フビライ>>>カエサ ..
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17:世界@名無史さん
21/01/27 14:34:01.88 0.net
ユリウス暦のインパクト舐めてないか

18:世界@名無史さん
21/01/27 14:35:14.58 0.net
中国特有の事情として、「中国4千年」とか「中華帝国2千年」とか、歴史の一貫性にこだわる傾向がある
それがあるから秦の始皇帝が開祖として特別視されるんだが、普通に見れば今の中国はフビライ・ハーンから始まっている
前からよく使う例えだが、中国史における大元のインパクトは、日本に例えれば
「北海道から北方民族が攻めてきて京都の朝廷を滅ぼして天皇家を断絶し、青森に首都を作って別の帝国を始めた。
その後、現代に至るまで青森が首都で、京都はすっかり荒廃して廃墟になってしまった」
というのに相当する
北京と長安の位置関係は、ちょうど青森と京都くらいだ

19:世界@名無史さん
21/01/27 14:38:42.45 0.net
いや、大元が始まる頃には、長安などとっくに廃墟

20:世界@名無史さん
21/01/27 15:11:09.83 0.net
>>17
インパクトはないが正確性では
授時暦>>>ユリウス暦二ダ。

21:世界@名無史さん
21/01/27 21:08:55.10 0.net
フビライの影響力は1000年
カエサルの影響力は2000年

22:世界@名無史さん
21/01/27 21:47:02.95 0.net
フビライは影響力1000年経ってない
だいたい700年ぐらい
紀元前の人間と同じ土俵には立てない

23:世界@名無史さん
21/01/27 22:25:18.16 0.net
カエサルの影響ってユリウス手暦の他になにがあるの?
そもそもローマが地中海世界の覇権国になったのはカエサルが生まれる前。
2000年って、コンスタン地ヌスやビザンツ皇帝の功績を食っていないか?
まあフビライもチンギスやヌルハチの業績を食ってる部分はあるけどな。

24:世界@名無史さん
21/01/27 23:09:52.62 0.net
殴り合いならフビライの勝ち

25:世界@名無史さん
21/01/27 23:15:02.29 0.net
そりゃ蛮族には勝てんわ

26:世界@名無史さん
21/01/27 23:18:46.35 0.net
コンスタンティヌスはローマ捨てて東へ逃げたローマ人の面汚し

27:世界@名無史さん
21/01/28 15:06:51.68 0.net
カエサルは多芸多才で人間的な魅力に富んだ逸材ではあるが、歴史的な功績ではコンスタンティヌスの方を多としたい。
それなのにカエサルの評価が高いのはコンスタンティヌスは晩年に処刑や殺人に走って暴君化したためであろう。しかしそれでは人気投票だ。
 コンスタンティヌスの評価は現代においても歴史家によって様残だが日本では無名に近いのは残念だ。  

28:世界@名無史さん
21/01/28 17:14:20.59 0.net
キリスト教史観ならコンスタンティヌスのほうが上なんじゃね?
テオドシウスと並んで大帝とか呼ばれてるし
トラヤヌスとかハドリアヌスとかアウレリアヌス差し置いて

29:世界@名無史さん
21/01/28 17:52:42.45 0.net
>>26
北魏の孝文帝が、大同を捨てて洛陽に遷都したようなもんだろ

30:世界@名無史さん
21/01/28 18:04:06.66 0.net
ローマ人名乗ってるのにイタリア本土捨ててるのがダメ
せめて一時的に離れるだけなら許された

31:世界@名無史さん
21/01/28 19:33:16.76 0.net
別に君の許しなど要らない

32:世界@名無史さん
21/01/28 19:48:18.69 0.net
モンゴルを捨てて大都に遷都した人はちゃんと名前も中華っぽくしたからOK?

33:世界@名無史さん
21/01/28 20:31:50.89 0.net
>>30
コンスタンティヌスの時代はイタリアはもう本土ではない
アントニヌス勅令以来「ローマ人」を意味するのは帝国全土の自由人になった
彼の時代のローマ人一般にとっての本土とは帝国全土のこと
だからイタリア本土を捨てた、という考えがそもそも成り立たない
この時期イタリアを本土と考えていたのは主にイタリア在住者くらいだろう

34:世界@名無史さん
21/01/28 21:20:30.33 0.net
明治天皇が京都を捨てたから その後の日本の発展がある。

35:世界@名無史さん
21/01/28 21:22:46.88 0.net
日本人が日本本土見捨てるようなもの

36:世界@名無史さん
21/01/28 21:30:20.60 0.net
アウレリアヌスやディオクレティアヌスだって条件同じだけどイタリアを本土として大切にしたんやで

37:世界@名無史さん
21/01/28 21:37:19.72 0.net
>>35
京都を捨てて江戸或いは東京に移ったからもう日本じゃない、ということに近い

38:世界@名無史さん
21/01/28 21:39:29.03 0.net
>>35
イタリア半島一国の時代から数百年たった多民族・多宗教の大帝国の時代に
「ローマ」や「イタリア半島」に当時の人間がどれほどの民族的アイデンティがあったのかね?
日本だって、明治天皇の他に神武天皇や桓武天皇が「本土」を断捨離している。
コンスタンティノーブル遷都はピョートルのペテルブルク遷都や永楽帝の北京遷都と感覚的にはそう変わらん。
世界帝国とはそんなもん。

39:世界@名無史さん
21/01/28 21:41:26.00 0.net
>>36
条件は少しづつ変わっていった
アウレリアヌスの頃はまだローマは首都扱いだがディオクレティアヌスとなると
イタリアを属州化してしまった。ただし属州といってもまだ若干本土らしい優越性があった
これがコンスタンティヌス朝になるとどんどん一般属州化し、西方宮廷はローマに置かれなくなった
段階を踏んでいるが5世紀には本土意識はほぼなくなった

40:世界@名無史さん
21/01/28 21:43:23.40 0.net
アイデンティティがあったからこそイタリアやローマが本土であり続けたとも考えられる
帝政後期の途中までは…だけど

41:世界@名無史さん
21/01/28 21:45:14.16 0.net
4世紀末はローマ市周辺の人だけが古来からのローマアイデンティティを保持していて
それ以外の一般属州民のローマ人意識とは大幅に乖離があったようだね
このあたりは南川先生が書いているが、ローマ周辺以外のイタリア半島の一般人の
認識はどうだったかまでは書いてない感じなので、半島の人の気持ちを知りたいところ

42:世界@名無史さん
21/01/28 21:58:25.12 0.net
>>38,>>41
イタリア半島の本土意識はアウグスゥトスがウェルギリウスにアエネイアスを書かせて政策的に作らせた、とされている
実際アエネイアスは急速にローマ人の間に広まり民族叙事詩の地位を確立した
リヴィウスもアウグスゥトスの政策の一環だと考えられている
しかし5世紀頃にはウェルギリウスが読まれなくなった形跡があり、この頃には本土意識はかなり薄まっていた
可能性がある
だからこそダンテ達によるウェルギリウスの復興はルネサンス期のイタリアにとって重要な指標だったと考えられる

43:世界@名無史さん
21/01/28 22:15:49.62 0.net
中世・近世の「イタリア人」、1世紀の「ローマ人」、4世紀の「ローマ人」、
これらをゴチャゴチャにして、アイデンティ論をやってる人がいるね。
属州出身の皇帝が輩出している時代の「ローマ人」って、ローマに住んでいる人ではなくて
ローマ帝国の「市民」階級ってことだろ。アイデンティが「ローマ市」から離れている時代だから遷都が出来たわけで
>>35はいつの時代の どういう意識を指しているのかわけわかめ。

44:世界@名無史さん
21/01/30 00:28:38.81 0.net
モンゴル帝国の祖ではないけど元朝の祖ではあるフビライ
ローマ帝国の祖ではないけど東ローマの祖ではあるコンスタンティヌス
似てるっちゃ似てる

45:世界@名無史さん
21/01/30 10:11:36.59 0.net
偉大さランキング
AAA   チンギス・ハン
AA    フビライ   コンスタンティヌス
A     始皇帝   アレキサンドロス   趙匡胤
B     カエサル   ナポレオン   曹操
C     東條英機   トランプ

46:世界@名無史さん
21/01/30 11:15:34.98 0.net
フビライは日本にボロ負けした時点で話にならない

47:世界@名無史さん
21/01/30 11:40:59.52 0.net
三回目の日本遠征も計画してたらしい
いろいろゴタゴタが重なってご破算になったが

48:世界@名無史さん
21/01/30 12:23:09.51 0.net
フビライは台風に負けたのであって日本軍に負けたわけではない。
「鎌倉武士最強!」とか恥ずかしいw

49:世界@名無史さん
21/01/30 12:47:21.69 0.net
高麗の造船技術が敗因だった

50:世界@名無史さん
21/01/30 12:49:37.09 0.net
「鮮人と手を組んだ方が負ける」
これ鉄則

51:世界@名無史さん
21/01/30 18:45:40.61 0.net
>>48
いや、あきらかに日本軍に負けた。
モンゴル軍は6月初頭に博多に来て日本軍に敗れ、それから2ヶ月間も逃げ回った末に
台風に遭遇した。
ぶっちゃけモンゴル軍が大帝国築けたのは、当時のユーラシア大陸に鎌倉武士レベルの軍が
存在しなかったからに過ぎない。

52:世界@名無史さん
21/01/30 19:16:44.61 0.net
戦場が平野部ではなくて、海浜に築いた石垣の防塁に待ち構えてただけですやんw
これで日本負けたら史上最弱のカスですやんw

53:世界@名無史さん
21/01/30 19:44:31.37 0.net
まあ仕方ないだろ
日本人は、朝鮮人みたいな奴隷ミンジョクじゃないからw

54:世界@名無史さん
21/01/30 19:49:30.22 0.net
朝鮮人だったら、とっくに慰安婦を差し出して土下座してたとこだwww

55:世界@名無史さん
21/02/01 23:06:21.21 0.net
フビライとコンスタンティヌスはもっと評価されるべき

56:世界@名無史さん
21/02/02 07:00:47.07 0.net
フビライほど中国を変えた巨人は他にいない

57:世界@名無史さん
21/02/02 08:53:52.77 0.net
>>52
モンゴル軍は1回目の日本遠征で福岡平野という平野部で野戦やって日本軍に負けてる。
モンゴル軍が鎌倉武士より劣った軍だったことは言い訳できない。

58:世界@名無史さん
21/02/02 11:20:05.31 0.net
文永の役での博多の戦闘は、緒戦こそ日本側が奮闘し勝利しているが、結局は元軍に敗走し、
博多の多くが占領され、一般住民も捕虜となっている。
日本側の一次史料でも日本軍がボロクソに敗走し 最後は八幡神の力で神風が起こり やっとこさ元軍を撃退した様が描かれている。
長期戦の戦略ミスに気付いた高麗軍が撤退を主張し、上陸軍を船に戻したところを台風が襲って
なんとか日本軍はピンチ脱出ってところだ。
>
>>

59:世界@名無史さん
21/02/02 18:35:48.20 0.net
>>58
結局のところ、高麗が足を引っ張ってくれたおかげでモンゴルはボロ負けだったな

60:世界@名無史さん
21/02/02 21:28:02.45 0.net
無能な味方ってやつだ
まあそれを命令したフビライの責任でもあるわけだが

61:世界@名無史さん
21/02/02 22:26:46.38 0.net
元寇の原因はフビライの征服欲と鎌倉幕府の下手糞な外交の2つ。
まあ、北条時宗がタライランみたいな外交巧者だったら戦争は回避できたかといえば
何とも言えんけどね。唐や明のような朝貢国(形式的な臣礼)ならば日本は飲める。(経済的には日本の方がウハウハ)
しかし、高麗のような完全な奴隷国を求められては戦争しかないからね。
モンゴルが撤退したのも3回目の侵攻を断念したのも、日本軍の奮戦とはほとんど関係ない。
補給とかコスパの問題で日本制服を元朝は断念した。

62:世界@名無史さん
21/02/04 19:28:43.34 0.net
>>50
「白村江の戦い」って知ってるか?

63:世界@名無史さん
21/02/05 16:14:50.30 0.net
いいえ、存じません

64:世界@名無史さん
21/02/05 16:49:29.21 0.net
>>62
新羅と組んだ唐って負けたんだっけ?

65:世界@名無史さん
21/02/05 18:06:33.50 0.net
百済と組んだ倭が負けた
唐は、勝って用済みになったら裏切られ、追い出された

66:世界@名無史さん
21/02/06 17:59:39.61 0.net
カエサルは滅びかけたローマを復活延命させる事に成功したからな。
滅びかけた王朝を復活延命させたのは中国には劉秀しかいない。
フビライも凄いがこの2人は別格の英雄。
比較にならない。

67:世界@名無史さん
21/02/06 18:10:27.90 0.net
>>66
> 滅びかけた王朝を復活延命させたのは中国には劉秀しかいない。
そんなことはない
安史の乱で崩壊した唐朝を復活延命させた代宗の例もある
劉秀と違って、英邁さや豪気さは微塵も感じられないが

68:世界@名無史さん
21/02/06 21:04:59.12 0.net
>66
紀元前1世紀のローマは内乱の時代であったが、滅びかけとまでは言えないと思う。
政治はさておき、社会や経済など文明としいぇは これからが発展期にあった。
滅びかけの帝国を延命、再興したのはコンスタンティヌスだろうね。 ビザンツ帝国の始祖。

69:世界@名無史さん
21/02/06 21:44:17.21 0.net
西側犠牲にしてるけどな、コンスタンくん
個人的にはアウレリアヌスのほうが上に感じる
もっと統治期間が長ければローマの寿命もいくらか延びたかもしれん

70:世界@名無史さん
21/02/07 11:55:48.81 0.net
統治期間が短かったこと、持続的体制を構築できなかったこと自体アウレリアヌスがコンスタにおよばない点

71:世界@名無史さん
21/02/07 14:49:10.11 0.net
アウレリアヌスは帝国分裂の危機を救った功労者で、コンスタンティヌスの先輩ではある。
しかし、カエサル以来 分裂の危機は何度もあり、在位が短かったために
「その他大勢」にカウントされてしまい、損してるね。
それにコンスタンはキャラ濃いし。

72:世界@名無史さん
21/02/07 18:33:41.74 0.net
アウレリアヌスはポンペイウスの立ち位置に似ている
分裂勢力を確固撃破し一応の統一を回復
ディオクレティアヌスの立ち位置はカエサルに似ている
新たな統治のプランを出してきたが、その体制は彼一代で終わり
コンスタンティヌスの立ち位置はアウグストゥスに似ている
その後長く継承される体制を整備し、子孫に王朝を残した

73:世界@名無史さん
21/02/07 19:44:50.47 0.net
信長ーアウレリアヌス・柴栄・チンギス
秀吉ーディオクレティアヌス・趙匡胤・オゴタイ
家康ーコンスタンティヌス・趙匡義・フビライ
とか言ってみるテスト

74:世界@名無史さん
21/02/07 20:38:43.08 0.net
まず暴君(または革命家)が現れて古い勢力を破壊するが、反動で抵抗勢力を生み、その天下は長く続かない。
続いて、混乱を収拾する人が現れて事態をなんとかまとめるが、これも長くは続かない。
最後にやっと、長期安定政権を構築する人が登場する
・・・この3段階が歴史の常だわな。破壊するのが得意な人ほど、長期政権は作れないものだ。それが歴史的な役割分担というもの
始皇帝 → 項羽 → 劉邦
北周の武帝 → 隋の煬帝 → 唐の太宗
柴栄 → 趙匡胤 → 趙匡義
信長 → 秀吉 → 家康
高杉晋作 → 木戸孝允 → 伊藤博文
小沢一郎 → 橋本龍太郎 → 小泉純一郎
スッラ → カエサル → アウグストゥス

75:世界@名無史さん
21/02/07 20:48:27.00 0.net
つまり、長く続いた群雄割拠の分裂状態を終わらせるためには、まず旧来の各勢力を壊しまくり、弱体化させる暴れん坊が出てこないといけないんだな。
各勢力が強いままでは、統一なんかできっこない。それを壊すのが始皇帝とか織田信長、小沢一郎の役割だ
そんな暴れん坊の破壊者が高転びに転んだ後、わりと穏健な人物が出て来て、弱体化した各勢力をまとめ上げる。
それが項羽や豊臣秀吉、橋本龍太郎の役割。いわば中継ぎだ。本当に安定した体制は、まだ作れない
そしていよいよ、真打ち登場となる。ここでようやく、長期安定政権が出来上がる。
それが劉邦や徳川家康、小泉純一郎の役回り

76:世界@名無史さん
21/02/07 22:56:00.99 0.net
鳩山由紀夫→菅直人→野田佳彦(滅亡)
あかんやん

77:世界@名無史さん
21/02/07 23:45:56.29 0.net
劉邦は冒頓にボコられて匈奴の属国という負の遺産を遺したけどな
しかもその前に韓信他名将連中大粛清、そりゃ当然負けるよ状態

78:世界@名無史さん
21/02/08 11:33:56.09 0.net
>>77
しかし、200年も続いた王朝の創始者である劉邦はやっぱりすごいよ。
フビライの王朝は100年だからね。

79:世界@名無史さん
21/02/08 13:31:38.95 0.net
フビライの王朝は100年だが、北京帝国としては明清まで続いたのだから640年

80:世界@名無史さん
21/02/08 17:26:27.15 0.net
ビザンツや神聖ローマ帝国の王朝交代と、元・明・清の王朝交代は意味が違うだろ。
首都が同じという以外にあんまり共通項ないと思われ>「ペキン帝国」。

81:世界@名無史さん
21/02/08 19:06:41.15 0.net
>>51
東路軍も江南軍もほとんど高麗兵と南宋兵でモンゴル人とかほとんどいなかったけどな
しかも高麗はモンゴルとの40年間、南宋は50年間に及ぶ戦争で疲弊しきっていたのだから
そんな相手に勝っても何の自慢にもならない

82:世界@名無史さん
21/02/08 19:17:15.97 0.net
>>81
要するに、勝ったのは日本、負けたのは高麗
高麗・朝鮮は永続敗戦国

83:世界@名無史さん
21/02/08 19:50:41.46 0.net
>>81
また史料無視して適当なこと書いてるな。
元史では高麗兵と南宋兵なんて少数派で圧倒的多数はモンゴル兵。
弘安の役はモンゴル帝国最大の軍事作戦なんだから日本の勝利はガチで世界史上の快挙だよ。

84:世界@名無史さん
21/02/08 21:25:49.49 0.net
しかしモンゴル、遊牧民の強さと言うのは馬を自在に操れる騎兵による所が大きいからな。
海を挟んで勝って鎌倉武士の方がモンゴル軍より強いみたいに言われても…って感じ

85:世界@名無史さん
21/02/08 21:34:03.41 0.net
フビライ>>>カエサルは無いわ。
統治機構も南宋のパクリ、親から国を貰って早々に滅んだ元の王フビライ。
内乱だらけで腐敗したローマを皇帝制へ改革し自らの力で皇帝になったカエサル。
どう比べてもカエサルが圧倒的に上。

86:世界@名無史さん
21/02/08 21:45:10.98 0.net
少なくとも後継者人事に関しちゃカエサルに軍配をあげざるを得ない
アウグストゥスはいろいろおかしい(誉め言葉)

87:世界@名無史さん
21/02/08 22:59:16.78 0.net
>>85
カエサルとオクタビは二人足して一人前だな。
内乱というけど、モンゴル帝国とローマ帝国では面積が数倍違うやん。
カエサル時代のローマ領土は大元ウルスより小さいやんかw
皇帝っていうけど、アジア史的な意味合いでいくと、ローマが「帝国」になったのは、
テオドシウス以降でしょ?
ローマが千年続いたといっても、カエサルの子孫と違うし、
カエサルとオクタビって、血筋で言うと信長と家光やんww

88:世界@名無史さん
21/02/09 00:36:27.28 0.net
子孫とか関係なしに続くのが古代ローマやローマ人のヤバイとこよ
ほぼアイデンティティで繋がってる
血筋もあるっちゃあるけどオマケみたいなもん

89:世界@名無史さん
21/02/09 00:52:02.13 0.net
日本遠征に失敗して懲りずに計画してる執念はヒトラーに通ずるものがあるよ、フビライ
カエサルの場合無理なら大きな犠牲出る前に引き際をわきまえてさっさと撤退する

90:世界@名無史さん
21/02/09 00:58:44.11 0.net
日本と逆の中東でもバイバルスにフルボッコされるモンゴル軍

91:世界@名無史さん
21/02/09 01:47:56.92 0.net
ベトナムから撤退したからと言って、アメリカの覇権は揺るがなかったのと同じで
北条時宗やバイバルスの「勝利」(笑)など、大モンゴル帝国には何ら影響しない。
汲めども尽きぬ超帝国、それがモンゴル帝国である。

92:世界@名無史さん
21/02/09 08:33:20.86 0.net
まぁフビライが日本に負けた雑魚って評価は覆らんよ
そらカエサルのが格上感あるやろ

93:世界@名無史さん
21/02/09 09:19:47.13 0.net
「フビライは雑魚wwww」とか言ってオナニーに浸りたい気持ちはよくわかる。
気持ちいいもんんなあ。 
でも、そんなこと考えているのは日本だけ、つーか、日本人でも高等教育を受けていない人だけだろ。
よく鮮人が「半島は兄、日本は弟」とか言うが、鮮人以外は世界では誰もそんなこと欠片も思っていないのと似ている感情。

94:世界@名無史さん
21/02/09 22:56:37.23 0.net
エビフライ・ハン

95:世界@名無史さん
21/02/09 23:54:33.67 0.net
>>91
汲めども尽きぬ超帝国モンゴル帝国に圧勝した日本はもっと凄い

96:世界@名無史さん
21/02/10 08:29:50.24 0.net
圧勝の要因: 台風
八幡大菩薩のおかげ。当時の史料にそう書いてあることを知らない歴史音痴が
日本最強とレス書いても、「日本史を勉強しろ」としか言えねえなあw

97:世界@名無史さん
21/02/10 11:22:02.19 0.net
>>96
高麗の造船技術が稚拙だったのと、高麗人の水夫の能力が低かったのも見逃せない要因

98:世界@名無史さん
21/02/10 12:02:31.11 0.net
>>96
八幡大菩薩愚童訓を実際に読んだことないだろ?
八幡大菩薩愚童訓の記述では、高麗の軍と蒙古の軍が合流して博多湾侵入を試みたが
武士によって撃退され鷹島に後退したところで台風に遭遇している。
実は八幡大菩薩愚童訓の記述の方が、一般に言われてるよりも明確に武士の実力による
勝利なんだわ。

99:世界@名無史さん
21/02/10 12:02:41.09 0.net
元寇当時の日本の人口って7〜800万人くらいいたのかな。

100:世界@名無史さん
21/02/10 13:02:42.91 0.net
古代ローマ時代、蛮族とされた
ゲルマン人のアルミニウスが
トイトブルク森の戦いで
ローマ軍を破った事があるから
まあ日本軍が元軍を破ったのは
それに近いところもあるんじゃないかと
思うけど。

101:世界@名無史さん
21/02/10 13:07:35.30 0.net
>>100
モンゴル人や高麗人のほうが野蛮だろ

102:世界@名無史さん
21/02/10 14:29:42.10 0.net
>>98
だから、圧勝じゃないじゃんw  その史料では日本軍がさんざんボコボコにされている様子が書かれているよね?
で、勝利の要因は武士の戦闘によるものではない、と書いてるから、
96氏のように、「史料を読むとそんなにお花畑のガッツポーズは違うだろ」と指摘してるわけよ。
そら、君のように自説に都合のいい部分だけをつまみ食いして反論されても困るわな。
何回でも書くよ。「モンゴルに勝った鎌倉武士は世界最強「」とか書いてるレスはただのボミクズだ。
世界史と日本史を勉強しなさいよとしか論評のしようがない。

103:世界@名無史さん
21/02/10 14:40:50.79 0.net
野蛮な侵略者を撃退したのは、誇れる歴史だな

104:世界@名無史さん
21/02/10 14:47:16.33 0.net
>>102
ボコボコにされたのは日本軍じゃなくて、対馬軍や壱岐軍だよ(ついでに肥前松浦党)
いずれも、博多に上陸される前の前哨戦だ
何か根本的なところを勘違いしてないか?

105:世界@名無史さん
21/02/10 15:25:26.38 0.net
>>102
だからちゃんと読め
その史料の中でボコられてるのはモンゴルと高麗の連合軍の方だから。

106:世界@名無史さん
21/02/10 18:27:06.42 0.net
日本人「カエサル? なんかローマ帝国の偉大な英雄みたいな人か」
日本人「フビライ? あー鎌倉時代になんか喧嘩売って来て二度も返り討ちにされた惨めな人か」

悪いけどこれが現実

107:世界@名無史さん
21/02/10 18:37:08.42 0.net
フビライじゃ塩野が萌えないだろ

108:世界@名無史さん
21/02/11 00:17:29.42 0.net
二回の遠征でやめとけばよかったのに
三回目も計画してたとかちょっと粘着質過ぎんよ、フビライ

109:世界@名無史さん
21/02/11 10:37:34.18 0.net
台風に負けたとあっては納得いかんかったんやろな
陸地戦も小規模戦で消化不良で終わったし

110:世界@名無史さん
21/02/11 12:02:00.82 0.net
>>108
んなこたあない
外国を侵略して征服するのは、誰にとっても想像以上の難事業。
たったの2回で諦めるような根性ではムリ
実際のところ、豊臣秀吉の朝鮮征伐軍が2回で中断したのに対し、その数十年後の清軍は、5回も攻め込んでいる
陸続きで日本よりずっと地理的に有利だったにもかかわらず、朝鮮半島を征服し、最終的に屈服させるには5度の戦争が必要だった

111:世界@名無史さん
21/02/11 12:37:57.27 0.net
それで何回も遠征して失敗や泥沼化してれば世話はないぜ
退けるときにさっさと退くのが賢い指導者

112:世界@名無史さん
21/02/11 12:45:10.23 0.net
アレク大王なら陣頭指揮で大暴れして1回ないし2回目で確実に終わらせる
フビライと秀吉は自ら行かないのがいけない

113:世界@名無史さん
21/02/12 22:19:50.91 0.net
>>104-105
俺は別に日本は弱い、モンゴルが勝った、などと言ってないよ。歴史板に跋扈する「鎌倉武士は世界最強」「圧勝」とか小学生すらそこまで言わないレスに対して、「オナニー過剰。もうちょい勉強しろ」と言ってるだけ。
実際に世界史板に低能が立てたスレがあるわね。俺は「糞レスには糞レスを」で済ましてきたので言葉足らずがあり、補足説明するよ。
 まず、二度の元寇は侵略軍が撃退されたので日本の勝利だが、中身が問題。 元軍は甚大な損害を出したが、戦争を数値から見ると元軍損害の最大要因は圧倒的に台風だな。
で、撤退の理由は文永の役―補給・兵站で計画の甘さが露呈。 弘安の役―侵略軍に疾病が急増したため。 戦争の概略を大雑把に言うとコレ。 (続く)

114:世界@名無史さん
21/02/12 22:25:10.89 0.net
次に文永の役について述べる。この戦いは短期間であり、元軍も大軍出してきた割には本気度が感じられない。 
緒戦においては日本軍は活躍し戦果も上げているが、元軍も盛り返して博多を一時的に占領、一般庶民にも甚大な被害が出ている。
で、鎌倉武士もさんざんやられまくっている様子が例の「八幡〜」に書かれているわけだ。文永の役を日本の圧勝 世界最強と言えた戦争ではない。
次に弘安の役。104らが言ってるのはおそらく志賀島の戦いのことだな。うんうん、これは戦術的には日本の勝利。元軍は占領地を放棄して敗走したからね。
しかしこの戦いは日本側も相当な被害を出しており、元をボコボコにした、と言うなら「おたくもボロボロでっせ。」という内容だ。 日本軍は勇敢でよく頑張った。ご先祖様の奮戦を我々は誇りにしてよいと思うが、
地の利を知り尽くしたホームグランドでゲリラ戦みたいな内容を、
大平原で大軍を蹴散らかしたかのように書き込んでホルホルしている低能連中に今後も同調していくのか、
日本の勝利を冷静に分析していく立場を取るのか、君らは好きな方を選べばよい。

115:世界@名無史さん
21/02/14 09:36:28.68 0.net
そもそもモンゴル人は、戦争に対する感覚が異なる
日本人と違って、占領した土地を死守するという発想ではない
攻め込んできたときと同様に、意気揚々と撤退していく

116:世界@名無史さん
21/02/14 15:10:13.20 0.net
遊牧民であるモンゴルに領土という概念がそもそも無い。そこに住んでる人間や家畜が
征服者の資産対象。

117:世界@名無史さん
21/02/15 12:16:43.88 0.net
>>114
鎌倉武士としては褒美をより多く得る為如何に敵が強く被害が甚大である事をアピールする必要があった。日本側の資料を読む時はそれを念頭に入れて読む必要がある。
又そもそも文永の襲来では嵐が来ていないこと、弘安の襲来ではたしかに嵐は吹いたが、合戦はその後も続き、元が劣勢になったから撤退した説が現在では有力。
人員も文永の役で元が2万3千、弘安の役で14万人いたのに対し日本は何れも1万。さらに毒矢や未知の兵器てつはうを使って集団戦で攻めたのに元は負けた。
アインジャルートの戦いですらバイバルスはモンゴル軍より大軍を指揮して勝利したのであって、鎌倉武士の強さが抜きん出ていた事は間違いない。
ただモンゴル軍の強さは騎兵にあり、日本に対して海に阻まれその長所を生かせ無かった事、船が突貫工事で作ったゴミである事も念頭におく必要もあるが、それでも戦力差を考えると圧勝と言えると思う。



 

118:世界@名無史さん
21/02/15 12:20:49.73 0.net
>>116
あれ程強大な帝国を造ったモンゴルに対してその考えは的外れ。フビライより遥か昔の冒頓単于から既に強固な領土意識はあった。
日本こそ兵士の強さの割に海外に植民地を作って統治する能力は皆無と言っていい。

119:世界@名無史さん
21/02/15 18:40:07.17 0.net
>>117
褒美をもらうために自分の被害を大きく見せてつい差をアピールしてる史料ってどのことを言ってるの?
蒙古襲来絵詞とかはマジ勘弁。日本側の被害は誇大表現で元軍の被害は信用できる、というご都合主義についてはノーコメントだな。
そういう視点をする人も世間にいることは今回了解した。
元軍劣勢とか書いてるけど、誰も元軍優勢なんて言ってない。奇襲・夜襲なんでもありのゲリラ戦術で日本軍はよく頑張ったよ。
取り分け、長門や博多に築いた高い防塁は元軍の上陸の戦意を大きく削いだ。
で、補給と大量の疫病で元軍は撤退に追い込まれた。被害の最大要因は台風。
文永の役で台風来なかった説は知ってるけど、通説ではないし何とも言えんね。
済まんけど、君は一体俺の何に反論してるのか論旨がようわからん。
俺に「鎌倉武士は世界最強!!!」とか一緒に叫んでほしいのかね?
どうしても圧勝って言いたいのなら、昼間の地上戦での双方の損害データを出してよ。
そうでないと、小学生から馬鹿にされるような事、ウチ、恥ずかしゅうてよう言えまへんわ。

120:世界@名無史さん
21/02/15 19:48:43.50 0.net
>>119
先ず文永の役で台風が来てない事は通説。
次に弘安の役だが先の突貫工事の造船の失敗を踏まえ頑丈な作りの船でこの時代世界最大の艦隊を率いて攻めたが猛攻にあい、上陸出来ずに海上戦となる。
元側の資料によると鷹島沖海戦の際は「日本軍が日中から攻め込んできて、夜明けまで戦闘が続いた」との事。
台風にあったのはその後で、台風による被害の後も全滅どころか10万以上兵が残っていた。
その後も御厨海上合戦、鷹島掃討戦で日本側が大勝し元は退いた。
どう考えても鎌倉武士は強いし、日本側の圧勝だろう。
13万の敵を1万程度で敵将まで生け捕ったり負傷させ、退けたのが圧勝じゃ無かったら、圧勝なんて言葉自体がこの世から無くなる。
俺が貴方の意見で否定する点はここかな。
モンゴルの強さの根源は騎兵にあり、この時代彼らのホームで勝てる軍隊はいなかったとは思う。
そもそも鎌倉幕府如きとは騎兵の数が違う。
ありえない事だが鎌倉武士が大陸にいたとして勝てる訳無いと思うわ。
しかし鎌倉武士が世界有数の精強な軍団だったことも又事実。

121:世界@名無史さん
21/02/15 20:00:40.14 0.net
鎌倉武士は事実少なくとも海戦においては南宋、高麗、モンゴル軍よりは強かった。
だが平原での騎兵同士の戦いでモンゴル軍が最強なのは疑い難い。
遊牧民族の方が当然馬の扱いに長けているから。
南宋、高麗よりは鎌倉武士の方が陸戦でも強いかもしれんがな。
これが俺の双方の戦力評かな。

122:世界@名無史さん
21/02/15 20:06:59.55 0.net
劉邦はノコノコ匈奴のホーム迄進行して大敗したがあの時代の冒頓単于にも世界中の誰も勝てないと思う。
例え項羽や韓信が生きていて全員が協力しても無理。

123:世界@名無史さん
21/02/15 20:13:52.48 0.net
>>117
>アインジャルートの戦いですらバイバルスはモンゴル軍より大軍を指揮して勝利したのであって
ウィキにはどっちも兵力2万と書いてあるね

124:世界@名無史さん
21/02/15 20:26:26.08 0.net
>>123
先鋒隊のため1万人強の小勢であったモンゴル軍に対して、数では優位にあったとみられるマムルーク朝軍は全軍を投入することを避け、まずバイバルス率いる先鋒隊のみがモンゴル軍の前に進んだ。バイバルス隊に対して数で勝ったモンゴル軍は、マムルーク朝軍に突撃して一気に勝敗を決しようとし、後退を始めたバイバルス隊を追撃したが、待ち受けていたマムルーク朝軍本隊はキトブカの軍を包囲し攻撃して壊滅させた。

125:世界@名無史さん
21/02/15 21:53:04.83 0.net
>>120
座ざっと目を通した。 >>119に付け加えることは特にないな。
文永の役台風なかった説に関連して、ちょいと俺の敗北を認めていもいいのは、
気象学的にあの時期に台風はなかった、という指摘はまあそうだとも思う。NHKかTBSかでその話やっとたしな。
そこは「大風」「強風」に訂正しておくよ。邪魔くさいから台風と書いちゃったw
俺の元寇の知識はずっと以前に市販本の知識程度で>>120で紹介された戦闘経緯は一応踏まえてるよ。
数字出せという俺のリクエストをスルーして絶好調だが、一応俺もウィキで数字は掴んでるんにょ。
ただ、ウィキの数字の根拠が不明であんまり信用が置けないので参考になるデーターが欲しかったんだな。
日本軍が勇敢で相手の戦意を減退させたことは何度も俺は称賛している。とにもかくにも蒙古・漢:高麗連合を撃退させたからねえ。
それと、鎌倉武士が蒙古兵より最強だったかどうかは別の話、と俺は思うね。
「圧勝」「鎌倉武士は世界最強」というお気楽なレスには今後も俺は疑問と批判を加えるよ。
君のように自分の歴史観と違う価値観を持つ者は許さない、という御方には我慢ならんかもしれんけど


126:世界@名無史さん
21/02/16 09:09:08.95 0.net
>>114
クビライの娘の高麗国王への嫁入りとセットなにった文永の役が本気じゃなかったわけ
ないじゃん。
それに文永の役で博多がモンゴル軍に占領されたなんて裏付ける史料は存在しない。
中世博多史の専門家の佐藤鉄太郎氏も博多が占領されたり焼き払われたりした事実は
ないと断定してる。
客観的事実として文永の役は帝国の威信をかけて日本軍に戦いを挑んだモンゴル軍が
目も当てられない惨敗をして1日で逃げ帰った戦いというだけ。
弘安の役はそれこそモンゴル軍史上最大規模の軍事作戦じゃん。
その史上最強モンゴル軍に対し、日本軍は2か月間も博多に橋頭保を築かせず、
その間モンゴル軍は九州近海を逃げ回るのが精一杯。
指揮官たちは顔を合わせる度に撤退を議論していたと高麗史に書いてある。
で、モンゴル帝国は弘安の役で軍の主力を喪失。
忠実な属国だったベトナムもそれを見てモンゴル帝国に反旗を翻す。
元寇はモンゴル帝国が拡大から縮小に転じた世界史の分水嶺な。

127:世界@名無史さん
21/02/16 09:48:53.49 0.net
>>125
「鎌倉武士は世界最強」これには同じく疑問を感じるが、圧勝なのは間違いないだろ

128:世界@名無史さん
21/02/16 10:34:15.43 0.net
アメリカ軍を中朝国境から38度線まで後退させて圧勝した中共軍は世界最強

129:世界@名無史さん
21/02/16 12:01:45.08 0.net
大国日本に勝ち、中国中国とは引き分け、小国ベトナムには負けたアメリカ

130:世界@名無史さん
21/02/16 23:25:27.00 0.net
>>124
なんだウィキペ情報か。しかも数字の記載もなし

131:世界@名無史さん
21/02/16 23:55:36.22 0.net
>>130
数字は書いてあるだろ
文盲か?

132:世界@名無史さん
21/02/17 00:37:38.42 0.net
モンゴル帝国に勝った日本を建国した神武天皇>フビライ>カエサル

133:世界@名無史さん
21/02/17 00:40:25.91 0.net
>>131
>>117
>アインジャルートの戦いですらバイバルスはモンゴル軍より大軍を指揮して勝利した
>>124
>バイバルス隊に対して数で勝ったモンゴル軍
はて?バイバルスはモンゴルより多かったの少なかったの?
あとマムルーク軍の数は?

134:世界@名無史さん
21/02/17 00:42:58.75 0.net
>>132
フランク帝国>トウールポワチエ>イスラム帝国>タラス河畔>唐>白村江>日本=神武天皇>フビライ>カエサル

135:世界@名無史さん
21/02/17 05:30:21.21 0.net
>>133
wlki全部読めや馬鹿

136:世界@名無史さん
21/02/17 05:59:03.15 0.net
ガリア遠征に成功し、ローマを改革して500年以上保たせたカエサルの方がフビライより千倍上

137:世界@名無史さん
21/02/17 10:37:42.96 0.net
>>135
馬鹿で文盲が人の事を馬鹿呼ばわりwwww

138:世界@名無史さん
21/02/17 10:38:33.47 0.net
クビライが実際に参加した遠征作戦は大理国遠征だけど、同時期に行われた中東遠征で弟の
フレグは主将なのに、クビライは副将でウリャンカダイの部下という立場。
しかもクビライは軍馬40万頭を失うという大損害を出して途中で帰還を命じられ、
結局ウリャンカダイだけで大理国征服を達成してる。
その後で行われたモンケ汗の南宋遠征では当初は参加メンバーにすら入れてもらえなかった。
相当能力低いんじゃないのか?

139:世界@名無史さん
21/02/17 11:19:24.42 0.net
>>137
俺はお前のママンや部下じゃねえんだぞ
疑問があったら人に聞く前にググれカス

140:世界@名無史さん
21/02/17 12:08:44.11 0.net
>>139
ググったからウィキペ読んで2万VS2万だと指摘したのだが・・・
馬鹿は相手を罵ることしかできないようだ

141:世界@名無史さん
21/02/17 14:48:03.62 0.net
>>140
モンゴル軍先鋒1万をバイバルスは2万で倒し、その後後発モンゴル軍1万と戦って勝ったとキミの好きなwikiには書いてあるわけ。
つまり動員した兵数は同じなれど実際の戦闘はバイバルス側が大軍。
わかる?

142:世界@名無史さん
21/02/17 14:58:40.97 0.net
>>138
カエサルと比べるのが失礼なレベルの愚将フビライ

143:世界@名無史さん
21/02/17 16:44:31.40 0.net
>>141
ウィキペ好きはお前の方だろ
前嶋信次の本には、クトゥズが先方隊、バイバルスが殿軍となっている。先方隊が潰走し
それを追ったモンゴル軍を背後からバイバルスが急襲し、モンゴル軍はクトゥズ軍とバイバルス軍に挟み撃ちにされた、とある
マムルーク軍が2万が二手に分かれていたのだから、バイバルス軍はモンゴル軍の2万を下まわっていたことになるね

144:世界@名無史さん
21/02/17 16:55:44.43 0.net
>>143
どちらにせよ、バイバルス、クトゥズが示し合わせてモンゴルの先鋒隊1万を2万で包囲殲滅したのには変わりない。
バイバルスが寡兵で大軍のモンゴルを破った訳ではなく、相手を油断させる為寡兵で攻めて包囲殲滅した訳でバイバルスの作戦勝ち。
バイバルスが大軍を指揮したと言っても良いと思うが?
要はマムルーク軍は日本軍の様に寡兵で大軍に勝利した訳では無いと言う事だ。

145:世界@名無史さん
21/02/17 17:14:03.09 0.net
思わないね
こちらは最初から
>アインジャルートの戦いですらバイバルスはモンゴル軍より大軍を指揮して勝利した
の文がおかしいといっているんだから
しかも
>バイバルス、クトゥズが示し合わせて
と書いてるのに後半では
>バイバルスが大軍を指揮したと良いと思うが?
とごまかしてるね
そもそもこの戦闘はクトゥズが司令官で、作戦もクトゥズが立て、勝利の要因もバイバルスより
クトゥズだと分析している論文もあり、バイバルスの手柄説というのも実は後のバイバルスを讃える伝記の影響に過ぎない
とも考えられる。マムルーク朝はバイバルスによって安定したのだから伝記がクトゥズの功績を矮小化することはありえるだろう
君は
>要はマムルーク軍は日本軍の様に寡兵で大軍に勝利した訳では無いと言う事だ。
ということを主張したいことしか念頭になく、アインジャールートの戦いはその主張を都合よく
補強するだけの材料だと思い込んで論じているからおかしな議論しかできていない

146:世界@名無史さん
21/02/17 17:21:04.33 0.net
他の人のレスと混同されると困るので書くが、俺は123からアインジャールートの話題だけ参加していて
それ以前も以後の議論にも参加してない、念のため

147:世界@名無史さん
21/02/17 17:28:50.21 0.net
前嶋信次の本もそうだが、今読んでる論文もウィキペの内容とだいぶ違うな
よくみるとwikiの日本語の記事は出典も書いてないな
これはひどいわ

148:世界@名無史さん
21/02/17 17:29:29.58 0.net
>>145
いや144はかえってバイバルスがすでに実権を握っていた事を示している。
何故なら少数の先鋒隊で敵に攻めさせ、適度な損害で抑えつつ撤退する役割は危険で難しい。正に武将の仕事だ。
数で勝る伏兵を忍ばせる別働部隊の方が安全で司令官に相応しい仕事。
君の言い分が事実ならバイバルスの手柄と見るのが当然。

又マムルーク軍は日本軍の様に寡兵で大軍に勝利した訳では無いと言う事は紛れもない事実でバイバルスが指揮官かクトゥズが指揮官かと言う議論とは関係ない。

149:世界@名無史さん
21/02/17 19:02:58.39 0.net
>何故なら少数の先鋒隊
先方隊が少数というなら何人かわかってるのか?
俺が読んでる論文はそもそも先方ではなく、クトゥズは右翼となってるけどね
>寡兵で大軍に勝利した訳では無いと言う事は紛れもない事実
いつの間にか論点がすりかわってるな
論点はバイバルスの率いた軍が大軍だったかどうか。「大軍」かどうかが勝利の要件だったかどうか。
「寡兵で大軍に勝利した訳では無い」ということだけを主張したい君にとってはどうでもいいのかも知れないが
>バイバルスの手柄と見るのが当然
>武将の仕事だ
無敵の「僕がかんがえる武将論」だねww

150:世界@名無史さん
21/02/17 20:18:41.76 0.net
>>149
右翼、右陣、左翼、左陣どの様な表記にしろ伏兵を後方に隠し、寡兵に見せかけて敵にあたる部隊は先鋒だよ。
敵を油断させる為一万以下の部隊だったと見るのが当然。
> 論点はバイバルスの率いた軍が大軍だったかどうか。「大軍」かどうかが勝利の要件だったかどうか。
バイバルスが直接指揮する軍勢だけで勝利したのでは無いのだから大軍が勝利の条件だったのは明らか。
>無敵の「僕がかんがえる武将論」だねww
議論をしに来たと言い、馬鹿は罵倒しか出来ないと言ったのに自分も罵倒しか出来てないじゃんw

151:世界@名無史さん
21/02/17 21:08:08.16 0.net
>寡兵に見せかけて敵にあたる
その寡兵の出典は?なぜ寡兵だと決めつける?
カンネーの戦いでは敵を引き付ける中央の兵数が多かったぞ
右翼でも先方でも同じなんてのは単なる思い込みだぞ
>自分も罵倒しか出来てないじゃんw
先に「文盲」「馬鹿」と罵倒したのはオマエの方なんだよ
なのに自分が言われると「自分も罵倒しか出来てないじゃんw 」などと吠えるのはなんなのか
突然「文盲」だの「馬鹿」だの罵ってきた奴にこっちは永遠に我慢してなきゃいけないのか
当然だの明らかだの根拠のない表現を使いだすのはもう議論できていない証拠だろ

152:世界@名無史さん
21/02/17 21:36:04.60 0.net
別の論文にはバイバルスはモンゴル軍敗北後の掃討戦だけやったみたいに書いてあるな
クトゥブだけで勝ったみたいに読める
Battle was joined at dawn on Friday 25 Ramadan 658/3 September 1260.17
At first the left wing of the Mamlūk army was overcome by the Mongols’ right
wing. Quṭuz managed to regroup his forces and mounted a successful second
attack, but the Mongols recovered and once more the Mamlūks were close to
defeat. Quṭuz again regrouped and this time, in a frontal charge, apparently
after several attempts, the Mamlūks defeated the Mongols. Kitbughā’s death
in the battle was a contributory factor in the collapse of the Mongol camp.
Mamlūk sources note that Kitbughā’s body was found on the battlefield after
the battle and his head was sent to Cairo and hung next to one of the city
gates. After the battle the Mongols scattered in all directions, and most o
f them were killed in their hiding places either by local villagers or by Baybars,
whom Quṭuz dispatched in pursuit.

153:世界@名無史さん
21/02/17 21:47:51.63 0.net
ウィキペにはバイバルス軍は囮部隊で少数の軍だと書いてあるな
Qutuz capitalized on that by hiding the bulk of his force in the highlands and
hoping to bait the Mongols with a smaller force, under Baibars.

154:世界@名無史さん
21/02/17 21:55:47.66 0.net
バイバルスがモンゴルを破ったと明確に書いてある史料は、やはりバイバルスの部下が書いた伝記とのこと
Baybars’ biographer, Muḥyī al-Dīn Ibn ʿAbd al-Ẓāhir (d. 726/1326), related that his master defeated
the Mongol reinforcements to the north of Ḥamāt.

155:世界@名無史さん
21/02/18 01:09:34.73 0.net
>>151
敵より大軍ならば敵は警戒して攻めにくい。
敵が余りに少数ならこれも怪しんで警戒する。
だからモンゴル軍よりやや少ないか同数程度と考えられる。
カンネーの戦いの様に先鋒が大軍だとは考えられない。カンネーの際はハンニバル側が寡兵の為先鋒を弱く見せて釣る必要はなかった。

> 右翼でも先方でも同じなんてのは単なる思い込みだぞ
伏兵部隊が後方、先に敵に当たり追撃される部隊が先鋒。書き方は関係ない。
そして後方部隊は先鋒部隊より兵力を温存出き、敵の虚をつける有利な部隊。最悪先鋒を捨て石にする事も出来る。だから歴史上殆ど2手に分けた先鋒の指揮を総司令官が直接とる事はない。
> なのに自分が言われると「自分も罵倒しか出来てないじゃんw 」などと吠えるのはなんなのか
自分が非難した相手と同じ事をしているのはおかしいわな。
大体相手に疑問をぶつける前に自分が根拠、理論を展開すべき。
根拠のない表現だと思うならお前自身が根拠を示すべきだわ。

156:世界@名無史さん
21/02/18 01:11:55.46 0.net
>>152
クトゥブだけで勝ったとは思えないな。
もしそうならクトゥズがバイバルスを恐れて約束した褒美を反故までした事の説明がつかない。


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