- 865 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/12/19(火) 19:40:46 ]
- 私の履歴書 渡邉恒雄[18] 日経06.12.19
日韓国交正常化交渉の地ならしのために金鍾泌韓国中央情報部長が来日したのは 昭和37(1962)年11月のことだった。 「賠償」という表現を使わず「請求権-政府借款-民間借款」の三段階で日本の植民地支配 に対する代価を払うことが決まっていた。問題は各段階ごとの金額。 各社が金さんにインタビューを申し込んだ。私も会ったのだが、同年の36歳とは思えない 落ち着き払った態度に目を見張った。後に首相になる人物らしく、若くして風格をそなえていた。 「わが国の植民地支配について、あなたはどう思いますか」という私の質問に金さんが答えた。 「確かにその間、祖父母や父母の世代はいがみ合いましたが、子や孫の我々までがいがみ 合うことはないではありませんか。互いに水を流すための努力をしましょう」 「水に流す」という言葉に感動した。当時の相互感情からして、示唆に富んだ発言だった。 金さんを大野伴睦さんに会わせなければならないと思った。というのも大野さんは日韓国交 正常化に反対していたからだ。 大野さんは戦後間もなく、選挙区の岐阜の旅館で飲んでいるときに、短銃を持った数人の 韓国人の暴漢に襲われた。そばにいた芸者が「先生を撃つなら私を殺してからにして」と 体を張って守ったので、前歯を折られただけで一命を保った。後日その芸者を愛人に迎え、 韓国嫌いを公言するようになった。 大野さんに金さんの話をすると「そんなことを言ったのか。よし、会ってみよう」と膝を乗り出し てきた。金さんに会った大野さんは一目ぼれし、金さんは「ぜひ韓国に」と熱心に誘う。 誘いに応じて、代議士十数人を引き連れ大野さんが国交のない韓国を訪問することになった。 (以下略
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