- 287 名前:ツール・ド・名無しさん mailto:sage [2018/01/29(月) 22:03:40.51 ID:3dZyl2Nx.net]
- 付近が軍用地となったため一時移転したが、1954年に現在地に復興された。境
内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を 望んだ富士講の信仰によるものである。そのほかに富士山に何回も登ったという登 拝記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富士講の講 毎に群を成した所があり、その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。碑塔 で建立年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から19世紀前半( 1781から1850年)に建立されたものが半数(44基)、19世紀末より2 0世紀前半(1871から1940年)のものが3分の1(29基)を占める。写 真B14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅 約120〜210mの数百の流れを持つ滝である。滝は約1万年前に噴出した白糸 溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万?の水を源としている。滝の名前は湧水 の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけられた。湧水のメカニ ズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界 に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き 出しているものである。このメカニズムが解明される前の19世紀半ばの資料「不 二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関 連の文書では、開祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行った地 と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心とした人々の巡礼の場 となった。その様子は1845年と1854年にこの地を訪れた富士講先達の記録 で確認でき、滝つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光」と している。また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれている。 そのほかの19世紀の登山記でも人穴と共にその存在が長谷川角行との関わりを通 して紹介されている。また、白糸ノ滝は景勝地としても有名であり、多くの和歌・ 絵画の題材となっている。写真B15の写真表法的保護、修理・整備の経緯193
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