- 1 名前:吾輩は名無しである [2014/06/27(金) 10:13:11.89 ID:TfXaJaNiU]
- 戯作者・郷土愛者としての側面が強いオダサクですが
その裏にちゃんと何かしらの思想があったはず。
坂口安吾・太宰治と並び評される無頼派の思想をとくと語りませんか?
- 2 名前:1 [2014/06/27(金) 10:30:08.15 ID:TfXaJaNiU]
- 自分で云います。>>1乙。
坂口安吾は口撃的な文章で角というか棘というか 兎に角とんがった文章にみえます。 太宰治は主観というか私情が多分に入った、安吾の言葉を借りれば ヨッパライ的な文章を書きます。 オダサクは、半ばふざけて面白おかしく書いているようでいて、 また、気に入ったフレーズをあらゆるところで使いまわして、 さも文章の粗製乱造をしているように見せかけてはいますが、 その実オダサクの海か沼のように広くて深い優しさのような毒が丹念に塗り込められていて 読み進めるうちに読者の思考が徐々にマヒして中毒になってしまうのです。
安吾の思想がカッターナイフか十徳庖丁のようなものだとすれば、 太宰の思想は差押えの張り紙の張られた家財道具みたいなもので、 オダサクの思想はクタクタのハンカチかタオルのようなものだと思う。
- 3 名前:1 [2014/06/27(金) 10:42:33.55 ID:TfXaJaNiU]
- 戦後の言論風圧が出版社の選択的意思として残っていると感じるのは
まさにオダサクが紙で読めないことにあります
全集などはありますが、文庫で手に入らない。 書物というものは、全集だけでは足りない。 全集などというものは結局のところ死蔵してしまうもので 死蔵しないための手掛り足掛りとしての文庫を何冊か持っている必要があると感じる
これは思想とは関係ありませんが、 癖のある文章というのは現代の作家だって同じことで、 現代作家特有の平易安易なしゃべり言葉のテレビ言葉な文章の臭みにまみれている。 文章の癖のパターンが軒並み足をそろえて、さあ俺たちの文章は都会的だぞ、洗練されているぞとノタマッテいるだけなのです。 そしてオダサクはその時代に生きていないということもありますが、その足並みそろえて闊歩した連中にそっぽを向けたわけです。 仮にその後生きていてもおそらくそっぽを向いたでしょう。 他の作家仲間のように足並みそろえないことを自嘲的に『二流文学』と称して、 今日もクタクタの文章を中毒患者の為にばら撒いていたに違いないでしょう。
- 4 名前:1 [2014/06/27(金) 10:51:25.73 ID:TfXaJaNiU]
- つまり癖のある文章を書くからと言って
その文章の癖のために文庫として出版され得ないのは、どうもおかしい。 スタンダールへの共感に至るオダサクの思想はまさにオダサクの文章のうちにしか現れないのであって いつ消し飛ぶかも分からない青空文庫で細々と読まれているうちはオダサクは出版社から、 いや、今や唯一不動のものとなったかつての東京文壇から疎まれ続ける不遇の存在と見るしかありません。
オダサクが、いまや日本の文学界から『いるけどいない存在』のごとく扱われる原因とは何でしょうか。 単なる東京の排大阪感情でしょうか。それともオダサクの思想に原因があるのでしょうか。
- 5 名前:1 [2014/06/27(金) 11:26:57.80 ID:TfXaJaNiU]
- オダサクの露骨な郷土愛精神が為にオダサクが文藝の世界から、もしくは出版業界から疎まれているのだとすると、
地方という細胞をして国という身体が構成されている事実から鑑みるにこれはまさしく 東京または中央の対局者ないし地方者に対する横暴の枠を超え、国に対する反逆といえましょう。 全くの話、東京発でない思想は思想としての人格を持ちえないと言っているようなものです。
オダサクの思想、スタンダールを友としてソレリアンに愛情を注ぐその思想が気に入らないのだとしても、 これはまったくおかしな話で、文芸界は司法の業界などと並びうる革新的・反権力的・反体制的思想の温床だったはずです。 かつてのそれらの戦後発の思想は新たな権勢を掴むためのポーズだったのでしょうか。 真正の反骨者は要らなくなった、ということでしょうか。 オダサクは真正の反骨者でした。反骨を辞めることより二流とみなされる方を選びました。 オダサクの思想もまた、真正の反骨者たれ、と囁いています。 我を曲げることなく曲がりくねって生きていきなさい、と主張しています。 我を曲げてまで生きようとする姿勢も、我を曲げるよりは死を選ぶような姿勢も決してオダサクの文学は奨めていなように思うのです。 我を曲げずに生きてみた、駄目だった。まだ道は在る。もう無い?見方を変えろ。という過程は実に有意義なものである。 なぜならそれを称して人生と云うのだから、と織田作之助は信じていたのではないのでしょうか。
大阪に居られる方は一度、千日前は難波谷町九丁目の生國魂神社に参詣してみてはいかがでしょう。 境内の鬱蒼とした木々の下で、立ち並ぶ鳥居を横目に佇むオダサクの銅像が真言坂の方向をじっと見つめています。 境内の曲がった道の向こうから現れる誰かを待つオダサクの像の前でベンチに座って物思いに耽るのも一つの時間の過ごし方だと思います。
- 6 名前:吾輩は名無しである [2014/06/27(金) 11:31:20.69 ID:egPm7BW2w]
- なんだ、朝から酒飲んでカキコか?みっともないな。
- 7 名前:1 [2014/06/27(金) 12:23:14.60 ID:TfXaJaNiU]
- 酔っててもシラフでもこんなんだから仕事が無いんだよバアカ
- 8 名前:吾輩は名無しである mailto:sage [2014/07/02(水) 20:24:41.36 ID:BZQ2p+g4L]
- 興味深い書き込み、拝読致しました。
まず一点、織田作之助はレベリアンではありません。それは夫婦善哉一つ考えてもすぐにわかることです。 そこに織田作之助の反逆性を見るのならば、それは読者への詐欺のようなものです。 作家である以上、だます、嘘をつく、それは当然です。 しかしそれは優しさというより哀しさです。 だましてまでも守りたいもの、それに全てを賭ける…それが作家です。 まずあなたのその書き込みを振り返ることをお勧めします。
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