- 1 名前:名無したん(;´Д`)ハァハァ mailto:sage [2007/11/01(木) 15:31:16 ID:FwuAXhSg●]
- 鬱っぽい女の娘やゴスロリの女の娘の画像や漫画をお願い致します
リストカットや退廃的なもの歓迎 ロリータファッション総合として甘ロリもOK 細かいこと言わずに気に入ったのを貼って、気に入ったのを落としましょう 前スレ 【GOTH】鬱少女の漫画や画像7【WristCut】 sakura03.bbspink.com/test/read.cgi/ascii2d/1162314867/
- 115 名前:名無したん(;´Д`)ハァハァ mailto:sage [2007/11/15(木) 08:25:11 ID:zo7JkZwR]
- ついでに>>69-70,90,102,105,107の哲学的にも大間違いな所ですが
ソシュールの言う言語の恣意性は言語のグローバル的な構造においての話で ある体系においては必然化され、シニフィアンがシニフィエを内包します。 シニフィアンはある体系下では全て既に必然的にシーニュを形成している、と言ってもいいでしょう。 「欝少女」と「ヤンデレ」はある概念のシニフィアンであるとは言えますが それに対して「欝少女」は好きだが「ヤンデレ」は嫌いだ、と言った場合は 既に体系において必然化された、別個のシニフィエをそれぞれ内包したシーニュとして言っている事になります。 「欝少女」「ヤンデレ」がメタ記号、シニフィエを一切持たない純粋なシニフィアンであるならば好悪は発生しません。 好悪、或いは何らかのシニフィエと切り離されている物がシニフィアンだからです。 逆に言えば、好悪が発生している段階で、それが音象徴であれ、文化影響であれ、成句過程であれ なんらかの体系的作用により、すでにシニフィエを内包した一つのシーニュを形成していると言えます。
- 116 名前:名無したん(;´Д`)ハァハァ mailto:sage [2007/11/15(木) 08:26:59 ID:zo7JkZwR]
- >>78の大きな勘違いはここにあって、一つの体系下ではシニフィアンとシニフィエが既に必然化されているという事を無視し
既に必然化された言語体系の中でのシーニュをシニフィアンであるかのように扱っている所です。 「ふンコ」は既に日本語の体系下では、音象徴や類型の語によりある種の概念を形成しているので、純粋なシニフィアンとはなり得ないのですが あたかもメタ記号であり、単なるシニフィアンとして扱ってるのが大きく間違っています。 純粋なシニフィアンをある体系下で表象しうるのか、というのは難問です。 おそらく無理なので、あるシーニュをとりあえず純粋なシニフィアンであるとして了承してもらうしかありません。 つまり、「ふンコ」から何一つ特別な感情も具体的な事物も想起させない記号ですよ。 何か思い浮かんだとしても、それはこの際忘れておいてね、という了承をした上で論を進めればそれはシニフィアンとして扱えます。 「foobar」とか「ほげほげ」なんかは、プログラムの世界ではそういう了承を得ていたりしますね。
- 117 名前:名無したん(;´Д`)ハァハァ mailto:sage [2007/11/15(木) 08:30:34 ID:zo7JkZwR]
- さて、ある画像があります。
その画像は「欝少女」であるとも「ヤンデレ」であるともいえます。 (そういえる画像はそれなりにあると思われます。) その画像を「欝少女」と呼ぶのは好むが「ヤンデレ」と呼ぶのは嫌だ、と言った場合 「欝少女」・「ヤンデレ」はその画像に対してのシニフィアンとしてではなく すでに「欝少女」・「ヤンデレ」のシーニュが内包しているシニフィエをもって その(画像も記号ですから)画像をシニフィアンにシニフィエとして働いている事になります つまり、一つの体系下においては、シニフィアンはシニフィエを必然的に内包しシーニュとなり それ自体が他のシニフィアンのシニフィエとして働きうる、という逆転現象を容易に起こす事になります。 これは純粋なシニフィアンが存在しない、という事の裏返しでもあります。 よって「欝少女」「ヤンデレ」がある体系下で既に一定のシニフィエを持っている場合は 画像が外面・シニフィアンで、それに対して「欝少女」と捉えて「欝少女」の持つシニフィエ 「ヤンデレ」と捉えて「ヤンデレ」の持つシニフィエを与えるかというのは内面になりえます。
- 118 名前:名無したん(;´Д`)ハァハァ mailto:sage [2007/11/15(木) 08:35:54 ID:zo7JkZwR]
- 概念と名称、どっちが大事かなんて事はナンセンスな話なのですが
姿形が要、見た目が大事、性格なんかと言い切る人は、 この画像が「欝少女」であろうが「ヤンデレ」であろうが構わないという事もいえます。 「欝少女」の持つシニフィエで捉えようが「ヤンデレ」の持つシニフィエで捉えようが 画像自体のシニフィアンとしての働きは変わらないというわけですね。 それはそうとそこまで割り切るならありですが 「欝少女」・「ヤンデレ」を、シニフィアン、名称であると考えて 名称が重要なんだから、あるシニフィエ、概念において、どっちで呼ぶかは重要なんだと言うと それは本来の名称であるはずのシニフィアンが、シニフィエを内包したシーニュと化してしまい 結局重視しているのはシニフィエである、という自己矛盾を抱えてしまいます。 つまり、一つの体系下である事物に対してどちらの名称どちらがいいか、という事を考えるのは 純粋なシニフィアンではなく、ある種の概念を伴ったシーニュにすぎない名称 つまり概念を含んで判断しているのだ、というのと同様の事になってしまうわけです。
- 119 名前:名無したん(;´Д`)ハァハァ mailto:sage [2007/11/15(木) 08:43:46 ID:zo7JkZwR]
- というわけで、概念と名称で名称が大事と言ってる人は
その名称に既になんらかのシニフィエを持っており 名称を純粋なシニフィアンとして捉える事ができなくなっているだけだ、という事に気づきましょう。 概念を伴わない名称、概念と分けられた名称、その場合における概念と名称の関係は 一つの体系化から切り分けられた関係でもあり、それは恣意的であるとしかいえません。 殻や顔や学歴それぞれも、どちらが重要などと言っている時は すでに殻や顔や学歴を本来の名称のような、純粋なシニフィアンとしてみておらず それ自体に価値や意味を見出している、シニフィエを内包したシーニュ、概念を伴った物としてみているのです。 そんなのは概念より名称を重視している、なんていう事とは、はるかにかけ離れた行為です。 おまけに言っておくとその体系下においてシニフィアンに内包させているシニフィエが適切であるという保障は何一つありません、 本来恣意的な物がただその体系では必然化しているだけですから。
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