- 368 名前:日出づる処の名無し [2010/10/31(日) 05:06:57 ID:LdYWGZVd]
- 南京大虐殺
ナンキンだいぎゃくさつ 日中戦争で南京占領に際し日本軍によって中国軍民に加えられた大規模な残虐行為。1937年(昭和12)8 月,日中戦争は華北から華中に拡大,日本軍は上海で中国軍の激しい抗戦に直面し,大きな損害を被っ た。11月上旬ようやく中国軍を退却させると,中支那方面軍(軍司令官松井石根大将)は,指揮下の上 海派遣軍(軍司令官朝香宮鳩彦王中将)と第10軍(軍司令官柳川平助中将)を,与えられていた任務を逸 脱して国民政府の首都南京に向かって急進撃させた。上海戦で疲労し,凱旋の期待を裏切られた日本軍 兵士は自暴自棄となり,補給がともなわず現地徴発に頼ったこと,中国侮蔑感情や戦友の仇を討つとい う郷党意識にとらわれていたことなども加わって,南京への進撃途上ですでに略奪・強姦・虐殺・放火な どの非行が常態化する状況となった。12月13日,南京占領に際しては,17日の入城式に備え,徹底的 な掃討を行い,投降兵・捕虜を長江沿岸などで大量に処刑し,多数の一般市民をその巻添えにし,略奪・ 強姦・放火を重ねた。さらに12月22日,佐々木到一少将が城内粛清委員長に就任,中国兵の狩出しと処 刑を続け,38年2月初めに及んだ。犠牲者数について中国側の公式見解は30万人とするが,戦闘行為 による戦死者を除き,上海から南京への進撃途上から38年2月初めまでの期間をとれば,10数万人から 20万人前後に達するとみられる。この事件は〈《シカゴ・デイリー・ニューズ》〉(1937年12月15日付),〈《 ニューヨーク・タイムズ》〉(1937年12月18日付)などによって報道され,国際的非難を浴びたが,日本 では厳重な報道管制を受け,日本国民は敗戦後の東京裁判によってようやくその事実を知らされた。同 裁判の結果,松井大将が大虐殺の責任者として死刑に処され,南京での裁判で第6師団長であった谷寿 夫中将らが処刑された。 (平凡社『世界大百科事典』「南京大虐殺」)
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