- 267 名前:ツール・ド・名無しさん mailto:sage [2018/01/29(月) 08:13:39.19 ID:X7YE9q0J.net]
- ばれていた。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三坊
(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認されている。そ の起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上人による富士山頂への大日寺の 建立にあるとされる。末代上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記 録も残されている。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修験 道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1259年には、現存す る大日如来が寄進されたことを仏像の銘で確認できる。末代以後、その流れを汲み 富士山で修行する人々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考 えられる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化し、興法寺を再 興したとされる。15世紀に入ると興法寺とそれを支える宿坊の存在が現存する大 日如来の銘(1478)で確認できる。1482年には修験道本山派の本寺である 聖護院と関係を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊が村 山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属する山伏は夏に「富士 峯修行」を山中及び山頂で行った。また、富士山への一般の登拝者も増加し、夜間 に白装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色 富士曼荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行の際に東麓、南麓の村 を年一回巡回し加持祈祷等を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西日本 の一般登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織化を図ると−30− ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離を取り、祈ることで登拝と同等の 利益があるとする「富士垢離」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印と する伊豆半島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の勢力は 地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前半が最も強かったが、それ
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