- 748 名前:見ろ!名無しがゴミのようだ! mailto:sage [2007/06/02(土) 17:41:20 ID:l4xLrjrq]
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人によって説が分かれる。まちまちになる。 なぜなら、作品内のどこにもその明確な具体的根拠が描かれてないからだ。 それを描かなかったこと自体は、これはもう明白にパヤヲ自身の思惑といっていい。 パヤヲはナウシカ原作マンガにおいて、 この 「 結論の出ない論争 」 というものが世に発生するシカケを、 自分の作品内にあらかじめひそませておくことの旨みを思う存分に知った。 つまり、世間でその論争が永遠に続くので、あとから来た若い人たちが、 その論争のウズに次々に巻き込まれ続けることによって、 その作品は永遠に世間で借りられ続け、売られ続け、つまりは、作品の命が永続する。 これぞヂヴリの経営戦略の勝利である。 ヂヴリ・パヤヲにおける作品と経営との結合の真髄、見事な結晶がこれだ。 上で解説した 「 大人の回答 」 というようなことをヂヴリがやるのも、 そうしたヂヴリ・パヤヲの一貫した性質の典型的なあらわれである。 こう説明されれば、 「 ああ、なるほどな 」 と、ふに落ちる人が多いだろう。 『 となりのトトロ 』 を見れば、具体的に 「 どこが 」 とは言えない、 なんとも言いようのない 「 死の影 」 みたいなものが、 どことはいわず画面の全体に表現されてることを感じるだろう。この絶妙きわまる表現、 これこそが 「 パヤヲの天才 」 だと思う。具体的描写をどこにもせずに、それでいて、 サツキ・メイ2人の死の事実を観客の脳裏に強烈にやきつける。 そんな表現ができる人がほかにいるだろうか? しかし、脳裏や無意識にそれが焼きついても、いくらかの鋭敏な観客たちだけは、 やがてそれを自分の意識に明確にのぼらせるので、それによって、 その鋭敏な彼ら・彼女らがある種の共同幻想を最初に形成し、まもなく、 それがウワサとなって ( 都市伝説として ) 2人の死が世間にささやかれだす。 これは 『 天空の城ラピュタ 』 でも「 幻のエンディング 」 などといわれるウワサとして、 まったく同じ手法がみられる。 現代人に共同幻想を形成させるほどの表現。これこそが 「 パヤヲの天才 」 である。また、 それ自体を経営戦略のもとにしたところは 「 ジブリの天才 」 というべきであろうか。
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