足利義持
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…明との国交断絶[編集]義持の父義満は明と交易を展開したことで知られるが、義持はこれを断絶させた。明と交易を行い、その中の書状で自分を日本国王扱いして帝をないがしろにし、さらに明に対して臣下であるかのように振舞ったので日本の神様が激怒して義満を祟り殺したからというのが、国交断絶に関する義持の言い分である。要するに、義持は神に祟り殺されることを恐れていたのだ。こういった理由は、他に何か腹積もりがあって、それを隠すために適当にでっち上げられるものなのだが、どうも義持の場合、本気で神に義満が祟り殺されたと思っていたらしい。国交をいきなり断絶された明は怒り、武力による制圧を示唆して恫喝してきたが、義持は「外国の武力制圧より神様に祟り殺される方が怖い」と、微動だにしなかったという。この国交断絶のせいで義持は左翼からアナクロ人間のレッテルを張られてしまっており、義満より評価が低い一因となっている。じゃあ右翼は義持を賞賛しているのかと言えば全くそんな話はなく、右翼は義持のことなどまるで気にしていない。なぜなら逆賊足利尊氏の子孫だからである。右翼にとっては室町時代の偉人など大楠公と小楠公、次点で新田義貞がいればそれでいいのだ。むしろ、義持は南朝の皇子を無理やり寺院に押込めて出家させて南朝の子孫の根絶やしを画策しているのに、右翼は何故怒らないのか?という不勉強の方が問題にされる話である。
義持治世下での騒動

義持の治世は他の将軍の治世と比べるとそれなりに安定していたのだが、騒乱が全くないわけではなかった。もっとも有名なのが上杉禅秀の反乱である。この騒乱は、義持の弟で後に将軍になる足利義教に匹敵する問題児として有名な鎌倉公方の足利持氏が、「公方様の母ちゃん上杉禅秀と姦通してるんだってな、ビッチ、ビッチ!」などという市井のくだらん虚言を真に受けて禅秀を殺そうとしたのが発端である。引くに引けなくなった禅秀が挙兵したところ、思いのほか兵力が集まったので、禅秀はそのまま軍勢を率いて幕府をつぶそうと試みた。かくして義持は持氏の尻拭いをやらされる羽目になるのであった。

だが義持はこの騒動に乗じてあることを思いつき、そして凶行に走った。父義満の存命時には寵愛を受けていたが、その死後は後ろ盾を失い逼塞していた弟の義嗣、彼を粛清したのである。義持の側近でこの後6代将軍義教の代まで将軍のブレーンとして悪知恵を吹き込む役割を担う坊主の満済が、義嗣が禅秀と結託して謀反を起こそうとしているという疑惑をでっち上げて義嗣を粛清しようと提案したらしい。なお本気で謀反を起こそうとしており、しかも有力守護大名数名がその後ろ盾をしていたという疑惑もあるが、細川家や赤松家に伝わる史料には「忠実で清廉な守護大名の皆さんがそんなことするはずがない」と書かれているので彼らは確実に無罪である。
晩年

安定した幕政を敷いた義持だが、義持の側近の赤松持貞や富樫満成が、有力大名から女性問題を弾劾されて失脚するなど、室町幕府は父義満が構築したワンマン体制から有力大名の寄り合い所帯へと変貌するようになった。そのような中で義持は一人息子の義量に将軍職を譲って隠居したが、まもなく五代将軍足利義量は酒の飲みすぎで、親より先立つこととなってしまった。一人息子を失った義持は消沈し、本来なら義持の弟たちから六代将軍を選ばなければならないが、義持は一切選ばず、将軍職空席のままで幕府政治を指導。しかし、そんな義持も病にかかり、「次の将軍なんか籤引きで決めちまえ」という暴言を残して病死した。この暴言のせいで籤引きと言う名の出来レースが展開され、仏門に入っていた弟の義円が当選、還俗して足利義教となる。その後の義教の所業を見ればこの男はこのまま仏門に入れておくべき男であったことは明白であり、義教のような気違いを将軍にする機会を提供してしまったことが義持最大の失政などと言われたりする。

ちなみに、死の原因となった病は、入浴中に尻の傷を「かい?の!」と言いながら掻き毟り、その傷口から菌が侵入して発症した感染症であるらしく、要するに単なる自爆であった。

更新日時:2019年3月15日(金)01:52
取得日時:2021/09/18 19:17


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出典: 悪質なデマサイト『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
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