突撃し、孤立状態から脱出することに成功した。そのとき、士官の一人は弓矢 を持って敵軍の塹壕へと自軍を導く人々がいるのに気付いた。 戦闘が終わってドイツ人捕虜を尋問していると、捕虜がこう尋ねた。「あの大きな白馬に乗った士官は誰なんだ? 誰もあいつを撃てなかった」どうやら、その白馬に乗った士官が謎の弓兵部隊を指揮していたらしいのだが、イギリス 軍では誰一人として、その士官を見ることは出来なかった。 また、別の戦場では、ドイツ軍の大部隊が突撃してきた直後に黄色がかった霞が立ち上り、それが晴れると金髪で 黄金の甲冑を纏った白馬の騎士が立っていたと言う。白馬の騎士は剣を振りかざしてイギリス軍を駆り立て、結果と してドイツ軍は押され始め撤退したという。
20 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/11(火) 21:57:33 ] 【戦争奇譚】 私が乗務する潜水艦が八丈島南西を行動中だったときのことです。潜水艦というとずっと潜っていると思われがち ですが、実際には原潜でないかぎり水上を航走する場合も多いものです。そのような場合、舷側の低い潜水艦では 行き交う船と互いに識別しあうのが難しく、両目を使っての目視での監視が非常に重要な役割を担います。ある夜、 私は見張りの士長たちともども司令塔の上に立ち、双眼鏡で周囲を警戒しておりました。 士長が左舷前方に船影を発見し、私はそのことを発令所に伝えました。が、ほどなく「見間違えじゃないか?」と聞き 返されました。同時に回していたレーダーには感度が無いというのです。士長の報告した概位からすればごく近いと 思われ、ありえないことです。「そんなバカな。まだ見えてますよ」と士長が言うので、私は夜でも良く見えるという 彼の私物の双眼鏡を借り向けて見ました。 確かに船影はあります。それも思ったより大きく見えます。しかし妙なことに気づきました。その夜は月が明るく、 結構遠くの船影でも細かい部分までくっきり見えていたものです。ところがその船影に限ってのっぺりと真っ黒く、 細部がまるで見えないのです。それでも、シルエットから判断して、こちらと反航しつつあるように見えます。 辛抱強く見つづけていると、ようやくその船が軍艦らしいことに気づきました。あちこちから艦砲と思しき細いものが 伸びているのです。しかし艦砲主体のこのような大型艦は、自衛隊はおろか、米海軍にも、近隣諸国にももう在籍 していないはずです。 私は当然の連想をしてしまい、思わず士長に双眼鏡を返してしまいました。士長によれば、その船影は10分ほどで 視界から消えたそうです。しかし彼はこういいました。「一番近づいたとき、あっちの舷側にずらっと人影が並んで、 こっちに帽振れやってるように見えて仕方なかったですよ」
21 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 01:04:40 ] 【戦争奇譚 ~U65、謎の爆発~】 ① 第一次世界大戦での話。大西洋を作戦にて航行していたアメリカ海軍の潜水艦が、波間に漂うドイツ海軍のUボート を発見しました。時に1918年7月10日。 「良い得物を見つけた。しかし妙だな。無人なのか、あの船は?」アメリカ潜水艦側の艦長は不審に思いつつも、魚雷 装填を部下に命じます。そして正に魚雷をドイツ潜水艦に発射しようとしたその時、当の目標が大爆発を起こして、 あっという間に沈んでしまいました。 呆気に取られてその有様を見ていた米潜水艦の艦長。「どうしたことだ、誰かが俺の得物を横取りしたのか?それに しても爆発の直前、独潜水艦の舳先に誰かが立っていたような?」 この爆発沈没した潜水艦こそ、第一次世界大戦で「呪われたUボート」として知られる、「U-65」最後の姿でした。 実はこのU65、建造当時より「曰くつきの艦」として噂になっていました。まず、建造中に5人もの死者を出しています。 最初の死者は潜水艦の部品の下敷きになり、死亡。続いて機関の点検をした際には有毒ガスが発生、その上の 機関室の扉が何故か開かず、中に居た人間は逃げられずに全員死んでしまいます。 それでも一応完成したU65は、初の潜航試験に臨みます。ところが浮上できずに沈み続け、海底に着底して動かなく なりました。乗組員が必死に復旧作業をしましたがビクともしません。そして誰もが諦めかけた12時間後。今度は突然 浮上を始め、乗員は辛くも一命を取り留めます。 このように問題が多い艦など、平和な時代であれば流石に使われる事も無かったのでしょうが、当時のドイツは戦争 の真っ最中。出撃することになました。 出撃後最初の事故はベルギーで起きました。ベルギーの港へ寄港した際一発の魚雷が爆発、この事故で中尉1人と 下士官5人が死亡します。
22 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 01:05:31 ] ② そして整備の為にU65がドッグに入れられた夜の事です。艦の舳先に誰かが、じっと立っているのを2名の乗員が目撃 しました。一体誰だ、あんな所に突っ立ってるのは?そう思って注意しようとした時、見覚えのある顔であることに気付 きます。「そうだ、あいつはこの前の魚雷爆発事故で死んだ中尉じゃないか!」 2人は艦長に対して見たままを報告しました。しかし彼は幽霊など居る筈は無い、馬鹿馬鹿しいと言い放ち、取り合い ません(その後、幽霊を目撃したうちの1人は、艦から逃亡した)。そうこうするうちに艦の整備も終了し、再度出撃する ことになりました。 航海中、U65は何隻かのイギリス船を撃沈して立派に任務を遂行、帰港します。第二の事件はこの時起こりました。 帰港した港がある日、イギリス軍の爆撃を受けて艦長が死亡。U65には後任の艦長がやって来ます。彼は自分の新 しい部下の大多数が、精神的に追い詰められてるのを見て「これは只事では無い」と直感します。新任の艦長は部下 達に「幽霊などは絶対に居ない」と訓示し、一応念の為とでも思ったのか、従軍司祭にU65のお払いをさせました。 しかし、その後の経過を見るとお払いの効果は無かったようです。まず、数日して砲手が発狂して自殺。同日に士官 が足の骨を骨折。更に翌朝、下士官の1人が突然海に飛び込み、そのまま行方不明に。 立て続けに起きる事故に、新艦長も何かを感じたのでしょう。本来なら敵を追いまわす立場である筈のU65は極力敵 との交戦を避けるようになりました。また、恐慌状態にある乗組員を少しずつ楽な部署へと移動させる努力もしました。 そうすることで、少しでも負の力を逸らそうとしたのでしょうか。ですが、事態は悪化の一途を辿りました。 そして運命の1918年7月10日を迎えるのです。恐怖に耐えられなかった乗組員が艦を自爆させたのでしょうか?それと も味方潜水艦に誤射されたのでしょうか?今となっては真相は闇の中です。
23 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 01:09:05 ] 【戦争奇譚 ~ジーカート大尉のメッサーシュミット~】 20世紀中頃。当時のドイツは知っての通り、1939年からヨーロッパ中を相手に戦争を繰り広げていました。特に1941年 から始まった対ソ戦は日に日に泥沼の様相を呈していました。 1942年の或る日の事。旧ソ連領内にあるドイツ軍飛行場からメッサーシュミット(ドイツ軍の戦闘機)の一隊が飛び立ち ました。暫くしてメッサー部隊は作戦行動を終えて基地に帰還したのですが、「ジーカート大尉」の操縦するメッサーシュ ミットだけが帰還しませんでした。エンジン不調によるものか、対空砲火や敵戦闘機に撃墜されたのか?その後も彼の 消息は掴めませんでした。 時は過ぎ去り、1989年。旧ソ連の空港に、管制塔と一切交信しないばかりか、着陸許可も無しにいきなり単発の飛行機 が滑走路に降りてきました。空港職員が急いで駆けつけてみると、その飛行機はなんとメッサーシュミット戦闘機。尾翼 にはナチスドイツの象徴、「鍵十字」のマークが。更に職員が恐る恐る操縦席を覗いてみると、そこには白骨化した搭乗 員が座っていました。 その後の調査で、この白骨化した搭乗員は1942年、東部戦線で消息を断ったジーカート大尉と判明したとの事です。 一体大尉はどうやって半世紀近くもの時間を超えて突然現れたのか。その間は何処に居たのか。何故白骨化してしま ったのか。全ては謎です。 ただ、この話は「メッサーシュミット版」の他に「スツーカ版」(同じくドイツの急降下爆撃機)や「スピットファイア版」「ハリ ケーン版」(共にイギリスの戦闘機)まであります。
24 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 01:32:08 ] 【戦争奇譚】 新耳袋・第一夜にこんな話があった。太平洋戦争中のある夜、ふと目が覚めてなぜか仏間へ行かなければならない 気がして仏間に行く。すると他の家族もなぜか目が覚めて仏間に集まっている。家族全員揃ったので、わけは分から ないけどせっかくだから念仏でも唱えようと皆で念仏を唱える。明け方になりそろそろ寝床に戻ろうかと襖を開けて 驚いた。隣りの部屋が消えていたのだ。夜中に空襲に遭い、焼夷弾が落ちたらしく、あたり一面焼けている。不思議な ことにそんな音は全く聞いていないし、仏間の襖は爆風さえ受けていない。おかげで家族は全員無事だったという。 陣地を覗き込む兵士について。第二次世界大戦でのこと、1944年にビルマ(現ミャンマー)にて日英両軍が互いに 陣を構え、睨み合っていました。戦況の方は正直な話、日本軍に対して不利。ですが「最後の一兵まで戦う」と頑張る 日本軍。そんな中、イギリス軍の一部隊が突然降伏を申し入れてきたのです。「有利な筈のイギリス軍が何故?」 日本側の質問に対し、イギリス側は以下の様に答えました。 「夜中になると、日本兵が我が軍の陣地をうろついたり、中を覗き込んだりする。それがどう見ても生きている人間では 無い。しかも、日本軍が突撃してきたので反撃すると煙のように消えてしまったり。もう耐えられない」 それを聞いた日本軍は「ああ、死んだ仲間がしてくれたんだ」と言って、別段驚かなかった、との事。 洞窟の中のオオトカゲについて。第二次大戦中、タイ近辺での話らしいです。その地で日本軍は、昼の間捕虜を土木 工事に従事させ、夜は洞窟で休ませていました。そのうち、妙な事が起きるようになります。朝、捕虜を点呼すると何人 か消えてしまっている。最初は「脱走か?!」と思われたのですが、よくよく事情を聞けば、洞窟の中にオオトカゲが 居て、そいつが夜になると捕虜を襲って食ってしまう、とのこと。 最終的に手榴弾で始末したという。
25 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 01:32:57 ] 【戦争奇譚 ~イギリス海軍砲艦アヴァランシュ号~】 1897年7月。ベトナムのアロン湾を航行していた「イギリス砲艦アヴァランシュ号」が、体長20メートル程の生物2頭が 泳いでいるのを発見。これを攻撃した(命中したかどうかは不明)。 年が変って1898年2月15日。アヴァランシュ号は再びアロン湾にて謎の生物と1時間半に渡り遭遇。攻撃したところ、 今度は見事命中。しかし、取り逃がしてしまう。 更に同年同月25日。アヴァランシュ号はやはりアロン湾で未確認生物と3度目の遭遇をします。この時現れたのは 2頭で、頭部はアザラシに似ていたとの事。 【戦争奇譚 ~ドイツ帝国海軍潜水艦U28~】 第一次大戦中の1915年7月30日。「ドイツ海軍潜水艦U28」はイギリスの汽船「イベリアン号」号を雷撃、これを撃沈。 沈み行くイベリアン号は25秒後に海中100メートル付近で爆発しました。 その時、「ワニの様な体をし、頭が細長く水かきが付いた」体長20メートル前後の未確認生物」が爆発の衝撃で海面 に吹き上げられたのです。この様子はU28の艦長ともう1人の兵士によって、潜水艦艦橋から目撃されました。 ちなみにU28の艦長はこの出来事をつぶさに航海日誌に記録したそうです。流石は生真面目で知られるドイツ人、と いったところでしょうか。
26 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 01:33:44 ] 【戦争奇譚 ~消えたノーフォーク連隊~】 第一次世界大戦中の話です。1915年8月21日の事。トルコのアンザックの近くにある、サル・ベイ丘に向かって イギリス陸軍ノーフォーク連隊341名が進軍していました。その日、サル・ベイの丘の上には霧がかかっていた のですが、連隊が進軍するにつれてその雲は徐々に下へ下りて来ました。やがてノーフォーク連隊はその雲に 隠れて完全に見えなくなりました。この様子は別の場所からニュージーランド兵22名が眺めていました。 問題はここからです。そのうち風が吹いて丘の雲を一掃したのですが、連隊兵士の姿が何処にも見えない。 ニュージーランド兵の居る場所からは数十キロ四方が見渡せるのですが、何処にも見当たらなかったそうです。 その後、イギリス軍では調査を開始したものの手がかりは無し。戦後の捕虜返還でも、ノーフォーク連隊の兵士 は1人として居ませんでした。と、ここまでは良く知られる話なんですが、以前別の所で聞いた話ですと、何名か の遺体は発見されているとの事。ただ、全員の遺体が見つかったわけではないので、やはり真相は闇の中。 【戦争奇譚】 戦時中ではなく、戦後の話です。ビルマ(現ミャンマー)の現地の方々によれば、夜のジャングルから聞き慣れない 言葉(日本語)が聞こえてくるそうです。そのどれもが、苦しそうな声だとか。きっと、インパール作戦で散った兵士 なのでしょう。現地の人々からすれば言葉も分からないでしょうし不気味かも知れませんが、我々日本人にとって は涙を誘う話です。
27 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 01:47:18 ] 【戦争奇譚】 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。「あそこでみんな死んでいったんだ」沖に浮かぶ島を指差しながら老人 はつぶやいた。太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその 作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。 やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表 数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」日本人は仲間だと思って いたのに、みせかけだったのか?裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。しかし船が島を 離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。 先頭には笑顔で手を振るあの隊長の姿が。その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのもの だったのだと。 八甲田山・死の雪中行軍は多くの方がご存知かと思います。この悲劇は長く語り継がれ、それと共に心霊話も多く あります。時は現代。ある学生グループが「肝試し」と称して悲劇の舞台となった八甲田山へやって来ました。最初 はただ騒いでいただけの彼等ですが、そのうち悪戯心が出てきたのか、雪中行軍の犠牲者を慰める供養塔などに 対して不敬な行為を働きました。しばらくして学生達は帰途に着いたのですが、その日の晩、彼等が寝ていると、 外から大勢が足並みを揃えて行進する音が聞こえ、それが徐々に近づいてくる。そしてとうとう、彼等の寝室にまで ドカドカと入って来ました。恐怖で動けない学生達を上から眺める多くの兵士達。やがて1人の兵士が「ワシはこの 手が欲しい」と言い出しました。すると別の兵士が「俺はこの目が」「ワシは足だ」。その後半年ぐらいで、この学生 グループは兵士達が言った手や目、足などを事故等で次々と負傷したとの事です。この話が本当か嘘かは別と して、八甲田の兵士達も国の為に自らの命を捧げた人々。敬意を持って接したいものです。
28 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 01:52:28 ] 【倫敦奇譚】 19世紀の話です。ロンドン塔内を警備する衛兵隊長が『ホワイト・タワー』内の『チャペル・ロイヤル』より漏れる不審な 灯かりを目撃しました。「おかしいな。あそこは鍵も掛けてあるし、無人の筈なのに」万が一不審者が侵入したとなれば 放置できません。隊長は梯子を持ってこさせて壁に立て掛け、『チャペル・ロイヤル』を覗き込みました。中を見た彼は 一瞬目を疑いました。煌々と照らされた灯かりの下には、騎士や貴婦人の格好をした人々が大勢居ます。彼等は行列 を組んでゆっくりとチャペル内を歩いています。そして列の先頭には、1人の優雅な貴婦人の姿が。 「一体どうしたことだ!彼等は一体?しかし、列の先頭を歩くあの女性どこかで見た記憶が。誰だったかな?」 その行列は『チャペル・ロイヤル』内を何度か行ったり来たりした後、灯かりと共に消えてしまいました。 その後、警備隊長は「列の先頭を歩く貴婦人」を思い出す事になります。彼女こそ「イギリス王の中で最も悪評高い」 ヘンリー8世2番目の妻となり、その後は王の身勝手な考えから1536年、断頭台の露と消えたアン・ブーリンその人で ありました。
29 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 01:53:18 ] 【倫敦奇譚】 これもロンドン塔の話です。10月のある日(何年かは不明)。ロンドン塔内の弾薬庫で警備の任務に就いていた歩哨が、 大声を上げて気絶しました。彼の名はA・レイノルズ。暫くして彼は、駆けつけた仲間に助けられました。一体何があっ たんだ、と問い掛ける仲間に対してレイノルズは以下の様な話をしたのです。 「自分はいつものように弾薬庫の警備に就いていました。すると、何やら白い影が現れたんです。影は徐々に私の方 へ近づいてきました。あぁ、思い出すのも恐ろしい。その影は、首のない女性だったんです!私は銃を向けて威嚇した んです、ですがその女性はどんどん近づいてきて・・・信じて下さい、本当なのです」 この話は評判になりました。そして、件の幽霊は、以前ロンドン塔で処刑されたアン・ブーリンだろうと言われました。 A・レイノルズはこの後何度も、「白い影」に遭遇したとの事。幽霊はレイノルズがお気に入りだったようです。 ちなみにアン・ブーリンという女性は先にも少し触れましたが、生涯6度の結婚をしたヘンリー8世が2番目に迎えた后 です。元々は侍女でしたが王の寵愛を受け、結婚するに至りました。ですが、男子を産めなかった為にあらぬ濡れ衣 を着せられ1536年、ロンドン塔で斬首されてしまいます。 処刑の際、アンは濡れ衣の処刑にも関わらず非常に落ち着き払っており、最後まで毅然としていました。その態度に は処刑人も感銘を受けた程です。アンの産んだ女の子は後にエリザベス1世となり、イギリスを繁栄に導きます。
30 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 02:13:41 ] 【戦争奇譚 ~幽霊飛行機~】 1942年7月、イギリスのスコットランドで起きた話です。その日、イギリス空軍士官のJ・デブリンはいつものように 管制任務に就いていました。その日は特に予定らしい予定も無く、のんびりしていたそうです。 が、その時緊急連絡が入りました。「敵味方不明機がモントローズ基地へ接近中!」デブリンは仲間と共に外へ 駆け出すと、空を見上げました。 暫くして南東方向から飛行機の爆音が。やがてその飛行機は基地上空へ現れました。 「なんだ、あれは!時代錯誤もいいところじゃないか」無理もありません。彼等の前に現れたのは、第一次大戦で 使われていたと思われるような、布張りの複葉機だったのです。色はライトブルー、星型エンジン搭載のそれは、 第一次大戦で使用され、かの「レッドバロン」撃墜にも一役買ったと言われる、『ソッピースキャメル』戦闘機と思わ れました。複葉機はコース変更もせず真っ直ぐに飛び続けると、そのまま雲の中へ消えて行きました。そしてこの 謎の複葉機は数日後にも全く同じようにして現れたのです。 このあまりにも不可解な出来事に関心を持ったデブリンは早速調査を開始しました。そしてデブリンは基地周辺に 古くから住む、サンディ老人から次のような話を聞きだします。 数ヶ月前の事。羊飼いのジョンという少年が迷子になった羊を探すうち、大きな岩場へ出た。暫く岩場を彷徨って いると、連れてきていた犬が何かを見つけたらしい。そこは大きな岩の裂け目で、ジョンが中を覗き込むと中には かなり古い複葉機の残骸と人骨が散らばっていた。 デブリンは確信します。自分が見た謎の複葉機はきっとジョンが見つけた複葉機であり、事故の日と同じコースで 数十年経った今でも空を飛び続けているのだ、と。
31 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 02:14:33 ] 【戦争奇譚 ~幽霊飛行機2~】 時は現代のイギリス、年が明けて間もない1月の出来事です。ある夫婦が旅行中、バーノルズウィックという町に 差し掛かりました。その日はイギリス特有の霧が発生していたとの事です。 そろそろ休む場所でも、と考えていた夫婦の目の前に、突然巨大な飛行機が現れたのです。その航空機は周囲 の建物や車にぶつかりそうな位の低空飛行をした後、現れた時と同じように、忽然と消えました。 夫婦の話によれば、その飛行機は第二次大戦中に活躍した『ランカスター爆撃機』で、機体は灰色、プロペラが 回転していたのにも関わらず、全くの無音であったとのこと。 その後、新聞でこの出来事が報道されると様々な人々から数十件の目撃情報が寄せられました。 それによると、色は灰色、特に国籍マーク等は付いておらず、プロペラは回転しているが音は無し。そして誰もが 「あれはランカスター爆撃機だ」と証言しました。 ある老人によれば、昔この付近には飛行場があったとか。現在は戦時中、バーノルズウィックに不時着したランカ スター爆撃機があったかどうかを調査中、との事。戦後数十年経った現在。このランカスターは、今も帰るべき 飛行場を探しているのでしょうか?
32 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 02:15:45 ] 【戦争奇譚 ~帰ってきた戦闘機~】 ① 第二次大戦中、独・伊軍と英・米軍は北アフリカ及び地中海に於いても戦いを繰り広げておりました。そんな中、 アメリカ軍のP-38(戦闘機)の一隊が、ドイツ軍基地の偵察へ向かいます。当然の如く反撃してくるドイツ軍。 地中海上では、激しい空中戦が繰り広げられました。やがて戦闘は終わり、P-38は再び編隊を組み直します。 ですが、一機足りない。空中戦でやられたのか、いや、パラシュートで脱出したのではないか。 仲間は低空飛行で海の上を探し回ります。が、懸命の捜索にも関わらず機体の残骸すら見つかりません。燃料 も乏しくなり、後ろ髪引かれる思いでその場を後にしました。 パイロット達は基地へ帰り着くと、僅かな希望を頼りに周辺基地へ問い合わせます。「誰も奴が撃墜されている ところを見たわけじゃないんだ、きっと戻ってくるに違いない。もしかしたらエンジン不調か何かで、別の基地に 着陸した可能性だってあるじゃないか」 ですが、全ての問い合わせも無駄に終わります。「やはり奴は戦死してしまったのだろうか?」誰もがそう思った 時、けたたましい空襲警報のサイレンが。 「敵味方不明機、接近中!」基地内は騒然となり、各員戦闘配置へ。その間にも正体不明の飛行機は基地へ 近づいてきます。やがて、それは目視できるだけの距離までやってきました。 「あれはP-38だ!味方だ!」空を見れば確かに味方戦闘機P-38が低空飛行でこちらへやってきます。地上から 無線でP-38へ呼びかけます。ですが、反応がありません。やがてそのP-38は無線を無視したまま、着陸態勢へ 入ります。しかし、速度が速すぎる。「危ないぞ、あんな速度で着陸なんて!」誰かが呟くと同時に機体は大きく バランスを崩し、そのまま空中分解。
33 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 02:16:41 ] ② その時です。「人だ!脱出したぞ!」空中分解寸前の機体から、搭乗員が脱出するのが見えました。脱出した 彼はパラシュートを開き、そのまま地上へ降りてきます。「やったぞ、助かった!やっぱり奴は生きていたんだ!」 救急車輌と共に仲間のパイロット達も現場へ駆けつけました。それから数分後。唖然として立ち尽くす衛生兵を、 他の人々が遠巻きにしていました。 「こんな事ってあり得るのか?」「どうやってここまで?」「でも、確かに脱出していたが。お前も見ただろ?」取り 囲んだ人々はパラシュート降下してきた人物を見ながら、口々に囁きました。 パラシュートで脱出した人物は死亡していました。ですが、パラシュート降下に失敗して死んだわけではありま せん。頭を撃ち抜かれて、即死の状態でした。後の検分では、P-38の燃料タンクはすっかり空になっていました。 これは別に不思議な事ではありません。帰還する時間を大幅に越えていたわけですし、燃料は無くなって当然 なのです。ですが、空中分解する寸前まで、飛行機のプロペラが勢い良く回転していたのは全員が見ています。 更に、頭を撃ち抜かれ、数時間前には死んでいる筈の人間が脱出し、パラシュートを開いて降下する姿も。 このあまりにも不可解な出来事は、前線指揮官が事件を目撃した全ての将校・下士官に証言を記録させ、認識 番号・官姓名・サイン付きで書類を提出させたとの事です。
34 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 02:37:23 ] 【戦争奇譚】 ① これも戦後の話です。1958年の事。サハラ砂漠のカランシオ台地上空を飛行していた飛行機が、砂漠に胴体着陸 したまま放置されている一機の爆撃機を発見しました。見たところアメリカ軍の爆撃機B-24と見られ、発見者は直ぐ に米軍へ報告したのですが、「該当機は無し」との返答。不時着着はそのまま半年放置されます。 その後地上からの捜索が始まり、問題の爆撃機は再発見されました。B24自体に大した損傷が無いばかりか、機体 の中にはチューインガムや煙草、ポットに入ったコーヒーなども残されていたのです。調査員は首を捻りました。 「機体はほぼ完全、中には食料も残されている。乗員は何処へ?」更に機体の中からは飛行日誌も見つかりました。 日誌の最後は「1944年4月4日ナポリ港爆撃」の項で終了していました。 この事件は「空のマリー・セレスト号事件」として長らく語られたのですが、その後真実が徐々に明らかになります。 問題の1944年4月4日、ナポリ港爆撃は深夜に行われた夜間爆撃でした。その後B24は帰投しようとしたのですが、 どこをどう間違えたかサハラ砂漠へ。夜間なので海と砂漠の見分けも付きません。 その後も必死に帰るべき空港を探しますが結局見つからないばかりか、燃料も尽きて全員(9人)パラシュートで脱出。 その時点で1人が行方不明になり、残り8人は地中海を目指して北へ歩き出します。ですが砂漠の過酷な気候に耐え られず5人がダウン。残された3人は更に北へ。結局この3人も途中で力尽きてしまうのですが、これらの事実は見つ けられた遺体に残された日記から明らかになったものです。
35 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 02:38:10 ] ② B24は彼等の脱出地点からすぐ南に不時着しており、更に南を目指してればオアシスもあったとの事。搭乗員達が 北ではなく、南を目指していたら、あるいは助かっていたのかも知れません。 こうして事実は明らかになったのですが、それでも疑問は残ります。クルーの記した飛行日誌には、次の一文が書か れていました。「火の玉、赤い火の玉…」。 これは戦時中、日本やドイツ上空に現れた「フー・ファイター」の事ではないでしょうか。この「フーファイター」は敵味方 関係無く、戦場で多くの人間によって目撃されています。「フー・ファイター」に攻撃されたという事実は今のところ無い ようですが、B24のクルー達がこの「火の玉」に惑わされ、砂漠に迷い込んでしまったとしたら?
36 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 02:38:58 ] 【戦争奇譚】 村上忠良中尉の話。戦闘中ふと横を見ると、なんと自分の母親が手招きしてるのが見える。幻覚かと不審がったが、 一緒にいた部下も見えるというので、匍匐でそっちに行ってみた。その直後今までいた場所で敵砲弾が炸裂。大穴が 開いた。一方、母親の姿はいつの間にか見えなくなっていた。 戦後帰還してから母親にそのことを話すと、母親は非常に驚いた顔をした。母親はその日、仏壇で武運長久を祈って いる最中倒れ、戦場で苦戦してる息子の夢を見たというのだ。 グラフシュペーは、商船狩りに特化したポケット戦艦(豆戦艦・装甲艦)です。イギリス海軍の巡洋艦三隻と砲戦を交え、 損傷したグラフシュペーは中立国であるウルグアイのモンテビデオ港に停泊。つまり南米。ここでは交戦は行われず、 外交的駆け引きの後に、グラフシュペーはイギリス海軍の待ち受ける海へと出航します。このとき、沿岸には80万人 もの見物人が集まり、固唾を呑んで見ていたと言います。 だが、洋上では英国海軍が待ちうけ、逃げられないと判断したラングスドルフ艦長は、グラフシュペーを自沈させます。 乗員は商船に退避し、艦長は後に自決しました。これが世界的に有名なラ・プラタ沖海戦のあらましで、小説や映画 にもなった有名な海戦(船)です。 停泊中による謎の爆沈で有名なのは、日本の戦艦・陸奥。船員による放火説が有力ではあるが、爆発の前に砲塔の 上で薄気味の悪い女が笑っているという怪談のある船です。
37 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 02:41:27 ] 【戦争奇譚】 時は1945年。日本中が巨人爆撃機B29により焦土と化していた頃です。当時、Aさんは中学生でした。ある日の 深夜の事。彼の住む町がB29による爆撃を受けたのです。家族とも散り散りになり、Aさんは必死の思いで近くの 防空壕に駆け込みました。 「助かった…」ほっと一息付いたAさんは変な事に気付きました。いつもなら他の人で息をするのすら大変な程に 混雑する壕内なのに、居るのは自分1人だけなのです。いや、よく目を凝らせば、もう1人壕内に居る。 女性でした。自分より年上の、17,8歳位でしょうか。しかし妙なのです。映画などでご存知の通り、当時一般の女性 は全員モンペ姿です。しかし、彼女はなぜか派手な着物を身に纏っていました。今考えればあれは遊女だったとの 事ですが、当時はまだ純粋な中学生だったAさん。当然そんな事は知りません。 女性はAさんを見ると笑いかけました。それは決して不気味な笑い方とかではなく、見ていて心安らぐような笑い方。 きっと、世間の底辺を這いずってきた人間だからこそできる顔だったのでしょう。 爆撃の恐怖で今だ震えの止まらないAさんを見て、その女性はそっと彼の手を取り、自分の胸にAさんを抱きました。 まるで姉に抱かれているような安心感を得た彼は、そのまま眠ってしまいました。 次にAさんが気づいた時には、すっかり日が昇っていました。爆撃から生き残った嬉しさと共に防空壕を駆け出そう とした彼ですが、ふと足が止まりました。 自分の足下にはボロボロになった着物と女性物の櫛が落ちているのです。見たところ何年も使われていなさそうな 感じでした。汚くなっているとはいえ、この着物の柄は間違いなくあの女性が着ていた物・・・彼女は一体誰? Aさんはその後大人になって某企業を定年まで勤め上げ、日本を「奇跡の復興」に導く一員となりました。戦後数十 年経った現在。彼は未だにその女性の笑顔を忘れられないそうです。
38 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 02:42:22 ] 【戦争奇譚】 米軍上陸前の硫黄島の話。硫黄島は太平洋上の小島にすぎないため、川などが存在せず水の確保が非常に難し かった。旧島民が使っていた雨水をためる貯水庫は一部の上層部のために使われ、2万人近い一般兵水は火山の 蒸気を冷やしたものが使われた。火山の蒸気だからたっぷりと硫黄等の重金属が含まれており、兵士の殆が身体を 壊し酷い下痢になった。一日に何十回もトイレに行かねばならず、それ以前にトイレに間に合えば『かなり健康な 状態』だとされた。大部分がトイレに間に合わず垂れ流し状態だった。因みに、この硫黄島の水で米を炊くと、硫黄で ご飯が黄色く染まったらしい。 また、硫黄島での敵が来るまでの任務は、敵が来てもしばらくは耐えれるように、蒸気噴出す熱い大地に穴を掘って 洞窟陣地を構築することだった。だが、活火山だけに洞窟内部の気温は非常に高く、低いところでも40度を越えて いたとか。当然そんなところで長時間作業できるはずもなく、5分~10分掘ったら身体を冷ますために外に出なくて はならなかった。また、殆どの者が身体を壊していたため倒れる者が続出。病院もあるにはあったが、病人の数の 多さから手のつけようの無い重病者が殆どだった。しかしそれでも尚手が足りなかった。軍医が寝ている病人の間を 歩きながら一瞥するのが通常の診察であり、手当てらしい手当てを受ける者は見られなかった。そこはさながら死の 待合室だったと生還者は語っている。 米軍の上陸前の事前砲爆撃も凄まじく、発射された砲弾の数こそ沖縄よりも少なかったが、発射された砲弾のトン数 は沖縄と同じかそれ以上だった。なぜなら、沖縄はロケット弾や駆逐艦等の12.7cm程度の小口径砲が主体だったが、 硫黄島は戦艦による38cm~40cmの大口径が主体となっていたからである。 硫黄島に発射された砲弾は推定5000トンに及び、これは一坪当たり700キロの爆弾を使った計算になる。日本の 一般的な爆撃機、一式陸上攻撃機の搭載量が800キロだったことを考えれば、砲撃の激しさが分かるだろう。 この砲撃により島の南端にある擂鉢山という山の形が変わったという人もいる。 こんな状態でも人は生きていられることがかなりの驚きといえよう。
39 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 05:09:04 ] 【戦争奇譚】 日本人で特に有名な狙撃手は、明治時代の村田経芳。明治8年の欧米視察で、ドイツ・フランス・イギリス・スイスの 各射撃場及び大会で全部優勝。腕試しでも全て勝ち、射撃協会から「世界一の射撃手」の称号を受ける。 また戊辰戦争と西南戦争でも官軍側にとして参加、当時のスコープ無し軍用銃で狙撃し、薩摩兵を何人も仕留めて いる。薩軍の篠原国幹を狙撃戦死させたのもこの人。 戦闘中いつも寝そべって、足だけを塹壕の外に出している古参兵がいた。「足負傷くらいで死なないし、負傷すれば 誉傷扱いで内地に帰れる」と常々言っていた。ある日、相当な長距離で敵と遭遇し、小競り合い程度の戦闘があった。 双方戦死者・負傷者もなく、戦闘が終結しかけたころ、「もう大丈夫か?」と古参兵が頭を上げた。と、その瞬間に、 たった1発の流れ弾が古参兵の頭を撃ち抜いた。この日の損害はこの古参兵1人だけだったという。 似たような話がベトナム戦争の戦記本で米兵の証言として載っている。その兵士の小隊長は大変用心深く、夜は 常に敵の襲撃に備え、屋根にも土嚢をのせた壕の中にこもり、ヘルメットと防弾ベストまで身に付けて寝ていたの だが、ある日の夜、敵が、基地で就寝している兵士を叩き起こす為(一種の心理戦)に嫌がらせで撃った、たった 一発の砲弾の、それもその破片のひとつが小隊長の壕の小銃射撃用の狭い開口部から入り、寝ていた小隊長の、 防弾ベストに覆われていない首すじに命中し、あえなく戦死してしまったのだとか。
40 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 05:09:52 ] 【戦争奇譚 ~レニングラードの悲劇~】 ① 1941年6月22日、ナチスドイツはソ連に侵攻し、8月にはレニングラードが包囲された。ドイツ軍の空爆や地上より の砲撃に苛まれ、寒さと飢えに苦しめられつつ900日の間市民は侵入者を拒み、ついにソ連軍の巻き返しで包囲は 破られた。しかしこの抵抗には広島原爆の二十倍もの犠牲が払われた。 1941年当時レニングラード市の人口は250万あまり。包囲が解かれた1943末には人口は60万に減っていた。 少なく見積もっても、80万もの市民が餓死したことになる。詩人のルクニツキーの証言では、1942年から1943年 にかけては毎日六千から一万の市民が餓死凍死していったという。死体は袋小路、空き地、地下室を埋め尽くした。 死体回収のトラックはガソリンの欠乏で動かない。そこで人力で引きずって共同墓地に運び、前線から戻った工兵が ダイナマイトで凍った地面を砕き、埋葬用の塹壕に似た穴を掘った。 墓地に向かう道の両側には塀のように凍った死体が積み上げられ、車がすれ違うことも出来ないほどだった。当然、 食糧を求めての窃盗、殺人が横行する。殺して配給証を奪い取る。しかしやがて食糧そのものが無く、配給証は 無用の長物となっていった。 やがて墓掘り人夫がおかしな事に気が付いた。体の一部分が欠けている死体が頻繁に見つかるようになったと言う のだ。特に腿、尻、腕、肩の肉が無い。墓地の前ではバラバラ死体すら発見されている。何者かが死体を切り取り、 肉を喰らっているのは明らかだった。 やがて生きた人間までもが殺されて喰われた。凍った死体は解体の前に解凍する必要がある。生きた人を殺して 即座に解体すれば手間がかからない。特に女と兵士が襲われた。女は脂肪が多く、柔らかいから。兵士は、一般人 よりも栄養状態が多いから。
41 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 05:11:00 ] ② 1942年1月19日、物不足に悩むディミトリとタマラは大切に保存しておいたパン600gを携えて「干し草市場」に 向かった。毛皮のブーツを買うためである。そこで二人は大男に出会った。身なりもよく、栄養状態も良いようだ。 彼は女物のブーツを持っていたので商談を持ちかける。値切った結果商談は成立。ブーツがもう一足、数百m先の 男の家にあるという。ディミトリは行くことにしたが、タマラはそこで待っていた。 男についていったディミトリは途中、妙な胸騒ぎがした。食人鬼の近づき方の噂を聞いていたからだ。男は「ちょっと 待ってろ」と言い、ドアに向かって 「生きたのを連れてきた」と囁いた。ドアが開いた。中からなま暖かくきつい臭いが 漏れだした。蝋燭の光が揺らめき、炎に照らされて白い肉塊がいくつか、男の脚や女の血管の浮いた腕が照らし 出された。 ディミトリが必死になって階段を駆け下りる。男が後を追う。運良く軍用トラックが外を通りかかった。「助けてくれ、 人食いだ!」ディミトリはトラックにすがりついた。トラックは停車、兵士が建物に乗り込む。銃声。 十五分後、戻ってきた兵士が「五人分の肉塊を発見した」と発表した。 レニングラードの食人は極悪非道の殺人鬼のみの仕業ではない。「アパートの壁の裏で何が行われていたかは 神のみが知る」と、住民は証言する。この証人は妻を食べた男、我が子を喰った親もいると断言する。同じアパート の住民が妻を殺し、首を鍋で煮たという。この類の証言は際限がない。
42 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 05:27:17 ] 【戦争奇譚 ~フーファイター~】 ① 「フーファイター」について。1944年頃の第二次世界大戦末期に、超スピードで飛びまわる不思議な飛行物体 が目撃されていた。それは、直径1メートル前後の、赤色、黄色やオレンジ色の光り輝く球体である。アメリカ、 イギリス、日本、ドイツ軍など、敵味方や連合国・枢軸国の区別無く、パイロットたちによって、目撃されていた。 アメリカ空軍は、これらの不思議な物体を、フーファイター=炎の戦闘機と呼称した。 その物体は、編隊で飛行し、急降下や急上昇を繰り返したり、光を発しながら機体の翼の下に急接近したりして、 まとわりついてきたものもあった。各地で目撃された中には、アメリカ軍爆撃機の上部ハッチから機内へ入り、 パニックに陥った乗員をまるで無視するかのように、あちらこちらへとゆっくりと動き回った後に機外へ出ていった というものもある。 このフーファイターは、絶対に攻撃をしてくることはなく、ニアミスしても衝突することがなく、何者かによって コントロールされているような動きをしていたのが特徴である。 なお、第二次世界大戦終結後は、何故か姿を 消し、目撃されていない。
43 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 05:28:27 ] ② 特にドーバー海峡のバトル・オブ・ブリテンの頃から多数目撃されジェット推進のメッサーが配備されるあたり だったので、新型戦闘機でジェット又はロケット推進の期待ではないかと推測された。それほどの高速での軌道 速度でレシプロ機をたやすく追い抜きからかうように回り込んだりもしたという。 但しフーファーター側から攻撃する事はなく撃墜に転じたパイロットの操縦ミスや偶然の接触などで撃墜された と言う話も在るらしい。向こうから攻撃してこない事からも実験機・試験機などの新型秘密兵器の試験飛行では ないかと思われ双方の諜報員が情報を巡って暗躍、連合軍側には出てきた情報がメッサーのジェットやロケット 推進の新型器だった事から次期新型ジェット推進機ではないかとの思われた節がある。D-day後の戦略爆撃時 も特定地方で多数目撃されることから異常な警戒ぶりで戦略爆撃を行った地方・作戦もある。 一方ドイツ側でも多数目撃されており、メッサーやアラドのジェット機の情報が敵軍に漏れ改良新設計された物 ではないかとの推測もあった。天候の安定しないドイツ地方を飛ぶ第一級の戦闘機・爆撃機のプロに多数目撃、 報告されていることから空電・球電・プラズマ等の自然要因とは異なる何らかの実体を持った人工の飛行物体が 戦闘空域を飛行していた可能性が高い、謎の戦闘機として「フーファイター」「ゴーストファイター」とも呼ばれている。 余談:ロケット推進器説は長く尾を引く噴煙を持ったロケット状の推進物体が戦略爆撃を行っていた爆撃機から 目撃されている。V2とは違う物らしい。
44 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 06:53:36 ] 【戦争奇譚 ~栗田艦隊、謎の反転~】 レイテ上陸するアメリカ軍に対して、日本軍は戦艦大和、武蔵を主力とする栗田艦隊を出撃させた。しかし、途中の 海峡(サン・ベルナルジ)にはハルゼーの大機動部隊(空母16隻、搭載機約1200)がいる。日本軍は囮の小沢艦隊 を出して、ハルゼーを海峡から退かせることに成功した。囮の小沢は全滅直前に「作戦の成功をいのる」と打電。 この電文は日本本土の艦隊司令部には届いたが、何故かより近くにいる栗田艦隊には届かなかった。この電文を 受けて日本の艦隊司令部は「成功に向けて努力せよ」と打電するが、この電文もまた小沢艦隊には届いたが栗田 艦隊にだけは届かなかった。 そして栗田艦隊にだけ届いた謎の電文がある。それは南西艦隊司令部発、宛第二艦隊(栗田艦隊)とするものだ。 「スルワン島北西、500マイル、敵機動部隊見ゆ。」先の二通の電文を受け取れなかった栗田艦隊は囮部隊の 成功を知らずにこの「幻の敵機動部隊」に向けて反転してしまった。この反転によってレイテ突入は永久に失われ、 日本の敗戦は確実に早まった。これがかの有名な、「栗田艦隊、謎の反転」。 まず、先の二通の電文はなぜ栗田艦隊にだけ、届かなかったのか。栗田艦隊には大和以下、戦艦5隻がいた。 有力な敵信傍受班もあり、マストも低い空母が主力の小沢艦隊に届くなら、栗田艦隊にも当然届くはず。 次ぎは謎の電文は何故、栗田艦隊にだけ届いたのか。この電文は、もちろん南西艦隊司令部は作成していない。 アメリカ軍の諜報機関(スパイ)情報部にも関与の形跡がない。発信方向から日本本土方向だったことはわかる。 では、いつ、だれが、どこで作成した電文だったのか。今のところ、誰なのかは全くの謎。 なお、このレイテ上陸は極東版「史上最大の作戦」だった。もし、アメリカ上陸部隊に大和以下の戦艦部隊(この頃 は3隻)が突入して上陸部隊を粉砕してたら、アメリカ極東陸軍の主力は瓦解。兵力バランスは大きくくずれ、沖縄 侵攻ができたかどうか怪しい。戦争終盤のターニング・ポイントであるのは確かだ。
45 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 06:55:02 ] 【戦争奇譚】 前漢の西域の司令官で会った張騫が匈奴との戦闘のおり、西域の奥深くで見たことが無い重騎兵装備をした一軍 と交戦をしている。漢では見られない陣形をとって張騫を苦しめましたが、是を破って漢に帰順させ、定住させた。 長い間、この一軍が何者なのか不明だったが、どうもローマ帝国の1隊がパルティアなどの中東にいる敵対勢力 との戦争の折に敗れて逃げてきたところを匈奴に拾われて参加していたものらしい。その結果。図らずも漢とローマ 帝国の兵の戦闘になったという見方がある。 夏の海辺での話。ふと沖を見ると子供たちが溺れてる。これは大変だ、と大人が助けに行くと、子供の足でも立てる 浅瀬だった。波も穏やかだし、溺れるシチュエーションではない。しかし、助け出された子供たちは、恐怖のためか 顔が真っ白。不思議に思った大人たちは、子供たちに「なぜ溺れたのか?」と聞いてみた。 すると「一番始めに、えっちゃんが「わー」と言ってバタバタしたのね。最初はふざけてるのかな、と思った。でも、 みんなも溺れ始まって大変だって思ったら、誰かがボクの足を冷たい手でギュッと握って引っ張ったの。そしたら、 海の中に変な格好の人がいたんだ。頭から座布団を被って着物みたいな服を着てたよ」と、足についた手形の痣 をさすりながら、ポツポツと答えた。 現場は終戦直前に空襲の被災者の死体が流れ着いた場所でもある。焼夷弾の炎から逃れようと大勢の市民が川 に飛び込んだ。が、酸欠のために次から次へ絶命。そんな彼らの死体が海まで流され、ここに放置されてたと言う。 当時を知る漁民の1人は、重い口を開けてこう語る。「当時は生きるんで精一杯だった。土佐衛門が大量に出ても、 別に何も感じんかった。むしろ、エビやシャコやタコが豊漁になって喜んでおったよ。供養が足りんかった…」。 この「事故」がきっかけとなって、現場に戦災者供養塔が建立された。しかし現在でも、空襲の日が近づくと、夜の 海を飛び回る人魂を見かけることもあるという。
46 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 07:01:19 ] 【戦争奇譚】 ルーズベルトは就任当時から車椅子の重病人であり、頭に大きな腫瘍を抱えていたという。つまり、いつ死んでも おかしくなかった大統領というわけ。何かのジョークで、「もしあの時代にテレビがあったら、合衆国国民は車椅子 の候補者など選ばなかった」というものがある。 大東亜戦争の天目山であるミッドウェー海戦での噂話。その時宇宙人が、アメリカ艦隊の存在していた方面の捜索 を受け持っていた巡洋艦「利根」のカタパルトを故障させ、そのために日本側はアメリカ艦隊の発見が遅れてしまい、 この海戦で敗北したというものがある。実際、その時に巡洋艦のカタパルトに故障がおき、偵察機である零式水上 偵察機の発進が遅れてしまっている。 またミッドウエイには逆の逸話もある。6月5日の第二次策敵時、エンタープライズの策敵機(SBD)が上空に銀色 の不審な球体を発見。これを距離をおいて追跡。見失ってふと雲の下をみると日本軍の南雲機動部隊の真上。 日本海軍の大航跡を発見したと言う。まともな本ではあまり聞いたことない話だが、当時のアメリカ海軍の兵達の 間でまことしやかに流れていた噂の類いらしい。それだけ当時は米軍がミッドウエイで勝利したことが奇跡的と 考えられていたのだろう。 この時の日本軍の敗因として、策敵競争での遅れも確かだが、大きくは作戦指導の誤り。賛否が分かれるが、 陸用爆弾から雷装への変換の時間のロスがあり、これが「運命の5分」と言われている。もちろん策敵機の遅れも 大きい。これを含めた敗北というのが正しい見方ではないか?
47 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 07:03:13 ] 【戦争奇譚】 戦後、進駐してきたGHQが平将門の祟りにあったという話。モータープールを作ろうとして首塚を怖そうとしたら、 ブルドーザーが横転したり、関係者に事故、病気がついて回ったりと、怪異が続いた。 同様の話は、羽田の鳥居にもあった。滑走路を拡張しようとして鳥居を壊そうとしたら、やっぱり怪異が続発。 アメリカ軍の戦闘機が、金色に光るキツネに追跡されたとか。 第二次世界大戦でヨーロッパで戦死した人たちを集団埋葬して、その後、死体調査の為にもう一回掘り起こしたら 棺桶の内側に引っ掻いたり、かじったような跡があったらしい。それらは生きたまま埋葬されてしまった模様。 また日本には、人間魚雷「回天」は特攻用の小型潜水艦というのがあった。だがこれは作動不良も多く、出撃しても 沈んでしまうとも少なくなかったという。その場合は、海底で酸欠で死ぬのを待つだけになる。 それとイ33号潜水艦の話も有名である。この潜水艦は、戦時中に訓練中の事故で沈没してしまった。戦後になり 引き揚げた時、何と一区画だけ浸水を免れてたことが分かった。だから、沈んでから絶命するまでのシチュエー ションが、そっくりそのまま潜水艦内に残っていた。 その区画では、乗員がベッドで眠るように死んでいた。酸素の消費を抑えるために、恐怖心と静かに戦った末に、 そのまま絶命したらしい。1人だけ首吊り自殺。1人だけ残って耐えられなくなったのかもしれない。 死体の状況は、死後も爪と髪の毛が伸びた痕跡があった。髪は5㎝ほど、爪は1㎝も伸びていた。皮膚は真っ白で 口の中は真っ赤だった。酸欠状態だから菌の活動もあまりなかった。だから、こんな法医学の常識に反するような ことになったのだろう。
48 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 07:52:48 ] 【遷都と怨霊】 民俗学者の小松和彦氏「鬼の造った国日本」より。791年の平安遷都が何故行われたか、その前の長岡京が建設 途中で何故、廃棄されたかは諸説あるが、早良親王(さわらしんのう)の怨霊を恐れた、という点では諸説とも一致 している。つまり、怨霊を恐れて遷都した、というのだ。 当時の日本では、無念の思いを残して死んだ人は怨霊になるというに考えが存在していた。その怨霊への恐れが 遷都を行わせ、平安京を造らせた(だから都の名を『平安』としたという説もある)ということになる。ちなみにこうした 怨霊への恐れから、平安時代は保元の頃まで(武士が台頭するまで)死刑は行われなかったそうだ。 しかし平安京を造った桓武天皇は、このように早良親王の怨霊におびえながらも蝦夷(東北)征伐も行っている。 その際、降伏すれば助命は約束すると騙して蝦夷の首長「アテルイ」を捕虜にし、だまし討ち同然に死刑にした。 ここで疑問が一つ出る。「アテルイ」は怨霊にならないのか、という疑問だ。 桓武天皇は、早良親王の怨霊を恐れて平安京をつくった程に怨霊を恐れていたのだ。それなのに桓武は自分が 死刑にしたアテルイが怨霊になるとは考えていなかったのだろうか。 結論から言えば、桓武はアテルイが怨霊となるとは考えていなかった模様だ。当時、蝦夷(東北)は日本とは考え られておらず、すなわち外国だった。当然アテルイは桓武たちから見れば外国人となる。また当時の考えでは、 外国人は怨霊にならない、もしくはあるいはなりにくいと考えられていたのだ。これはちょうど、キリスト教徒には 『奇跡』は起こるが、異教徒には『奇跡』は起こらないというのと似た発想である。 ある民俗学者は、日本の文化や思想のことを、怨霊を恐れる「怨霊教」である、と言う。キリスト教徒だけが悪魔を 恐れるように、日本の文化や思想では怨霊をおそれるのではないか、と。日本は長い歴史の中で、様々な宗教を 自国に取り入れてきたが、これら仏教や道教、キリスト教など渡来の宗教は、結局のところ怨霊を防ぐための 「技術」として導入したのではないか、と見られている。
49 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 07:54:03 ] 【戦争奇譚】 自衛隊にも精鋭部隊がある。常設部隊ではないのだが、それはレンジャー部隊で、訓練は実にハードで有名だ。 その中でも一番に過酷な訓練は、富士の樹海の突破だ。最低限の食料と休憩であの樹海を歩いて突破するのだ。 ところでこの訓練だが、「出る」ので有名だという。 訓練の途中、いきなり雰囲気が張りつめたものになり、隊長が最後尾の新任隊員に「絶対に後ろを振り向くんじゃ ないぞ」と釘を刺した。だが、そう言われると、どうしても後ろが気になってしまう。結局、誘惑に負けて後ろを見ると、 疲れた表情の背広姿の男がついて来ていたというのだ。 現場は、その手の装備と類い希なる体力があって初めて歩くことのできる過酷な環境だ。背広姿の、それも疲れ きった男がついてこれるはずがない。なのに、いつまでもピッタリとついてくる。だが隊員が森を出る頃には、その 背広の男もいつの間にか消えていたそうだ。 またレンジャー部隊の訓練では、途中で自殺者の死体に会うことも珍しくないという。富士の樹海とはそういう場所 なのだろう。 「新耳袋 第四夜」の146ページに載ってる話。大学生4人が八甲田山をドライブしていた。すると、調子のよかった エンジンが、突然にエンストを起こしてしまう。何だ、と首を傾げてると、「ザッ、ザッ、ザッ、ザッ」と大勢の男たちが、 闇の中から現れた。全身黒ずくめで帽子を被ってるようで、顔だけしか見えない。大学生4人は、アクセルを何度も 踏み込んで、やっと脱出できた。 ようやく下宿にたどり着いて4人で震えてると、またしても足音が聞こえてきた。足音は下宿の扉の前で止まった かと思うと、ぬぅっと男の顔が通り抜けて現れた。男は6人。黒い明治時代の軍服を着ている。彼らは4人を取り囲み 「わしは、この男の右腕が欲しい」「俺は足が欲しい」「わしは左手」と話し始めた。4人は、あまりの恐怖にその場で 気を失ってしまった。 そして次の朝。起きると、泥靴の跡が、彼らを取り巻くように残っていた。
50 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 07:55:09 ] 【戦争奇譚】 ある小さな村で、ひとりの青年に召集令状がきた。青年は年老いた母と二人きりで暮らしていた。老婆は足が不自由 で、ほとんど青年の働きだけで食べているような状態だった。老いた母を置いてはいけないと青年は泣いたが、逆らう わけにもいかず、南方に向かう輸送船に乗り込み、土を踏むこともなく船ごと撃沈された。 数年が過ぎ、戦争が終わった。村人たちのあいだで、あの老婆はどうなったのだろうという話がでた。いまさら様子を 見に行くのは怖いのだが、放っておくわけにもいかないだろうということで、代表してある村人が、村はずれにある老婆 の家に訪ねていった。なんと老婆は生きていた。痩せこけて、目とあばら骨が飛び出たような姿で生きていた。一歩も 家の外にでる事もできず、床を剥いで、赤土をけずりとってそれを食べていきていたという。 太平洋戦争の南方戦線での話。部隊からはぐれ、道に迷った兵士がジャングルを彷徨ってると、懐かしい声が聞こえ てきた。耳をすませると、亡くなった祖父母や親族の声ではないか。喜んで声の方向を目指すと、はたして彼らの姿が 見えてきた。なぜかジャングルの中なのに、一角だけ日本家屋の部屋のようになっている。そこで車座になって、懐か しい面々が団らんしてるのだ。 「オレも仲間に入れてくれ」と兵士は喜んで言った。すると、彼らは話をピタリと止めて、こちらに怪訝な表情を向けた。 そして「お前がここに来るのは、まだ早い。日本に戻れ」と言う。兵士が「嫌だ。オレもそこに行く」と我を張ると、祖父が 「駄目だ。帰れ!」と一喝。そして、彼らの姿は、ジャングルの闇の中に消えてしまった。 その元兵士は。「あのとき、団欒に加わってたら、今頃、どうなってたんでしょうね」と言っていた。
51 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 07:57:20 ] 【戦争奇譚】 日露戦争時の美談を一つ。旅順陥落の20日程前のこと、二龍山保塁から第九師団の工兵隊陣地前にハンカチで 包まれた石が落ちてきた。「敵の罠かもしれないが、そんな卑怯な真似もせんだろう。」ということで拾って見ると、 5ルーブル金貨二枚とロシア語で書かれた手紙があったので司令部で翻訳すると、「包囲軍将校に懇願する。次の 電報をたった一人の母に発信していただきたい。本文:私は元気です。どうか安心してくださいませ。ピョートル。 費用は同封の金貨でお願いします。」これを見た大島師団長は「母親を安心させてやろう。」と指示をする。費用は 足りなかったものの上海経由で発信し、その旨を石にしばって保塁に投げ入れさせると、また返信が届いた。「わが 母とともに厚く感謝する。」 阿川弘幸の「暗い波涛」という小説より。船には「船霊(ふなだま)」っていうのが住んでいるという。そして住んでいる 船が沈む直前になると、船霊は船から抜け出す。トラック諸島で日本海軍が壊滅的打撃を受けた後、「そういえば、 ゆうべ白い着物を着た女が船から出て行くのを見た」と証言する乗組員が、あちこちの船で続出した。 なお、このことは同氏の「軍艦長門の生涯」でも、この船霊信仰は紹介されている。船霊信仰では、木をくりぬいて 作った舟型の中に、船霊をかたどった紙の人形と五穣をはじめ供物を詰めて密封し、船室に祀る。これは現在でも 一般的な慣習である。
52 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 07:58:11 ] 【戦争奇譚 ~フーファイター2~】 「基地を出てから一ヶ月余り、昭和18年11月14日の夜半の事です。ちょうどキスカとアッツの間で、アッツ島寄り を哨戒していたところ、その夜は珍しく海上は平穏で、さざ波一つないんです。空には月さえ出ていました。こういう 夜の襲撃は理想的なんだがな、と思ったりしたもんです。アッツ島が墨絵のように浮き出ていました。しかし、相当 な寒さで防寒外套を着ていても、寒さが骨身にしみましたね。 その時です。突然アッツ島のほぼ中央と思われる所から、青白い炎のような塊が上空に舞い上がったんです。 何だろうと目を見張っているうちに、炎の塊は次第に膨らんでくる。それが橙色に変わりながら、相当なスピードで こちらに飛んで来るんですよ。その不気味さは言いようがありませんね。冷水を浴びたように、ゾッとしました。 何やらわからんが、とにかく、「両舷停止、潜航急げ」を下令して、大急ぎで潜航したんですがね。 潜入後しばらくして、航海長と信号兵が、「艦長、あれはアッツ島の英霊です。それに間違いありません」と、異口 同音に言っとったですがね。あの火の玉が砲弾とか信号弾でなかった事は確かです。爆発音はしませんでした しね。オーロラとかも考えたのですが、火の玉となって飛んできますかねえ、オーロラが。何であったかは今なお わからない。とにかく不思議なものでしたなあ。」 (「伊二潜」艦長(当時) 板倉光馬少佐の証言 佐藤和正著 「艦長たちの太平洋戦争」より)
53 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 08:21:59 ] 【戦争奇譚】 カリフォルニア州アラメダでの話。第2次世界大戦やベトナム戦争で活躍し、現在は米カリフォルニア州アラメダで 博物館として係留されている空母「USSホーネット」に亡霊がすみついているといううわさが後を断たない。 「ドアが目の前でバタンと閉まった」、「冷たい一陣の風がどこからともなく吹いてきた」、「奇妙な音や、第2次世界 大戦中のユニホームを着た歩哨を見た」など、6年前に「退役」したUSSホーネット内で働く職員やボランティアら による「亡霊目撃」通報は、これまでに約数百件を数えるという。この幽霊話を全く信じていなかった博物館の運営 を監督するボブ・フォーラーさん自身も、船中で働くようになってから、カーキーの軍服を着た兵士を数回見かけた と話している。関係者によると、戦中にUSSホーネットで死亡した兵士の数は約300人という。 日航機が墜落したときに、現場に死体回収のために派遣された自衛官たちの話。現場捜索に出動した自衛官が そこでキャンプを張ることになったのだが、山の中であり斜面だから寝る場所がない。仕方ないので、近場の木に 体を縛り付けて寝たという。すると、彼らは不思議な夢を見た。飛行機が墜落した場所から大勢の人が山を降りて こちらに向かってくる、というものだ。次の日の朝、仲間に「昨夜、不思議な夢を見たんだけど」と話したら、「実は 俺も見た」という奴が続出したという。みんな、そろって同じ夢を見てたいたそうだ。結局、乗客のみんなが、山を 降りて自分の家に帰って行ったんだろう、と妙に納得してしまったのだという。
54 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 08:23:21 ] 【戦争奇譚 ~防空頭巾の集団亡霊~】 ① 三重県津市の海岸には、海の守りの女神の像が立っている。ここは、昭和三〇年七月二十八日に市立橋北中学 一年生の女子三六人が水死した所だが、当時の生き残りの一人だった梅川弘子さん(二一)は、週刊誌「女性自 身」(昭和三八年)に、その時の恐ろしかった手記をサイン、写真入りで寄せている。 いっしょに泳いでいた同級生が、「弘子ちゃん、あれ見てー」と、しがみついてきたので、二,三〇メートル沖を見ると、 その辺で泳いでいた同級生が、つぎつぎと波間に姿を消していくところだった。すると、そこで弘子さんは「水面を ひたひたとゆすりながら、黒いかたまりが、こちらに向かって泳いでくる」のを見た。それは何十人もの女の姿で、 ぐっしょり水を吸い込んだ防空頭巾をかぶり、もんぺをはいていた。逃げようとする弘子さんの足をつかんだ力は 物凄く、水中に引きこまれていったが、薄れゆく意識の中でも足にまとわりついて離れない防空頭巾をかぶった 無表情な白い顔を、はっきり見続けていたという。 弘子さんは助けあげられはしたが肺炎を併発し二十日間も入院したが「亡霊が来る、亡霊が来る」と、よくうわごと を言ったという。 「防空頭巾にもんぺ姿の集団亡霊」というのには因縁話があって、津市郊外の高宮の郵便局長・山本剛良氏に よると、この海岸には、集団溺死事件の起こったちょうど十年前の月日も同じ七月二八日に米軍大編隊の焼打ち で市民二五〇余人が殺されており、火葬しきれない死骸は、この海岸に穴を掘って埋めたという。 山本氏からこの話を聞かされた弘子さんは、手記の中で「ああ、やっぱり私の見たのは幻影でも夢でもなかった。 あれは空襲で死んだ人たちの悲しい姿だったんだわ」と納得している。
55 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 08:24:54 ] ② なお山本氏が聞いて回ったところによると、この亡霊は、弘子さんを含めて助かった九人のうち五人までが見て いるばかりが、その時浜辺にいた生徒たちの内にも、何人かが見たと語っているそうだと、弘子さんは伝えている。 また、その後、こうした体験をした弘子さんは、卒業してガソリンスタンドの事務員に就職したが、自分でも積極的 に調べてみると、次つぎに怪異な事件が起こっていいることを知ったと次のような報告を併記している。 1.溺死事件の前日、大きな火の玉が浜辺の某家の屋根に落ちたのを釣りをしていた何人もが見たが、その家の 娘も弘子さんといっしょに遭難水死した。 2.腰まで海水に浸って釣っていた人が、突然何かに憑かれたように沖へ沖へと歩いていってそのまま海中に姿を 消し、死体も揚がらぬ事件が四年間も続いている。 3.渡辺小三郎という人は、幸い救われたが、病院で「亡霊を見た」とうなされ続け、意識不明のまま二〇日後に 死去している。 ※editor注:この海辺は現在は遊泳禁止。 なお、この元の文は教養文庫の今野圓輔「日本怪談集(幽霊篇)」に載ってます。
56 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 08:25:53 ] 【戦時奇譚】 戦時中は覚醒剤入りのキャラメルを配布していたというが、覚醒剤の錠剤その物を配ってたこともある。本土の 臨時軍需工場になった町工場や学校は女子工員達が仮眠数時間で飛行機の部品作っており、そこにバケツ 一杯の白い錠剤が在って「眠気が出てきたらり疲れが出てきた場合はこの錠剤を服用するように」と言われて 作業をさせいてた。だが、女子工員たちは、この覚醒剤が全然効かないってぼやいてた。 グリコが戦時下覚醒剤入りキャラメル製造したなんて大騒ぎするほど珍しい事ではなく、アメリカではコカコーラ 工場がその物ズバリ、「コーク(麻薬の方)」の製造工場になっていたし、ディズニーはプロパガンダ映画・アニメ を堂々と製作し、徴兵逃れやっていたのは有名だ。 1945年4月20日のこと。敗色濃いナチス・ドイツの重戦車が妙なかたちでアメリカ戦車隊に襲いかかった。その日の 朝は濃い霧だった。あるフランスの小村にさしかかったアメリカM4戦車隊のまえの家の物陰にティーガー2が隠れて いるのを発見した。すぐさま航空支援を無線でたのみ、M4たちは扇状態に展開し、テーィガー2の側面を攻撃しよう とした。だが68トンの重戦車のまえにM4はつぎつぎと撃破されていった。濃い霧のため航空支援もままならず、 戦闘爆撃機がきたころにはM4は全滅していた。かろうじて脱出したM4の乗員は、その重戦車のコマンダーズ・ キューポラに子供が一瞬、顔をだしたのを目撃した。14、5くらいだったという。弾薬輸送車のsdk251には老人が いたという。ティーガー2は貴重な戦車であり、この戦略的に、なんの価値もない村になど配備したことはない。 ただ、この村がアメリカ軍の空襲で壊滅したことは事実だった。この交戦記録はアメリカ軍の記録にはあり、ドイツ 側には、もちろん無い。「幻の虎(ティーガー)」と呼ばれた。空襲で死んだ人々の霊ではないかといわれている。 新谷かおる「戦場ロマンシリーズ」に、これと似たような話が掲載されている。
57 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 18:16:08 ] 【戦争奇譚】 カンボジアでポルポト政権時代に不穏分子が大量に虐殺、遺棄された農場は、今現在は欧米の果実企業のプラン テーションとなっており、とても美味なマンゴーやドリアンが採れるとか。また、ベトナム戦争で多数の戦死者を出した メコン下流の田園地帯は、今は日本の商社によるエビ養殖池で埋め尽くされていて、美味なエビが育つらしい。 スターリングラードでは、包囲されたドイツ兵の一部が人食い(グールー)化した。それを退治するために貴重な弾薬 を割かなければならなかった。またフィリピンでの話。人喰ってる連中は、見れば分かったらしい。みんな敵に追わ れて食うや食わずで、幽霊みたいな顔してるのに、人食いの連中だけはつやつやだったという。しかも何とも言えない 目付きをしているらしい。「ありゃ獲物を狙う目付きだった」とのこと。戦艦武蔵の生き残りの人(海軍の人)が、相当数 やられたらしい。海軍の船乗り連中は歩き慣れてないから、狩やすかった。なお、戦史から離れるが、遭難者が人を 食い合う事例に付いては、「復讐する海-捕鯨船エセックス号の悲劇」と言うのが参考になる。 南方の戦線で、どの戦場でも後先考えずに突撃を繰り返す小隊があった。その小隊は、少し狂った小隊長の命令が 指揮する部隊で、部下たちはそれに従っていたに過ぎなかった。結局その小隊は、とうとう小隊長と二等兵の青年の 二人きりになってしまった。それでも小隊長は突撃の命令を出すものだから、二等兵の青年は遂に頭に来て、小隊長 を後ろから銃で撃ち殺してしまう。その後二等兵は、小隊長の死体を解体し、乾し肉を拵えていたところを発見される。 この二等兵は銃殺刑になった。
58 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 18:16:55 ] 【戦争奇譚】 F-16戦闘機の空気取入口は、前輪の上にあり、いかにも人を吸込み易い構造になっている。そのため案の定、その手 の事故で何人か死亡している。F100・F110ターボ・ファン・エンジンに粉砕・圧縮・過熱…文字通りのミンチ状態に。 そうした事故に遭った人間のうち、空気取入口の中にあるケタに掴まって助かったのもいるというのだが、そこは、氷結 防止に100度以上の加熱空気が出る場所でもある。さぞかし熱かったことだろう。 第二次世界大戦中の凄惨な事件。1945年2月、ベンガル湾のラムリー島のマングローブが生い茂る沼地に、イギリス 軍が1,000人を超える日本軍をおびき寄せていた。すると19日の夜から20日の未明にかけて恐ろしい叫び声が続いた。 負傷者の血の匂いに刺激された無数のイリエワニがこの沼地に集まり、動きのとれなくなっていた日本兵に襲いかか ったのだった。沼地の外側にいたイギリス軍は一晩中すさまじい悲鳴を聞かされた。そして夜が明けてから、彼らが 発見した生存者はわずか20名だった。 最前線で戦う全ての兵士達は60日以内になんらかの精神異常が発生する。だが、その中でも3%ほどの兵士は全く 影響が出ない。またその兵士達は、どんなに戦闘が長引いても精神異常は発生しない。これはこの兵士達が生まれ ついての殺し屋だからである。この生まれついての殺し屋が倒す敵兵は軍全体の倒す敵兵の約50%を占めるという。 ちなみに彼らは、人を殺す事によって性的興奮を覚える快楽殺人者とはまったく違う。生まれついての殺し屋かどうか は戦場に行くまで分からない。
59 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 18:17:42 ] 【戦争奇譚】 北アフリカ戦線にて。イギリス軍の輸送トラックが砂嵐で進路を見失った。視界が利かないため、ドライバーは停車して 砂嵐をやり過ごすことにしたが、砂嵐はなかなか止まず、それが去ったのは日が暮れたあとだった。結局ドライバーは そこで車を停め、車中で一泊することにした。 すると深夜、「乗せてくれ」と兵士がひとり、不意に闇の中から現れた。話し相手がいないこともあり、ドライバーは快く その兵士を乗せた。妙な訛りの英語を話すやつだと思ったが、連邦国のどれかの兵士だろうと思い、気にしなかった。 しばらく会話を楽しんだ後、もう行かなくては、とその兵士はトラックから降りた。こんなに遅く何処へ行くのだろうと思い、 ウィンドウ越しに姿を探したが、その兵士の姿はもう見当たらなかった。 夜が明けて、目が覚めると、砂嵐で気付かなかったが、近くにドイツ軍の戦車が擱座していた。それを味方の兵士たち が調査していた。近づいてみると、壊れた戦車から、戦車兵の死体を引っ張り出しているところだった。その顔は、昨夜 トラックに乗せた兵士と同じものだった。 日本兵の幽霊は他に比べて多かったようだ。兵舎での噂話で、既に死んだ兵隊さんの手首が夜な夜な現われて、 「おいで、おいで」と手招きするらしい。日本軍の大陸の戦場(日露?)での怪談話。 戦局が暗転し、南方からの「転進」中にジャングルに迷い込んでしまった部隊が、「巨大な遺跡を発見した。見たことの ない生物がいる。人間に似ている」という通信を最後に消息を絶った。 ジャングルで撃ち合いをしていると、フイにシーンと静まり返る瞬間があるらしい。弾薬の補給や負傷者の救護などを するタイミングがちょうどお互い合って、まるで休憩時間のようにその間は銃声がしないのだが、その時間が長いと、 必ず発狂するものがあらわれたという。
60 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 18:18:29 ] 【戦争奇譚】 第二次世界大戦中、南太平洋のとある島での出来事。孤立した日本軍が駐留しているとみられる島に、米軍が夜間 上陸しようとした。すると突然、島の高台に金色に輝く人の様なものが現れた。その途端、米軍の上陸用舟艇に錆に よる穴が空き、次々と浸水した。結局米軍は、その島には上陸をあきらめた。後に上陸前に撮影されたその島の航空 写真を見ると、島にはどれも錆びきった高射砲や輸送機などが写っていた。その島では全ての鉄という鉄が錆びて しまっていたという。米軍の非公式記録より。 硫黄島について。海上自衛隊では、禁忌となっていることがある。硫黄島での演習で上陸し、そこでの記念として石を 持ち帰った所、亡霊が艦内を彷徨い、叫び声や電気系統に異常をきしたという。海上自衛隊の航海日誌に載るくらい の事実である。 日露戦争での話。開戦前、明治天皇はこの戦争に消極的で、大国ロシアを打ち負かす事など絶望的と思われていた。 ところが、あるとき公務を終えられた後に明治天皇が、「この戦には神が兵を貸してくださる。必ず勝てる。」と言われ、 結局開戦することとなった。結果、日本軍は勝利を収め、世界史を塗り替えることとなる。 戦後、捕虜となったロシア兵は口々にある証言を残す。「黒い服を着た日本兵は弾が当れば死んだが、白い服を着た 日本兵にはあらゆる武器が通じなかった。」とのこと。 なお、明治の皇軍兵の軍服は上下黒の詰襟に白いゲートルであり、「白い軍服」の兵士は存在しない。 第一次大戦中のヨーロッパでも似たような話があった。イギリス軍が撤退した陣地から十字の剣を持った謎の騎兵隊 が現れ、銃撃しても倒れる気配を見せなかった。恐れおののいたドイツ軍が敗走。2、3キロ離れた所にいたイギリス軍 は、誰もいない無人の陣地にドイツ軍が必死に銃撃をしている異様な光景を目の当たりにした。
61 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 18:19:15 ] 【戦争奇譚】 第二次世界大戦の北アフリカ戦線で、孤立したドイツ兵達が1人の老人と出会って古い地図を譲って貰った。そこには 水や食料の貯蔵庫が記されていた。それでどうにか助かったドイツ兵達は、どこでこの地図を手に入れたのかを老人に 聞いた。すると老人は、「ナポレオン公から援軍が到着するまで死守するようにと命令を受けました」と言って姿を消したという。 先の大戦中の戦車兵の話。真夜中いつものように数十台で隊列を組んで行進していると、付近の森から、蒼白い鬼火 が続々と現れた。狼狽していると、クラッペ(覗き穴)から外を見ていた兵士の頭が吹き飛んだ。夜が明けて、別の部隊 がそこを通った。そこには、切り裂かれたような戦車の残骸と、車内にいたにも関わらず、射殺された兵士の死体が いくつも転がっていた。その中に混じり、奇妙なランタンを持った、敵の兵隊の死骸がおびただしい量転がっていた。 空母「瑞鶴」に乗艦していた見習い尉官の話。戦闘の際、日ごろからお世話のなっていた中尉が敵機の爆弾により 倒れた。左足を付根からもぎ取られていたが意識があり、「もし呉に帰ったら家族に苦しまずに死んだ、と、そう伝えて くれ」と言い、息を引き取った。見習い尉官は遺言どうり中尉の家族に手紙を書き送った。 それから二十五年後に行われた瑞鶴戦没者慰霊供養の際に中尉の未亡人と会い、実際の中尉の最期を伝えた。 すると未亡人は「これまで何回となく夢で帰って来てくれましたが、不思議な事にそのたびに左足がないんです。今、 やっと、その訳が解り、ほっとしました」
62 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 18:57:07 ] 【戦争奇譚】 明治35年1月、厳冬期の八甲田山中にて、青森五連隊の雪中行軍隊210名が遭難し、199名が死亡すると言う事件が あった。それから1~2ヶ月後の寒い夜、青森五連隊連隊長の所へ、営門の兵士が血相を変えて報告に来た。連隊長 が営門に駆けつけると、遠くの闇の中から、大勢が行進する音、軍歌、ラッパの音が近づいて来る。だんだん近づいて 来て、もう少しで闇の中から姿を現すと言う時、連隊長はおもむろに軍刀を抜き、闇に向かって叫んだ。 「雪中行軍隊の諸君よーく聞け!貴様等は勇戦奮闘し見事な最後を遂げた!今や無情雪山の鬼と化すも、迷っては ならん!お前達の死は無駄ではなかった!厳冬期の軍装及び戦術については一大改革がなされる事となったぞ! 来たるべき戦役に於いて、未然に軍の損失を防いだその功績は大きい!貴様等行軍隊員は、みな靖國神社に合祀 される事になった!迷うな、心安く眠れ!ここはお前達の帰って来る所ではない!帝国軍人として見苦しい振る舞いは この連隊長が許さん!青森五連隊雪中行軍隊、回れ右!前へ進め!」 すると足音はピタリと止まり、八甲田山に向けて進んで行き、二度と戻らなかった。 第二次世界大戦が日本の決定的敗北によって終結した後、昭和20年9月から東南アジアの戦場で戦っていた兵士が 日本に戻って来た。当時の横須賀線(東京←→横須賀)にも、任務を解かれた帰還兵が大勢乗り合わせる姿がよく 見られた。復員兵の帰還が一段落した昭和25年あたりから、逗子や横須賀でそうした復員兵にまつわる奇怪な話が 噂されるようになった。逗子と鎌倉の中間に当たる名越トンネルで、軍服姿の復員兵がぎっしりと乗った真っ黒な古びた 省線電車が明かりもつけずに通過するのを大勢の人々が目撃したというのだ。車両内には青白くぼやっとした復員兵 がたくさん乗っており、みな視点の定まらない目つきで、やせこけた体、ボロボロの軍服、疲れ切った表情の軍人たち がぎゅう詰めで揺られていたという。
63 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 19:02:44 ] 【戦争奇譚】 硫黄島について海上自衛隊ではかなり多くの噂がある。硫黄島の周辺海域を航行すると、不思議な出来事に遭遇し 易いという。本土に帰りたい御霊が、帰還の為の船を捜して彷徨っているらしい。潜水艦にさえも乗り込んで来るという。 潜水艦は浮上の時は前後の重量を一定にする必要があり、そうなるように隊員のいる場所もあらかた決められている のだが、あるとき後方側だけ不自然に重かった。調査しても乗組員の位置は決められたとおりで、特に異常はない。 浮上してその海域を離れると、後方の不自然な重さはなくなった、という話。他にも軍艦の沈んだ場所付近の海上で、 変な光を見たりとか、サイパン帰りの観光客の背後に、軍人とおぼしき霊が見えたという話もある。 岩手県雫石での民航機とF86の空中接触事故があった。その後、事故現場周辺の国道には、夜な夜なその事故の 被害者がわらわらと出て、通る車を取り囲み、手でバンバン叩いて止めたという。生者の時の姿では無く、事故当時 そのままの欠損した体のままだったり、鬼火に取り囲まれた格好で出たりと、ひと目見てこの世のものではない、と 分かるほどだったという。 時にはこうした霊が昼間でも出た。中には、そのショックで気がおかしくなったタクシーの 運転手もいたとか。 その後、御祓いや慰霊祭で年々出なくなったが、国道を別のルートにしたころから、話は聞かなくなった。なお供養塔 が建っている場所は、現在「慰霊の森」と呼ばれている。岩手のオカルト好き、心霊スポット巡りが好きな人間の間でも、 あそこだけは洒落にならないと言う事で、現在でも完全にタブー扱いになっている。
64 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 19:35:22 ] 【戦争奇譚 ~偵察機~】 偵察機で米艦隊の偵察を行った海軍航空隊の少尉の話。偵察機というのは逆に敵艦に発見されると撃墜される確率 が非常に高いという。少尉はこのとき、敵船団を発見したが、自分も見つかってしまい、敵艦艇から集中砲火を浴びた。 激しい砲火の中で、これは駄目だと思った時、突然友軍機が一機傍らから現れ、敵艦に向かって機銃掃射をしながら 突っ込んでいったという。その友軍機はどこのものかは、そのときの少尉には分からなかったが、とにかく少尉はその 友軍機のおかげで集中砲火を上手く免れることができ、帰還することができたという。 さて、少尉が無事帰還すると、艦には少尉が搭乗した偵察機の他に別に偵察機が一機あったのだが、その偵察機が 命令なく発艦したらしく騒ぎになっていた。後に乗員点呼を行っても誰も欠員がいないという。結局その偵察機に誰が 搭乗したのかはわからずじまいとなった。 ともかく少尉はそのおかげで命拾いしたが、少尉本人も含め、後々までみんな不思議がっていたという。結局もう一機 の偵察機は、その後も帰ってこなかった。 なお、偵察機は敵に見つかると徹底的に狙われるという。当然といえば当然だが、相手に自分の艦隊の位置を知られ るのを防ぐためだ。万が一艦砲射撃から逃げられても、その直後に発進した敵機の猛追跡を受けて狙われるという。 また敵に発見されて逃げるときも、下手に自分の搭乗艦の方に真っ直ぐ逃げてしまうと、逆に敵に友軍の位置情報を 教えてしまうことになる。そのため偵察機は敵機に発見されると、元々速度を優先で殆ど弾薬を積んでないこともあり、 とにかく燃料ぎりぎりまで、追跡を避けるのにコースを変えながら逃げるように帰艦することになる。 そのため偵察任務はストレスによる体力消耗が激しく、一度の出撃で体重が3Kgも減ることがあるらしい。
65 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 20:13:20 ] 【戦争奇譚】 撃墜王として知られる坂井氏の著書で若い爆撃機パイロットの話があった。このパイロットは、日頃から「俺は宙返りが したい」って言ってたんだけど、皆から「爆撃機で宙返り出来る筈ない」と言われてた。だが、ある日の作戦で、この若い パイロットの乗る爆撃機が攻撃を受けて火だるまになってしまった。後は墜落か爆発するのみ。「もう駄目だ、助から ない」と、皆がそう思ったその時だった。火だるまの爆撃機は突然機首を上げるや、やや斜めながらも見事な宙返りを 成し遂げた。宙返りした爆撃機は、直後に爆発四散。若いパイロットは愛機と共に空へ散った…。 ある日本軍機が攻撃を受けて海に不時着した。偶然、それを味方の偵察機が発見。不時着機の上空を旋回した。不時 着機のパイロットは最初、元気に手を振ってたのだが、そのうち必死に海面を軍刀で突き始めた。「なんだなんだ?」と 偵察機のパイロットは不思議に思って海面を見ると、海には沢山のサメが泳いでいたという。その後改めてパイロットを 助けに行ったものの、海には油が浮いてるだけだった。 硫黄島で力戦した第26連隊の「バロン西」ことロス五輪の馬術障害の金メダリスト西竹一と愛馬ウラヌスの話。硫黄島 に着任するとき、年老いた愛馬ウラヌスの尻尾の毛を切り取り、ずっと胸に入れていた。その後、硫黄島は玉砕し、西 竹一は戦死。その死から3日後、ウラヌスも後を追うように死んだ。
66 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 20:15:54 ] 【戦争奇譚】 ある日、敵との戦闘のために空母から戦闘機が何十機も発進していき、その殆どが撃墜されてしまったことがあった。 それから数日後の夜のこと、突然空母の格納庫に何人ものパイロットがやって来た。整備兵たちは「御苦労さま」と 思って声をかけようとすると、そのパイロット達はどうしたことか、みんなズブ濡れだった。「あ、これはイカン!」と思い、 整備兵たちは毛布や手拭を持っていこうとしたところ、整備兵の班長が「おまえら待て、なにもするな!」と叫んだ。 そのまま班長は直立不動の姿勢をとり、そのパイロットたちに向かって最敬礼をする。整備兵たちは訳もわからず 班長をみると、班長は敬礼したままボロボロと大粒の涙をこぼしていた。 「どうしたんですか?班長」と、ある兵隊が聞くと、「お前たちわからんか?あの方達はXX少尉とその小隊の方達だ!」 と言う。「!」それを聞いて整備兵たちも、すぐさま全員整列をして敬礼をし、そのまま動かなかった。 そう、そのパイロット達は先日出撃して、みな撃墜された小隊の人達だったのだ。整備兵たちが全員並んで敬礼して いるのに気づいたパイロット達は、只だまって深々と頭をさげ、格納庫からゆっくりと消えていったという。 「班長、今のはいったい?」と、兵隊がきくと、班長はあふれる涙をぬぐいもせず、「無念だったのだろう、敵艦隊に攻撃 する前にみな撃ち落とされ、死んでも死にきれんのだろう。大事な機を壊し、一生懸命整備をした俺達に謝りに来たの だろう。」と言った。パイロット達はみな18から25才くらいの若者だった。
67 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 20:39:08 ] 【戦争奇譚?】 前線の粗末な基地にたどりつくと、すでに連隊の姿はなく、残された日記には以下の内容のことが書かれていた。 「今日とうとう軍医が発症した。軍医を射殺後、我々はここを放棄する。今や我々は日本軍からでなく悪魔の仲間から 身を守らなければならなくなった。運よく味方に巡り合えばいいが、たとえ日本兵でも、人間からの攻撃で死ねるのなら 幸せかもしれない。ジョニーとロニーの家族に遺品を渡したいが、彼らの最後の姿をどう話せばいいのか?とにかくここ を出よう。海沿いの道を行けば友軍に会えるかもしれない。」 ベッドには軍医らしき遺体が残されていたが、奇妙なことに頭を撃ちぬかれた後、体をベッドに括り付けられていたので ある。死者が蘇るとでも言うのであろうか?あたりには銃弾の散らばった跡と、何かに火をつけた跡が残されていた。 その後、他に3体ほどの死体を確認。名称は不明であったが、体じゅうに銃弾を撃ち込まれた後に焼却されていた。 もはや味方同士で殺し合いを行ったことは明らかである。さらに不思議なのは、なぜ彼らはわざわざ死体を焼却した のだろうか、ということだ。このような最前線では、ガソリンは大変な貴重品であるにも関わらず、それを用いてまで焼却 する理由が分からない。もし死体が出たのなら、遺品を預かった後に土に埋めるのが自然なやり方である。日本兵と 戦っているうちに、彼らの火葬の風習に感化されたというのであろうか?
68 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 21:00:47 ] 【戦争奇譚】 ニューギニアから生還した陸軍兵の話。ニューギニアに駐留中、食料とすべく魚を捕る時に手榴弾を海に投げ込んで 爆発させ、捕らえていたという。その時、手足がヒレで、体がスベスベした大きいワニがたまに捕れ、焼いて食べたら、 大変美味しかったそうだ。 ニューギニア方面に派遣された兵士の体験談の中には、怪物、怪獣の目撃談が他戦線と比較して多く含まれている。 戦後、部隊史などをまとめるために行われた聞き取り調査や、新聞社などが発行したドキュメントなど、ある程度公式 な性格を持つ資料の中にも、似たような体験が多く記録されている。 その中でも特に多いのは、爪と長いくちばしを持つ大コウモリ、足が鰭化している巨大ワニだ。当時、古代の爬虫類の 外観がどのくらい普遍的な知識だったのかは不明だが、申し合わせたように、この二種の目撃談は頻出する。中には、 実際に被害が出て任務として退治しに行ったなんて話もあるから、それが未知の動物かどうかはともかく、そこには 何かがいたのかもしれない。 ちなみにこの手の話は現地の人たちも良く語るのだが、彼らは渡来した人々が持ち込んだ話や戦争の風景も、神話や 実体験として扱ってしまうので、参考にはならない。 沖縄地上戦での話。ある母子が連合軍の艦砲射撃から必死で逃げていた。そのときどかからか砲弾の破片が飛んで きて、一瞬で母親の首から上を吹き飛ばした。だがその母親は、赤子をおぶったままで、首のない状態で1分ほどその 場に立っていたそうだ。実話。
69 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 21:01:35 ] 【戦争奇譚】 戦時中、陸軍歩兵だったAさんの話。Aさんが南方の島に居た時、部隊からはぐれてしまったことがある。周囲は密林 で方向なんてまるで分からない。焦って仲間を探すも、人の気配は皆無。それどころか、歩けば歩く程、密林の奥へと 進んで行っている錯覚に陥ってゆく。 やがてAさんは歩き疲れて大木の根本に腰掛けた。「このまま俺は死んでしまうのか」と、そんな事を考えてると、大木 の反対側で、何やら人の気配がする。おそるおそる暗闇に目を凝らしてみると、そこには味方の兵士がいた。 聞けば、その兵士も道に迷ったらしい。とにかくAさんは味方の兵士が居る事にホッとし、同時に心強く感じたそうだ。 Aさんは、その兵士と身の上話などをしたのだが、その兵士はしきりに「俺は帰れそうにないから、俺の家族に宜しく 伝えて下さい」と言う。Aさんは「何を馬鹿な、一緒に帰ろう」と返すが、相手は「伝えて下さい、お願いします、お願いしま す…」と繰り返すだけ。とうとうAさんも折れ、「じゃあ、帰ったらお互いの家を訪ねよう」という条件で住所を交換した。 さて、それから暫くして彼は、運良く通りかかった味方の一団と合流出来た。助かった、と思ったAさんが、ずっと話し 相手をしてくれていたその兵士に声を掛けようとしたが、大木の後ろには誰も居なかった。 結局終戦になって引き揚げてきたAさんは、何年か経ってから約束を守るべく相手の言ってた住所へ出向いた。その 住所には、確かに密林で話した味方兵士の家族が居た。けれど家族によれば、Aさんと話した人物はAさんと話すより かなり前に、戦死した事になっていた。結局、何故彼が縁もゆかりも無いAさんに「宜しく伝えて欲しい」と言ってきたの かは不明だった。
70 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 21:08:35 ] 【戦争奇譚】 英戦艦P.O.Wとレパルス攻撃に参加したある爆撃機操縦手は、危機一髪のところで死線を乗り越えてきたエピソードが いくつもあった。ある任務で飛行中に突然エンジントラブルに見舞われるも、すぐに正常な状態に戻った。しかし速度が 落ちてしまったので味方の一式陸攻が追い越すかたちとなったが、その直後、前方に出た味方機は米戦闘機に撃墜 されてしまった。エンジン不調がなければ、自分が撃墜される側になっていたとのこと。また台湾に向けて夜間飛行中、 不時着をすることになってしまい、砂浜らしき場所に勘をたよりに接地すると同時に機体は反回転して停止した。一瞬、 意識を失ったが気がついて地面に降りて周囲を見ると、そこは「コ」の形に断崖絶壁のような場所で、乗っていた飛行機 がギリギリ入れるくらいの砂浜だったのでしばらく呆然となった話など。 零戦パイロットでは岩本徹三氏が敵弾を操縦席に受けた話があり、中国戦線では真正面の照準器に命中し、数ミリの 差で即死をまぬがれた話がある。また台湾沖航空戦で背部からの射弾が座席をつきぬけたが、落下傘の金具で留まっ ていたおかげで負傷をまぬがれたエピソードがある。(加藤隼戦闘隊のパイロットにも落下傘の金具で助かってる人が いた)
71 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 21:09:22 ] 【戦争奇譚】 昭和19年11月14日の夜のこと。水戸歩兵第2連隊で突如営門が真一文字に開き、同時に進軍ラッパが遠くから響いて きた。衛兵が警戒して見ていると、一個連隊ほどの部隊が行進してくる。その先頭で連隊長の中川大佐が馬に乗り 抜刀し、それに兵士が無言でついて来る衛兵司令は直感的に「捧げ銃」を命令。衛兵が不動の姿勢で出迎えると、 営庭の途中で部隊の姿が掻き消すように見えなくなった。 その日はペリリュー島の戦いで村井少将と中川大佐が自決。生き残りが最後の突撃を敢行、玉砕した日だった。この 時点で玉砕は誰も知らされていなかった。なお水戸の連隊は士気が高かったという。 硫黄島は「幽霊話」が多いというけれど、平成の世になり、天皇皇后両陛下が平成6年2月、硫黄島に行幸してから 幽霊出没激減したという。それもそのはず、天皇皇后両陛下の短歌は栗林中将、市丸少将への返歌となっている。 ・天皇陛下 御製 精根を 込め戦ひし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しき →・栗林忠道 陸軍中将 国の為 重き勤めを果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき ・皇后陛下 御歌 慰霊地は 今安らかに 水をたたふ 如何ばかり 君ら水を欲りけむ →・市丸利之助 海軍少将の硫黄島での短歌 スコールは 命の水ぞ 雲を待つ 島の心を 余人は知らじ
72 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/12(水) 21:22:20 ] 【戦争奇譚】 日本軍の潜水艦を引き上げたら、乗員は取り乱さず眠るように亡くなっていたという話。雑誌『丸』より。そこには艦長の 遺書が遺されていて、そこには以下のような文章が書かれていたという。 「大事な御国の艦を沈没させて申し訳ない。しかし、部下たちを責めないでいただきたい。総員全てが沈着冷静に行動 し、一切乱れることなく任務を全うした。沈没における全ての責任は艦長である私にある。部下たちの遺族には、どうか 手厚い保護をしていただけますよう」 潜水艦乗りの鑑としか言いようのない最期に、日本国内の軍人たちが敬意を表したのはもちろん、世界中の軍人たち からも讃えられている、とありました。(おそらく佐久間大尉のこと) 戦艦榛名か霧島の艦長。艦が沈んでも生き残った艦長というのはこの人一人だけらしく、日本に帰っても監禁状態 だった。また武蔵の生き残った乗員もフィリピンの山奥に監禁され、最後は上陸してきた米軍戦車相手に爆弾背負って 特攻させられたという。武蔵乗員の生き残りが殆どいないというのはこのせい。
73 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 01:44:31 ] 【戦争奇譚】 回天とは、あまり知られていないが人間魚雷だ。中に人が乗り込んで操縦し、敵艦に体当たりして自爆するための 特攻兵器である。ある夜中、潜水艦のドックにて人の気配がした。年輩の整備兵が「誰だ?」と誰何すると、そこには 回天で特攻したはずの少年兵がいた。驚く警備兵に対し、「今度は見事敵艦に体当たりしてみせます」と告げる彼に、 整備兵が「もういいんだ。二度も死ぬ必用はない」と答えると、姿を消してしまった。 なお、回天はその構造と米軍のレーダー技術の発展などで目立った戦果を上げることができず、120本程が実践投入 されたが、戦果はわずか撃沈4隻撃破5隻と非常に少なかったという。 南方の原住民調査のためにN氏は、かつての激戦地ニューギニアの山中に入った。そこで原住民と仲良くなり、一緒 に生活しているうちに、日没後は彼らが山の中に決して入ろうとしないことに、N氏は気づいた。 「なぜ、夜は山に入らない?危険な野獣とかいるのか?」とのN氏の問いに、原住民は「野獣はともかく、とにかく気味 が悪い。姿は見えないけど、あちこちから意味不明の人の言葉が聞こえる。でも人の姿はやっぱり見えない。白骨は いっぱいあるから、あれはその白骨の精霊だと思う。夜の山は生きた人が入る場所ではない」と答えた。 「意味不明の言葉ってどんな?」とN氏が問うたところ、原住民は「『ガヌバレ』『シカリシロ』と聞こえる。私たちの言葉 ではない」と答えた。N氏は「さもありなん」と感じ入ったそうな。
74 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 01:47:40 ] 【戦争奇譚】 太平洋戦争中、日本海軍の海防艦2隻が台湾海峡付近を航行していた。ある晩、片方の海防艦の乗組員が僚艦の 甲板の上を松明を持った巫女が走り回っているのを目撃した。しばらくすると、その巫女は海の中に飛び込むように して姿を消した。目撃した乗組員は「何かの見間違いだろう」ということで僚艦へは連絡をしなかった。 夜が明けると、昨晩巫女さんが走り回っていた海防艦の姿が見えなくなっていた。無線で呼びかけても応答がなく、 夜のうちに何らかの原因で沈没したのだろうと言うことになった。 古来から、船には女性を乗せてはいけないという話はある。船は女であるため、船に女性を乗せると嫉妬するという 説明や、船魂が女性だからという説明のされ方をされている。現実には男性だらけの船の中で、船員たちの風紀が 乱れるから、と言われている。 1943年にニューギニア戦線で、米軍を上陸時に迎撃するため作戦行動中の日本軍一個大隊(1000人以上)が忽然 と消えてしまった。未だに遺品の一つも出て来ない。 広島に原爆を落としたB-29を観察していた謎の物体の話。8月6日、前1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載 したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。午前6時30分、四国上空において エノラ・ゲイのレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープに正体不明の輝点を発見。 通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップが敵味方識別装置に応答しないと報告した。エノラ・ゲイは 回避行動をとり、高度2,000m前後の低空飛行から急上昇し、午前7時30分に8,700mまで高度を上げた。
75 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 04:36:52 ] 【戦争奇譚 ~日本を戦争に導いた松岡洋祐~】 ① 毎年終戦記念日の時期になりますと、天皇家と靖国神社の問題が再燃します。何故、昭和天皇は靖国神社参拝を 辞めたか、この理由を知ると、今後も今上天皇陛下の靖国参拝は有り得ません。 まず、観えて来た光景は、終戦直後の昭和天皇とマッカーサー元帥との会見の模様でした。おそらく、2回目か3回目の 会談だと感じます。その時、マッカーサーから昭和天皇に明かされた情報がありました。日本の大臣と大使の計2名と 軍属の1名が、武器商社から超大金をスイス銀行に貰う見返りに日本を戦争へ導くように誘導した事を教えられました。 ある一人の大臣が外国からの命を受けて、金銭により懐柔した他の2名を使用し、日本を戦争の舞台へ導いたのです。 これを聞かされた昭和天皇は深い衝撃を受けられました。でもその時の昭和天皇にはまだ、その重臣達を信じたい 気持ちが半分ありました。その話を聞かされた後、マッカーサーとの記念写真を撮られたと感じます。その時の陛下の 目はショックの余り虚ろでした。しかし、後年、色々な外国の経済界の重鎮や、戦争とは表面的には無縁な外国の貴族 達から得た情報がマッカーサーが伝えた内容を裏打ちする事が重なるに連れ、陛下は段々と確信を深められました。 また、戦前戦中に交わした、その重臣達との会話、その時の彼らの表情を思いだされては、裏切られた悲しみと、任命 した御自身の責任を感じ、国民と国土への深い慙愧の念に苦しまれたのでした。この3名が合祀された靖国神社に、 今上天皇が参拝する事は今後も無いでしょう。昭和天皇の思いを聞かされているからです。
76 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 04:42:44 ] ② そもそもの始まりは、この大臣が若い頃にアメリカの大学へ留学した時に始っています。その時ユダヤ系財閥の子息 と知り合っています。その後、彼はユダヤ財閥から学費の支援に始まり、官僚時代の出世の為の工作資金、政治活動 資金の全面的支援を受けて順調に出世したのでした。時は流れ、ジュネーブ特別総会において日本の代表者として 交渉を一任され、日本に有利に譲歩されたオフレコ案件を黙って一存で握りつぶして、逆に啖呵を切って国際連盟から 日本を脱退させました。これが後の太平洋戦争への布石と成っています。 戦後の昭和天皇の思いは、国民への謝罪だけでした。敗戦後、直ぐにでも自害して責任を取ろうとされましたが、その 度に明治天皇が現れて思い留まった様です。「そんな楽な道を選んでは駄目だ」と。そして天照太御神の日輪を拝した 時、自らの命と引き換えにして、日本を再興させてから死ぬ決意をされました。それから日本全国を励ます旅に出られ たのです。 日本が順調に復興を始めて、最後の願いが沖縄の返還でした。戦争当時の沖縄国民の事を思うと、申し訳なさで昭和 天皇の胸が裂ける様な痛みを感じられたとの事です。沖縄返還の為なら、皇室の全財産を無くしても良いと考えられた 様です。この沖縄への思いは、今上陛下にも何度も伝えたとのことです。 また昭和天皇が取られた行動は、イギリスとオランダ訪問でした。この時に昭和天皇は、世界には伏せられている、 影の支配者に面会して、沖縄返還を願われたのです。この時、皇室の保有する隠された金融財産の大半が無くなった と感じます。その翌年、アメリカから沖縄が返還されました。その数年後にアメリカへは、御礼の旅に行かれました。 この時、ロックフェラー私邸に御夫婦で宿泊されたと感じます。現在、影の支配者は、ドイツと近隣小国へ窓口を移動 させているようです。 blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/14f8cfe7ac5ee7ad3e3ea7d96fffd355
77 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 05:21:16 ] 【戦争奇譚】 沖縄特攻の連合軍側作戦機の損失は13機(空母帰還後破棄も含む)だった。沖縄特攻で大和は、斉射三回で計27発 の三式弾を発射していた。航空機相手だと、照準が合わせられなくなるほど接近されると主砲の撃ちようがないから、 打ちまくるということは基本的に不可能だった。また、自艦の防空能力に干渉するので好ましくない。例を挙げると、シブ ヤン海では武蔵が退避警報を出さずに主砲を発射したもんだから機銃員が大変悲惨なことになった。(菊水作戦の時 の大和では一応対策はされていた) 主砲の爆風で機銃員がふっ飛ばされたという話。大岡昇平氏の「レイテ戦記」から引用してみる。 「対空戦闘のため、主砲も三式弾という対空焼夷弾を発射する。合図のブザーが鳴ると共に甲板上に増設された高角 機関銃の射手たちは、適当な遮蔽物を見付けて避難しなければならないのだが、戦闘中でブザーの音が聞こえなかっ たり、実際鳴らなかったりするから、多くの者が海上に吹き飛ばされた。」「空から降って来る人間の四肢、壁に張りつい た肉片、階段から滝のように流れ落ちる血、艦底における出口のない死、などなど、地上戦闘では見られない悲惨な 情景が生れる。」
78 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 05:22:19 ] 【戦争奇譚】 当時ヨーロッパのとある場所にいた一人の修道僧には予知能力があったという。第二次世界大戦の勃発や国内のイン フレなどことごとく的中させていたが、戦争終結以前に病没してしまった。しかし、彼は最後に、第二次世界大戦後、 すぐに第三次世界大戦がヨーロッパで始まり、それまでの戦争とは比べ物にならないような災禍が訪れる、という予言 を残していた。 それを生前に聞いていた者が、終戦後になっても戦々恐々と暮していたが、ついには戦争は起こらな かった。もし修道僧の予言が本物ならば、どこかで歴史が変わったことになる。 そう仮定してみると、それは太平洋戦域の推移によるのではないだろうか?例えハワイ作戦において真珠湾の燃料タン クを破壊し、ミッドウェーでの惨状もなく、レイテで栗田艦隊が反転せずにマッカーサーもろとも輸送船団を壊滅させて いたとしても、日本が最終的に連合国に勝利することはなかっただろう。それどころか北と南から侵攻され、米ソによる 分割統治が行われていた可能性もある。 だが広島と長崎に原爆が投下されたことで日本は無条件降伏を受諾した。それは言い方を変えれば、玉砕戦術と神風 をはじめとする特別攻撃による遅滞作戦で本土決戦の準備を整える構えが、米国に原爆投下の口実と決断を与えた ことになる。現にソ連の先制核攻撃による欧州進攻は実際に計画案まであったのだ。 つまり、日本国民の徹底抗戦の決意と多大な犠牲によって世界の歴史の流れは変わり、結果人類は全面核戦争から 救われた、と言ったら言い過ぎであろうか?
79 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 06:16:52 ] 【戦争奇譚】 戦争末期のビルマでは、ある二等兵が将校の制服盗み、それを着込んで軍需物資をだまし取って横流しし、大儲け したという話あった。一方捕虜収容所では、チェンジマスターと呼ばれる者が存在し、職人経験ある兵に彫刻させたり、 監視兵から嗜好品などを得て、捕虜の支給品との物々交換を仲介して儲けた人もいた。 後方の補給所では普通に物資を横流しして私腹を肥やした連中が多く、こういう輩は上級者に対しても態度が大きく、 制服どころか派手な格好にサングラスだったらしい。前線で戦った人の手記には、これらの物資が正常に部隊に補給 されていれば、戦局も大きく変化したであろうと記されていた。 かつて特攻隊関係の本では、特攻攻撃の成功率は約16%だったと記されていた。その本によると、初期の頃には20% 以上成功していたのだが、終戦間近には8%程度まで落ちていたという。だがそれはGHQ側による情報操作であったと いうのが、最近の見方である。特攻攻撃の実際の成功率は56%という高いものであったということが、最近公開された アメリカ公文書館の資料で明らかになった。 www.heiwaboke.net/html/2006/11/15-02.dat.html 終戦まもなくのニュース映画から。最初は戦死通知を受け取っておいおいと泣く遺族。するとそこに二通目の戦死通知 が届いた。さらに遺族の元には三通目の戦死通知が届き、遺族も流石に困惑。いい加減にしろよ思っていたところに、 今度は戦死したはずの当の本人が帰ってきた。ニュース映像の最後は、その本人が笑顔で自分の墓に立てられた 卒塔婆を引き抜くものだった。
80 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 06:17:39 ] 【戦争奇譚 ~突然、敵と出会うと…~】 夜、日本軍の偵察隊がパトロールしていると道に迷って見慣れない場所に出てしまった。位置を確認しようと隊員が 集まって地図を見ていたら、前方から数人の兵士が歩いて来た。暗くて良く分からないがシルエットから米軍兵士だと わかった。偵察隊は物資不足でこちらの武器は錆びた軍刀と小銃だけである。相手はトンプソンやガーランドライフル など高性能の武器でとても太刀打ちできるわけがない。そのため偵察隊は何も出来ずじっとしていると、何故か米軍 兵士も何もせず近付いてきた。お互い敵同士だと分かっており顔は強張って偵察隊を睨んでいる。しかし結局何ごとも なくお互いに顔を見合わせたまま通りすぎていった。しゃがんでいた隊長の尻に米軍兵士の足が当たった時、相手は 「ソーリー、サー」とまで言ったという。似たような話が西部戦線でもあり、後方に空挺降下した米軍部隊がドイツ軍と 出くわした時、お互いに全く戦う事なく道を譲り合ってしまったという話や、戦闘中逃げ込んだ穴に敵兵士が入っていて 無言のまま何時間も過ごした話などがある。 大きな戦争で徴兵された人間というは、当然普段から戦闘に慣れておらず、特に初めて戦場に立つ時など過度の緊張 状態に置かれいるために、こういう事が起きるらしい。斥候なら班長が攻撃をさせない場合もあるが、夜間だと気づくの が遅れ、見つけた瞬間ギョッとなって思考が停止したまま足は歩くのをやめない状態だったのか、「自分が動けば相手 も動く=殺される(良くて相打ち)」という心理が働いたのか。 マレー戦での出来事。前線を偵察していた日本軍の斥候5名が、その帰り道に英軍兵士3名とバッタ リ鉢合わせして しまった。しかも相手は全員ステンMkⅡやブレン軽機を構え引鉄に指を掛けた状態だったのに対し、こちら日本軍の方 は持っていたのは全員小銃のみ。しかも肩に担いでいた為すぐには応戦できる状態ではなかった。 そんな状態にで暫く睨み合った後、日本側の隊長が「ゴルァ!」っと一括した途端、有利な状態だったにもかかわらず 英軍兵は全員持っていた武器を捨て手を上げて降伏したんだとか。
81 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 06:18:28 ] 【戦争奇譚 ~フーファイターの正体~】 これについては米軍の公式報告書が残っている。フーファイターの目撃者の証言を集めて目撃日時・座標等の統計を 取ったという。するとフーファイターは一定範囲の時刻に出現し、同じ方位に存在するという明確な傾向を示した。これ は早い話が金星だったのだ。 もちろん例外ケースも存在する。誤認要因は他にも沢山あるからだ。雲に反射したサーチライトの光は円形に見える。 サーチライトの反射光ならば当然、重力も慣性も関係無く自在に超高速移動し、突然直角に曲がりも反転もする。 太平洋戦域と違って欧州上空は夜間戦闘機の跋扈する修羅場だった。排気炎暗闇で明るく光り、目にはサーチライト の残像が焼き付くことも多かった。飛行機がバンクを取ったり位置関係が変われば、パイロットからサーチライトは突然 見えなくなったり、突然現れたりする。そうしたことも影響している可能性が高い。 また第二次世界大戦中、ドイツ軍は多種多様なロケット兵器を開発し、一部は実戦運用や実用試験を行った。こうした ロケット兵器の発したジェットエンジンの噴射炎の残像も、要因としてありうる。これについてはベトナム戦争での米軍 パイロットの貴重な証言がある。撃墜されながら生還した彼は、激しい衝撃を感じて操縦不能に陥る一瞬前、自機に 向かって猛スピードで接近してくる「オレンジ色に光るドーナツ型の物体」を目撃した。このときの「オレンジ色の光」は ロケットモーターの噴射炎、「ドーナツの穴」はミサイル本体のシルエット。つまり今まさに自機に命中しようとする地対 空ミサイルを正面から見て生還した極めて珍しいケースだったのだ。 フーファイターのいくつかもこうした類似の例かも知れない。いつものごとくUFOビリーバーはこれら全てを「米軍上層部 による隠蔽工作」と否定するだろうが。
82 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 06:19:15 ] 【戦争奇譚】 P47サンダーボルトに乗って撃墜王だった米陸軍航空隊のカブレスキー大尉が、撃墜されて捕虜になり、監視兵付き で普通列車に乗って収容所まで移送されるときに米軍戦闘機に襲われた。そのとき向かいの席に座っていたドイツ人 少女の頭に12.7ミリ機銃弾が命中して、その少女の脳味噌が座っていたカブレスキーの膝に砕け散った。そのときに カブレスキーがどう思ったのかは自伝には書かれていない。 ベトナム戦争中捕虜にされたアメリカ軍兵士達の多くは、ベトナムが市場開放するまで抑留され、その後処刑された。 ラオスもベトナム戦争終了後に米軍捕虜を処刑した。また、北ベトナム軍の捕虜になった者の中(主に特殊部隊隊員) には、ソ連や北朝鮮に連行された者もいた。北ベトナム軍は捕らえた韓国軍兵士に対し、北朝鮮への亡命を積極的に 奨めたりもしたようだ。ベトナム戦争終戦から一ヶ月後に、カンボジアのコータン島で起きた、カンボジア軍守備隊と アメリカ海兵隊との戦闘では、米軍がヘリで島から撤収する際に、脱出する味方を援護する為にヘリの発着場の森の 両側に二名の海兵隊が陣取って戦った。そして、この二名の兵士を迎えに来るヘリは無かった。カンボジア軍守備隊 はこの二名の兵士を捕らえて、悪名高いトゥールスレン刑務所に送って処刑した。
83 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 06:20:04 ] 【戦争奇譚】 下士官が新兵数名を伴って夜間行動中に敵を発見したので、班長は着剣を命じて間合いに入ると突撃を開始した。 最後方にいた新兵は、命令のまま暗闇の中を銃剣を突き刺した。と同時に、激しい衝撃を受けて気絶したらしく、気が ついたときには夜が明けていた。 あたりを見回すと敵兵数人が味方と刺し違えて死んでいる。そして自分の銃剣は同期兵の後ろから肩のあたりに深々 と刺さって戦友は息絶えていた。すこし離れた場所では命令した班長がピストルで自決しており、ただ一人生き残った 新兵だけが部隊に戻って来た。 しかし、その新兵が暗い場所などに行くたびに自分が刺殺した戦友の霊が現れたという。苦悩した挙句その人は戦後、 出家の道を選んだそうだ。 1940年のバトルオブブリテンで撃墜されたドイツ軍パイロットの話。落下傘で田園地帯に降りたところを現地人に通報 され、パイロットは警官に逮捕された。その連れて行かれた先の警察署で朝食を食わせて貰う。 しかし敵兵なので軍のほうがいいだろうと、すぐに地元の陸軍基地に移送される。パイロットがそこに連れて行かれると、 腹が減ってるだろう、と二度目の朝飯を食わせてもらう。 そのうちに、こいつは空軍兵なので空軍に引き渡そうという事になり、すぐに英空軍基地に移送される。 パイロットがそこに着くと応対に出てきた将校がパイロットに向かって、こう言った。「まったく陸軍は野蛮で困ります。 貴官は何か乱暴されませんでしたか?お腹が空いているでしょう、すぐに朝食を持ってきます」
84 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 19:08:29 ] 【戦争奇譚】 「第二次世界大戦中に日本人が捕虜収容所の看守に朝鮮人を使ったのはなぜだと思う?朝鮮人は世界一 残忍だからだ。日本人はそれをよく知っていたんだ。」イアン・フレミング 大和級戦艦は五番艦まで建造計画があった。一番艦は言うまでも無く大和であり、二番艦が武蔵であり、 三番艦は建造途中で急遽空母に改造されて信濃となり、進水して半月で撃沈された。新造艦は大和の 46センチ砲を上回る50センチ砲を六門搭載するという素晴らしい計画であった。 衝撃リポート!!世界の怪奇現象・大追跡スペシャルIIIで放送された兵士の霊 jp.youtube.com/watch?v=PVIif58v3dw 1951年8月4日の朝4時頃、フランスのドーバー海峡に面した町ディエップに住むドロシー・ノートン夫人は 騒がしい物音で目を覚ました。その音は機関銃や大砲を撃ったり、爆弾が爆発したり、飛行機が急降下する 音だった。それを聞いた夫人は恐ろしくなってパリに住む伯父に電話を掛けた。伯父も電話を通してその怪音を 聞いたが、やがて三時間程するとその音は消え、夫人が外に出てみると、町は普段と全く変わりがなかった。 このディエップという町は第二次大戦中の1942年8月に、カナダ軍が戦車やコマンド部隊で無謀な上陸作戦を 行い、ドイツ軍相手に激戦となった町だった。
85 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 21:15:42 ] 【戦争奇譚】 クルスク戦の時の話。シュタウデッカーSS軍曹のティーガーは中隊に合流すべく夜中に単独行軍していた。その時、 彼の真正面で小さな火花がちらついていたので、彼は即座に操縦手に停止を命じた。そこには戦車がいる、と輪郭で わかった。相手の排気管から出た火の粉でどうにか衝突を免れたのだ。シュタウデッカーか砲塔から飛び降り、その 戦車に向かって、どうして真夜中にこんな所で、のんびり構えて道を塞いでいるのかを怒鳴りつけようと詰め寄った。 相手の戦車長は砲塔に立ってタバコをふかしていた。シュタウデッカーの姿を見るなり、相手は物凄い驚く。どうやら その戦車長は、自分の車両のエンジン音でティーガーの接近に気づかなかったらしい。驚いたままその戦車長は、 シュタウデッカーに向かって、気は確かか?と聞いた。何とその言葉はロシア語だった。今度は逆にシュタウデッカー が驚き焦った。自分は今、敵戦車の目の前でただ一人立っているのだ。 しかし彼は焦らず、恐怖心を抑えて、ベルトに付けていた手榴弾を取り出した。それをソ連戦車の開いたハッチに投げ 込み、自分は遮蔽物を求めて身を翻した。そうしながらも彼は数メートル先に別のソビエト軍の戦車がいる事を確認 した。その直後、爆発音がして、最初の戦車の巨体が揺れた。シュタウデッカーは自分のティーガーに警告しようと 思ったが、指示する間もなく二つ目の戦車に飛び乗り、同時にその戦車のハッチが開いた瞬間、また手榴弾を投げ 込んだ。この戦車もまた戦闘不能になった。 その後行軍を続け、見事中隊を合流した。こうして計2輌を撃破した功績を称えられてシュタウデッカーSS軍曹は 第一級鉄十字章を受賞した。
86 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 21:19:19 ] 【戦争奇譚】 クルスク戦で「ドイッチュラント連隊」の危機を救うために、シュタウデッカー軍曹はティーガー、1両でT-34を60両 相手にするという無謀な事をした。だがシュタウデッカーのティーガーは、戦線突破してきたT-34を瞬く間に撃破、 2時間の砲撃戦のすえ17両撃破し、ティーガーには損害なし。敵は突破の術なしとして後退したが、軍曹はこれを 追跡し、逃走したT-34を撃破し続けた。徹甲弾を使い尽くした後は榴弾で射撃を続けた。最終戦果は22両(「ドイッ チュラント連隊」が斥候班出して確認をとらせた)。そして彼は「ライプシュタンダルテ」師団の最初の騎士十字章授章 の第一号となる。 『戦場における「人殺し」の心理学』より。戦争において英雄とされるような人物の典型的プロファイルでは、彼らは犯罪 者とは似て非なる者だが、義務の為なら平気で割り切って自らを脱感作できるような「異常者」。兵士というのは意外と 敵に向かって撃たない・撃てないもので、古来からそうであった。(仮に撃っている場合でも、故意に頭上を撃って外す ケースも多い)その場合こうした兵士は、銃を撃つ代わりに発砲以外の不可欠な役目(弾薬運搬や負傷者救護・輸送 など)にふける傾向がある。敵に対する発砲率が飛躍的な上昇をみせるのは、脱感作やプログラミングの手法が訓練 に定着したベトナム戦争のころから。
87 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 21:37:47 ] 【戦争奇譚】 地上から約100km以上の上空を宇宙空間って呼ぶ。人類が最初にロケットを宇宙空間に飛ばして宇宙から地球を撮影 したのが、昭和21年つまり終戦の翌年だった。これをやったのは、その頃すでにアメリカに移住していたブラウン博士 のチームで、そのロケットはV2号を改造した物だった。つまりドイツの科学力は終戦の翌年には宇宙ロケットを飛ばせ る位の凄いレベルだった。こうした旧ドイツの科学者が第二次世界大戦後に米ソに流れて、冷戦時代の核開発や宇宙 開発の研究を行っていた。 戦艦武蔵の最期を書いた渡辺さんの回想で一つ。渡辺さんが旧制中学の時に、村で戦死者がでた。母一人、子一人 の貧しい家庭の一人息子が戦死してしまったのだ。村人達が恒例通りさっそくその家に行き、おめでとうございますと 祝辞を述べる。始めは挨拶に答えていた母親だが、終いに耐え切れなくなり、「何がオメデトウございますだ!可愛そう だと虫さえ殺せぬ五郎を無理矢理ツツ持たせて、戦地さ連れてって、挙句殺しおって、何がオメデトウじゃー!」と絶叫。 これに色をなした在郷軍人会のオッサンが空気読まず反論。「恐れ多くも陛下の赤子であるからには戦場で死ぬ事こそ 誉であり…」しかし母親には通じない。「何が赤子じゃ!五郎はわしの子じゃ!今度の戦争で天皇息子が一人でも死ん だか!」これにはオッサン反論できず、赤面したまま黙ってしまった。現場は微妙な空気になり村人は解散。この母親 は、以後狂人のようになってしまい、数年後に亡くなったとか。 義勇兵で、天駆けるドン・キホーテこと、カール・グスタフ・フォン・ローゼン伯という人物がいた。ソ連のフィンランド侵略 に憤り、自費で戦闘機とDC-2改造爆撃機を買い込み、戦線に馳せ参じた空の騎士。戦後は戦後で、救援機パイロット をやっていたビアフラ内戦で、ナイジェリアの飢餓戦略に再び憤り、これまた自費で買い込んだ地面スレスレに飛ぶ プロペラ練習機にロケットポッドを装着し、Mig-21を地上撃破してのけた。
88 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 21:59:14 ] 【戦争奇譚 ~カール・グスタフ・フォン・ローゼン伯爵 Carl Gustaf von Rosen(1909~1977)~】 ① 青いスワスチカ。スワスチカとは早い話鈎十字、→「卍」のことである。およそ60年ほど前に、挫折した画家志望のチョビ 髭オーストリア人がいろいろと余計なコトをしてくれたお陰で、今やろくでもないイメージのマークになり果てていること は、皆さんご存知の通り。お陰で今や「卍」マークがついているだけで規制の対象。ドイツ空軍機のプラモですら、現在 では尾翼に描かれているマークが目立たないように構図に注意が払われている有様だ。最近では、「ナルト」の日向 ネジの額のマークが、本来無関係であるのにアニメではただのクロスに差し替えられてしまったことが記憶に新しい。 しかしこの青いスワスチカは実はフィンランド空軍の識別マークであり、かの国においては国の独立を維持したシンボル として、格別の意味を持っている。だが、昨今の規制のせいで目にする機会も少なく、このマークの背景にある物語も、 日本では殆ど知られていない。なんとも残念なことだ。 そもそもなんでフィンランドはこの「卍」マークを識別マークにしていたのか?これにはあるスウェーデン貴族が大きく 関わってくる。予め断っておくが、実在の人物である。 時に1916年。ロシア革命をによりロマノフ王朝は倒れ、レーニン率いるボルシェビキが取って代わったものの、国内戦 やら諸外国の干渉戦におおわれまくっていた時期のこと。旧帝政ロシア領であったフィンランドは悲願であった独立を 果たすべく、名将グスタフ・マンネルハイム将軍率いる白衛軍が共産軍と熾烈な独立戦争を戦っていた。 しかし、戦いはフィンランド側の劣勢。スウェーデンをはじめとする北欧各国は隣国の窮状を座視するに忍びず、武器 弾薬や義勇兵を送り込むなど援助を惜しまなかった。 その一方、もはや辛抱溜まらず、個人の資格・私費でフィンランド軍の戦列に加わった人々もいた。その中に血気盛ん なスウェーデンの貴族がいた。彼の名は、エリック・フォン・ローゼン伯爵。十字軍騎士の流れを汲み、スウェーデン王 室との繋がりも深い彼は、「騎士は自ら馬を駆って、窮地にある人々を救うものだ!」と、当時まだ実用化からさほど 時間の経っていなかった飛行機・ツーリンDを私費で購入、自ら操縦して戦場に現れたのだ。
89 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 22:00:26 ] ② その時に彼が翼に識別マークとして描いたのが、この「青いスワスチカ」だったのだ。エリック曰く「これはローゼン伯爵 家に伝わる、幸運のシンボルなのだ」ということだった。なにしろ当時のフィンランドのこと。他に飛行機などあるわけも なく、エリックは偵察やら銃撃やらまさに獅子奮迅の働きぶりで前線にあり続けたらしい。そして地上のフィンランド軍 兵士達は、翼に鮮やかに描かれた青いスワスチカを見上げるたびに大いに勇気づけられたという。「おう、見ろ!また 伯爵が飛んでるぜ!!」 そうして長い戦いの末に1918年5月内戦は終了。ソ連邦は1920年12月14日、やむなくフィンランドの独立を認めて平和 条約を締結ることとなる。エリック・フォン・ローゼン伯爵は祖国に帰っていったが、フィンランドは常に前線で戦い続けた 彼の功績を忘れず、感謝と敬意をこめて彼の幸運のシンボル・「青いスワスチカ」を全軍の識別マーキングとして制定し たのであった。とまあそうしたわけで、ナチス党がかのマークを採用する以前からフィンランド軍はこのマークを使って いたわけだ。しかし、ローゼン伯爵家のフィンランドとの関わりはまだ終わらない。 1939年、ソ連邦はフィンランド独立によって失った領土を取り戻すべく、国境付近に共産主義者による傀儡政権を作り フィンランドに戦争を仕掛けてきた。一般に「冬戦争」として知られる戦いの始まりだ。あきらかなソ連の侵略に対し国際 世論は沸き立ったものの英米などの大国の姿勢は煮え切らず、国際連盟がソ連に対し警告を発するもののスターリン が耳を貸す筈もない。フィンランド軍総兵力を遙かに上回る兵員に機械化部隊に強大な空軍まで動員したソビエトに 対し、フィンランド軍は明らかに劣勢であった。 そんな状況にまたもや血を沸き立たせたスウェーデンの貴族がいた。エリック・フォン・ローゼン伯爵のあとを継いだ 息子、カルル・グスタフ・ローゼン伯爵である。フィンランド独立のために自ら飛行機を駆って戦った父の勇気に倣い、 彼もまたフィンランドの窮地に駆けつけようと考えた。
90 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 22:02:03 ] ③ しかし、父がフィンランドに出撃してからはや20年。さすがにただ飛行機で行けば良いというものでもない。飛行機の 性能もあがっているし、前回のツーリンDなんて複葉水上機ではただの足手まといだろう。かといって最新鋭の戦闘機 なぞ、いかに伯爵の威光をもってしても手に入るものではない。そこでローゼン伯爵はどうしたのか? 「民間機に武装させて飛んでいこう」伯爵はアメリカのダグラス社の旅客機DC-2を購入、天井をぶち抜いて旋回機銃座 をつけ、座席を全部撤去。主翼と胴体に爆弾架をとりつけてしまった。これでロシア人達にちょっとした爆弾の雨を一発 お見舞いしてやろう、と言うわけ。 更に伯爵は怪しげな手管を駆使し戦闘機を二機購入。これで戦爆連合一丁あがり。ロスケの戦闘機が出てきても怖く ない。ただその戦闘機というのが、オランダ空軍で不採用になり長らく倉庫に埋もれていた複座複葉戦闘機・オランダの コールホーフェンFK-52という、聞いたことのない戦闘機。ハッキリ言って性能はゴニョゴニュであり、そもそもこの世に存在 する機体はこの2機ポッキリという、絶滅危惧種みたいなシロモノなのであった。ホントに大丈夫なのか伯爵? そうして編成したものの、伯爵のDC-2は改造に手間取り、2機のKF-52が先に前線に送り込まれる形となり、早くも伯爵 の戦爆連合計画はほころびを見せ始める。 いよいよと伯爵がDC-2と共にフィンランドに到着したときにはすでにFK-52はどこぞの前線へ張り付けられていて護衛 戦闘機ナシ。鈍足の旅客機のみで白昼攻撃をかけるなど単なる自殺行為であろう。それでも勇気と血液の温度に不足 が無い伯爵、いささかも戦意を萎えさせない。「戦闘機がいないなら、払暁攻撃をかけちゃる」まるであきらめないので あった(ナンだか宮崎駿の『雑想ノート』に出てくる安松丸のもの狂いオヤジみたいだ)。
91 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 22:02:57 ] ④ 1940年2月夜、伯爵のDC-2は単機で出撃離陸する。 素人にしてはうまい具合にソ連基地上空に到達、低空から爆弾 投下。改造もムリヤリな上に(爆撃用の照準装置が無い)、操縦しているのも素人。何を爆撃したのやらさっぱりわから ない。しかし、タイミングが良かったのかまったくの奇襲となり、ソ連軍の迎撃機は1機もあがってこず、しかも追撃機に 捕捉されることもなく、伯爵のDC-2は無事に帰還。成果は、まぁアレだったが、無事爆撃行を終えたのである。この時も 伯爵のDC-2の翼には「青いスワスチカ」が描かれていた。 結局、フィンランド対ソ連の冬戦争自体は第二次世界大戦の終結に伴い両国の間で講和条約が結ばれることとなる しかし、ローゼン伯爵の戦いは終わらなかった。戦後彼はエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの招きで空軍の近代化の 任務についたあと、スウェーデンの民間航空会社「トランスエア」で長く旅客機のパイロットとして勤務していた。もう、 DC-2で爆撃行などは若き日の思い出となり果てようとしていた(と思う)1967年、またもやローゼン伯爵の血を滾らせる 事件が起こる。ナイジェリア内戦、俗に言う「ビアフラ独立戦争」の勃発である。 この内戦の勃発に至る経緯はあまりにも長くなるので詳述は省かせていただくが、北部部族を中心とするナイジェリア 連邦軍のビアフラに対する封鎖と飢餓戦術は凄まじく、ビアフラ側に多数の餓死者が発生していた。 そんな光景を見て黙っている伯爵ではなかった。彼はスカンディナビア教会派の組織した救援団に上級パイロットとして 参加。飢餓に苦しむビアフラへの食料と医薬品の空輸作戦の責任者となる。この時既に60歳だった(この時孫もいた) のだが、伯爵の血はなお熱い。 自ら操縦桿を握り地面すれすれの低高度でDC-7を飛ばしてナイジェリア軍のレーダー 網をすり抜けてビアフラへの食糧輸送に尽力する。そんな無茶な飛行をしていたのは彼くらいのものだったが、そうでも しなければビアフラに食糧を届けることが出来なかったのだ。
92 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 22:03:43 ] ⑤ しかし、そんな食糧空輸を続けても連日餓死者が増え続けるビアフラの惨状。一度に運べる量も人口に比べて圧倒的 に足りない。ごく一部、陸路で国際赤十字が送り込んでくる支援食糧が入って来ることがあるが、途中ナイジェリア連邦 軍の手が加わるために、ビアフラ側は警戒して口にする者はいなかった(ナイジェリア連邦軍側は支援用の小児用粉 ミルクにまで毒を混ぜていたと言う証言がある)。 遂に伯爵は決断した。「もはやこの惨状から人々を救うためには、ナイジェリア側の空軍戦力を片づけるしかない!」 考える人はいくらもいるとは思う。だが、ローゼン伯爵はそれを素晴らしいバイタリティで本当に実行に移してしまう。 無論スウェーデン王室と関係の深い由緒正しい貴族と言っても、さすがに最新鋭の戦闘機なぞ手に入れられるはずも ない。しかし伯爵にはかつて民間機を改造して実戦参加させた実績があり、その経験は今回も活かされることとなった。 今回はサーブ社のプロペラスポーツ機、MF1-9Bに目をつけた。これはスポーツ機といっても小国での軍事利用を想定 した機体で、翼下に300キロ用のパイロンやロケットランチャーも装備可能なのだ。本来、国際的に承認されていない ビアフラに飛行機を売ってくれる国は無いのだが、ローゼン伯爵はまたもや怪しげな手管を発揮。ストックホルムにあっ たタンザニア大使館を窓口に「タンザニアにパイロット養成学校を設立するために、MF1-9B5機を購入したい」と、輸出 交渉を開始。本来軍用機ではないのでスンナリ輸出許可が下りると、今度はその機体をフランス空軍基地に空輸して 武装を搭載する小改造を施した上でタンザニアへ…向かうはずだったが、途中でローゼン伯爵は「実はタンザニアの 養成学校は一時的にガボンに移転するので機体はそちらに運んでくれ」と輸送業者に連絡。そこで降ろされた機体を 「テスト飛行」と称してローゼン伯爵とその同志達が操縦してそのままビアフラへ持ち去ってしまったのだという。 なんちゅーか、マッコイじいさんを彷彿とさせる手際の良さだ。前回のコールホーフェン戦闘機の時と言い、貴族を廃業 しても多分ブローカーとして喰っていけそうな気がするなぁ。
93 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 23:39:46 ] ⑥ 伯爵らは1969年5月22日に最初の襲撃を敢行。レーダーに写らない地面すれすれを飛んでナイジェリア空軍基地に 到達、ミグやらイリューシンやらを ロケット弾で破壊して気勢をあげる。更に同じ日にもう一度襲撃を行うという熱の入れ っぷりであった。…もしかしたら、かつての「冬戦争」での経験が活かされていたのかもしれない。 しかし、5回ほど襲撃しただけで伯爵は参加をとりやめることになってしまう…本国にバレたのだ。やむなく伯爵は帰国。 その後もMF1-9B編隊は僅かな戦力で善戦敢闘を続けるものの、秘密基地が発見されてしまい、ビアフラ空軍は再び 泡と消えたのであった。 かくの如く、フィンランドでビアフラで、民間機をムリヤリ改造しては個人の資格で勝手に戦闘に加入し「義を見てせざる は勇なきなり!騎士にも非ず!」を実践して世界を巡り続けたカルル・グスタフ・フォン・ローゼン伯爵。彼はその後も 信念を変えることなく縦横無尽に世界を駆けめぐったらしい。 そんな彼の戦いが終わりを告げたのは1977年11月13日のことであった。彼は当時酸鼻を極めていたエチオピア内戦に おいて、軽飛行機による飢餓民への食料投下「エチオピアの爆撃」に従事していた。そのために飛来したゴーデの街で、 たまたまその町を襲撃したソマリア人ゲリラに襲われて死亡したという。享年67歳。 いざ彼の一生をかなり大雑把であるが振り返ってみると、なんだか出来の悪い娯楽小説の正義の味方のようだ。しかも 彼はどんな戦いでも無給のボランティアであったということも付け加えておく。私は、彼のような人物はもっと多くの人々 に記憶されるべき人物であると思う。彼の翼を守った「幸運の青いスワスチカ」と共に。 anchoku.hp.infoseek.co.jp/vonlusen.html
94 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/13(木) 23:40:27 ] 【戦争奇譚】 逆の意味で英雄といえば、よりによってD-Day当日の朝にパリの愛人宅にしけこんでいた第21装甲師団長のエドガー・ フォイヒティンガー少将がいる。彼は後に中将に昇進して騎士十字章までもらっているが、その後にD-Dayだけではなく バルジの戦いの時も作戦中に勝手に自宅に帰っていたのが発覚。逮捕されて兵卒に降格の上死刑宣告を受け、その 後減刑されて砲兵として前線勤務を命じられる。が、移送途中に脱走し、終戦まで隠れるのに成功している。 短期間の捕虜生活を送った後、戦後は軍需品メーカーのセールスマンになるが、扱っていた物資を東ドイツに横流し していた。最後にはその打ち合わせで東ドイツの情報機関員と会食中に心臓発作で死んだ。 軍人としては実戦経験がほとんどなく、党に取り入って出世したが、部下にオッペルン=ブロニコウスキーのような本当 の勇者がいたために、なんとかボロを出さずにいられたのだろう。師団参謀にさえ回想録で、「あの人は人生を楽しむ事 には熱意を燃やすタイプだった。軍人としてはダメだったけど」っていう評価されてるくらいだ。 エド・マクギヴァン。1934年にコルトのダブルアクションリボルバーで5発を0.4秒で速射、しかも4.5m先のトランプに全弾 命中や、357マグナムリボルバーで550m先のマンターゲットに全弾命中させている。膨大な量の実弾射撃は勿論、神経 学、心理学、生理学を研究し、異常なまでの自己管理を徹底していたという。FBIや警察に拳銃射撃教本を書いたりも して、「銃弾は銃口が定めた所に飛ぶのであり、射手が決めたい所に飛ぶのではない」と言う名言も残している。
95 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 05:40:44 ] 【戦争奇譚 ~カール・グスタフ・フォン・ローゼン~】 ① カール・グスタフ・エリクソン・フォン・ローゼン伯爵(1909-1977)は、スウェーデンの初期の航空士である。フィンランド 独立戦争の際に自前の航空機で独立軍を支援したエリック・フォン・ローゼン伯爵(1879-1948)の息子であり、ヘルマン ・ゲーリングの妻であるカリン・ゲーリングの従兄弟でもある。義勇航空兵としての活躍で知られる人物であるが、特筆 すべきは、彼が参戦した戦いの大方において、戦闘用の航空機材を自前の資金で用意した上で義勇兵として参戦して いる事である。 フォン・ローゼンは幼い頃から機械に興味を示し、ヘルマン・ゲーリングの影響もいくばくか受けて、飛行機械に執り付か れたようになった。ゲーリングは第一次世界大戦のエースであり、戦後の短い期間、スウェーデンのスヴェンスカ・ルフ トトラフィク社でタクシー・パイロットとして勤務した後、ナチス党の指導者としてドイツ空軍総司令官に至るまでのの経歴 を積み始めている。 フォン・ローゼン自身の航空機にまつわる経歴は整備士として始まり、次いで旅回りの航空サーカスの操縦士となった が、ここで身につけた曲技飛行の技量は、彼の後の人生で大いに助けになった。 ムッソリーニの下、イタリアが独立帝国であるエチオピアを侵略し始めると、フォン・ローゼンは救援飛行に加わり、食料 や赤十字のための補給物資を搭載して飛行した。この間、過酷な地面状況に加え、イタリア空軍のたびたびの攻撃 から生き延びている。 エチオピアの戦争から帰還した彼は、世界最初の商業航空路であるKLMに入社し、世界初の定期便操縦士たちの一人 となった。オランダ人の妻を娶ったが、彼らの幸福は第二次世界大戦の勃発により破られた。
96 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 05:41:32 ] ② ソヴィエトが冬戦争の際にフィンランドに侵攻すると、フォン・ローゼンはKLMを辞職して父の顰に従いフィンランドへ馳 せ参じ、自前で用意したDC-2改造爆撃機ハンシン・ユッカ号でソヴィエト軍に対し爆撃を行っている。 一年後、ドイツがオランダを侵略すると、フォン・ローゼンは英国に渡航して英空軍に志願したが、ヘルマン・ゲーリング との家族関係が考慮に入れられた結果却下された。 フォン・ローゼンのオランダ人の妻は抵抗運動に加わって、戦争の間に殺害され、その間フォン・ローゼンはKLMでの 勤務を継続し、危険なロンドン―リスボン空路を飛んでいた。 戦後、フォン・ローゼンはエチオピア帝国空軍において訓練教官を数年務め、第二代国連事務総長ダグ・ハマーショル ド(1905-1961)の就任に伴い、その操縦士を務めるためにエチオピアを離れた。 運命の皮肉というべきか、コンゴ危機の調停に赴いていたハマーショルドが専用機の事故で死亡したとき(おそらく撃墜 されたものと思われる)フォン・ローゼンは病を得て地面に釘付けだった。 フォン・ローゼンのアフリカとの関わり合いはコンゴ危機では終わらなかった。七年後、ナイジェリアからの分離独立を 図っていたビアフラ共和国への救援飛行の最中、彼は国際的な名声を獲得することになる。 ナイジェリア政府のビアフラ人に対するあまりの横暴振りと、ナイジェリア空軍による救援飛行へのたびたびの妨害に 心底激怒した彼は、フランス秘密情報機関と協力して報復の一手を編み出した。 彼は、サーブ社が開発した小さな単発のMFI-9B民需用練習機を五機密輸した。この機体は元々、実は戦時には対地 攻撃任務に使えるよう設計されているのを知っていたからだ。
97 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 05:47:26 ] ③ 航空機に迷彩塗装を施し、無誘導ロケット弾を取り付けて、「ビアフラのベイビ-たち」と称される飛行隊の隊員たちが 飛行資格を取ると、ナイジェリア連邦空軍がビアフラの民間人に対して攻撃を繰り返している空軍基地を叩く準備が 整った。 1969年5月22日にはじまる数日間、フォン・ローゼンが率いる5機の航空隊は、ポート・ハーコートとエヌグの主要基地と 他のいくつかの小規模な空港を襲った。 レーダーに映らない超低空飛行で接近し、ロケット弾を一斉射撃して逃走する航空ゲリラ戦術にナイジェリア軍は不意 を撃たれて、数機のMig-17と、6機しかないイリューシンIl-28のうち実に3機を含む、多数の高価なジェット機を破壊され てしまった。 フォン・ローゼン伯爵最後の活躍は、1977年のまたもやアフリカで、エチオピアとソマリアが争ったオグデン紛争の折 だった。再び難民救援飛行を行っていたのだが、1977年7月13日、ゴーデの近くでソマリ族のゲリラに突然の銃撃を 受け、墜落死した。
98 名前:名無し物書き@推敲中? [2008/11/14(金) 11:20:44 ] ヘイドレクとはこれまた懐かしいなぁ いつの間にやら復活してるとは。 しかしこれは・・・荒らされてるのか?何故??
99 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 18:37:11 ] これは荒しじゃなく、こういうネタを集めるのが趣旨のスレなんですよ。 それとヘイドレクは創作発表板でついこの間まで頑張ってましたよ。 遂に力尽きて終わってしまいましたが、また近々スタートする見込みです。 だからここは書き込まないで放っておいてね。
100 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 18:46:46 ] 【戦争奇譚 ~ドイツ第27SS戦争猟兵大隊第3中隊所属レミ・シュライネンSS一等兵~】 6月26日、ソ連軍の戦車部隊が跨乗兵を乗車させて前線を突破し、戦闘団の第27SS戦車猟兵大隊第3中隊の陣地へ 殺到した。ここでレミ・シュライネンSS一等兵は対戦車砲によりT34を6両を撃破して、敵を食い止めることができた。 4日後に再び敵の攻勢が発起された時、すでにシュライネンを除いて彼の分隊は全員死傷しており、彼は撤退命令が 出ているにもかかわらず、その場に踏みとどまってたった一人で照準・装填を行って砲撃を続けた。しばらくしてソ連軍 の歩兵部隊の大軍が押し寄せて来て絶体絶命となったが、海軍出身の無線手が死ぬ直前に味方砲兵へ自軍陣地へ の砲撃を依頼していたため、敵歩兵部隊は壊滅状態に陥った。しかしながら、その後方から敵は新型JS戦車を含む 戦車30両が続いており、ここにシュライネンとの劇的な一騎打ちが行われた。 ここでもシュライネンの神業的砲撃が勝り、JS戦車4両とT34 4両が撃破されたが、最後のJS戦車は彼の対戦車砲の 僅か30m手前で討ち取られたものであった。彼は敵の砲撃で負傷して倒れたものの、その後の味方の反撃により擲弾 兵の手で救い出された。 6月26日にT34を5両、30日にスターリン戦車とT-34を各4両撃破。 yakouhai.seesaa.net/article/27319001.html
101 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 19:04:34 ] 【戦争奇譚】 朝鮮戦争時、朝鮮で戦死した米兵は、福岡空港に併設されている板付飛行場を経由して本国へ無言の帰還をしたが、 その板付飛行場では、なぜか戦死したはずの米兵が廊下を彷徨っていたと言う。と言うわけで、板付飛行場勤務は、 みんな嫌がった。 昭和30年代の「天声人語」を調べていたら、フィリピン政府から、「大戦中の日本軍の高射砲の残骸に、未だに日本兵 の幽霊が取り付いて、夜な夜な『ウテ!ウテ!』と叫んでいる。その村の住民がおびえて仕方がないので、なんとか 日本に引き取ってはもらえまいか?」そんな要請があった、と記されている。 大戦末期のこと。鹿島神宮に深夜突然海軍将校(の格好をした男)が現れ、夜分申し訳ないがどうしても今参拝したい と言うので、宮司さんが先に立って案内した。拝殿の扉を開けたその瞬間、ぼたり、と大きな音が背後でして、びっくり して振り向くと、先ほどの海軍さんの姿がなく、代わりに彼の立っていたところに、大きな血の塊が幾つか落ちていた。 そんな事件があったそうな。どこかの戦場に応援に出かけた神様の眷属が、深手を負ってやっとの思いで帰ってきた に違いない、そして、おそらくこのいくさは負け戦であろう、と。その話を聞いた関係者らはそう思ったそうな。
102 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 19:19:44 ] 【戦争奇譚 ~ある怪談~】 ① 時は数年前の今頃、亜米利加人教授と博物館に行きました。丁度太平洋戦争記念らしく、当時の米軍の将軍や飛行機 の写真が所狭しと展示されていました。教授はルメイ氏の写真等で満足している様でしたが私は内心気違い空襲野郎 等と思い不機嫌に。教授がB29等の飛行機の写真を見ている時には、もう明後日の方向を見ておりました。 ふとその時、奥の方小さな部屋を発見。中を覗いて見ると、日本側の写真が。殆んどが民間人の写真で、兵器の写真 はありませんでしたが中々興味深く、今まで見た事の無い写真も在ります。 之は儲け物と十分ほど一人で堪能していた所、奇妙な視線を感じます。教授は亜米利加の飛行機の方で忙しく、この 部屋には私以外人っ子一人居ないはずなのに、其の視線は無くなりません。 妙だなあと思い、気配を感じる方を見れば一枚の写真が見えます。出兵前の家族の集合写真らしく、正装した人達が 軍服を着た青年が中央に整列して居り、説明文には、この青年は中国東北部に行くとか何とか書かれて居ります。 他の写真と比べても特におかしい所は内容に見えましたが凝視してみると、一瞬写真の中の人が瞬きをしました。一瞬 の事でしたので見間違えかと思い、其のまま見続けると一斉に写真の中の人が笑いはじめました。 之はヤバイと思い、慌てて眼を背け部屋から出ようとすると足首を何者かに掴まれました。見てみると、写真に写って いた青年の母らしき人が必死な形相で、私の足首を掴んでいました。私は其のまま倒れこんでしまい、助けを呼ぼうと しましたが声が出ません。
103 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 19:20:20 ] ② 「返してくれ。」男の物かも女の物かも分からない声が私の頭の中に響きました。幸い体は動きましたので、相手の額 辺りに思いっきり蹴りを入れたのですが、相手には全然効かない様なので、其のまま這居ながら部屋の外に向かい ますが、今度はもう片方の足にも何者かが。 「返してくれ。」後ろを見ると発狂しそうなので、完璧に無視して其のまま這って出口に向かいますが、相手は一人や 二人ではないらしく次々と体中にしがみ付いてきます。 「返してくれ。」の声がはんば合唱に為った時に何とか部屋を出ることが出来ました。 部屋を出た途端体が軽くなったので、ああ助っかたんだなと思い部屋の中に目を移すと、先ほどの写真の中の人物達 が部屋の中央で全員正座をして、恨めしそうに私を見ていました。 急いで教授の元に向かい、事のあらましを伝えたのですが聞き入れてもらえず。貴様はそれでも武士の国の子孫かと 叱られました。どうせなら、亜米利加人に化けて出ろよと思った、そんな夏の一日。
104 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 19:50:15 ] 【戦争奇譚 ~戦艦陸奥の最後~】 乗っていた戦艦が瀬戸内海に停泊していた時のこと。真夜中、夜衛の当番が見まわり時間を待っていたら、自分の前 に見まわりに出ていった新兵がガタガタと駆け込んでくる。すわ、なにごとかと思い聞いてみると、新兵は震えながら 「班長、出ました出ました!」と繰り返すばかり。やっとのこと聞き出してみれば、三番砲塔に女が立っているという。 何を馬鹿なことを言っているのかと思い、小銃を持って三番砲塔へ向かうが、特に異状なし。何かの間違いだったの だろうと戻ろうとしたその時、背後からけたたましい笑い声が降りかかってきた。 驚いて降りかえると、三番砲塔の上に女が立っている。真っ白な浴衣のような着物、真っ赤な洗い髪を振り乱し、大きな 口を開けて笑っている。角度から考えて、身長は3mはあろうかという怪物。 誰何する気も起きず、わっと叫ぶとまっしぐらに逃げた。翌朝からひどい熱を出し、艦内医の手にも負えず呉の病院へ 搬送された。その日の正午過ぎに乗っていた戦艦は不審火で爆発、沈没してしまったとのこと。 「爆沈の当日に艦を降りてるから憲兵に目をつけられて、そっちの方が怖かった」と当人は語る。
105 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 19:50:59 ] 【戦争奇譚 ~ナポレオンの手紙~】 ① 1915年、第一次世界大戦中のシナイ砂漠。イギリスのある部隊は敵のアラブ兵に完全に包囲されていた。水も食料も 底を尽きかけ、このまま餓死するか全滅覚悟の突入しかない状況に追い込まれていた。 指揮をとっていたケイザル大尉が考えあぐねていた時、一人の老人が部下に連れられて大尉の前に現れた。「大尉、 この老人がどうしても大尉に手紙を渡したいと言ってるんですが。」 「私に手紙を・・? 誰からのものだ?そして君は一体誰なんだね?」大尉は老人に尋ねた。 「私はずっと以前、ある方からあなた宛の手紙を預かっている、この村のものです。あなたは確かにケイザル大尉様で いらっしゃいますね?」 「確かに私はケイザルだが・・。それでその手紙というのは何なのだ?」 「はい、これでございます。」老人は手紙を差し出した。 「差出人はナポレオンだって?! あの、大ナポレオンからの手紙?君、ナポレオンのエジプト遠征といえば100年以上 前…116年前のことじゃないか!からかうのもいい加減にしろ!私は忙しいんだ!さっさと帰ってくれ!」 「でも私は確かに、あの大ナポレオン様から手紙を預かったのです!あなた様以外には決して見せてはならないと言わ れて…それ以来、私はこの手紙をずーっと大切に保管してまいりました。これは本当なのです!」 老人があんまり真剣に訴えるので、ケイザル大尉も一応見るだけみてやるか、といった感じでくしゃくしゃになった手紙 の封をあけてみた。 手紙にはこう書かれていた。「親愛なるケイザル。私は現地人の、この子供に手紙をあずける。この陣地の下には弾薬 と食料が埋めてある。すぐにそれを掘り出し、エジプトとの国境に向かうのだ。国境へ向かうには3つのルートがあるが、 その中の砂漠を通る中央のルートを使え。同封の地図に飲み水が得られる水穴の場所を示しておく。無事脱出する ことを祈っている。ナポレオン・ボナパルト」
106 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 19:51:32 ] ② それは確かにナポレオンからケイザル大尉に宛てた手紙に間違いはなかった。だがなぜ、116年前にナポレオンは この手紙を書いたのだろう? その時、ケイザル大尉はハッと気づいた。そういえば、自分のひいじいさんも自分と同じケイザルという名前だった。 幼いころに聞いたことがある、ひいじいさんはナポレオンと一緒にエジプト遠征に行ったと。ひいおじいちゃんはその時 に戦死してしまったが、ひょっとしてこの手紙は、ナポレオンからひいおじいちゃんに宛てた手紙だったのでは…? 全て理解出来たケイザル大尉は、ワラにもすがる気持ちで手紙に記されていた場所を部下に掘らせてみた。部下たち も、もうこの手紙にすがるしかなかった。 掘ってみると本当に弾薬と食料が出てきた。だが不思議なことに100年以上前に埋められたもののはずなのに弾薬も 食料も全く傷んでいないのだ。まるで昨日、埋められたかのような状態である。 「こんな不思議なことがあるんだろうか?」 部下も半信半疑である。食料と弾薬を補給し、元気になった一隊は翌日敵兵に攻撃をしかけ、一瞬のスキをついて 包囲網を突破し、地図に沿って砂漠を横断した。100年以上前の地図であったが、水穴の場所はそのままだった。 途中で飲み水を補給しながら一隊は無事援軍と合流できたのである。 あの手紙を持ってきた老人であるが、詳しく話を聞くと、手紙を受け取ったのは老人が15歳の時だったという。すぐに 当時のケイザルのところへ持っていったが、すでに隊は出発してしまった後で、結局手紙を渡すことは出来なかった。 それ以来、ずっと心の中に引っかかっていたというのだ。そしてそれから116年が経ち、ケイザルという名を聞いて今度 こそと思い、面会に来たらしい。この手紙を渡すまでは死ねないと思っていたのだろうか。老人は130歳になっていた。
107 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 19:58:10 ] 【戦争奇譚 ~兄~】 ① 当時、私は小学校六年で、学童疎開も二十年三月で終わり、甲府から東京・高円寺に帰って間もない時でした。幸い、 兄はほど近い調布の飛行隊に所属しており、私が帰って来てからも月に二、三回、家に戦友の方々を連れてきました。 その日は雲ひとつない青空でした。いつもの空襲とは違ってB29は戦闘機援護のもとに、高度は今までの一万メートル の成層圏ではなく、ぐっと低く侵入してきました。 私は下の兄たちといっしょにおそるおそる防空壕からはい出して空を見あげると、何かキラキラ光る物体が上下してい る様子が目に入りました。その時はまだ上空で空中戦が行われているとはまったく思いませんでした。 その直後、B29の一機が白い煙を尾から引き始めたと思うと、いまキラキラ光っていた小さな物体からも煙が出て、 それこそまっさかさまに落下し、見る見るうちにそれが小さな戦闘機だとわかるほど、私たちの肉眼にせまってきたので とっさに身を隠しました。 空はまだゴウゴウとうなりをあげるようにして後続敵機が通過していましたが、どうやら市内での空襲ではなさそうだと、 再び壕から飛び出して空を見ると、米粒のような戦闘機同士が空中戦を交え、上下するごとに太陽の光にキラキラと 反射していました。 初めて見た空中戦に、その時は”兄もおそらく出撃していたのではないだろうか?””いや戦闘に出ていても兄は決して 死ぬことはない”といわば願望に近い気持で打消していました。私がこの日、この目で見た空中戦はB29が二機、煙を 吐いたのと、戦闘機が三機、煙を吐いたり、落ちていったのです。
108 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 19:58:44 ] ② 翌八日夜の八時頃、玄関の床をコツコツと軍刀でたたく音がしました。下の兄二人といっしょに玄関をのぞきますと、 暗い中にボヤーッと兄の軍服姿がうつりました。 「あっ、お帰りなさい」声をかけるなり、昨日の戦闘でも無事だったんだという安心感も手伝い、玄関の電気をつけました。 ところが、今いたはずの兄の姿はそこになく、不思議に思って家の外を一周してもどこにも兄は見当たりませんでした。 それから一時間後、こんどは「ドンドン」という玄関のドアを強くたたく音に、二番目の兄が玄関に行き、しばらくして何か 紙キレを持ってきたのです。 「何だったの、だれが来たの?」兄はしばらく無言でした。暗い灯火管制下の電灯で、三番目の兄と顔を合わせ、読むと 「セウイ カウノタカシ 四ツキ七ヒ テイトフキンニオケルヨウゲキセントウニオイテソウレツナルセンシヲトグ。トウブ一 〇八ブタイテウ」 私を妹というより、自分の娘のように可愛がってくれた、あのやさしい兄が死んだなんて━━この世には神も仏もいない のかしら…きっとだれかと間違えたに違いない。でも、もしあの電報が本当だとしたら、昨日見た、あの空中戦で落ちた 戦闘機の一機が兄だったのでは。 それから一週間ぐらいして隊から使いの将校が見え、兄は敵のP51戦闘機と調布上空で空中戦を交えながらB29に 近づき、攻撃をしつつ、最後に体当たりをして、埼玉県の川口上空で戦死、B29も焔を吐きながら林の中に墜落したそう です。それにしても七日に見た空中戦の一機はたしか兄に間違いなく、死んで幸運というのも妙な表現ですが、他に 戦死された方々から見れば、本人も家族も戦時下では考えられない最後の出会いでした。三十四年たった今もあの時 の光景は脳裏にやきついています。
109 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 20:16:45 ] 【戦争奇譚】 何波にも渡る米艦載機の猛攻撃を受けながら一発も被弾せず、至近弾の破片で6名が死傷したものの、無事に生還 した日本の駆逐艦の話。駆逐艦谷風は、「飛龍(空母)がまだ浮いており、生存者がいる」という情報に基づき、既に 撤退中の南雲艦隊から1隻だけ派遣された。 米軍もまだ浮いている日本空母(飛龍)を目標に、エンタープライズから32機、ホーネットから26機のドーントレス艦爆 が、ミッドウェイ島から12機のB17が出撃した。 谷風が到着したとき、既に飛龍は沈没していた。そのためこれらの爆撃機は谷風を発見して次々と襲いかかり、爆弾の 雨を降らせることとなったが、谷風は必死の操艦でこれを回避。至近弾により6名の戦死者を出したものの逃げ切った。 この時投下された爆弾は合計137発と言われる。詳しくは秋田書店の『壮烈!水雷戦隊』。 近寄った中野は、兵曹長の数メートル先に立っている一人の兵士を見つけた。 飛行服をつけ、飛行帽をつけた搭乗員である。腕の階級章は兵長であった。 彼は零戦の前にじっと立っていたが、石川や中野の気配に気づくとゆっくりこちらを向いた。 「おい、お前は明日の直掩機に乗るのか?」石川がそう尋ねると、 兵長は「いえ、私は爆装で攻撃にゆきます」と答えた。細い声であった。 「おい元気を出せ。明日はもう爆装の零戦はない。直掩用の零戦が八機残っているだけじゃ、しっかりせんかい」 兵曹長は、搭乗員の兵長が何か勘違いをしていると考え、肩でも叩いて激励してやろうと一歩前進した。 すると兵長はすーっと後退し、「いえ、私は今日の爆撃に行って来たのです」と答えた。 「なに? 今日の爆撃?今日出撃した機は一機も本艦には帰って来ていない筈だぞ」兵曹長と中野は口々に言った。 すると兵長は微笑した。少年らしい笑顔であったが、頬のあたりが蒼ざめていた。 兵士は低い声で呟くように言った。「私は今日爆撃に行きましたが、爆弾を落とす前に撃墜されてしまいました。 それでもう一度出撃させて貰おうと思い、本艦に戻ってきたのです」(空母瑞鶴の生涯/豊田穣)
110 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 20:33:22 ] 【戦争奇譚 ~機械化時代に騎兵突撃したイタリア騎兵連隊~】 ① 1942年夏、東部戦線での伊軍騎兵。サヴォイア竜騎兵連隊の600騎が、ソ連軍背側よりサーベル突撃を敢行。手始め に1個大隊を潰走させ、続けて反撃を受けつつもさらに1個大隊を撃破。火砲十数門・機銃50を鹵獲、捕虜600を得た。 損害も大きかったようだが。以下そのあらまし。 東部戦線に2回目の夏がきた。ドイツ軍の進撃は留まる所を知らず、ヒトラーは最終的な勝利に向けた次の強烈な一手 を計画していた。しかしそれは終わりの始まりとなった。スターリングラードだ。この任務を成功させる為には、利用可能 なあらゆる精鋭部隊が必要となった。全戦線から多くの師団が引き抜かれ、新兵とは言わないまでも平均的な部隊、 つまりルーマニア、イタリア、その他の弱小枢軸国軍が入れ替わりに配備された。 しかしソ連軍はこの動きに素早く反応し、このドイツ軍の弱点に対して積極的な攻勢を開始した。7月から8月にかけて、 ソ連歩兵部隊はドン河西方の橋頭堡を拡大しようと何度も攻撃を重ねていた。イタリア軍部隊の一部は、この試みを 打ち砕くために交戦に巻き込まれた。 このソ連軍を撃退することを目的とした反攻の間この地域にいた2つのイタリア軍騎兵部隊の一つ「サヴォイア連隊」は ドン河畔に向けて北方に移動するよう命じられた。連隊はIsbuscenskij市付近の"213.5高地"として知られる地域に到達 し、夜の間そこに野営した。 翌早朝、キャンプと陣地をたたむ前に、騎兵斥候はいつも通り連隊の進路のパトロールに向かった。その過程で斥候隊 は広大なヒマワリ畑を調べるために入っていた。向日葵畑の偵察が終わり掛けた時だった。「あれはなんだ?赤い星の ついたヘルメットが地面を這ってるぞ?」斥候隊は不意をつかれたが、そのソ連兵に銃撃を浴びせて適切に対処した。 しかし数秒後、斥候隊は地獄の真っ只中に取り残されていた。彼らをとりまくヒマワリ畑のあらゆる地点から数百のソ連 兵が一斉に叫びながら発砲を開始したのだ。
111 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 20:33:53 ] ② 夜間、82mm迫撃砲の支援を受けたソ連軍歩兵2個大隊がこっそりと河を渡り、イタリア軍野営地から数百メートルの 地点に塹壕を掘り、待ち伏せ準備を整えていたのだ。野営地に据え付けられた機関銃の機敏な反応と連隊付属の馬載 砲兵の速射砲撃は、押し寄せるソ連兵の波を一時的に食い止めはしたものの、時間が経つにつれて敵の圧力は激しく なっていった。 イタリア軍指揮官は今こそ訓練の成果を発揮すべき時だと判断した。「騎兵突撃だ!」 第2騎兵中隊は敵正面からではなく側面から突入する為、大きく迂回して敵左翼に突撃するよう命じられた。この迂回 機動は完璧に成功しソ連軍は完全な不意打ちを食らった。ソ連軍は再照準する暇もなく騎兵に蹂躙された。ソ連兵の 多くが強烈な剣の一撃によって頭を真っ二つに割られ、その他大勢は即座に降伏するか逃げ去った。 騎兵中隊は前進を続けると、抵抗は次第に強力になり損害が大きくなっていった。その為、第4騎兵中隊が下馬して敵 正面に向かう事になった。これにより第2騎兵中隊への圧力はやや弱まり、彼らは再結集して反転し、敵の右翼から 左翼にかけて再び突撃する事が出来た。 その直後、中央への攻撃を援護するため第3騎兵中隊が同じ命令を受けた。「突撃せよ!」 第3騎兵中隊の指揮官が最初の突撃と同じ接近方法を採らず敵中に真直ぐ突っ込んだのは疑問の残る決定で、この 所為で必要以上の犠牲が生じる事になった。にも関わらずこの二回目の突撃で敵は完全に崩壊し、ソ連軍は第二線 陣地も捨てて退却した。ソ連軍の損害は死傷450名で、500名が捕虜になった。 戦いが終わると、こんな展開になるとは思っていなかったイタリア騎兵たちは一様に同じ言葉を口にした。 「サヴォイアが突撃したんだ、サヴォイアが突撃したんだ!」完全に機械化された戦争においては夢でしかなかった事 が実現したのだ。
112 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 20:34:51 ] ③ なお、騎兵を語る上で外せないのは史上最後の騎兵たち。1945年大陸戦線での帝国陸軍騎兵騎兵第二十六連隊に よる予鄂・老河口作戦。敵陸上部隊は勿論、機銃掃射してくる敵機相手に挺身斬込、目標の飛行場を見事占領。 「世界騎兵戦史ニ恥ヂヌ有終ノ美ナリ」
113 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 20:47:55 ] 【戦争奇譚】 太平洋戦争、初頭のマレー戦にて発生したとある戦車戦。敵戦車隊と日本戦車隊が遭遇。戦闘になるも、日本側は 正攻法では敵わず、一台の軽戦車を背後から奇襲させる戦法をとった。結果的に勝利し、本隊は集結地点で軽戦車の 帰投を待った。やがてジャングルの中からキャタピラの音が近づいてきた。しかし、特有のディーゼルエンジン音は 聞こえず。見ると軽戦車が戻ってきたが、正面装甲板には大穴が開き、中は血の海、生存者なし。太平洋戦争当時に 語られた怪談です。 ぺリリュー島で米軍陣地に突撃した95式軽戦車17両。当然の如くバズーカ 戦車砲 各種火砲に滅多打ちにされた ものの、3両が辛うじて陣地に帰還できた。掲げられた日の丸には弾丸で蜂の巣のようになり、車体と砲塔には大小 無数の貫通孔。機銃は基部から跡形もなく吹っ飛ばされ、戦車砲も至近弾によりひん曲がってしまっていた。 何より凄惨なのは、首を飛ばされた車長が日本刀と拳銃を握り締めたまま、だらりとハッチから身を乗り出した格好 のまま戦士していた。陣地の兵たちはその光景を見て感動の余り皆号泣したという。 昭和20年2月16日の関東地区艦載機大迎撃戦の際、当然ながら厚木の302空も迎撃に当たった302空零夜戦隊の 荒木俊士大尉は直ちに出動、一度帰還したがまたすぐ二度目の出撃になったが、過熱のためエンジンの筒温が 上がり、離陸は難しい 予備機は部下が乗ってしまってもう無い。仕方なく無理矢理筒温を下げるためカウリングを 外して強行離陸した。その不調機を駆って神奈川県丹沢上空でF6Fを見事1機撃墜 2機目を捕捉したところで敵弾を 受けた。荒木機は藤沢基地までたどり着いたものの、姿勢を崩して格納庫に接触 墜落した。大尉を救い出そうと 駆け寄った基地隊員たちは驚愕した。荒木大尉の頭部に貫通銃創があったのだ。12.7ミリ機関砲弾に頭を射抜かれて、 どのようにして藤沢まで飛行できたのだろうか。
114 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 20:49:23 ] 【戦争奇譚】 第一次大戦の時、ドイツのUボートが英国の輸送船を雷撃した。魚雷は命中、潜水艦は浮上し、輸送管が沈んでゆく のを司令塔から艦長以下、水雷長と副長が見ていた。輸送管が海面下に沈んだとき、輸送船は大爆発を起こし。水柱 が上がった。その時、Uボート艦長たちの目に映ったのは…水柱と一緒に中高く吹き上げられた、見慣れぬ怪物の姿 であった。その怪物は――百科事典などで見る恐竜、海竜のそれに余りにも酷似していたという。 輸送船沈没後、その海竜の姿も消え失せたが――流石、ドイツ人。艦長たちは、自分たちが見たものをそのまま、報告 書に書き記したという。 昭和30年中頃だったか、豊後水道の真ん中で漁師が海中からケーブルを引いてるブイを発見したそうだ。それには 「帝国海軍伊xx号潜水艦、コノ真下ニ沈座シアリ。大至急、最寄ノ官公社、鎮守府宛ニ連絡乞フ。報奨金アリ。」との 文面があった。これは潜水艦が海底で浮上不能になった際に浮かべる防水電話付きの非常連絡ブイだそうだ。 その漁師はブイの指示通りに電話機を使ったがむろん返事は無い。沈没から10年以上経っており、腐蝕して洩れ始め た海水が澱む暗黒の艦内、そこここに白骨化して横たわる乗組員の死体の上で、最後の瞬間まで彼等が待ち焦がれ て鳴らなかった電話のベルが空しく鳴っている。その光景を想像するともう、恐いやら悲しいやら。ちなみに深すぎて 引揚げもできず、艦は今もそこに横たわっているそうだ。
115 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 20:50:13 ] 【戦争奇譚】 沖縄の米軍基地での怪談。本土復帰前、軍属の従業員の人が日も暮れて帰り支度をしていると、向こうの方から米兵 2人が歩いてきて英語でタバコくれないかと言ったそうだ。従業員の人が何か違和感を感じつつもタバコをやると、うま そうに一服し何処かへと歩いていったそうだ。そしてしばらくすると従業員は感じていた違和感の原因が分かった。 彼ら2人の姿が現在の米兵の軍装ではなく第二次世界大戦当時の姿だったのだ。 ちなみに、近隣住民の多くが米兵の幽霊を目撃しており、調査を行ったら実際に米兵の死体(2体)が洞窟の中から 発見されたそうだ。聞き込みの結果、レイプなど、粗暴な米兵2人組だったらしく、沖縄住民に闇討ちされ洞窟に打ち 捨てられていたという。 戦時中のある日、家の裏口の所で家事をしていると、突然人魂が出てきたそうだ。 腰をぬかしたが、その人魂は悪さを するわけでもなく、そのうちいなくなってしまった。暫く立った後、家に戦死公報が届いた。前線に行っていた兄が戦死 したとの事。驚いたのは、兄が戦死した日が、ちょうど人魂の出た日だったという事だ。きっと家が懐かしくて帰ってきた んだろうねぇ、とのこと。 ある朝、兵舎の脇の水道で顔を洗っていたら、誰かが隣の蛇口を使い始めた。「おはよう」と言おうとして顔を上げて 驚いた。そこには昨日の戦闘で顔に銃弾を受けて戦死したはずの仲間が血まみれの顔を洗っていたからだ。驚いて 声も出せない中、戦友はタオルで顔を拭きながら兵舎へと入っていった。その後、当然の事ながら兵舎のどこを探して も彼の姿は見つからなかったそうだ。
116 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 20:55:01 ] 【戦争奇譚】 大空のサムライ、日本海軍のエース、坂井三郎氏。昭和17年8月、ガタルカナル上空で、SBDドーントレス艦上爆撃機 を戦闘機と誤認、旋回機銃の集中砲火を浴び、被弾し、右頭部と右目に重傷負いつつも、意識を失いかけながら、ラバ ウルまで見事に生還した。あまりにも、有名なエピソードなのでご存じの方が多いだろうが、これには後日談がある。 数ヶ月後、氏が治療のため内地に帰還し、実家に戻り、留守を預かる母親と再会を果たした。しばらく会わなかった母と の再会を喜びつつも、母の様子が、何やらおかしいことに気付いた。怪訝に思った氏が尋ねてみると、右目の具合が 悪いという。いつ頃からおかしいかと、更に尋ねると、昭和17年8月頃からだという。氏は愕然としたそうだ。昭和17年8月 頃といえば、自分が空戦で負傷した時期とピタリと合うからだ。しかも、自身が負傷したのと同じ右目。単なる偶然とは とても思えず、氏は母親が身代わりになってくれたものと、確信したそうだ。 宮野(善次郎)大尉が戦死した昭和十八年六月十六日、実家の神棚にあった護符が風もないのにパタリと落ち、母が、 「善次郎の飛行機が落ちた」と言ったという。そのため、のちに戦死の公報が入った時には、すでに心の準備ができて いた。人は死ぬ時、その魂は愛する人のもとへ帰るのだろうか。「零戦最後の証言Ⅱ」(光人社)あとがきより抜粋。
117 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 20:55:38 ] 【戦争奇譚】 ベトナム戦争中の頃の話。あるベトナム軍の基地で、歩哨に立っていた兵士が基地の中の広場を見ると、誰もいない はずなのにいくつもの人影が。こんな時間に誰かいるなんておかしいな?それともあいつら何か極秘の任務でも受けて いるのかな?と思いつつ、その兵士に近付いて見ると、その兵士達には首が無く、しかも自分たちベトナム軍の制服 とは明らかに違う軍服を身に付けていました。 その歩哨は驚きのあまり腰を抜かしかけて兵舎に戻り、当直の下士官達に事の次第を報告しました。 その下士官が言うには「ああ、あそこには昔のフランスと戦争をしていた頃に処刑した捕虜の幽霊が出ると言われて んだよ。ほら、我が国では首を切られ、そのまま胴と頭を別々に葬られた死人は成仏できないって言うだろ。あの捕虜 達はそうやって処刑されたのさ。だから、あいつらはフランスとの戦争が終わってずいぶん経つのに、未だに成仏も 出来ずに死体の埋められたあの辺をさまよっているらしいぜ。」と言ったとか。 1893年6月22日15時34分、英国海軍旗艦ビクトリアがトリポリ沖で衝突事故後、沈没した。その衝突事故があったのと ちょうど同じ頃、ロンドンにある艦長のサー・ジョージ・トライオン提督の自宅では、トライオン夫人が友人たちを招いて ティーパーティを開いていた。 午後三時をまわったころ、一人の客が提督が居間を通りぬけていくのを目撃した。「おや、ご主人がおいででしたか。 これは結構ですこと」と話しかけてきたというその客。それに対して夫人は訝しげに「そんなことはございません。夫は 軍艦に乗って演習中ですのよ」と答えた。 しかし、他の客も「いえ、確かにいらっしゃいましたわ。私が立ちあがって 会釈をしようとしましたら、ご主人は手で「そのまま、そのまま」というようにして、あちらへいらっしゃいましたもの」と 証言したのである。 だが、提督は二度とその家に戻ることはなかった。
118 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 21:10:54 ] 【航海奇譚】 昭和三十六年のこと。漁船第六箕郷丸(三十二トン)が漁を行っていた。海は穏やかで空は晴れ、薄暮が迫る海面は 不気味なほど静かだった。いつものように箕郷丸が航走していると、前方から単独航行してくる船が見える。 かなりの大型だ最初は別段気にも留めなかったが、双眼鏡で確認すると何かおかしい。異様である。明らかに船形が おかしいのだ。薄暗い海上だがそのおかしさは歴然としている。高く幾本も横木の張り出した三本マストは明治の軍艦 を思わせる。ラムのある帆船様の船体、そしてやたら装備の多い雑然とした甲板、二本煙突、近年見かけないほど、 非常に古めかしい外観である。煙も吐かず帆も張っていない。なのに結構な快速。それにこの薄暗いのに、舷灯どころ か警戒灯ひとつ点いていない。 さらにその船が近付き、そして乗員たちは新たな事実に気付き、戦慄した船首に波が立っていないのだ。波一つ、音一 つたてずスルスルと接近する大型船。乗員たちは慌てて握り飯を作って海に投げ込んだり、念仏を唱えたり 船長は 必死に方角を変え、全力で逃れようとした。 この行動が功を奏したのか、その大型船は箕郷丸の横をやはり音も波もなくスルスルと通り過ぎ、夕闇の中へと消えて いった すれ違い時に甲板上を見た船員もいたが、人っ子一人も見えなかったという。 ところが、箕郷丸は無事には 済まなかった。その夜半、俄かに海が荒れだしたかと思うと、突然の暴風雨に遭遇。その嵐の中を必死に航行した もののついに座礁。船体は大破。真っ二つに折れ、乗員二名が波に飲まれ行方不明となった。
119 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/14(金) 21:11:28 ] 【航海奇譚】 昭和20年6月のこと。運送船「恋瀬丸」が便乗の乗客16名と荷物を積んで航行中、突如現れたP-51戦闘機2機に機銃 掃射を受けた。雨と降り注ぐ機関砲弾に、たちまち船内は阿鼻叫喚図となった。弾丸が薄い鋼板を貫通して乗客たちを 粉砕する。肉片が飛び散る。大穴の開いた船底からはドッと水が溢れ、瞬く間に船は沈下。 そのうち機関が射抜かれたらしく缶が破裂 船体は真っ二つに折れ、高熱の蒸気が船内に充満する。視界を妨げる 大量の蒸気と大混乱、沈没速度のあまりの早さに脱出も思うように行かず。結局恋瀬丸は沈没し、便乗中の水兵一人 を含む乗員乗客18名が戦死。生き残りも殆どが重傷を負った。 同日には常磐線や各地の学校、航空隊、歩行者も攻撃を受け多数の死傷者を出している。 その後、毎年6月頃の夜になると、恋瀬丸沈没地点付近で巨大な青白い光球が走り回ったり、湖面上をびしょ濡れの 人々がぞろぞろと歩き回ったり、誰もいないのに夜の湖面からすすり泣く声が聞こえたり、様々な現象が発生するよう になった。今現在でも現れる事があるらしい。 長い航海から帰ってきた水兵がレストランで“ウミガメのスープ”を注文しました。料理を運んできたウェイターに対し、 彼は海での思い出話を語ります。彼の乗った船は嵐に遭って遭難し、長い間海の上をさまよっていました。飢えと渇き で仲間たちが次々に死んでいく中、彼も絶望に打ちひしがれてただ死を待つばかりだったという。 そんなある日、船のコックが“ウミガメのスープ”を作り、生き残っていた水兵たちに食べさせました。その時のスープの おいしかった事。その後他の船に発見され無事に生還した彼らだったのですが、この水兵は自分の命を救ったスープ の味が忘れられず、レストランに入ると“ウミガメのスープ”を注文したのでした。 ところが次の日、この水兵は誰に知られるともなく自殺してしまいました。さて、なぜ自殺してしまったのでしょうか?
120 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/15(土) 03:56:34 ] 【海洋奇譚 ~ミイラ船「良栄丸」~】 ① 発見されたミイラ船。1927年10月31日、 カナダ西海岸バンクーバー島。ワシントンのシアトル港への帰路について いたアメリカの貨物船「マーガレット・ダラー」号は、行方不明になっていた小型漁船「良栄丸」を発見した。ボロボロに 朽ち果てた船体、ミイラの転がる甲板、激しい死臭、白骨体、足の無い死体。船室には、頭蓋骨を砕かれた白骨体と ミイラがあった。船室奥の部屋には、おびただしい血痕が染み付いていた。船尾の司厨室では、海鳥の白い羽が至る ところに散らばっており、コンロの上にあった石油缶の中には、人の腕が入っていた。船内には食物も飲料水も無く、 エンジン機関部は全て破損していた。ところが、船長室から見つかった3冊のノートには、信じられない惨状が書かれて いたのだった。そのノートによると、良栄丸の情報は以下の通りだ。 重量は19tで1本マスト/船主は和歌山県の藤井三四郎/船長は三鬼時蔵/機関長は細井伝次郎/乗組員は12名 神奈川県の三崎港を出港したのは1926年12月5日。この船は約1年間漂流していたのだ。ここで疑問が浮かぶ。 発見された死体は9体、記録には12名とある。3名はどうなったのだろうか。 1926年12月5日、神奈川県の三崎港を出港した良栄丸は、千葉県銚子沖にマグロを求めて進んでいた。天候も思わ しくなく、エンジンが調子の悪い排気音を立てていたため、翌12月6日に銚子港に寄港した。しかし、エンジンに故障は なく、銚子の沖合いで大量のマグロを水揚げした。が、暴風に見舞われて航行不能に陥ってしまった。
121 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/15(土) 03:57:52 ] ② そして12月15日、銚子の東方沖合い1000マイルほど流された時、紀州船によく似た船が現れたので、信号を送った り船員が叫んだりしたのに、応答も無く通り過ぎてしまったという。三鬼船長は漂流を決意、記録には「4ヶ月間は食べ られる」と書いてあった。12月16日にも「東洋汽船」と書かれた船が近くを通ったが、応答はなかったという。なんとか 日本へ戻ろうと努力したが、どうやっても逆に流されていった。記録にはこう書かれている。「どう工夫しても西北へ船は 走らず絶望。ただ汽船を待つばかり。反対にアメリカへ漂着することに決定。帆に風を七三にうけて北東に進む。しかし 漁船で米国にたどりつこうとするは、コロンブスのアメリカ大陸発見より困難なりと心得るべし」 ここからは説明は要らないだろう。記録文のみで充分に迫力が伝わってくる。 「12月27日。カツオ10本つる」「1月27日。外国船を発見。応答なし。雨が降るとオケに雨水をため、これを飲料水と した」「2月17日。いよいよ食料少なし」「3月6日。魚一匹もとれず。食料はひとつのこらず底をついた。恐ろしい飢えと 死神がじょじょにやってきた」「3月7日。最初の犠牲者がでた。機関長・細井伝次郎は、「ひとめ見たい。日本の土を 一足ふみたい」とうめきながら死んでいった。全員で水葬にする」「3月9日。サメの大きなやつが一本つれたが、直江 常次は食べる気力もなく、やせおとろえて死亡。水葬に処す」「3月15日。それまで航海日誌をつけていた井沢捨次が 病死。かわって松本源之助が筆をとる。井沢の遺体を水葬にするのに、やっとのありさま。全員、顔は青白くヤマアラシ のごとくヒゲがのび、ふらふらと亡霊そっくりの歩きざまは悲し」「3月27日。寺田初造と横田良之助のふたりは、突然 うわごとを発し、「おーい富士山だ。アメリカにつきやがった。ああ、にじが見える。」などと狂気を発して、左舷の板に がりがりと歯をくいこませて悶死する。いよいよ地獄の底も近い」
122 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/15(土) 03:59:35 ] ③ 「3月29日。メバチ一匹を吉田藤吉がつりあげたるを見て三谷寅吉は突然として逆上し、オノを振りあげるや、吉田藤吉 の頭をめった打ちにする。その恐ろしき光景にも、みな立ち上がる気力もなくしばしぼう然。のこる者は野菜の不足から、 壊血病となりて歯という歯から血液したたるは、みな妖怪変化のすさまじき様相となる。ああ、仏様よ」「4月4日。三鬼 船長は甲板上を低く飛びかすめる大鳥を、ヘビのごとき速さで手づかみにとらえる。全員、人食いアリのごとくむらがり、 羽をむしりとって、生きたままの大鳥をむさぼる。血がしたたる生肉をくらうはこれほどの美味なるものはなしと心得たい。 これもみな、餓鬼畜生となせる業か」「4月6日。辻門良治、血へどを吐きて死亡」「4月14日。沢山勘十郎、船室にて 不意に狂暴と化して発狂し死骸を切り刻む姿は地獄か。人肉食べる気力あれば、まだ救いあり」「4月19日。富山和男、 沢村勘十郎の二名、料理室にて人肉を争う。地獄の鬼と化すも、ただ、ただ生きて日本に帰りたき一心のみなり。同夜、 二名とも血だるまにて、ころげまわり死亡」「5月6日。三鬼船長、ついに一歩も動けず。乗組員十二名のうち残るは船長 と日記記録係の私のみ。ふたりとも重いカッケ病で小便、大便にも動けず、そのままたれ流すはしかたなし」「5月11日。 曇り。北西の風やや強し。南に西に、船はただ風のままに流れる。山影も見えず、陸地も見えず。船影はなし。あまい サトウ粒ひとつなめて死にたし。友の死骸は肉がどろどろに腐り、溶けて流れた血肉の死臭のみがあり。白骨のぞきて、 この世の終わりとするや」 日記はここで切れている。だが三鬼船長は、杉板に鉛筆で、以下のような家族宛ての遺書を残していた。 「とうさんのいうことをヨクヨク聞きなされ。もし大きくなっても、ケッシテリョウシニナッテハナラヌ。私はシアワセノワルイ コトデス。ふたりの子どもたのみます。カナラズカナラズ、リョウシニダケハサセヌヨウニ、タノミマス。いつまで書いても おなじこと。でも私の好きなのは、ソウメンとモチガシでしたが、帰レナクナッテ、モウシワケナイ。ユルシテクダサイ」
123 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/15(土) 04:00:10 ] ④ しかし、記録を調べるうちに、奇怪な事実が浮かびあがった。数十回に渡って他の船にであっていながら、救助に応答 する船は一隻としてなかったことだ。そして、吉栄丸は太平洋横断の途中、たった一つの島さえも発見できなかったの である。しかし、アメリカの貨物船「ウエスト・アイソン」号のリチャード・ヒーリィ船長は、次のように述べている。 「1926年12月23日、シアトルから約1000キロの太平洋上で波間に漂う木造船を発見したが、救助信号を送っても 返事が無いので近づきました。しかし、吉栄丸の船窓や甲板に立ってこっちを見ていた10人ほどの船員は、誰一人と して応えず、馬鹿らしくなって引き上げたのです」 だが吉栄丸の記録にこのことは書かれていない。一体、彼らにはなにが起こっていたというのだろうか。 www.kdn.gr.jp/~takion/no2.htm
124 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/15(土) 04:41:21 ] 【戦争奇譚 ~児童文学家が書いた戦争の物語 ロバート・ウェストール~】 ロバート・ウェストール 1929年~1993年没 イギリス生まれ。第二次世界大戦を舞台にした少年の成長物語を多く 書いてる小説家。戦争という暗く陰鬱とし時代ではあった。が、厳しい現実をものともせず、クスリとしてしまう笑いを盛り 込みながら兵士やその家族、戦火に逃げ惑う人々、そして子供と動物たちが生きて行く姿を書いた小説を多く残した。 現代イギリス児童文学を代表する作家。「ブラッカムの爆撃機」「かかし」「海辺の王国」「猫の帰還」など。この内「ブラッ カム~」「かかし」が戦争にまつわる怪談の本。 「ブラッカム~」は爆撃機と無線とそれに紛れ込む「死んだはずの兵士たち」の声の話。「かかし」は戦争での英雄とされ ている父(死亡)を親愛する少年と、母親の再婚、母親の再婚相手への反発とその増悪に引き寄せられるように日増し に家に迫り来る「怪」の話。少年は家族を守るために父の形見の銃を持ってそれを撃退しようと試みるが…。 この人の本は日本にはそれほど翻訳されて無い。おそらく戦争小説が多いからであろう。だが、あさのあつこ(小説家) 宮崎駿などファンの方はいる。「海辺の王国」はイギリスの戦時中の日常風景を子供の視点で書いている名作。
125 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/15(土) 05:35:11 ] 【戦争奇譚】 幽霊軍艦”志自岐丸”。大正八年八月、志自岐丸という軍艦が種子島沖で沈んだことがあったが、その船幽霊が何度も 出て、みな青くなって帰ってきた。向井町の漁師たちは、ひとりかふたり、小船にガス灯をつけて夜釣りに行くと、何百と いう電気をともした軍艦が、かねて浅瀬であるところを通っていく。そんなときは、二人で乗っていても口ではいえない ので、手で「こんにょう(今夜)、大変な晩じゃからもどろう」と合図して帰るのである。(日本怪談集 幽霊篇 教養文庫) ttp://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/nan-siziki.htm コヒマ攻防戦の最中に投降してきたインド兵が、「毎夜深夜になると、血だらけの日本兵が物凄い形相で、銃眼を次々 に覗きこんでは消える」と言っていたそうな(幽霊が恐ろしくなって投降してきたとの事)。別に捕らえられたグルカ兵も、 「三叉路高地には、日本軍撤退後に毎晩、日本軍の幽霊が出た。夜中になると、どこからともなく喊声がわいて、鉄兜 をしっかりと締めた日本軍が、阿修羅のように突撃してきた。われわれが夢中になって撃つと、スーッと影のように陣前 に消えていくのだ」語っていた。(「インパール」上村喜代治著)
126 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/17(月) 21:00:03 ] 【日本史奇譚 ~義経=ジンギスカン伝説を追う~】 ① 義経は衣川で奥州藤原氏の襲撃を受けて自害したことが史実になっていますが、実は生きのびて東北・北海道から 中国大陸に渡ってジンギスカンになったという伝説があることは衆知のことかと思います。 しかし、この「義経=ジンギスカン伝説」が比較的近年にうまれたものであることを知る人は意外に少ないのではない でしょうか。最初に唱えたのは江戸後期に来日したあのシ-ボルトで、大正の終わり頃に一般的なものとなりました。 義経=ジンギスカン伝説が受け入れられた背景には実は中国大陸の利権を狙う当時の日本の社会的な風潮があった とされています。つまり、大陸に渡って開拓を進める日本人を鼓舞するために、かつてユ-ラシアを支配した偉大な 先祖(つまりジンギスカンとなった義経のことです)がいたことにしようとしたのです。 この小展示では室町から江戸時代までに義経伝説がどのように形成され、さらにジンギスカンとなるまでを当館の 所蔵する古典籍を中心に跡づけていきたいと考えています。
127 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/17(月) 21:00:41 ] ② I. 北海道に逃れた義経 『吾妻鑑』によれば、文治5年閏4月30日に源義経は奥州衣川において藤原泰衡の軍に囲まれて家族とともに自害し、 同年の6月13日に義経の首実検が行われたことになっています。 けれども、この首実検は義経の死後40日もたって行われています。このことが義経伝説の生まれる素地となりました。 つまり、夏でもあり首が腐っていないはずはなく、義経かどうかは確認できない、というのです。また、衣川から鎌倉 まで40日もかかるはずはなく、これは義経を逃すための時間かせぎ、カムフラ-ジュだったというのです。 室町時代に創られたお伽草紙では義経が北方の各地を冒険するお話がつくられていますが、この時点ではまだ義経 が奥州を逃れたということにはなっていません。 しかし、江戸時代の1644年に徳川家光が編纂を命じた『本朝通鑑』続編に文献上始めて義経が死んでいなかったと いう記述(「俗伝又曰。衣河之役義経不死逃到蝦夷島存其遺種」)があらわれます。これ以降は義経が北海道に逃れ、 彼の地で神として祭られているという記述が多くなります。 ◎御曹子しま渡 (甲和 1052) ◎続本朝通鑑 林羅山/鵞峯著 1670年 (321-248) ◎本朝武家評林 遠藤元閑著 1700年 (323-162) ◎義経勲功記 馬場信意著 1712年 (石崎324.1-2) ◎大日本史 水戸彰考館編 1720年~ (321-192)
128 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/17(月) 21:01:35 ] ③ II. 中国大陸に行った義経 義経が北海道に渡ったとする伝説が生まれた背景には北東アジアを南下するロシア帝国の脅威がありました。北海道 に住むアイヌの人たちの神(オキクルミ)と義経が同一であることを彼らに強制させることで、北海道が日本の「領土」 であることを主張する理由づけができたのです。(菊地勇夫「義経『蝦夷征伐』物語の生誕と機能」『史苑』42巻1~2号) さて、『鎌倉実記』(1717年)の中で、「金史別本」という本があってそこには義経が中国大陸に渡った、と書かれている と紹介されています。このことは当時かなり衝撃的だったようで、新井白石も義経の中国大陸行きに大きな関心を示し ています。1783年の『国学忘貝』に、「図書集成」には「朕姓源義経之裔其先出清和故号国清トアリ清ト号スルハ清和 帝ノ清ナリ」と書かれていることを紹介しています。つまり、中国の清王朝の先祖は源義経で、清という国号は清和源氏 からとったというのです。後になって「金史別本」も「図書集成」も偽書であることがわかるのですが、江戸時代の中頃に なって、義経は北海道を抜けて中国大陸に足跡を残した、という伝説が生まれてきます。けれども、まだ義経はジン ギスカンになっていません。 ◎鎌倉実記 加藤謙斎著 1717年 (324.1-12) ◎読史余論 新井白石著 1724年 (320.4-6) ◎新安書簡 新井白石/安積覚 1721年 (041-8) ◎国学忘貝 森長見著 1783年 (041-90) ◎桂林漫録 桂川中長著 1803年 (041-156)
129 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/17(月) 21:02:34 ] ④ III. ジンギスカンになった義経 シ-ボルトは『日本』に彼の友人であった吉雄忠次郎が義経はジンギスカンになったことを確固として信じていると 記しています。そしてこの「世界的事件」に歴史家が注目するようにとも書いています。こうして、義経がジンギスカン になったということが世間に広まりました。 最終的にこの伝説を決定づけたのが小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』でした。松山巖氏はこの本が出版され た後の読者の声をまとめて、大陸に向かう日本人を鼓舞するのに大いに役立ったと指摘しています(「英雄生存伝説 と日本起源論異説」『ユリイカ』1989年9月号)。 ◎日本 シ-ボルト著 1832年~ (210.08-61N) ◎成吉思汗ハ源義経也 小谷部全一郎著 1924年 (320.4-263) ◎中央史壇 第10巻第2号 1925年 (320.4-265) 参考文献 金田一京助全集 第12巻 金田一京助著 1993年 (081.6-20N) 歴史への招待 第9巻 1980年 (320.7-255) www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/19_yoshi.html
130 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/17(月) 21:11:27 ] 【戦争奇譚】 秀吉の朝鮮出兵の時、元々、反秀吉派であった紀州の斎賀党は戦いの最中に、当時朝鮮にも中国にも普及して いなかった鉄砲を朝鮮側に伝え朝鮮兵と一緒に秀吉軍と戦った。朝鮮の古文書は彼らをサヤカと読んでいる。 戦いの後、斎賀党は日本に帰国せず朝鮮に残った。彼らの伝えた文化は韓国に伝わった。戦中、朝鮮の斎賀党の 村出身の朝鮮人は非国民扱いを日本政府から受けた。今でも斎賀党の一族は韓国に現存している。 帝国陸軍は本土決戦で破れたら満州で亡命政権をつくり、ソ連と組んで英米に対抗するという計画を持っていました。 そのため三種の神器を奉天にもっていくつもりでいた。ソ連の裏切りでこの計画が崩壊したので終戦になった。 それでも「満州の残滓」は、朝鮮半島の北部に別の国家を作り、戦後もチャンネルは生きていた。 彼らはまだ「あの戦争」を継続している。属州と成り果てた「日本」ではなく、本来「あるべき日本」を妄想しながら。 そもそも北朝鮮は、奉天特務機関とか中野学校、上海同文書院系の「スリーパー残置諜者」が建国に大きな役割を 果たしたといわれています。 鎌倉幕府二代執権の北条義時は、ある日、日頃の多忙な職務の疲れが一気に出てうつらうつらと眠ってしまった。 すると… 夢の中に十二神将が現れて義時にこう告げる。「来年の鶴岡八幡宮の儀式に出ると大変なことがあるので 出ちゃダメ」義時は神仏のお告げということでありがたく思い、その年の暮に御堂を建てる(後の覚園寺)。 翌年の八幡宮の儀式にて義時は、さすがに執権が欠席するわけにはいかんと思い出席していたが、お告げを思い出し て、体調不良ということで他の人に役目をパスして退席する。その直後、公暁が源実朝と義時に役目をパスされた人を 暗殺という事件が発生。義時はあやうく難を逃れた。以降、覚園寺は歴代北条家によって保護されていく。
131 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/19(水) 21:54:57 ] ・貴種流離譚 『高貴の血脈に生まれ、本来ならば王子や王弟などの高い身分にあるべき者が、「忌子として捨てられた双子の弟」 「王位継承を望まれない(あるいはできない)王子」などといった不幸の境遇に置かれ、しかし、その恵まれない境遇 の中で旅や冒険をしたり巷間で正義を発揮する』という話型を持つ文芸作品についてもこの概念に含めるという考え 方も存在するなど、決して狭小な範囲に限定された概念ではない。しかし、「生まれの良い人間が結局すぐれている」 といった価値観が根底にあるのは否定できず、子供の教育上、問題視される場合もある。 ・異類婚姻譚 人間と違った種類の存在と人間とが結婚する説話の総称。世界的に分布し、日本においても多く見られる説話類型 である。なお、神婚と異類(神以外)婚姻とに分離できるとする見方や、逆に異常誕生譚をも広く同類型としてとらえる 考え方もある。よく知られている例としては、ギリシア神話ではキューピッドとプシケーの物語やゼウスが乙女の元に 白鳥や水滴と化して訪れる話、グリム童話では『かえるの王さま (KHM001)』、日本でいうと鶴女房などが挙げられる。 これらは古代の族外結婚による信仰、生活様式の違いに起源を求める説がある。
132 名前:名無し物書き@推敲中? [2008/11/24(月) 00:34:30 ] ヘイドレクは本を閉じた。 「なにが戦争だ、クソつまらん!」床に叩きつけた。 じつをいうと最初の二行ほどしか読んでいないのだが、ヘイドレクは自分の方が絶対に おもしろい小説を書けると思った。 「よし、やるぞ!」机上の原稿用紙に向き合った。
133 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/11/24(月) 01:28:14 ] >>132 こっちでやってるからこいよ ★あなたのファンタジー小説投稿スレッド★ love6.2ch.net/test/read.cgi/bun/1149702760/l50 ここは違うって何度言えばわかるんだよ
134 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 20:17:07 ] 【戦争奇譚】 香港攻略戦で、市街戦の最中、ある建物の中に突入した部隊がゾロゾロ外へ出てきた。 不思議に思った後詰の兵隊たちが聞いたら「中に入ったら急に寒くなったので気味が悪くなった」 彼らはクーラーを知らなかった。 首尾良く占領後、現地のホテルを兵舎として接収。部隊ごとに部屋を割り当てて分宿したものの 1、オートロックを知らず、部屋から締め出されて廊下をうろうろする兵隊が 続出。 2、スコッチの味を覚えた兵が、凝ったデザインの瓶に入った琥珀色の液体を飲んで下痢続出。 「シャネルの5番」なんかを一気飲みすればそうなる(それとも「夜間飛行」?「プワゾン」だったりして)。 3、「西洋の石鹸は質が悪い。泡が立たん」と文句を言いながらチーズで体を洗うヤツ続出。ちなみに浴槽は当然 日本式じゃない。そこへ一杯にお湯をはって4人5人と一斉に入ったものだからあふれてカーペットは全滅、 更に下の階までダダ漏れ。 1968年のチェコ『プラハの春』弾圧で首都制圧に乗り込んできたロシア兵の田舎者ぶりとどっちがヒドイ?
135 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 20:17:55 ] 【戦争奇譚】 カミカゼ特攻で被害を受けた米艦のなかには、パイロットの遺体のあまりの小ささに(遺体が損傷が酷いってのもある んでしょうが)「カミカゼパイロットは女だった。」と本気で報告したとか。 横須賀の老人ホーム建設現場から出た円柱形の鉄クズ7個をスクラップ業者が解体したところ大爆発。 100トンプレスが全壊、鉄塊が数百メートルの範囲に飛び散るも死者なし。旧海軍の廃棄した機雷を掘り出したため。 ペリリュー島やグアム島では日本軍に女性狙撃手がいたらしい。秦郁彦「日本人の捕虜観」上下に記述有り。 玉砕の島への転身が決まった中隊長となじみなっていた元慰安婦だった、という説があります。 太平洋戦争の時、米駆逐艦の真横に日本潜水艦が浮上。あまりに至近過ぎて火器の俯角が取れず、あわてて手近 にあったトマトを投げつけたところ手榴弾と勘違いしたのかあわてて潜航。 ただハッチを閉め忘れていたらしく、二度と 浮上しなかったことがあったそうな。 糞尿博士世界の旅 中村浩著「クロレラの創始者」より。日本軍のさる南洋の宿舎へ突撃をかけるため、アメリカ軍が 夜中に偵察隊を送った。何人くらいがそこに泊まっているかを調べるために、偵察隊はトイレの汲み取り場(?)へ向い、 そこに溜まっている糞尿の量を調べたところ、大量の糞尿がそこにあった。「これは相当の兵隊を動員しなければ」と 考えたアメリカ軍は、実際100人程度しかいなかったその日本軍の宿舎へおよそ三倍の兵隊で持って攻め込み、 あはれ日本軍は全滅になった。ちなみに草食は肉食の3倍は出るそうで、当時の日本兵は草木まで食べてたし。 それとは逆パターンの話。戦国時代、太い竹筒にウ○コを充填して超極太の○ンコを造り、敵が偵察に来そうな所に 設置した。それを見た敵側は「こんなデカいウン○をするのだから大変な巨人がいる」と思い、引き下がったそうな。 同じ方法を、倭寇が大陸沿岸の住民をびびらせるのに使っていた。
136 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 20:38:28 ] 【戦争奇譚】 会津藩主の子孫の福島県知事、明治百年を機に恩讐を忘れて仲良くしようという鹿児島県の提案を蹴る。 曰く、「100年も前の事というが、アラブとイスラエルは4000年前の恨みで対立している」 極東の某国の兵隊はいんきんや水虫を治すためにわざとマラリアにかかった。梅毒治療にわざとマラリアに 感染して高熱を発する、というのがあるのだそうだ。 ソロモン方面の戦闘で、敵機の攻撃を燃料タンクに受けて、燃料が漏れ出した。幸い、火はつかなかったものの、 このままでは燃料が流出して基地まで帰れない。窮した搭乗員は、なんと被弾した穴を手で塞いで、燃料漏れを 防いで帰還したそうだ。 秋水部隊として知られる332空は別名「神様部隊」と言われていた。司令の柴田大佐や有名な犬塚大尉が某新興宗教 を信じており、巫女さんが「ひかーりーひかーりー」と踊りながらお告げを聞いて指揮を取る。部下は教団本部に連れて こられホーリーネームを付けられていた。「修龍」「健龍」「根龍」「使龍」・・・。追浜での初飛行もお告げで行われた。 戦争中、小笠原列島の父島で日本軍守備隊が撃墜した米軍パイロットを食べていた。島の食糧事情は悪くなかった のに、異常な指揮官と副官たちが先頭にたって食人をおこなっていた。戦後、守備隊の指揮官ほか、首謀者は戦犯と して死刑になった。なお現大統領の父ジョージ・ブッシュは戦争中、海軍のパイロットで、父島付近で撃墜され、パラ シュートで脱出し海上で味方の潜水艦に救助された。(記録フィルムに潜水艦に救助されるブッシュ氏の映像がある) もし、風の関係で父島に降りていれば、ブッシュ氏は… (参考 秦郁彦著 「昭和史の謎を追う 下巻」”人肉事件の父島から生還したブッシュ”より)
137 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 20:39:23 ] 【戦争奇譚 ~大日本帝国~】 某・極東にある無資源国は、東南アジアの石油資源を確保すべく開戦に踏み切ったのだが、その国の海軍は船舶護衛 兵力を事実上保有していなかった。ので、手遅れになってから慌てて護衛艦を量産した。 また、開戦前の戦争終結の見通しについて「ドイツ軍がイギリスを屈服させる」「アメリカは民主主義国家なので厭戦 世論が起きて負ける」と、本気で結論づけた国があった。もっとも「アメリカは民主主義国家なので厭戦世論が起きて 負ける」というのは約三十年後、ヴェトナム戦争でその正しさが証明されることになった。 日米の国力比較を開戦前につくって提出したら、「これでは戦争が出来ないから書きなおせ」と上から言われた。その 時に提出したレポートでの日米の総合力比較の結論が1対1,000。確かに戦争なんぞ出来る数値ではない。現在、世に 流布している日米の国力比較の1対10というのは修正後の最も良い数字。日本がアメリカに負けた原因は軍部官僚の 現状認識の甘さと無責任にあったのはこれで明白といえる。ちなみに資料は国会図書館と防衛庁に保存されている ため、異論のある方は御覧になられてはいかがか?。1対1,000じゃ仮想戦記も書けないけれど本当です。 本土決戦での話。天皇が千葉県の海岸線の守りは大丈夫か、と質問したら、鉄壁の砦が出来ている、と陸軍の参謀に 答えた。その当時の軍事力を信用していなかったのか、天皇は、直属の部隊に調査をさせたら、砦等何も出来ていな い事が判明、という事があったそうだ。戦争末期の陸軍上層部は作る予定が何時の間にやら頭の中では出来ていると いう観念の世界の人になっていたみたい。 岡本太郎は撃墜されて落ちてくる日本機を見て、日本の飛行機がやられた、と言ったが、周りの兵隊は全員、あれは アメリカの飛行機だった!岡本を怒鳴りつけ、あやうくリンチされそうになったそうな。 日本軍の捕虜収容所で食料が少なかったので、連合軍の捕虜に収容所長が工夫してごぼうを食事に出して食べさせ ていたら、戦後「木の根っこを食べさせた、捕虜虐待だ」として戦犯で裁かれた。なお、懲役30年の実刑。 また腰痛に悩むアメリカ人捕虜にお灸治療して直してやったら、火あぶりにかけて虐待した、として、死刑になった。
138 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 20:55:43 ] 【戦争奇譚】 明治期の性道徳教育には、徴兵検査の際に性病感染率が高いことが原因だった。(明治42年で1000人中23.48人) ちなみに検査時に引っかかる感染者は減ったものの、検査後入営までに感染する香具師の数はかえって増加した。 これは徴兵検査=大人へのイニシエーションといった受け止め方が有ったため。ただ、昭和2年の段階で徴兵検査時 までに童貞破った者の割合は34.1%。これでも明治期と比べれば減少したらしい。(「日本の軍隊」岩波新書より) 戦争末期、米軍機が日本に爆弾を落とした帰り道、プロパガンダ用の日本語のビラを蒔いていた。そのビラには、漫画 のフクちゃんが掲載されていた。戦後(最近だけど)、アメリカ大使館からフクちゃんの原作者に著作権料を支払った。 金額はたしか350円程度。 「終戦直前の1945年春、とある憲兵伍長は千葉県の九十九里の部隊に上等兵としてもぐり込んだ。本土決戦に備え、 陣地の構築の様子や地雷の敷設工事状況など、正確な情報を報告するのが任務だった。軍隊というのは都合の悪い ところは書きずらい。そこで『慰安婦を利用しろ』と憲兵隊上層部から指令が出た。一帯には慰安所が3ケ所あり、合わ せて約60人いた。殆どが日本人で、朝鮮人も少しいた。その中から8人を選び、客を装って接触した。料金が2~3円 だった当時、50円近く握らせ、軍事情報を聞き出してもらうように頼んだ。約70人の確度の高い情報を得ることができ た。慰安婦は結果的に国家機関の手足となった。」 この元憲兵の証言によれば、6月8日の御前会議の直前に、侍従武官が九十九里の陣地構築状況の現状視察に来る ので、それまでに戦闘能力や各部隊の陣地構築状況をつかむのがその任務であったという。 6月8日の御前会議では、「今採るべき戦争指導の大綱」で本土決戦方針が再確認された。支配者層の戦争継続の 意志を一挙に打砕いたのは、8月9日のソ連参戦であった。 その日の深夜より始まった御前会議において、昭和天皇は、九十九里浜の築城が未だ出来上がっていないことを理由 に、本土決戦を主張する軍を切り捨てていった。
139 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 20:56:24 ] 【戦争奇譚 ~まるでアルキメデス?~】 昭和18年、元軍人(予備役少佐)で考古学者の大山柏氏は再び赤紙で招集され、室蘭市に設けられた警備隊の隊長 に着任した。戦局の悪化に伴い、「1トン爆弾に耐えられる防空壕を作れ」という命令が警備隊にもまわってきた。 大山氏は歩兵出身でこの手の任務は苦手のはずだったが、考古学者でもあったのでどの工兵隊よりも迅速に完成 させてしまった。 そうすると「海岸に陣地を構築せよ」と工兵隊がするような任務がまわってきた。鉄がなかなか入手できないので、 大手牛乳会社の牧場に赴き重機関銃を牛の群れに向け有刺鉄線を提供してくれるよう依頼し提供を受けた。 大量の鉄を手に入れた大山氏は釘を製造する工場を造りその釘を使って陣地を完成させた。 次に問題になったのは米軍戦車への対抗手段。司令部からの情報では敵戦車を行動不能にするには20キロの爆薬 が必要とのこと。これを人力で投擲するのは不可能。そこで大山氏は図書館から西洋古代史の書物を借り、挿し絵に 描かれた古代ローマの「カタプルカ」という投石機を3面図に書き起こし、車の板バネを使って構想3日、制作7日で 完成させた。これで20キロの砂を詰めた木箱を投げると50メートルほど飛んだという。米軍の北海道上陸作戦の 可能性があったからきた任務だったが、幸い米軍は艦砲射撃だけで去っていった。
140 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 20:57:06 ] 【戦争奇譚】 第二次世界大戦中、日本では刑務所の受刑囚が1番栄養状態が良かった。終戦時まで規定量の食料をちゃんと 与えていた。これには理由があり、刑務所の職員も次々と戦地へ出征し、人手不足が深刻な問題だった。そこで、 脱獄を防ぐため食事だけは決して質を落とさなかったという。TVで網走監獄の紹介をやってて、そこで元職員の 証言として言ってました。受刑者が良い物食べてたと言うのは↓で紹介されてます。 網走監獄博物館 www.ryuhyo.com/kangoku/siryo/data8.html このことは吉村昭の本でも、紹介されていたよ。内務省に泣きついて米を分けてもらったとか、囚人ごときが美味い 飯を喰ってると暴動が起きかねないので世間には秘密にしてたとか、そんなことが書かれていた。屈強の体格の 看守は、みな出兵。残った看守は、ひ弱なお年寄りばかり。仕方なく模範囚を看守として現地採用したはいいが、 逆に看守が囚人に見張られるような事態になった。
141 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 21:04:50 ] 【戦争奇譚】 昭和20年の春。瀬戸内海のある島のでのこと。漁業と造船。ミカン栽培などが産業の島では戦時中にもかわわらず のどかな毎日が続いていた。しかし、そんな島にも戦争の影は忍び寄っていた。島が直接攻撃されることはなかった が、毎日のように呉を攻撃する米軍機が島の上空を飛行して行った。 そんなある日、急激に高度を落とし、島の上空を旋回する一つの機影があった。飛行機が珍しかった島民達の見上げ る目に銀色に光る機体に描かれた星のマークが見えた。「アメリカ軍だ!」呆然と見上げる島民達。国籍マークが見え るほどの低空のまま米軍機は島の小学校上空を通過。その時米軍機のキャノピーが開けられ何かがほうり投げられ た。そして、米軍機は高度を上げ四国の方へと消えていった。 小学校の校庭に落下した物を確かめるべく島民達は恐る恐る校庭に集まった。そこにはヒモで縛られた小さなボール 箱があった。(爆弾ではないか?)一人しかいない島の警察官と軍属、そして代々島の庄屋で村長も勤めているY氏 立ち会いの元、Y家で下働きをする男達がその箱を開いた。中に入っていたのは1枚のハンカチーフとウンコだった。 明治時代、西南戦争後の論功行賞に不満を持った近衛兵の反乱、「竹橋事件」の際、その決起打ち合わせの場所は 厠だった。下痢に悩んでいた下級官吏が、たまたまその話を立ち聞きして上司に御注進に及んだが一笑に付され、 結果、事件が勃発してしまったのである。
142 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 21:05:36 ] 【戦争奇譚】 大正から昭和に掛けて、日本の航空界は多数のお雇い外国人技師を招聘したが、この時、三菱の外国人技師が気に 入ったのは、日本のハンコであった。一○式を設計したスミスは「酢味噌」、ハイランドは「高国」、ジョウダンは「冗談」 と言うハンコを作り書類に押していたそうな。 アメリカ軍が最も嫌ったのが日本軍であった。生意気にも彼等は直接真珠湾に卑怯な奇襲攻撃を仕掛けてきたので ある。ハルゼー提督は「凶暴な猿」とあだ名を付け、「太平洋の全域で我が軍は奴等を沈め、焼き尽くしている。沈める のもさることながら、焼き尽くすのは無上の喜びである」と言っている。 ガダルカナルに上陸したある海兵隊員は日本兵が動物にしか見えなかった。「奴らは山猫のように木立に隠れます。 時々攻撃を仕掛けてくるときの声は、屠殺場の怯えた牛のようです」と語り、別の海兵隊員は「戦う相手がドイツ軍なら よかったのに。ドイツ軍はわれわれと同じ人間だ。しかし、日本兵は動物みたいな物で、まるでジャングルで生まれた みたいに自由に歩き回るし、それに、お目にかかるのは死体になった奴ばかり、というのも動物と同じだ」と言っている。 黄色い猿は人間扱いされないのだ。 従ってモンキーハンティングとなり、狩りのトロフィーとして頭骨などを磨き上げてお土産として本国に送られることに なる。特に人気なのが金歯で、まだ生きて呻きをあげる口に銃剣をさし込み無理矢理引き抜いたりしていた。 彼等はバターン死の行進は知っていたが、それと同じ民族がプリンス・オブ・ウェールズを撃沈した後に花輪を投じた 事は知らなかったのである。 日本降服の時にハルゼー提督はこう言った。「正義と品位が勝利を収めたのである」。「猿のバーベキューを楽しんで くるぜ」という素敵な発言で知られる提督の、粋なコメント。
143 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 21:22:22 ] 【戦争奇譚 ~戦争における保険~】 1942年、我が国には一般火災保険の目的である建物とその付属物と内外に設置された工作物(起重機、ガスタンク、 溶鉱炉など)、一定場所にある動産、運送品、車輌、航空機、船舶を保険する戦争保険臨時措置法というものが施行 された。これは、担保すべき保険事故は戦闘行為に基づく火災や、損壊に限定されたが、その契約は被保険者が 保険金を添えて申し込んだ時に成立するものであった。 保険料、運送品は1000円に付1円、倉庫保管の不特定物は1ヶ月で1000円につき0.8円、それ以外は6ヶ月で4円。 保険料受け取りは、一部(3000~5000円)が現金、それ以上は特殊預金か特殊金銭信託となった。 更に、1944年には火災保険を掛けると漏れなく戦争保険が付いてくるようになった。ちなみに、これには地震保険も 付帯してくるものである。また、これとは別に戦争死亡傷害保険と言うのもあったりする。 戦争保険の保険料収入は、6.4億万円、支払額は当然の事ながら、462.8億円の巨額に上り、地震保険は収入1.1億円、 支払は2.4億円、戦争死亡傷害保険も、収入1.6億円、支払7.7億に達した。
144 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 21:23:43 ] 【戦争奇譚】 戦時中にアメリカはブルドーザーで飛行場をすぐ整地していたが、日本の場合はこれを人力で行っていた。 あるとき南方戦線(おそらくはウェーキ島かグアム島)で日本軍はアメリカ軍のブルドーザーを鹵獲して、ある大学の 研究室に送られてきた。研究者たちは「凄いものだな」と感心していた。だが実は日本には既にブルドーザーは存在 していたのだ。戦前から京都大学にブルドーザーは輸入されたが、予算の関係で放置されていたままになっていた。 と言うのも、戦前の土木工事は、世界恐慌の余波を受けた日本での失業対策と意味合いが大きかったために、ブル ドーザーなどという労働者の仕事を奪うものを政府が推進して開発は出来なかったとの事。 一方、イタリヤやドイツでは分業化が進むから農民が地主にブルドーザーやトラクターの導入を求めた。ドイツ軍の 戦車の多くは元々は農耕用に開発された物を転用したもの。 またドイツではヒトラー政権下で軍需産業や土木産業に人手を取られてしまい、農業人口が不足してしまった。 そのため安価な化学肥料の開発による収穫増と治水、開墾による耕地面積の拡大にも後押しされて農業の大規模化、 機械化がある程度まで進む。この機械化のブルドーザーやトラクターの導入要求もそれの一環だ。 なおドイツの場合は第一次世界大戦の影響でその当時の若年層、つまりヒトラー政権時の熟練労働者層が薄いという 問題もあり、農業人口だけでなく軍需産業も土木産業も、投下された資本やその成果に比べて就業人口は多くない。 再軍備で軍が増員された影響もあったかもしれない。
145 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 21:24:20 ] 【戦争奇譚】 明治37年の12月。児玉満州軍参謀総長は、在大連の遼東守備軍司令官の某大将を訪問した。某司令官は、部屋の 隅にある箱の中から煙草を取りだして児玉参謀総長に勧めたが、児玉参謀総長はそれをのまず、歓談を続けた。 帰り道、児玉参謀総長は従者田中少佐に言った。「田中、A(司令官名)という奴は何も分からぬが、あの箱は西洋夫人 の便器の台だぞ!西洋人が来た時あんなことをAがして見せると困る、貴様Aに言っておけ」 第2次大戦中、ベルリンの日本大使館が東京の外務省と連絡をとるときに、暗号機が壊れていたため電話で連絡をとら なければいけない事態となった。そこでベルリンの大使館には、たまたま鹿児島県出身の書記官がいたため、外務省 の同じく鹿児島県出身の事務官との間で鹿児島弁で会話したという。傍受した米軍もなかなか解読できなかった。 日本占領軍として送り込まれた米軍の第1陣将兵には、日本を”未開の地”とみなして、瘴癘(しょうれい)地手当、 熱帯の発展途上国に行くときと同じ、一種の危険手当が支給されていた。なお現在でも東京駐在の外資系企業の本社 社員には「熱帯手当」がつく。 東京のとあるビアホールでの話。ビールの泡が多すぎる、と客が文句を言い出し、「ビールの泡はビールか否か」という 馬鹿馬鹿しい裁判があった。結局「泡にはビール以上の濃度のアルコールがある」と、ある博士が熱弁をふるったこと もあって「泡はビール」と結審。問題は、この裁判の判決が出たのが1944年の10月ということである。 もう、戦況絶望的で特攻機出撃していた時期。北九州にはB-29が何度も空襲していたころ。
146 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 21:34:02 ] 【戦争奇譚 ~英彦山の大爆発~】 昭和20数年、戦後まもない頃の事故。西日本のとある村に進駐軍が武装解除のため訪れた。村のはずれに山があり、 山の中腹に掘られたトンネルの中から本土決戦に備えた大量の武器弾薬が備蓄されているのを発見した。武器輸送 をためらった司令官はトンネルに火をつけて破壊する事を命じた。結果、大量の弾薬が大爆発を起こし、山を吹き飛ば して村は壊滅した。佐木隆三が小説にしている。 もう少し正確に書くと以下。敗戦直後の昭和20年11月12日午後5時15分、英彦山駅から500mの二又トンネル内で 火薬が爆発した。この火薬は、米軍の空襲を避けて陸軍がトンネル内に隠していたもので、敗戦になって火薬の処理 に来た米軍将校の軽率な行為で引火した。長さ100mのトンネルを埋め尽くした火薬の量は532トン。死者147名、 負傷者149名、倒壊家屋131戸、田畑の被害範囲は2キロに及び、爆発音は遠く福岡や別府まで聞こえた。 532トンもの火薬の爆発となると、さすがに被害が凄いことになる。殆ど戦術核並の破壊力だから。 米軍包囲下のウォッゼ島では輸送が途絶え、その上爆撃で滅茶苦茶になっていたので極度の飢餓状態にあった。 あろうことか食料分配をめぐって日本兵同士で銃撃戦をして、戦死者を出す有様だったそうだ。一方日清戦争の頃、 荷物の輸送が1日遅れた責任を感じて、指揮官の将校が切腹する事件がおきている。 真珠湾攻撃成功で太平洋戦争が始まった時、NHK鹿児島支局はラジオニュースで景気の良いBGMと供に放送した。 そのBGMの曲名は「星条旗を永遠に」だった。当然ながら、物凄く怒られた。
147 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/09(火) 21:34:45 ] 【戦争奇譚】 1940年末、食堂車は贅沢だから止めろと政府、軍部から強硬に鉄道省の旅客課に圧力を掛けてきた。当時の旅客 課長は列車内で食糧を得る術がないから、残置すべしと主張したが、結局は廃止した。しかし、廃止した直後から、 軍・財界・高級官吏の一群から復活要求が殺到した。今度は旅客課長、逆に強硬にその復活要求を跳ね付けたが、 復活の議が閣議に持ち出される様になり、結局復活したと言う。 東京ドームになる前の後楽園球場は戦時中、東部軍の対空陣地だった。スタンド二階には、機関砲の他、電探、 観測器なども備えられた。その電探の感度を維持するため、震動による故障を避けるために都電は速度を落として 通過し、ネットの網は電波を吸収するというので、大きな布を貼られたりした。 丸の内には本来、鉄筋などを用いた不燃性のビルの建設が望ましかったが、戦時中の物不足でそれが望めず、 木造事務所を建設せざるを得なかった。最初の木造事務所に入居したのは、皮肉なことに鉄鋼連盟と日本製鐵 だった。 太平洋戦争末期、もう化粧品など作れなくなった時代、資生堂にいきなり政府から大量の化粧品原料が、容器に 至るまで送られた。政府の命令によって、資生堂は大量の化粧品、香水、ローションを製造することになった。 当然、社内では様々な説が流れたが、一番有力だったのは、ソ連に講和を斡旋してもらうため、ソ連高官婦人に 贈呈するお土産品だというもの。しかし、実際は、大陸でタングステン、銅などの戦略物資を買い付けるために、 小さくて軽く、そして高価である見返り物資を、と言うことで、高級香水など化粧品類をその物資に充てたもので あった。
148 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/11(木) 06:32:47 ] 正義も悪も、行使する力は同じ暴力でしかない。 それを行使する選択肢もあるし、しない選択肢もある。 それを選択するのは、結局は自分自身だ。 状況の最前線では暴力のみが機能する。(船戸与一) 秩序は力によって作り出される。道徳や宗教によってではない。(マキャベリ) 戦いに打ち勝つには二つの方法があることを知らなくてはならない。 その一つは法律によるものであり、 他は力によるものである。 前者は人間本来のものであり、後者は本来野獣のものである。
149 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/11(木) 20:50:30 ] 【戦争奇譚 ~第二次世界大戦時の戦費、日本はイタリアよりも少なかった~】 アメリカ 3410億ドル ドイツ 2720億ドル ソ連 1920億ドル イギリス 1200億ドル イタリア 940億ドル 日本 560億ドル 欧米から見れば第二次世界大戦における太平洋の戦いなんて付録みたいなものか。
150 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 17:32:31 ] 【戦争奇譚 ~台湾における植民地経営~】 1884年に結ばれたユエ条約によりベトナムを保護国としたフランスは以後この地に積極的に資本を投下し、約20年で 本国からの補助金に依存しない独立した植民地経営を達成するに至った。この成果に対しては、当時植民地拡大 競争で敵対関係にあったイギリスのタイムズ紙ですらフランスの植民地経営能力を天才的と評価するほどであった。 一方1895年(明治28年)の日清戦争の結果台湾を領有した日本は、不可避となった日露戦に備えるため、という外的 要因があったとはいえ、わずか9年後の1904年に国庫の支援から独立した。 白人のみが統治能力を持っている、などという人種観が普通に存在していた時代、独立してから半世紀も経過して いない極東の黄色いサルどもの国が猿真似で植民地を持った、と思っていたらたった10年で経営を軌道に乗せて しまったという事実は、当時の列強諸国にとっては脅威どころか恐怖に近いものがあったのではなかろうか。 もっとも、これを成し遂げた台湾総督の後藤新平は、帝国政府からは大変評判が悪かったという。「キチガイを僻地 に放り出したつもりが、無茶なゴリ押しで莫大な国費を湯水の如く台湾なんぞへ注ぎ込んだ」から。
151 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 17:33:42 ] 【戦争奇譚】 広島部隊に所属していた松本喜太郎は、大正3年に脱走を決行し、昭和20年の終戦で軍隊が解体されるまでの 実に31年のあいだ、当局必死の捜索にもかかわらず逃亡生活を続けた。 戦争が終わってきっと大手を振って歩いたのだろうと考えたいところだが、用心深い彼は、さらにプラス15年間も 身を隠していたのだという。 第二次大戦末期も末期、本土決戦か、ポツダム宣言受諾かで、揉めていた時のこと。 「本土決戦をするにしても、武器も無いではないか」と言う内務省の人に対し、「武器ならある」と陸軍軍人は言う。 他の省の人も、あるというのなら見せてくれ、と言うことになった。翌日、陸軍から、武器を見に来てくれ。と連絡が 有ったので、彼らは陸軍省へと向かった。 何か資料か、どこぞにある武器庫でも見せてくれるのかな?と思っていると、彼らはとある一室に通された。 その上には、槍、弓、猟銃、竹竿の先に包丁をくくりつけた物、などが置いてある。 軍人は、その中から弓を手に取り「至近距離から、音も無く、敵兵を倒せる、必殺の武器である。」 槍を取り「山がちな、わが国の地形では、この手の接近戦用武器が有効であり、また繰り返し使える云々」 これらは民家などの土蔵に有るものを徴発。なき家は竹さおの先に包丁をつけ代用とする、と説明したと言う。 この軍人はおそらく迫水久常。その場に居合わせた鈴木貫太郎は、こりゃ駄目だって腹をくくった。
152 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 17:34:14 ] 【戦争奇譚】 日本の大本営発表は、世界に向けて外電経由で発信されていた。台湾沖航空戦の大戦果や、ブーゲンビル島沖 航空戦の大戦果も海外に打電された。この大戦果に各国は驚愕し、早速その報道を検証してみたところ、余りにも 実態とかけ離れていたことに失笑し、以後、「日本の大本営発表は信用出来ない」ということで世界に大恥をさらして しまったという。このとき台湾沖航空戦の大本営発表を聞いたニミッツが、『我が機動部隊主力は海底に沈降した後、 日本方面へ向かって逃走中』という冗談丸出しの電文を司令部に打電した。 日本でマリファナが非合法とされている根拠の「大麻取締法」が制定されたのは1948年。進駐軍が、アメリカ自国の 「麻薬コード」をそのまま日本に持ち込んだものであり、それ以前は全く非合法の存在ではなかった。 なおヒロポンが戦後しばらく合法だったのは、軍部が兵士用に作りすぎた分の「在庫一掃セール」の為であった。 しばらくして在庫が捌けたら、今度は「中毒者が増えた」という理由で非合法化した。 酒や煙草に高額の税金がかけられたのはそもそも戦費の調達のため。一部で知られている台湾などでの薬物の 許可販売でも、監督官庁は相当潤った。ただ台湾総督府がアヘンに課税する際、一斉に使用を禁止すると現地人 が暴動を起こす可能性が有りと判断し、段階的使用制限として課税し金額を年々引き上げた。こうして昭和初期 には台湾でのアヘン常飲者は0になった。 また関東軍の傀儡、冀東防共自治政府では、大々的に麻薬の製造と密売を行い、大きな活動資金を得ていた。 この活動のおかげで、中国東北部では日の丸はアヘンの会社の商標だと思われてしまったという。
153 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 19:00:39 ] 【戦争奇譚 ~徴兵回避のために行われた様々な努力の数々~】 都会に住んでいるもの場合、本籍を地方に移す。頑強な田舎の成年に混じって華奢な都会人がいれば、自動的に 甲種をすべり乙種になれる。 明治時代に、夏目漱石が徴兵逃れのために北海道に籍を移していた。当時北海道は、開拓地ということで徴兵の 対象でなかったため。ちなみに籍を移した町にはその事を記した碑がある。 役場に行き、徴兵検査のときの担当医を調べ上げる。事前にその医者のところに行き、胸が苦しい、体がだるい、 食欲が無いと訴えておく。うまくこの伏線に、引っかかると、病気認定され、丙種として落とされる。 生醤油を毎日コップ一杯飲む。これで結核、心臓病になるという噂があった。 徴兵検査1週間前から飲まず食わずで、虫下しを大量に飲む。ひまし油など、下剤効果のあるものを大量に飲み、 食事を取らない。水とワカメ、水と寒天、水とコンニャクだけで一ヶ月過ごす。タバコを1日に何箱も吸い、食事を 極端に減らす。これらは体重が減るだけに留まらず、貧血・栄養失調に陥り、脈が規則正しく打たなくなる。 昔、ある神社があった。その神社は"徴兵逃れ"の霊験がある神社として有名だった。神社の近くの沼を渡った男 たちが、その後の徴兵検査で「病気のため不適格」となる者が少なくなかったからだ。その神社には徴兵を逃れる ために多くの人が訪れ、沼を渡った。戦争が終り、米軍がその神社を訪れた。彼らは「日本住吸血虫」がその沼に 発生しているのを確認し、その沼を"即刻"立ち入り禁止にした。
154 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 19:01:13 ] 【戦争奇譚】 関東軍や満州在住の日本人は、日本本土の臣民の苦楽を共にするため、週に一度、豆ゴハンや麦飯を喰うことが 義務つけられていた。だが、これが酷く不評で、中の豆をつまみ出して喰ったり麦がほんの少ししか入れなかったり したそうだ。また、森繁久彌が日本に引き上げてきたとき、あまりにもメシがマズくて「なんて祖国は貧しいんだろう」 とコボし、東北出身の由利徹にタコ殴りにされたという。 鉄道車両はブレーキをかけると、レールと車輪が擦れて、鉄粉が飛び散る。その鉄粉はレール周りの石にこびり 付き、赤くなる。この鉄粉自体は、東京だけで4,000t/年に上るという。 太平洋戦争中、中央線沿線に住む植木職人は考えた。「鉄がない、鉄がないと言いながら、線路脇に一杯鉄鉱石が 転がってるじゃねぇか」彼はそれを国鉄幹部に進言し、その進言はまともに取り上げられ、これを集めて再資源化 する研究が行われたのだが…。砂利、土などの不純物が多くて、鉄分そのものは少なく、貧鉱で採算ベースに合わ ないことがわかり、結局、研究は打ち切られた。 戦争中、兵役拒否のために利き手の人差し指を切断する若者が続発したが、指は三本残っていれば徴兵された。 戦時中のラバウル島において、自給自足率向上の為の絶え間ない努力の結果、食料自給率は右肩上がりで上昇し、 45年8月には全兵員の85%の食料の自給が可能となった。
155 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 19:01:49 ] 【戦争奇譚】 旧日本軍で運転免許を取るには、運転操典を丸暗記しないと車にも触らせてもらえなかった。 そのため陸軍でトラックを運転できる兵は非常に少なかった。 大東亜戦争末期、台湾と日本の海上交通路が米潜水艦により危機的状況になると、日本内地では払底していた 砂糖が、台湾では船積みできないために余ってしまった。内地に帰投する艦艇乗員に、タダどころか持ち帰るよう 命令が下った。無事に持ち帰れれば、の話ではあったが。 敗戦後、日本は連合国に占領された。1945年11月1日、連合国軍最高司令部は日本帝国政府に対して、「連合軍 将兵に対する警察官の敬礼」と言う覚え書きを発した。それは、「日本帝国政府は警察官全員に対し、合衆国進駐 軍凡ての将校に対し敬礼を行なうべき事、特に、星章を附したる陸海軍将官の凡ての乗用車に対し、敬礼を行なう べき事を指令せよ」というものであった。 と言う訳で、街で進駐軍将校に出逢った場合、日本の警官は必ず敬礼をすることが義務づけられた。銀座を警邏 していた場合、そこは進駐軍将兵の溜まり場のような有様だったから、敬礼の為に腕を上げ続けなければ成らず、 凄く苦痛だったと言う。 そんな時代、銀座のとある交差点で交通整理をしていた警官が居た。そして、彼はMacArthur元帥命令で、一階級 上がった。その昇進の理由は、「彼の敬礼する態度がよい」。
156 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 19:09:57 ] 【戦争奇譚 ~沖縄戦の沈没艦船は…~】 沖縄は、あれだけの激戦地であるにも関わらず、海中に沈む艦船、航空機が非常に少ない。多くの艦船が海底に 沈んでいる他の太平洋の島々とは対照的である。 現在あるうち有名なのは伊江島沖に眠るエモンズ、その他少々。 これは朝鮮戦争当時にクズ鉄材が高騰したので、海人(うみんちゅ、漁師)が引き上げてしまったから。 そのやり方も凄い。水中溶断でバラし、大物は発破でドッカン。弾薬満載の軍艦を爆破するのだから危険極まりなく 慶良間沖で大爆発があり約40名が死亡している。この時は大波が那覇まで押し寄せている。この手の事故の総 犠牲者数は6~800名とも。なお水中解体から引き上げ作業は全て素潜りで行われている。信じられないほどの 技術である。(「沖縄ウミンチュ」仲村善栄著 河出書房新書刊)
157 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 19:33:58 ] 【戦争奇譚】 進駐軍が戦後持ち込んだものの中に、日本の鉄道の荒廃を見越して準備した野戦用のディーゼル機関車があった。 その機関車は、戦車、トラクター、ジープなどの部品が多用され、構造は極力簡易化されており、電動工具などで簡単 に修理ができる代物だった。その後、この機関車は、当時の国鉄、名鉄、八幡製鉄所に引き渡され、日本で本格的に 使用された初めての機関車となり、形態的にもその後開発された国鉄のディーゼル機関車に多大な影響を与えたと 言う。ちなみに、この機関車、最初に国鉄に引き渡された時、8500形を名乗っていたが、これは進駐軍で使われていた 機関車の番号が8500番台だったからである。 ちなみにこれはのちの国鉄DD12型。エンジンはキャタピラー製190PS×2。扱いやすい機関車両であったが、やや非力 であることと、発電式のディーゼル・エレクトリックだがモーター搭載位置が低いため、雨の日にはよくモーター故障した らしい。米軍における各種パーツ互換性の高さは皆様ご承知の通り。当時の国鉄はこのディーゼル機関車が故障する と米軍当局に電話してジープを呼んだ。するとGIがジープ2台でやってくる。で、1台置いていく。そのジープから外した パーツで修理ができたそうだ。部品取りになったジープは、次の故障の時に帰りのジープで牽引して米軍基地に持ち 帰ったという。GI(彼らも技術屋だった)がとてもフレンドリーで、国鉄の機関士たちに「ジープを貸してやる、好きに乗り 回せ」と言ってくれたそうだ。だが、あいにく当時の日本では免許普及率が非常に低い。「我々は運転できない」と答え ると、米兵は「なぜだ?おまえたちはエンジニアだろう」と不思議がったそうだ。
158 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 19:39:38 ] 【戦争奇譚】 戦中、戦時粗製の機関車のボイラーが爆発事故を起こしたことがある。戦時型蒸気機関車、D52型での話。この型は 戦後、改良されたボイラーに乗せかえられている。 戦時型で言えば、EF13型電気機関車は、家電製品でいうサーキット・ブレーカー、「高速遮断機」を、製造に手間が かかる上に、なくても走る部品として省略したため、さすがに国鉄の現場から反対意見が巻き起こり、説得に出向いた 設計者が機関区(機関車の車庫)に軟禁される騒ぎに発展。この設計者、戦時量産のため安全基準を下げたEF13の モーターの整備中に感電、九死に一生を得ている。 しかしこの設計者、戦後、英国国鉄では機関車に高速遮断機を設けず、変電所の遮断機で「事故があれば、ひと区間 の電車、機関車を全部止めてしまう」かなり強引なシステムになっているのに「意を強くした」そうだが、戦時中の日本 国鉄と比べてでさえ、ダイヤ密度がスカスカだった英国国鉄と、同列に比較するには無理があると思う。 戦時中、ディーゼル機関の燃料に事欠いて、鯨油まで使ったことがある。高速ディーゼル機関の燃料としてはかなり 無理矢理。予燃焼室式の統制ディーゼルだからできた荒技。 大戦中、ボールベアリングを供給していた日本のベアリングメーカー各社。不二越のベアリングの「NACHI」ブランド (今も存続)の名前が、軍艦の「那智」から来ているのも軍需メインだったため。しかし戦後軍需がポシャり、各社、賠償 として生産設備を接収されそうになる。 この危機を救ったのは国鉄だった。昭和21年以降生産の機関車・電車・客車の台車軸受けを、従来のプレーンメタル から一気にボールベアリングに切り替えた。私鉄電車も西武鉄道を皮切りに続々追随。鉄道による内需増加でベアリン グ業界は接収・壊滅を免れたのだった。
159 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 19:42:59 ] 【戦争奇譚 ~パイナップルの缶詰~】 「ゲゲゲの鬼太郎」などで知られる漫画家の水木しげるは、兵隊時代にパイナップルの缶詰を缶切りを使わずに指で 空けた事がある。水木氏が戦時中にラバウルなどにいた事は知られてるが、これは水木氏が初年兵だった頃の話。 どこの国でも新兵や初年兵は古兵や下士官などから死ぬほどしごかれるが、ある日3人の新兵が理不尽なしごきに 耐えかねて脱走した。この不祥事に驚いた訓練部隊の司令官は、これ以上脱走兵が出ないように新兵達に対して 懐柔策に出た。それは「新兵全員にパイナップルの缶詰を支給する」事。 そして初年兵の水木氏も貴重なパイナップルの缶詰を受け取って大喜びしたが、缶詰をそのまま兵営や寝床に持ち 帰っても、意地の悪い古兵達に巻き上げられるのは目に見えている。その為、この場で缶詰を空けて食べる事にした。 だが、肝心の缶切りがない。そこで焦った水木氏は、パイナップル食いたさに必死で道具も使わずに指で缶詰を空けて 中身をその場で平らげてしまった。 その後、あの時はよくあんな事ができたもんだなぁ、と思い出し、パイナップルの缶詰を試しに指で空けようとしたが、 どうしても空けられなかったとか。
160 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 19:44:50 ] 【戦争奇譚】 第二次大戦直前、欧州の三井物産支店に赴任した人がいた。しかし、大戦が勃発し、独ソ戦が始まって欧州から日本 に向けての物資輸出が絶たれると、在独日本大使館に徴用された。ところが、O大使と反りが合わず、海軍嘱託として Lisbonの海軍武官室で諜報業務に就いている。 当時、Lisbonには外貨自由市場、早い話が闇市場があった。太平洋戦争後、Singaporeで没収した1000ドル紙幣は、 回り回ってこの地で売捌かれたりしている。尤も、この時は、米国の連邦準備銀行が紙幣の番号を控えていたお陰で、 出所が分かり、散々英米の新聞に書き立てられたらしいが。 名将の誉れ高い真崎甚三郎中将は満州中国の特務機関の勤務から帰ってくるとき、鉄道貨車丸ごと一杯ぶんの家財 道具を持って帰国して世田谷の自宅に戻ったらしい。その際かなりの量の馬蹄銀も持ち帰って、戦後の事業経営の 資金にした、という。普通に陸軍の配置転換で満州の任地に勤務していたはずだが、特務機関というのは中国人満州 人の要人と交流しているうちに 何か役得があったのだろうか?
161 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 20:02:01 ] 【戦争奇譚】 横浜市中心部には未だに空襲の被災建造物が現存する。京浜急行戸部駅と日ノ出町駅の間に位置する旧平沼駅で ある。戦時中に経費節減のため廃駅になり、その後被災し崩壊した。同鉄道によると撤去しない理由はプラットホーム と高架が一体構造であり、解体すると高架の強度が低下するかもしれないからだそうだ。 それにしては、つい最近まで焼け焦げた屋根の支柱を放置してたのだから、単に解体費用がもったいなかったからで はないか。少なくとも表面だけ綺麗にすることはできるはずだし。 幕末に幕府が輸入した工作機械が、第二次大戦後米軍に接収され在日・米海軍の施設船舶修理廠で使われていた。 それは蒸気ハンマーであったが、稼働止めたのは21世紀になってから。 乗用車が作られなくなった太平洋戦争中、天皇陛下、各宮家、将校、政府高官が乗る為の高級乗用車を 商工省と 陸海軍協同で企画し、許可会社(日産とヂーゼル自動車)に試作させることになった。と言うのも、やんごとなき人々が 乗る車が、敵国の作った車では具合が悪い、ということから。許可会社には東南アジアで接収した欧米の高級乗用車 が貸与され、これを参考に日産とヂーゼル自動車は高級乗用車を試作することとなった。当時の日本は物資が不足 しており、その試作車はエンジンとシャシーをトラックから流用、ボディは帝国車輌が製作することになった。 さて1943年、日産とヂーゼル自動車の御料車の試作車が出来上がり、富士山麓で試乗会が行なわれた。試乗して みると、エンジン音はやたらと五月蠅く、乗り心地もまるで良くなく、内装もとても褒められたものではなかったという。 この試乗会では同時に、南方で接収したChryslerを走らせていたが、前二社の国産車からこれに乗り換えたところ、 あまりの乗り心地の良さに商工省、陸海軍の担当者全員が、国産車を陛下に勧めるのは無理だ、と判断したと言う。 その乗り心地は、木賃アパートと高級マンションほども違いだったそうだ。以降、御料車の試作は沙汰止みとなった。 ちなみに当時、天皇家が用いていたのは主にRolls-Royce。昭和天皇は戦時中もリンカーンに乗り続けた。
162 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 20:02:41 ] 【戦争奇譚】 大東亜共栄圏建設を謳って南方に進軍した皇軍の宣撫工作担当者は、その土地の言葉で大東亜共栄圏を何と表現 すればいいかがわからず途方にくれた。 1910年の大逆事件は爆弾テロなどハナから計画されていなかったという。彼らは「天皇の血は赤いか否か」という話を していただけだったそうだ。 1927年、昭和天皇がお召し艦に乗って、奄美大島に来島し、名瀬と大島海峡の古仁屋要塞をご訪問された。そこで、 陛下にお見せする映画撮影のため、県職員がトカラ列島の十島村を訪れたが、彼らはその行幸を全く知らす、県職員 から初めて聞かされて驚いた。当然、鹿児島県議会で問題となり、十島村営汽船建造の契機となった。 さてその後、1946年2月のこと、日本と米軍軍政府との行政分離線が、北緯30度に引かれてしまった。 このため、十島村に属する竹島、硫黄島、黒島の上三島と、口之島、中之島、臥蛇島、平島、諏訪瀬島、悪石島、宝島 の下七島とに分割され、更に日本本土とこれらの島を結ぶ航路は運行が停止、下七島は連絡は遮断されてしまった。 この時、十島村の実力者だった人が、上三島の自分名義で借りていた民家を役場に改造し、鹿児島県知事と掛け合い 十島村臨時代理となり、1948年三島村として正式に分離してしまった。 日本にもベルリンの壁とか朝鮮半島の分断線があった訳だ。ちなみに、この北緯30度線は、1951年12月、やっと北緯 29度線に改められ、トカラ列島の島々は日本に復帰出来、分断の悲劇も回避された。
163 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 20:03:25 ] 【戦争奇譚 ~自称、元”特攻隊員”~】 ノンフィクション作家、日高恒太郎氏によると「自称特攻隊」は100%ニセモノ。自称特攻隊員の特徴は、 ・陸軍にいたのか海軍にいたのか曖昧。 ・実在しない航空隊や航空学校などに所属している。 ・軍歴を曖昧にする。陸軍なら少年飛行学校第何期とか海軍の予科練なら甲乙丙の何期で、さらに部隊名などを 明らかにしない。 ・本物は戦争体験を勇ましく語らない。 ・有名人でも「特攻隊員」詐称する人がいる。元連合会長山本章氏も詐称していた。 ちなみに最も「怪しい」のは予科練十四期である。(週刊新潮8/26号より) 極真会館は大山倍達が元特攻隊員だったと自称していた。それを捏造するため山梨に戦時中実在しない航空学校 を作りあげ、さらにありもしない出撃記録までデッチ上げていた。
164 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 20:15:19 ] 【戦争奇譚 ~玉音放送~】 玉音放送は昭和20年8月15日正午以前に一度再生されていた。一部軍人の玉音盤強奪未遂などがあり、やっとの ことで放送局に到着した玉音盤を職員がセット。普段なら本放送の前にテスト再生をするが、はたして恐れ多くも玉音 のテストをしていいものかと考えた。しかしテスト再生をしなかったために本放送で事故が起きては大変と言うことで 正午前に再生をした。ガラス越しの調整室にいた局長や警備の軍人は、スピーカーから突然流れてきた玉音を聞いて、 全員その場で凍りついたという。 昭和20年8月15日、この日の正午のラジオ放送を「陛下はきっと国民を激励してくれるんだろう。」と勘違いした人が いたのは有名だが、中には「陛下はきっと『朕と一緒に死んでくれ』と言うんだろう」と勘違いした人もいた。 運命の日、役所の前(ラジオが一軒一軒になかったので)に集まった人をみて、村長と村ただ一人の警官は仰天した。 包丁や、ロープ、中には青酸カリを持ってるものがいる。「終戦に反対して暴動をおこすつもりか!」と戦々恐々として いると、ラジオが終わったあとも何事もなくみな帰宅する。村長が一人の村人に聞くと、「陛下が死んでくれといったら 一緒にお供するつもりだった」。ある村でのお話し。
165 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/13(土) 20:18:12 ] 【戦争奇譚】 じつは戦後、靖国神社から強制的に撤去された銅像はひとつもない。敗戦後、靖国神社から撤去された銅像は日露 戦争関連のものがわずか8点。しかも経営難から自主的にスクラップ屋に売った物だった。 また万世橋駅前の広瀬中佐像も、日本政府が設置した銅像撤去審査委員会の連中が聯合軍から要請があったわけ でもないのに「自主的」に撤去を決めた。聯合軍としては広瀬中佐像は上官と部下のあるべき姿を現したものでもあり 軍国主義とは関係がないので残すつもりだった。 明治40年に日本製鋼所が設立された時、アームストロングと、ヴィッカースが大株主だった。 電気炊飯器を最初に作ったのは陸軍。戦争遂行上大きな意味があった。炊いた米は保存期間が短いので前線付近 での調理が必要となる。また炊飯の際、前線で大量の真水が必要となる。同時に非常に目立つ煙を出してしまう。 当時、炊飯が必要な米食文化圏の軍隊は近代戦争は出来ないという説が根強くあったので、浄水器で水を洗浄し、 電気で炊飯する野戦炊飯車を作って、日本軍も近代戦争が遂行可能と証明して見せた。このときの技術が現在の 電気炊飯器の技術に生かされている。
166 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/14(日) 20:01:19 ] 【戦争奇譚 ~貨幣・硬貨~】 終戦後すぐ作られた50銭黄銅貨は旧軍の銃砲弾の薬莢等から作られているため、品位が一定でない。(銅600~700、 亜鉛400~300とかなりアバウトな配合比率)そのため良く割れた。 昭和8年から昭和12年にかけて発行された10銭と5銭硬貨は、以前の白銅に代わりニッケルを主原料として製作 された。耐腐食性、対摩耗性に優れたニッケルは白銅と比べ偽造がしにくく、これらの点が評価され採用されたが 他にももう一つ目的があった。兵器類に必要な特殊鋼の材料として不可欠であり国内でほぼ産出しないニッケルを 白銅よりも高い純度で流通貨幣という形で備蓄しようというものであった。昭和12年に日中戦争が勃発し昭和13年 に臨時通貨法が制定されると、代行貨幣が作られこれらのニッケル貨幣は実際に回収されている。
167 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/14(日) 20:03:30 ] 【戦争奇譚 ~貨幣・硬貨~】 昭和13年以降1・5・10銭は錫を代用でアルミを用いたアルミニウム青銅に切り替えられた。しかしすぐさま銅も重要 物資になり結局軽く加工も容易なアルミニウム100%の1・5・10銭が登場することになった。 そして太平洋戦争開戦、既に主力は全金属の航空機時代に突入していた。アルミニウムはいくらあっても足りない、 そこではたと気がついた。「なんでアルミが足りないのに硬貨でアルミニウムを消費してるんだろ?」ただでさえ減る 金属割り当てに対し、インフレで小額貨幣の需要は増加しているため、貨幣切り替えの転機になった昭和13年制定 の臨時通貨法(議会の議決や承認なしに、勅令により貨幣の素材・純度を変更できる)により、これらの貨幣はダイ エットを開始した。 昭和15年から昭和18年の間に10銭は直径22.00mm・1.50gから直径22.00mm・1.00gに、5銭は直径19.00mm・1.20g から直径19.00mm・0.80gに、1銭は直径17.50mm・0.90gからデザイン変更を挟んで直径16.00mm・0.55gになり、薄く 小さくなっていった。だがそのアルミもそのうちに払底する。 占領地の東南アジアから産出する錫と亜鉛の合金貨幣の生産が昭和19年から開始されたが、南方からの輸送が 途絶えがちになるとこれらもすぐさま製造中止、5・10銭は小額日銀券へと切り替えられた。 しかしこの時期になると紙もインクも重要物資となっており、耐久性も紙幣よりも硬貨タイプの方が勝るため、なんと 陶器(磁器)で貨幣を作ろうとした。陶貨は国外では前例があり別段日本が初めてではないが、製造ノウハウは手探 りで、有田、瀬戸、京都などに製造が打診されプレス機もないのでボタンを作る要領で10銭・5銭・1銭の各陶貨が 作られたが本格的に出回る前に戦争が終結、陶貨は日の目を見ることなく死蔵あるいは廃棄された。
168 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/14(日) 20:06:48 ] 【戦争奇譚 ~貨幣・硬貨~】 終戦後すぐ作られた50銭黄銅貨は、旧軍の銃砲弾の薬莢等から作られているため、品位が一定でない。(銅600~ 700、亜鉛400~300と配合比率がアバウト)そのため良く割れた。 昭和8年から昭和12年にかけて発行された10銭と5銭硬貨は以前の白銅に代わり、ニッケルを主原料として製作され た。耐腐食性、対摩耗性に優れたニッケルは白銅と比べ偽造がしにくく、これらの点が評価され採用されたが、実は さらにもう一つ目的があった。兵器類に必要な特殊鋼の材料として不可欠であり国内でほぼ産出しないニッケルを白銅 よりも高い純度で流通貨幣という形で備蓄しようというものであった。昭和12年に日中戦争が勃発し昭和13年に臨時 通貨法が制定されると、代行貨幣が作られこれらのニッケル貨幣は実際に回収されている。
169 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/14(日) 20:12:15 ] 【戦争奇譚】 時は明治2年 政府の鉄道建設計画が根本から揺らぎかける事件がおきた。なんと慶応3年、江戸幕府がアメリカに 鉄道建設免状を出していた事が発覚。アメリカ公使館がその免状を楯に、鉄道建設をさせるよう求めてきた。 「そんなことを許可したら植民地同様になってしまう」と大隈重信が突っぱねた所、翌日公使が抗議状を持って政府に 乗り込んできた。そこで仔細に免状を調査したところ、署名が将軍慶喜ではなく老中小笠原壱岐守であり、大政奉還 直後の12月23日発行だった つまり無資格の老中が勝手に発行したものだった。 それを理由に再度突っぱねたが、公使は納得せず、一時は戦争も辞さない構えだったという。 第二次大戦中の日本軍では、ほぼ全ての物資が不足して居た中で、なぜかコンドームだけは豊富に存在した。従軍 カメラマンが湿気からフィルムを守るのに重宝したと伝えられる。当時の日本で、ずば抜けて機械化が進んでいたのが コンドーム生産であったため。戦略物資は学生が汗だくで作ってたのに、コンドーム生産に関しては、ほぼ完全に自動 化されてたという。全軍に配備された「突撃一番」は、前線の兵士達を感染病から救った。
170 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/14(日) 21:44:51 ] 【戦争奇譚 ~ソビエト軍の兵士たち~】 大戦中のソ連軍の、とある部隊の空挺話。「積雪してるから大丈夫だろう」と、パラシュート無しで降下したことがある。 当たり前だが全滅した。英軍の爆撃機の尾部銃座から放り出されたものの、雪の積もった針葉樹林のおかげで無傷 で助かった人がいるのだが。またソ連では、コンテナに藁を詰めれば衝撃吸収材の代わりになると考え、その中に 乗員を乗せて輸送機から投下する実験をしたことがあるという。はたして乗員は無事だったのだろうか。 またソ連はパラシュート無しでの補給品投下も多くやっている。包囲された部隊に対してそれをやって、後でドイツ軍が 捕獲したら、ほとんど着地の衝撃で壊れて使い物にならなかったそうだ。他にも冬戦争の時ヘルシンキに爆弾をばら 撒いて、「資本家階級に搾取されているフィンランドの労働者に対して援助のパンを投下した」と全世界宛に発信した ことがある。投下と爆撃の区別がつかなかったらしい。 第2次大戦ブックス「拳銃・小銃・機関銃」ではソ連の戦車搭乗歩兵の平均寿命(実戦に出て生存していられる時間) は4週間程度だったそうだ。戦術的後退の許されない軍隊ならでは。 満州でソ連の捕虜になった日本兵達の話。ソ連兵が日本人捕虜を整列させて人数を数えていたが、整列した捕虜を いちいち指でさしで数えているので、恐ろしく数えるのが遅い。業を煮やした日本兵が、掛け算を教えてやった。すると そのソ連兵は一瞬で数値が出たことに対して驚愕。日本兵はこんなことも知らない連中に負けたことを知って驚愕。 ベルリンに攻めてきたソ連兵は民家から水道の蛇口と電球を略奪しまくったらしい、なぜか?彼らは蛇口さえあれば 「どこでも水が出て」、電球さえあれば「どこでも灯りが点く」と思っていたらしい。さらに略奪品の腕時計も両腕に鈴なり につけていたという。ねじの巻き方が判らなくて、止まった端から捨てていたため。またベルリン占領後には、水洗トイレ がなんなのか理解できず、そこでジャガイモを洗っていた。それと大戦前にリトアニアに進駐したソ連将校の奥さん方 は、鹵獲したネグリジェをナイトドレスと勘違い。それを着てパーティーに出席していた。
171 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/14(日) 21:45:28 ] 【戦争奇譚】 第二次大戦において、ソ連戦車の損害はドイツの4倍だった。 旧ソ連はクルスク戦線において戦車を地中に埋めて即席トーチカ陣を作った。確か300台~400台ほどの戦車を 地面に埋めて。機動あってこそ戦車なのになぜそんな事をしたのか? シベリア鉄道工事のとき、バイカル湖を迂回する険しい山を掘り進むのに時間がかかりすぎたため、なんと湖の氷の 上にレールを敷いた時期があった。おかげで氷が割れて貨物列車が沈没する事故が相次いで起こった。 少し時代は遡るが、ナポレオン戦争三帝会戦(アウステルリッツの戦い)での話。当時ロシア軍はまだ旧いユリウス暦 を使用していたため、グレゴリウス暦に更新したヨーロッパ諸国より日付が12日遅く、待ち合わせていたオーストリア 軍と合流できず各個撃破された。 第二次世界大戦中、アメリカはレンド・リース法によりソ連に武器を供与していた。ナチス・ドイツが消滅して幾年月が 過ぎ、ソ連を訪問したアメリカ大統領、ニクソンは、レンド・リース法で供与した武器の代金、8億ドルを払ってくれるよう に時の書記長ブレジネフに言った。それを聞いたブレジネフは、「あなたたちがくれた飛行機や戦車は酷いものばかり であまり使い物にならなかった。だから支払いは3億ドルにしてもらえないか」と値切った。当然アメリカはそんな都合 の良い話に応じるワケもなく、結局、武器の代金は払われず終いだった。またソ連は、ロシア帝国時代に発行していた 軍事債を踏み倒し、世界各国から総スカンを食らったことがある。
172 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/14(日) 21:46:24 ] 【戦争奇譚】 第二次世界大戦開始時にもっとも潜水艦を保有していたのはソ連だった。実に200隻以上の潜水艦を持ち、新鋭艦も 多かった。にも関わらずほとんど活動をしなかった。結局1945年になって十数隻の商船を沈めたに過ぎない。 そのわりに100隻以上の潜水艦が沈んでいる。魚雷発射一回に一発しか発射できなかった。 第二次大戦中のソ連潜水艦が間抜けなように見えるが、日本に対しては憎むべき行為をしている。 北海道近海で1945年8月15日以降、数隻の日本商船を撃沈している。南樺太や千島の侵攻に連動して北海道近海 に展開していたが、北海道上陸のための海上封鎖も兼ねていた。撃沈された日本船には南樺太や千島からの引揚者 が多数乗船していて、その多くが犠牲になった。 『戦争と平和』(セルゲイ・ボンダルチュク監督)の一シーン。ナポレオン軍とロシア軍が正面衝突する「ボロジノの戦い」 では、地平線の遥かかなたまで人馬が入り乱れる光景が展開し、唖然とさせられる。もちろんCGなどではない。この シーンの最後で、地上を俯瞰するカメラ目線がどんどん垂直上昇していき、ついには雲を突き破るシーンがある。どう やって撮影したのか長らく謎だったのだが、だいぶたってから、ある本に秘密が書いてあった。このカットを撮影する ためにどうやらロケットを打ち上げたらしいのだ。 乱獲に乱獲を重ねられていたチョウザメから取り出されたキャビアは、スターリン時代の末期には、軍で靴クリームの 代用に使われていた。今は禁猟のはずの黒海のキャビアだが、実はマフィアが乱獲しまくっているため、お店に行くと 普通に買えるという。また、ポーランド産のキャビアも結構美味しいし、これは安い。ロシアの黒海のキャビアは缶詰 なので、匂いがきついのだ。ちなみに、ロシアで普通に売っているキャビアを買うと、鮭の卵。レッドキャビアという。
173 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/14(日) 21:55:36 ] 【戦争奇譚】 第一次大戦勃発時、同盟国であるフランスから東部戦線形成を急かされたロシア政府は,戦時動員を遅滞させる原因 の一つであるウォッカを禁じた(戦争が終わるまでは禁酒という命令を発した)。しかしウォッカはロシア政府の専売で あったため、売り上げはゼロになり政府の収入は激減し、官僚をして「戦争に際して国庫の増収を図るのが当然なのに 自ら収入の道を閉ざすのは前代未聞である」と嘆かせた。当たり前の事だがこの禁酒令は守られず、ウォッカは闇で 流通した。ひょっとしてロシア革命の原因はウォッカ禁令だったのかもしれない。 実は、ソビエトの共産党を作るために資金などを援助したのは、日本だったりする。明石元二郎大佐。
174 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/14(日) 21:56:09 ] 【戦争奇譚】 「赤の広場」に、「共産主義の広場」というような意味がついたのは革命後のことだった。元々ロシア語において「赤」は 正義、「白」は悪というような意味があったため、「正義の広場」→「赤の広場」という程度の意味でしかなかったのだ。 その後、革命軍が「正義の軍」という意味で「赤軍」と称したため、「赤」が共産主義そのものを意味するようになった。 寒い露西亜では、氷や雪を連想させる「白」が悪、暖かい炎を連想させる「赤」が正義を表す。ちなみに、白系ロシア人 というのは、革命時に「赤」でなかった人たちに対する蔑称でもあった。 日露戦争前、ロシアは日本侵攻のプランを作っていた。それは舞鶴や名古屋、和歌山など等複数の場所に何派にも 分かれて上陸し、大体、舞鶴~京都~大阪間を制圧後、日本軍を東西に分断、各個撃破するという、なかなか手の 込んだものだった。ただし基本的にそれほど輸送船が無い国だったから計画どうり実行する可能性は無かった。 もしも日本に侵攻するとしたなら現実的に考えると、船舶数からして舞鶴だけだろう、と予想した明治政府は、舞鶴に のみ要塞を作った。 終戦後の満州や朝鮮におけるソ連兵の婦女暴行の阿鼻叫喚図は悲惨極まりなかったが、急いでソ連軍憲兵隊に通報 すれば取り締まってもらえたという。ソ連憲兵隊の軍紀風紀の取り締まりは日本軍のそれより凄まじく、通報で急行した 憲兵隊は暴行を行ったソ連兵の集団を自動小銃で掃射、死体をトラックに積み込んでどこかに持って行ったとか。 ソ連軍でも中央アジアの民族の兵隊であれば、政治将校の使うロシア語は通じないため、軍規違反を問いただしても 理解できない。そうである以上、問答無用で射殺してケリをつける、という理由もあったらしい。
175 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/16(火) 01:20:05 ] 【戦争奇譚】 米国の衛星がソビエトの艦隊基地を撮影していた。するとその写真には、かなりの規模の艦隊が港に停泊している。 しばらくして嵐が突然発生し、そのソビエトの艦隊基地を直撃。米国の衛星がその直後を撮影したところ、沈み傾く 船の数々が写っていました。それらは全てハリボテだった。 ソ連崩壊の直前の樺太での話。南端の北海道が見える海岸が近づくにつれて、道の脇とか林の中に戦車、大砲が ずらりと並んでいた。ところがこれがみんなダミー、戦車は、コンクリートで作って電信柱を主砲にしてあった。大砲 は電信柱とか、廃材を組み合わせそれらしく作ってある。案内の通訳(KBGの監視役)「日本軍が攻めてこないように 脅かしのダミーです」と答えた。もうソ連が崩壊間じかで規律も緩んでいたころ、通常ならば外国人が立ち入り禁止 のような場所にKGB自ら案内して、このように本音をもらしているのも異常だが。それよりもソ連は日本が攻めて来る と本気で思い込んでいたのは不思議だ。逆に日本ではソ連が攻めてくると思われていたにも関わらず。 なおロシア人は、モンゴルやナポレオン、ヒトラーによる進攻がトラウマになっていて、侵略に対して異常な警戒感、 恐怖心を抱いているという。歴史的に有名な「タタールのくびき」と言うものがあり、ロシア正史をひもとけば9世紀 あたりから外敵の侵入と略奪を受けつづけてきたことが記されている。1000年もの間、侵攻と略奪を食らえば行動 原理が外敵から侵略される「恐怖」になるのも分かる。 大韓航空ボーイング707がソ連領空を侵犯、最終的には、強制着陸させられた時の話。防空識別圏からみるみる うちに領空に入る。本土上空に差し掛かる707を、レーダーで追尾していたムルマンスク防空司令部が、迎撃戦闘 機がいつまでたってもレーダーに映らないのにやきもきし、基地に無線で問い合わせた。すると、「操縦士酩酊の ため、いまだ発進できず」。
176 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/16(火) 01:21:03 ] 【戦争奇譚】 ソ連時代の話、ある分隊で喫煙しながら車両に給油していると、お約束通り引火して、車両を失った。正直に報告 したくないので、ゲリラと戦闘した結果と虚偽の報告。当然ながら上官にはバレバレだが、その上官も昔似たような 事件を起こして車両を損失していた。ついでに自分の分も併せて報告しておくとばかり、戦果と損害が誇張して 上に報告。ところが、報告を受けた中隊長も若い頃に事故で車両を失っていた。この際だからと大隊に報告すれば、 さらに大隊長は別の中隊の不始末を併せて報告する有様。 こうして帳尻を合わせる報告書は、異例と呼べる早さで決済され、雪ダルマ式に戦果と損害が誇張され続け、より 上層部に報告された。最終的に最初の分隊は、自転車から戦車は勿論の事、戦闘ヘリや爆撃機は言うに及ばず、 何故か貨物列車まで駆使して、師団規模のゲリラを掃討したことになってしまった。当然、人的損害は全く無し。 書類上は人類最強と言っても過言では無い赫々たる戦果により、彼らがめでたく勲章を授かったまでは良かったが、 そう良い事は続かない。その分隊は全員が異動され、最後は行方不明になったそうだ。 「1台のTV以外に基地に娯楽はなかった。兵も下士官も、ラジオ、レコード、読書、寝棚に横になって昼寝、すべて 禁止されていた。もちろんアルコールも。しかしアルコールだけは皆、無制限にじつは飲んだ。燃料補給しないで 最大70分滞空するのに、ミグ25は14トンのジェット燃料と制動機と電子機器用に1.5トンのアルコールが必要。 だからミグ25の基地には、どこでも大量のアルコールが保存されていた。ミグ25は<空とぶレストラン>と称され ていた」(ペレンコ談話)。もちろん工業用アルコールやトラックの不凍液をのめば、死んだり盲目になったりという 記録が山ほど残されている。
177 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/16(火) 01:21:37 ] 【戦争奇譚】 第二次世界大戦で、レーダーの開発が遅れた日本軍が苦戦を強いられたのは周知の通り。ある意味、第二次世界 大戦は科学力の戦争だったといえる。しかし世の中とは広いもので、戦争が終わってしまってから初めて、この世に 「レーダー」というものがあると知った国がある。戦勝国のソビエト連邦である。 T-34戦車の話。とあるロシアのトラクター工場が終に閉鎖することとなったが、ソ連邦時代から数十年間オブジェと して入り口に飾られていたT-34をどうやって移動させるか問題になった。戦車一台を吊り上げれるクレーンを借りて くる金などどこにもないし、わざわざ分解していたら工場跡地の引渡し期限に間に合わない。さてどうしたものか… で、だめもとでガソリンとオイルを入れ、新しいバッテリーを繋げてエンジンを始動したら、エンジンがかかった。 結局、何の問題も無くスクラップ屋まで自走した。 IL-2シュトルモビックはコクピットを始め要所に装甲が施されており、空飛ぶトーチカと呼ばれたが、当初生産された 単座型は特に後上方からの攻撃に弱く、その為12.7mm機銃を備えた後部座席を設けた。この後部座席はなぜか 装甲されておらず、ソ連空軍懲罰隊隊員の唯一の行き先だった。また後部機銃員には女性搭乗員が配置される ことも多かった。
178 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/16(火) 01:50:03 ] 【戦争奇譚 ~イニジエフ~】 ① 「我、死す。されど、屈せず。さらば、祖国よ。」 1941年6月22日、独ソ開戦から1ヶ月で、ワルシャワとモスクワの中間都市ミンスクは、ヒトラーの電撃作戦で陥落。 イジニエフ・アリスコビッチは、前述した遺書をしたためこのときの戦闘に参加した。だが皮肉なことに遺書をしたためた 彼だけが生き残る。1945年ドイツ降伏まで、捕虜として過酷な収容所生活を送り、やっと彼は祖国に帰国した。 しかし「ソビエトも負けたところがある」ことを認めたくなかったスターリンは、イジニエフに「対ドイツ協力罪」をでっち上げ 「裏切り者」としてシベリア送りにしてしまった。 やがて時は流れ、スターリンは失脚。後に立ったフルチショフによるスターリン批判により「ナチス・ドイツに対して勇敢 に戦った者達」として、ミンスクとブレスト要塞が「英雄都市」として、祭り上げられる。と、同時にイジニエフは「ソビエト 最大の裏切り者」から、一日にして「ソビエト最大の英雄」に成る。手の平を返したようにソビエトはイジニエフを賞賛し、 数多くの勲章を送る。そんなイジニエフだったが、英雄に成ったからといって驕るでもなく、シベリア送りに成っていた からといって、いじけるでもなく、「私は単なる共産主義者。単なる労働者に過ぎない」と言って、数多くの「英雄」として の名誉職をすべて断り、一人の労働者として、鉄道整備をしながら人生を過ごした。
179 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/16(火) 01:51:02 ] ② そして晩年を迎えようとする彼の人生に一つの事件が起きる。チェルノブイリ原子力発電所の事故である。 「私がいなかったら、誰が列車を動かすんだ?」ただ、それだけを言うと、次々と逃げ出した同僚を尻目に避難者で満員 の列車を一人で動かしつづけた。汚染地域の上を何往復も。 やがて、すべてが終わった時、イジニエフは血を吐いた。放射能症である。医者すらも、「イジニエフを治療すると自分 が危ない」として、治療を断ってしまった。チェルノブイリ原子力発電所の事故は、崩壊しつつあったソビエトという国家 そのものを象徴していたとも言える。「一人の労働者」として稼いだイジニエフの持つ「ルーブル」は、インフレのせいで、 一夜にして「紙くず」と変り、貰った数多くの勲章は、何の価値も無い「がらくた」なっていた。 そして、イジニエフは死にかけていた。そんなイジニエフが、同じく死にかけていたソビエトに対して、遺した言葉がある。 「我、死す。されど、屈せず。さらば、祖国よ。」 こうして、イジニエフは死んだ。
180 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/16(火) 01:52:35 ] 【戦争奇譚 ~西側最強の兵器?西ドイツのセスナ機パイロット、マチアス・ルスト~】 「赤の広場が禁煙になったんだと」「どうしてだ?」「この前、空港になったからさ」 1987年、ドイツ人青年が小型機で赤の広場に着陸するという事件が起こった。そのことを皮肉ったアネクドート。単なる 好奇心でやったドイツ人青年も大したものだが、着陸を許したソ連空軍にとっては大失態だった。彼こと西ドイツ青年、 マチアス・ルストは密かに西側最強の兵器と呼ばれた。彼の「赤の広場」への着地を許してしまった結果、たちどころに 国防相以下、防空軍の相当数の将官のクビが飛んだからだ。 彼こと西側最強の兵器、マチアス・ルストはその後ソビエトで逮捕されて懲役を喰らったが、そのソ連でお勤めを終え、 西ドイツに帰国した事は結構知られている。しかし、帰国直後に婦女暴行をやらかして再び刑務所行きになった事は あまり伝わっていない。なお、以下が彼の経歴だ。 Rust,Mathias 1987(昭和62)年5月28日 ランス・セスナ172P機でヘルシンキを離陸。モスクワ「赤の広場」に強行着陸。 当時、19歳。9月4日 自由剥奪4年の実刑判決を受ける。 1988(昭和63)年8月3日 釈放 国外退去処分。 1992(平成4)年 看護師(女性)を刺し、殺人未遂罪で逮捕。懲役2年6ヶ月。 刑期を終えた彼は出所し、世界放浪の旅に出る。インドに赴いた際、そこで出合った裕福な紅茶商人の娘と結婚した。 その際、ヒンズー教に改宗した、と伝えられる。
181 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/16(火) 02:09:18 ] 【戦争奇譚】 ある国際軍縮フォーラムでの話。アメリカ側の軍事評論家がこう質問した。「ここに、ロシアのxx工場から出荷した 核弾頭の出荷伝票の写しがあります。そしてここに、それを受け取った極東軍管区oo基地の、納品確認伝票の 写しがあります。出荷された核弾頭の数は36、納品伝票の数は32、これだけで実に4個の核弾頭が、跡形もなく 消えております!」 それを聞いたロシア側の研究者は、落ち着き払った声で答えた。「ご心配には及びません。アメリカや日本の方 にはわかりにくいかも知れませんが、社会主義計画経済の現実を知る者にとっては、ごく当り前のことなんです。 ノルマを達成できないと、減給、左遷ですが、超過達成すると、ボーナス、昇給といいことづくめ。ソ連が崩壊して からも、その慣性はまだ続いております。だから、当然の成り行きとして、冷蔵庫もクルマもテレビも生産工場は どこも出荷数量を水増しするんですよ。核弾頭だって、同じことです」 ロシア大使館(旧ソ連大使館)が現在の場所に建設されたのは、都内でヤキトリの屋台が最も密集している場所 だったから。仕事が終わるとソ連大使官員たちはヤキトリをつまみながら焼酎を飲んだ。
182 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/16(火) 02:10:22 ] 【戦争奇譚】 2002年に衛星の観測によってシベリアに隕石が落ちたようだとロシアに報告が行った。ロシアは調査を開始し、9ヵ月後 に山手線の内側ぐらいが禿山になっているのを発見した。ただ、その地域には誰もいなかったので被害はゼロ。さすが ロシア。9ヶ月も調査しないと隕石落下地点も分からないというのもまた凄い。 冷戦時代、ペンタゴンが年1回発行していた「ソビエト・ミリタリー・パワー」に、ある年、”ソ連のニッアニー・タジル戦車 工場はこんなに大きいぞ!”と、ワシントン市街の地図と重ね合わせ、「キャピタル・ビルからリンカーン・メモリアルまで がすっぽりと入る」、巨大な軍需工場であることを強調した。 すると翌年、ソ連政府が「ソビエト・ミリタリー・パワー」に対抗して発刊していた、「平和への脅威はどこから来るか」なる 年次報告書では、その地図を完全に複写した上で、デトロイト工業団地の地図を重ね合わせ、”アメリカの戦車工場 だってこんなに大きいぞ!”と、反論。 冷戦時代はお互いに「お前の方が強い、俺らは弱い」と言い合って互いに恐怖を煽り敵意を募らせていた米ソ。「恐怖 のバランス」を皮肉って「弱さのバランス」と揶揄した政治学者もいたそうだ。 アメリカ軍が漫画を教範に取り入れた「PSマガジン」を発行、M16を始めとした兵器の扱いをわかりやすく教育した時 に、「アメリカ兵は漫画に頼らないと兵器ひとつ扱えない」と、冷笑したのはソ連だった。だが、若い共産党員があまりに 歴史を理解していないことが問題になった際、ソ連共産党の取った対策は「ロシア革命史」をコミック化することだった。 この「ロシア革命史」、英訳版も出版されたが、漫画というよりは絵入り物語で、漫画としてはPSマガジンより読みにくい シロモノ。
183 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/17(水) 20:24:18 ] 【戦争奇譚】 Tu-22Mバックファイア爆撃機は、超音速爆撃機でありながら尾部に銃座を持つという珍しい機体だが、全速飛行中 (マッハ2弱)に発射された弾丸は、ほとんど後ろに飛ばないで真下に落ちるというウソのような本当の話。 搭載された23mm機関砲の初速が約700m/s、一方全速で飛ぶ機体は650m/s程度を発揮しているので、合計すると 後ろに向かった弾丸は50m/sという玩具の鉄砲のような鈍足である。 ただしバックファイアを同じくマッハ2で追尾する戦闘機から見た場合、弾丸の相対速度は発射速度に等しい700m/s であり、また空気抵抗をほとんど受けずに弾速が落ちる事も無いので無意味な武装では無い。 もしマッハ3級の爆撃機に尾部銃座を設置し、これを真後ろからに向かって撃った場合には、追尾する戦闘機のパイ ロットからは弾丸は発射後徐々に速度を上げて向かって来るように見える。 ただし地上から見上げた場合、発射直後の弾丸は後ろではなく前に進んでいる。
184 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/17(水) 20:25:56 ] 【戦争奇譚】 ソ連のバイコヌール宇宙基地はバイコヌールにはない。チュラタムという街が一番近いので、本来ならばチュラタム 宇宙基地と称するべきなのだが、秘匿のために500kmも離れたバイコヌールの名をつけたのだった。だがアメリカ はそのことを先刻ご承知で、はじめからその基地を「チュラタム発射場」と呼んでた。 第二次世界大戦終戦直後、ソ連の軍事関係者の間では原爆はたいしたことのない兵器である、という認識で一致 していた。その根拠は、都市部で使用しているにもかかわらず、二都市で「20万人しか」死んでいないから、という ものであった。戦争中2000万人失ってる国だからある意味当然の感覚なのだろう。土木工事に核爆弾を使用する などの無茶ぶりは、おそらくその辺りのセンスの延長上にあるのだろう。状況が違えどレニングラードやスターリン グラード考えたらソ連の感覚ではドレスデン爆撃や東京大空襲もソ連から見れば「些細な損害」でしかない。 バルチック艦隊の原子力艦に親善訪問した米軍の将軍がいたのだが、その後の調査で実はただならぬ放射線に 被爆していた事が分かった。「バルチック艦隊の乗務員は暗闇でも見えるんだぜ」というシャレにならないジョーク もあったソ連の艦艇。 旧ソ連空軍での話。当初、パイロットには生存装備の一環として、拳銃と実弾が支給され、管理は各自に任されて いた。だがある時、パイロットが勤務を終えて帰宅したところ、妻と間男の「最中」を発見、まとめて射殺するという 事件が発生してしまい、拳銃はまとめて基地で保管、フライトの時にだけ貸し出すようになった。
185 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/17(水) 20:26:28 ] 【戦争奇譚】 ロシア語には「酔っぱらう」という意味の動詞が70個もある。(中央公論「世界の歴史 17 ヨーロッパ近世の開花」より) 安価な蒸留酒が伝わると半世紀~一世紀ばかりその国がアル中になり、冷え込むと酔いの回りが悪くなる。おっつけ 強い酒が出回るようになる悪循環に陥る。その結果、寒い所の人はよく呑む。 たとえばモンゴルでの冬場の気温はマイナス40℃以下となるため、酔って路上で寝ると凍死する。そのため首都の ウランバートルでは警察が定期的にパトロールしている。だが、毎年かなりの人が飲み過ぎてそのまま路上で寝て しまい、凍死している。 吉村昭「私の引き出し」に、文化四年にロシア軍艦が千島や利尻礼文等に来たときのエピソードがあった。略奪物資 の中に日本酒があったので、水兵たちが樽からすくってがぶがぶ飲んだ。だが甘くて薄いからか、彼らはがぶ飲み した挙げ句、皆ひっくり返ってしまったとか。「翌日は一人残らず二日酔いで青ざめた顔をし、『日本の酒は恐ろしい』 と口々に言っていたという」(拉致された島人の記録による) T-62に搭載された消火装置に使われた臭化エチレンガスは毒性が強く、消火装置作動後に乗員は直ちに脱出しな ければならない。つまり、火炎瓶などを火災センサーに認識させれば、実質戦車を撃破することが可能になる。
186 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/17(水) 20:49:48 ] 【戦争奇譚】 ドイツの武装親衛隊は最激戦地へ配備されることが多いが、ある中隊を再編成のために引き上げさせたとき、わずか 2名しか残っていなかった。(1942初頭 東部戦線) 第三帝国時代、ドイツ軍では軍用犬・軍馬にアドルフ、と名付けるのが禁止された。 どうやら第二次世界大戦で、西部戦線にいたドイツ軍の死亡者数は、終戦前戦死した者の数より終戦後捕虜収容所 で死んだ数の方がずっと多かった。特に米軍の収容所が非道くて、泥沼のようになった牧場に露天のまま放り出して 置いたそうな。物資が欠乏し、かつての占領軍に敵意を持たないでもなかったフランスが次にひどく、意外なことに イギリスが一番ましだったとか。 フランスでは、早めの帰国を餌に捕虜たちに地雷処理をさせていた。西部戦線の主戦場だったフランスにはドイツが 敷設した1000万個の地雷が残されていた。これを処理するため連合軍は、ドイツ兵捕虜を用い地雷探査に当らせた のだ。だが工兵だったのならまだしも、他兵科の素人に地雷処理をさせて結構爆死させてるという。証言によると、 その地雷処理に携わった捕虜たちは「元工兵なんて10人にひとりも居なかった」という。 そのやり方だが、捕虜をはいずらせ木のくいを地面に突き刺す方法で地雷を探させる。運悪く信管に当たれば爆発。 処理済の地域でも爆発が相次いだため、確認のため捕虜に横隊を組ませ行進させる。当然、運の悪い者は爆死。 それを1年ほどやり、ドイツ兵捕虜の死者数は実に50,000名にも及んだという。
187 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/17(水) 20:50:38 ] 【戦争奇譚 ~ドイツ的な真面目さ~】 ドイツで戦争中、パンが配給制になったときのこと。「パンの小麦の量が少ないのではないか?」と疑った統計学者は 毎日配給されるパンの重さを量り、グラフを作ってパン屋に問うた。「パンの重さは規定では180gになっているはず なのに、あなたのパンはそれよりも軽い。これはどういうことなのか?」パン屋は「いや、そんなことを言っても、パン なんて重いのもあれば軽いのもありますよ」と言い逃れをしたが、統計学者はグラフを示してさらに問い詰めた。 「このグラフを見たまえ。あなたが平均して180gのパンを作ろうとしているのならば、このグラフの分布曲線の山は180g に来るはずだ。ところが実際のグラフでは160gが分布の山になっている。あなたの店は軽いパンを作ってごまかしを している。以後、善処したまえ」 次の日から、統計学者のところに届けられるパンの重さは重くなった。しかし統計学者が引き続き重さを計りつづけた ところ、パンの重さは「全て」180g以上であることがわかった。分布曲線は以前のものの180g以上の部分と一致する。 このことから、パン屋が統計学者のところにだけ、180g以上の重さのパンを届けていることがわかった。 かくしてパン屋は物資隠匿の罪で逮捕されたそうな。めでたしめでたし。 ――このエピソードからわかること。 ・統計学はすごい。 ・ドイツ人は細かい。 ・数学者はあまり性格が良くない。
188 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/17(水) 20:58:09 ] 【戦争奇譚 ~録音音楽~】 ドイツの録音技術というのは昔から非常に優れていた。第二次世界大戦の末期のこと、ドイツのラジオ放送局が録音 のオーケストラ演奏を流していたが、連合軍側の兵士たちには、それが録音のものとは到底思えなかったという。 「全土を焼け野原にされるほどの空襲に晒されても、平然と生でオーケストラ演奏をやっている余裕がある」と、連合軍 側兵士たちは誤解し、ドイツに脅威を覚えていたそうだ。 実用に耐えるテープレコーダーを開発したのが1930年代のドイツ。交流バイアス方式によるプラスチック磁気テープ 録音は1941年までに実用化していた。フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルの演奏をテープ録音し、対敵放送に 有効活用したのは有名。何とステレオ録音までやっていた。余談ながら、戦後このベルリン・フィルの録音テープを ソ連が接収し、これを音源とした海賊版レコードを売りまくってあこぎに稼いだのも有名な話。
189 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/17(水) 21:03:34 ] 【戦争奇譚】 有名なヒンデンブルグ号の爆発は水素ガスが燃えたのではなくて、外部の塗料が燃えた。映像でも、当時の証言から も、炎上しながら船体が上昇しているのが分かるが、もし仮に水素が燃えたのであれば機体は急激に浮力を失って 落下しないとおかしいのだ。(分からなければレッド・ツェッペリンのファーストアルバムのジャケット写真を参照) ドイツの記録書によると船体(気球部分)の塗料が火薬と同じ成分を大量に含んでいたことがわかった。さらに驚くべき は、事故当時ドイツではそのことがわかっていたのに公表していなかった。 ちなみにこの気球部分の塗料の成分は、酸化鉄とアルミ粉。雨風を防ぐために塗られたこの塗料の成分は、そのまま テルミット弾の成分と同じ。さぞかしよく燃えたことだろう。一方で、爆発そのものの原因は、雷か静電気であろうという 見方が一般論だが、現在も結論は出ていない。 オリンピックの聖火リレーは、ナチスがベルリン・オリンピックで最初に行った。また平和の象徴の鳩を飛ばすことも、 このベルリン・オリンピックから始まった。さらに世界初のテレビ放送をおこなったのもベルリン・オリンピックでのこと。 国威高揚のためのオリンピックという概念を最初に見出したのもドイツ。ちなみにそのヒントはその2年前に行われた サッカー・イタリアワールドカップである。だが現在のドイツの歴史の教科書では、オリンピックで聖火リレーが始まった のは1960年のローマオリンピックから、と記されている。 なおドイツは、「オリンピックの聖火リレーが通るから」という理由でアルデンヌの森の正確な地図を作成した。
190 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/17(水) 21:04:35 ] 【戦争奇譚】 フリーメーソン第一回世界大会で出席者のひとりが冗談で「セルビア皇太子を死刑にする」(※注:セルビアではフリー メーソンが禁止されていた)を宣告し、全会一致で(冗談で)可決された。後にゲシュタポはこの件でメーンソリーを弾圧 した。結果、フリーメーソンではその後、冗談でも政治の話をするのは禁止された。 第二次大戦中、ドイツは開戦によってアメリカからコーラの原液の輸入ができなくなり、ファンタを健康飲料として開発 した。これは無果汁、ビタミンC、カフェイン入りで、ドイツ軍に粉末ジュースとして納入された。 ナチスドイツ政権時、エビの調理法についての法令が制定された。その要旨は「エビを水の状態から茹でるのは、エビ の苦痛が長く続く、残酷な調理法であり違法である。まず水を沸騰させてからエビを茹でる事で苦痛を与える時間を一 瞬で済ますのが人道上良い」とのこと。なお現代の話だが、オーストラリアでは、日本料理店が摘発されたことがある。 活けの海老を焼いたためだ。 第二次大戦中ドイツ兵に配布された本のなかでもっとも人気を博したのはレクルム文庫版の「シャーロック・ホームズ の冒険」である。ただしホームズはドイツ人で舞台はベルリンに差し替えられていた。 第三帝国時代、ノーベル賞受賞者の3人に2人はドイツ人だった。
191 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2008/12/17(水) 21:09:48 ] 【戦争奇譚】 ヒトラーは1938年5月末、三軍に対して軍備の拡張を指示し、更に10月を目処にチェコスロヴァキアへの武力行使の 準備と西部に於ける防壁の建設を指令した。これに基づき、ゲーリングは、陸軍の幹部との会合で、1万の地下壕と 対空監視塔を建設し、モーゼルとラインの間の防衛を強化する総統命令を出す。 しかし、これらの措置は予算措置を伴わないものであり、ゲーリングはウーデットに対し、ライヒに存在する労働力の 優先使用、工作機械、ベアリングの輸出の制限、38年度予算以上の債務負担、39年度の債務負担の先取り、原料 確保の為の輸出と民需の制限を指示し、6月14日に行なった陸軍の幹部との会合で次のように言った。 「現在の状況では、金のことは大して問題ではない。困難なことが起こったら、各軍は元帥(ゲーリングのこと)まで 申し出られたい。元帥が助ける、大蔵省には責任を取らせない。必要な措置は直ちに講じられるだろう。経済の運命 は国防軍には関係ない。これについては元帥が責任を取る。経済の幾つかの部門が崩壊しようとも全く問題では ない。そうなれば方法はある。ライヒ政府が介入してこれを助けるだろう」 こうして、1938年秋、ドイツの金・外貨準備は枯渇し、ライヒスバンクは占領下に置いた国の国庫から、金・外貨・外国 証券を売却し、外貨をかき集めたが、輸入審査機関が発行した外貨証明書は、輸入については、その支払いの時点 で外貨が存在する保証が無い状態だったりする。
192 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/01/16(金) 07:26:09 ] 【戦争奇譚 ~戦艦大和~】 大和型戦艦は戦艦としてみれば世界でも最高峰だった。46㎝主砲、対46㎝防御、それだけの巨大な艦載砲にも 関わらずコンパクトな船体、28ノットの高速性、追従性は低いが意外なコンパクトの旋回半径。だが残念ながら 時代は大和型戦艦を見捨てた。大和級戦艦はその建造する過程で、日本の近代大型造船の基礎となる様々な 技術蓄積が行われた。また大和級戦艦は戦艦じゃなくて、 今で言うアメリカ海軍第七艦隊旗艦「ブルーリッジ」 のような戦域管制艦だった。また大和級戦艦=超大型防弾装甲つき移動参謀本部(洋上リムジン)とも呼ばれて いた。その呼称は戦歴を見ればわかる。1942年2月12日、連合艦隊旗艦となる/同5月29日、ミッドウェー作戦に より柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため海戦の戦闘には参加しなかった/同6月14日柱島に帰投。 以後も、トラック島での長期間の停泊を含めて実戦に不参加だった状況を指して「ヤマトホテル」と揶揄されもした。 旧大蔵省が断じた昭和の三馬鹿事業って知っているかな?そのうちの一つが大和型戦艦の建造だ。莫大な金を 費やしながら、何の戦果もあげることなく沈んだ。大蔵省も、大和型戦艦の建造は馬鹿だったと認めている。 いま平成の三馬鹿事業に数得られると囁かれている事業は、しまなみ街道と関西国際空港とそしてMD構想だ。 莫大な税金を費やしながら、何の意味もなく終わるのではないかとね。まったくどうにもならない。
193 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/02/02(月) 18:03:48 ] 【戦争奇譚】 昔の狙撃者は、夜、タバコを吸って休憩する敵の兵士がいると、一人目のタバコの火で敵に気づき、二人目で 狙いを定め、三人目で射殺してたとか。だから、戦時中夜の喫煙は禁止されてたし、欧米では「同じタバコの 火を3人でまわすと3人目の奴は近いうち死ぬ」って迷信がある。 集団で戦闘するのが兵隊。それゆえ個々の技量を戦力として数える狙撃兵は異質だ。だが狙撃兵は嫌われる。 敵だけじゃなく味方にも厄介者あつかいされる。ある程度の単独行動も許されてるから、他の兵士からすると 「好き勝手でよくわからない奴」になる。ある戦闘で、支援のために狙撃兵がポジションに着いてたら、「出てけ よ!」って味方の歩兵に蹴飛ばされる話があって、その理由が①自分達は身を晒してるのに狙撃兵は隠れて 撃つ卑怯者。②敵が相手側に狙撃兵が居るのを察知すると怒り狂って激しく攻撃してくる。その矛先は狙撃兵 ではなくて身を晒してる自分達歩兵。だからだという。
194 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/02/06(金) 01:53:25 ] 【戦争奇譚 ~それでも戦地でサウナを楽しむ赤裸々なお話~】 ある本に、戦地でのサウナの様子が、赤裸々に書かれているので、ご紹介しましょう。とある部隊が東部カレリア地方 にいたとき、兵士たちはサウナの中で、自分たちが戦地にいることさえ忘れてしまいました。敵は近くにはいないと考え、 兵士たちはサウナのロウリュ(陰イオンを含んだ熱気)を心ゆくまで楽しんだのです。 その間に前線の位置は移動し、見張り役の兵士たちは退却してしまいました。その結果、サウナの中に取り残された 兵士だけが、突如として敵の領域に入ってしまいました。兵士たちが涼を求めてサウナから外に出ると、前線は既に 破られ兵士たちはロシヤ(旧ソビエト)軍の後方にいたのです。兵士たちは総勢40人位で、兵器はおろか服もない 全くの裸で、残されてしまったのです。付近では、敵の戦車のキャタピラの音が聞こえ、とても緊張した場面であった そうです。 状況を把握した兵士たちは再びサウナに戻り、ロウりュ(熱気)浴び、小さな集団としての士気を高め、そして、静かな 森の中に隠れたのです。その後、夜のうちに前線を突破し、2日の間ピートの沼地と藪の中を潜り抜け、全員無事で 味方の陣地まで戻ってきたそうです。裸で、身体中傷だらけになった兵士たちが、味方の陣地でまず最初にサウナに 入ったことは言うまでもありません。そしてそれは「最高の入浴であった」そうです。 ※冬戦争(1939年~1940年 フィンランドとソ連の戦争)での出来事
195 名前:名無し物書き@推敲中? [2009/04/13(月) 19:25:45 ] ヘイドレクと権田は深夜のコンビニ前でウンコ座りをしていた。 煙草をくゆらし、時々は駐車場のコンクリート面に置いた缶ジュースをちびりと飲む。 金はないがヒマを腐るほど持て余した二人である。煙草と缶ジュースだけでいつまでも 楽しむ術を身につけている。 ヘイドレクは言った。「なんでこんなふうになっちゃったんでしょうね」 「知らん。知ろうとも思わん」権田は顔の筋肉を弛緩させまくったアンニュイな表情で答 えた。「知ったところで作中人物たる俺たちにはどうすることもできない。なすがまま。 なされるがままだ。なんの余地もない」 「まぁ、たしかにそうなのでしょうがこれじゃあ我々があまりにも悲惨に過ぎないでしょ うか」ジュース缶を握り潰し、ヘイドレクは電信柱めがけ投げ付けた。 投げ付けられた空き缶は電信柱をそれて横のブロック壁に跳ね返りヘイドレクの額を直 撃した。 「悲惨過ぎますよ」号泣した。 「泣くな、ヘイドレク!」その涙が過去を思い出してのものなのか、はたまたジュース缶 が直撃したことによる直接的な痛みのものなのかの判断に迷いながら権田はヘイドレクの 肩を抱き寄せた。「泣いたってなにも始まらん。変わらん」
196 名前:名無し物書き@推敲中? [2009/04/13(月) 19:31:23 ] 「だって、これじゃあ、あまりにも」もはや額からの出血は半端なく、駐車場の小さなく ぼみに真っ赤な溜まりを作っている。 「ほら、ヘイドレク。今日も星があんなに綺麗じゃないか」わずか数行のやりとりではや くも面倒くさくなった権田は夜空を指差す。「明日にはきっといいことがある」 なんの根拠もなくそう断言した自分がおかしく、また、額から出血して号泣するヘイド レクを見てもおかしく、何もかもがおかしくなった(つまりはツボにはまって笑いの発作 が押さえ切れなくなった)権田は肩を震わせながら笑う。声には出さなかった。つまりは 笑みを浮かべたのである 本当は爆笑したかったのだが、その時コンビニからヤンキー兄ちゃんたちが連立って現 れたから自粛したのだ。ヤンキー兄ちゃんたちを馬鹿にして笑ったと勘違いされたら、た まらない。 権田はヘイドレクの腕を自らの肩にまわし、立ち上がらせた。 「さあ、行こう」耳元 に囁きかけた。「我々の未来は輝かしいことを信じて。善意ある誰かの創造に委ねて!」 二人の姿は夜のネオン街へと、消えていった。
197 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/04/21(火) 18:07:13 ] 【戦争奇譚 ~第二次世界大戦の本当に理由~】 ドイツに赴任した帝国陸軍の若手は、殆ど全員が金髪美女との偶然にして運命的な出会いを体験し、その後猛烈な ドイツびいきになって帰国する。逆に米英に行っ士官は、最低の人種差別と国力の違いを思い知らされて帰ってくる。 日本が、三国同盟に参加し、「鬼畜米英」と叫んで第二次世界大戦を戦った、本当の理由だ。
198 名前:名無し物書き@推敲中? [2009/04/21(火) 21:04:37 ] そしてヘイドレクはK-1のリングに立っていた。 無理ヤリ立たされたのである。権田に。 対戦相手はアニメの女性キャラの格好だ。 「なんだ。おカマか」ヘイドレクはほっと胸を撫でおろした。 試合開始のゴングと共に、ヘイドレクの地獄が始まる。
199 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/04(月) 21:17:46 ] 尾崎豊は悪の宇宙人ホモホモマッチョ星人との戦いで命を落としたのだ。 以下がそのあらましである。地球を救うために戦った尾崎豊を、我々はもっと称えるべきだ。 地球侵略と地球文明の破滅を狙うホモホモマッチョ星人の悪の陰謀に気づいた尾崎豊は、 地球を救うためにホモホモマッチョ星人の基地のある足立区の千住河原に向かったんだよ。 もちろん見城と須藤は猛烈に反対した。 それは尾崎豊という格好の金蔓を失うかもしれなかたからだ。 それと見城は自分以上にホモホモでマッチョなホモホモマッチョ星人たちの魅力をなぜか知っていたんだ。 だから真性マゾマゾにしてアナル有頂天な尾崎が、 ホモホモマッチョ星人たちに取り込まれてしまうのではないかと恐れたんだ。 だけど尾崎は、そんな見城や精神的ホモホモな須藤の制止を振り切った。 そしてうろたえる見城と須藤に向かって、勃起チンチンをビンビンさせながらこう言い放ったんだ。 「見城さん、須藤さん!僕は地球の可愛いボウヤたちのためにも、ホモホモマッチョ星人の悪の陰謀を潰します。 彼らの穢れない肛門を守るためなら、この命を投げ出すことも惜しくはありません!」 さて、恐怖を紛らわすために浴びるほど酒を飲んだ尾崎は、遂に足立区の千住河原の大地に降り立った。 春風が路地を吹き抜け、尾崎の美しい面貌を月明かりが照らした。 目の前には、後に「尾崎ハウス」と呼ばれることになる、悪いホモホモマッチョ星人たちのアジトだ。 尾崎は戦いに臨むため、バトルコスチュームである全裸状態になって、そのアジトに向かって駆け出したのだ。 「うおおおおーっ!」 そう叫ぶ尾崎の目は、まだ見ぬ快楽と法悦への期待で血走っていた。
200 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/04(月) 21:20:08 ] たった一つの頼れる武器、それは尾崎豊の股間で揺らぐ灼熱の肉棒。 見城には「このけしからんチンチン」といわれて何度もフェラでヌかれたピンク色に輝くおチンチンだ。 奥様には「元気でたまらないわ、ウフッ!」とディープスロートバキュームフェラで精を搾り取られたあのチンコだ。 尾崎はそのチンチンを握り締め、勇躍と夜の帳を駆け抜けて行った。 しかしそれは罠だったのだ。 そう叫んだ尾崎豊の美しい裸体を眺めながら、見城と須藤は何も言えなかった。 ただ見城と須藤はホモホモマッチョ星人と尾崎豊の凄まじいまでのバトルを想像しながら、 泣きながら自らのチンチンをシコシコするだけだったという。 尾崎の性癖を完全に見ぬいていたホモホモマッチョ星人は、南無妙法蓮華経を唱えながら待ち構えていたのだ。 無数のマッチョたちに取り囲まれてしまった尾崎は、そのまま亀甲縛りにされて吊るされ、激しい拷問を受ける。 「うぎゃあっ!」「ぐわあっ!」 次々と振り下ろされる薔薇鞭が、尾崎の美しい素肌を引き裂く。 傷口から流れる紅の血を、ビギニパンツ一丁のホモホモマッチョたちは美味しそうに舌で拭う。 しかし何故だろう、尾崎のペニスは尚も勢いを失わず、激しく勃起したまま痙攣を繰り返した。 先端からはカウパー氏腺液を滴らせ、今にも射精してしまいそうなほどに怒張してゆく。
201 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/04(月) 21:21:45 ] 「尾崎くん、そろそろだな」 そう呟いたホモホモマッチョ星人の総帥、キングマッチョメンが尾崎の前に立ちはだかった。 見城などとは比べ物にならないほどに発達した筋肉、そしてビギニパンツに収まらないほどに巨大なペニス。 その凄まじいまでのホモホモな威圧感に、尾崎は思わず生唾を飲み込んだ。 「これが俺の中に……俺のアナルの中で暴れるのかっ!」 来たる未知の快楽の凄まじさを想像し、尾崎は思わず唸った。 そんな尾崎豊を見下ろしたキンングマッチョメンは、配下のホモホモマッチョたちに言った。 「南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経……おい、アレを用意するニダ!」 すると配下の一人が、皿に盛られた白い粉薬を取り出した。 それと同時に別の部下たちが、尾崎豊の肛門を思い切り押し広げる。 「な、なにをするんですか?」 思わぬ展開に尾崎豊は怯んだ。 もちろん何をされるのかなど、尾崎にはわかっていた。 しかしこうやってあえて抵抗してみせることで、相手の興奮が高まり、 なおかつ激しい愛撫を受けられることも本能的に悟ってもいた。 真性マゾのゲイボーイ、尾崎豊の面目躍如である。
202 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/04(月) 21:22:35 ] そのまま事態は尾崎豊の予想通りにすすんだ。 キングマッチョメンはその図太い指で尾崎豊の肛門をなぞると、そのまま大量の覚醒剤を塗りこんだのだ。 その瞬間だった。 「ひ、ひぎいっ!」 アナルから脳天まで刺し貫くような凄まじい快感が尾崎豊を襲った。 亀甲縛りで吊るされたまま、尾崎豊は虚空でのた打ち回る。 溢れ出る快感、もはや止め処もなく流れる涙、尿、糞便……。 あまりの法悦に尾崎は何度も射精を繰り返し、萎れることなく再び勃起する。 こんな快感がこの世の存在したのか、そう尾崎は感激し、泣いた。 泣きながら尾崎は、キングマッチョメンの股間に起立する男根に視線を注いだ。 全長40センチちかく、尾崎豊の前腕ほどの太さのある巨大ペニス。 それが今から、尾崎のアナルの中で暴虐な振る舞いを繰り広げるのだ! ……それから2時間ほどの間に、尾崎はキングマッチョメンによってアナルを掘られた。 配下のホモホモマッチョ星人たちも、それぞれ己のデチ棒を握り締め、 尾崎の口の中や鼻の穴、顔面や背中や胸に次々とフィニッシュを決めてゆく。 穢れ、堕ちてゆく尾崎豊……だが、その快感の坩堝の中で尾崎は、遂に神を見出したのだ。 そう、神の寵愛、それは母の無限の愛だった。 「か、かあさん?」 キングマッチョメンが尾崎のアナルの中に500mlもの大量の精液を放った瞬間、尾崎は遂に有頂天に達した。
203 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/04(月) 21:23:27 ] 夢の中で漂う尾崎豊の魂……その尾崎に母は語りかける。 「もういいの?豊」 そう微笑んで母は尾崎豊に抱きついた。そのままゆっくりと股間のペニスをしゃぶり出す。 「だ、駄目だよ母さん!そんなことしちゃ駄目だ!」 尾崎は思わず暴れた。 近親相姦という禁忌が、母との無限の愛を穢してしまうと思った。 だが舌使い巧みなフェラに思わず反応し、僅か十秒ほどで射精してしまう尾崎。 「ほら、こんなに溜まっていたじゃない豊……無理しちゃって!」 違う、これは母じゃない!尾崎は直感で理解した。 母さんはこんなことはしない、というよりも僕はロリでゲイボーイのはず…… そう、こんな中年女では射精するわけがないのだ。 「お、お前は誰だ!」 尾崎は母さんの姿をしたそれを突き飛ばし、叫んだ。 「な、何をするの豊!私は貴方の母さんじゃないの!」 突き飛ばされ、地面に倒れ伏したそれは、涙ぐんだ目で尾崎を見上げる。 しかしもはやその瞳には騙されなかった。 ゲイボーイとして目覚めた尾崎豊に、もうそのような嘘は通用しない。 「母さんの姿をして僕を騙そうなんて、貴様、許せん!」 そう叫びながら尾崎は、母に向かって殴りかかった。
204 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/04(月) 21:44:34 ] その瞬間だった。 「ふははははっ!よくぞ見破った尾崎くん!そうだ、そいつはお前の母さんじゃない!」 野太く図太い声が尾崎豊の背後から響いた。 思わず振り替える尾崎豊……その視線の先に居たのは、 正義の味方、スペルマンだった。 そう、あの伝説の宇宙刑事スペルマンだ。 かつて銀河パトロール隊の敏腕刑事として、ホモホモマッチョ星人たちと熱くバトルを繰り広げたあの超人だ。 だが今から数千年前、キングマッチョメンの罠にはまり、 その銀河一の美しいアナルを引き裂かれて斃れた、と伝えられていたのだが… 「それは事実だよ、尾崎くん」 正義の味方スペルマンは、優しく尾崎豊に語りかけた。 「確かに私はかつて、キングマッチョメンに嵌められて、キングマッチョメンにハメられた。 だがあの時、俺は死にかけたが、決して死んだわけじゃなかったんだよ、尾崎くん」 そういいながら、スペルマンは尾崎ににじりよる。 その股間には、キングマッチョメンに負けないほどに巨大なチンコが揺らいでいた。
205 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/04(月) 21:45:55 ] 「そう、俺は瀕死の重傷であったが、死ななかったのだ。 そしてこの地球に降り立ち、俺は生まれ代わるために禁断の魔法を用いたのだ。 キングマッチョメンを斃すために。」 スペルマンは尾崎の目の前にたち、尾崎の目を見つめる。 勃起したスペルマンのチンコと、勃起したままの尾崎豊のチンチンが、軽く触れ合った。 「だがその魔法は危険なシロモノだったんだよ尾崎くん……そのおかげで俺は記憶を封じられてしまったんだ。」 そう言ってスペルマンは、尾崎豊を抱きしめた。 逞しい腕に抱かれた尾崎は、その筋肉の脈動を感じ、思わず欲情を感じる。 だが何故だろう、同時に喩えようもない懐かしさをも感じていた。 まさか……まさか? 「そう、そのまさかだよ、尾崎くん。君は、俺こと宇宙超人スペルマンの生まれ変わりなんだ。」 その瞬間だった。地面に倒れ伏した母の姿をした魔物が、尾崎豊とスペルマンに襲い掛かってきた。 「キシャーッ!私の可愛いボウヤ、豊を貴様に渡さぬぞ!」 母の姿をした魔物は、南無妙法蓮華経を唱えながら、みるみると変身してゆく。 もはやあの優しい母の姿の面影は微塵もなく、毒虫と軟体動物の合わさったような吐き気を催す姿に変身した。
206 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/04(月) 21:47:48 ] 「……あれが俺の記憶を封じていた魔物だよ尾崎くん。」 スペルマンは尾崎の肩を抱き寄せながら言った。 「じゃあ、じゃあ僕の母さんは?」 「安心したまえ尾崎くん。君の母さんの魂は今は天国で安らかに眠っているよ……少なくともあの魔物ではないぞ」 尾崎は安心した。だがそんなヒマも与えぬ凄まじい攻撃が、尾崎とスペルマンを襲う。 毒液を迸らせながらチンコの形をした毒針が、尾崎とスペルマンのアナルを付けねらう。 「尾崎くん、このままでは駄目なんだ。このままだと僕ら二人とも、この”記憶の魔物”に食い殺されてしまう!」 スペルマンは攻撃をかわしながら、尾崎に向かって叫んだ。 「じゃ、じゃあ、どうすればいいんですスペルマン!僕は愛するもの全てのためにここで死ぬわけには行かないんです!」 尾崎もまた攻撃を必死にかわしながら答える。 あの魔物の毒針にアナルを犯されたら、男でもあの魔物の仔を妊娠してしまうのだ。 「尾崎くん、僕と合体するんだ!そうすればこの封印は解かれる!」 スペルマンは無数の触手を跳ね除け、尾崎豊に向かってダッシュした。 「さあ来るんだ尾崎くん、モタモタしているヒマはないんだぞ!」 その言葉を合図に、尾崎は反射的、本能的にスペルマンに向かって跳んだ。
207 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/04(月) 21:49:05 ] そして二人は、空中でシックスナインの姿勢で互いのペニスをしゃぶり、 ほんの0.001秒で互いのオーラルの中に射精したのだ。 その精液を美味しそうに飲み下す尾崎豊とスペルマン。 その瞬間だった。 凄まじい輝きを放った二人は、そのまま融合していった。 灼熱の炎に包まれ、そこから生まれ出てきたのは… そう、宇宙超人スペルマンこと尾崎豊だった。 恐れおののいた”記憶の魔物”は、そのスペルマン=尾崎豊に向かって我武者羅に突進する。 しかし尾崎スペルマン豊の放った紅蓮の炎によって、一瞬にして魔物は消し炭と化した……。
208 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/05(火) 17:01:54 ] 「とーうっ!」 庭に斃れ伏した尾崎豊は、突如立ち上がった。 そして己のアナルを犯し放題犯し続けていたホモホモマッチョ星人たちを蹴散らす。 「な、何っ!」 すぐ傍で別の美少年の尻を開発していたキングマッチョメンは叫んだ。 まさかあれだけの快感攻撃を受けて、再び尾崎が立ち上がるとは…… するとどうであろう。立ち上がった尾崎豊は、次々とホモホモマッチョ星人たちを抱きしめ始めた。 そのままマッチョたちの股間にぶら下がるペニスを口に咥えると、まとめてバキュームフェラ! 「ぐううう!」「うああっ!」 瞬間、凄まじい快感に襲われたホモホモマッチョ星人たちは、尾崎豊の口の中に射精した。 だが、尾崎豊はそれだけでは許さなかった。 再びバキュームフェラを開始すると、舌をたくみに用いて彼らの亀頭を刺激する。 見城に仕込まれた抜群のフェラテクが、スペルマンの宇宙超能力で倍化し、その攻撃力は半端じゃなかった。 さらに逃れていたホモホモマッチョ星人をも捕まえ、彼らのペニスを掴んで己の肛門にねじ込む。 パワーアップした肛門括約筋で彼らのペニスを絞り上げ、次々と精液を吸い取ってゆく。 「ぎゃーーーっ!」 ホモホモマッチョ星人たちは精を抜かれ、次々と干乾びて死んでいった。
209 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/05(火) 17:03:41 ] 「う、うぬうっ!」 キングマッチョメンは思わず椅子から立ち上がり、尚も快楽を求めて纏わりつく地球人の美少年を足蹴にした。 尾崎豊にこれほどの能力があるとは、未だに信じられなかった。 糞便と精液に塗れた尾崎豊は、キングマッチョメンの前に立ちはだかった。 「久しぶりだな、キングマッチョメン」 尾崎豊は精液塗れの顔のまま、ニヤリと笑った。 「わからないのか、キングマッチョメン。俺だよ、宇宙超人スペルマンだよ……」 尾崎のこの思わぬ言葉に、キングマッチョメンはたじろいだ。 まさか、このゲイボーイ尾崎豊が宇宙超人スペルマンだって? あやつは数千年前に罠にはめ、散々アナルを穿り返して殺したはずでは? 「ああ、俺は死ななかったんだよ。そしてこの地球上で生まれ変わったんだ。尾崎豊として!」 「な、なにっ!」 だが、キングマッチョメンはなぜか納得した。 なぜこれほどまでに自分が尾崎豊を危険視していたのかを……。
210 名前:名無し物書き@推敲中? mailto:sage [2009/05/05(火) 17:04:45 ] 尾崎豊を初めて見たとき、こいつはタダのオウム信者たちの現人神ではない、と察したのを思い出した。 それ以上の何か……そう、運命のような、そんな危険な香りだった。 尾崎ファンが犯罪を引き起こしたり、オウム信者達をテロに導くレベルならまだ納得できる。 それ以上の何かが、尾崎の中に眠っていることを、本能的に感じ取っていたのだ。 それがまさか、あの宇宙超人スペルマンだったなんて……。 キングマッチョメンは思わず震えた。 恐怖ではない、驚愕ではない。 それは喜びであった。 かつてのライバルとの邂逅で打ち震える、己の魂のふるえだった。 同時に40センチほどもあるチンコも激しく痙攣し、天に向かって大きく反り返った。 そのチンコのでかいことでかいこと。