石田三成
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…生涯[編集]豊臣秀吉が近江長浜城主だった時に秀吉に気にいられて小姓となったが男色を好まない秀吉は三成を一度も掘らなかった。三成は本心では掘ってもらいたかったが秀吉の側近として仕えることにこの上ない喜びを感じていたのでそれだけで十分だった。

三成が本格的に台頭してくるのは秀吉が明智光秀を討ち天下取りへの階段を欽ちゃん走りで昇り始めた頃からである。太閤検地や刀狩、戦における輜重(必要な食料や武器、性欲をもてあましている福島正則らを満足させる為のエロゲなどの輸送)の担当などにおいて、利家とまつのまつ様がその活躍ぶりを捏造されても追いつかないほどの獅子奮迅の活躍をし、秀吉の天下取りに大いに貢献した。

後世、あの殺助をもってして「どこでもドアがあってもここまでは出来ないナリよ」と言わし 6677 めている事から、いかに三成の活躍がすばらしいものであったかが分かるだろう。土佐の出来人長宗我部元親や鬼島津四兄弟を1?2年程度で降伏せしめたのは三成がインドぞう気絶するほどの速いスピードで輜重を行っていたからである。
時代を先取りしすぎたツンデレの悲劇

しかし三成自身自信家で傲岸不遜、また少々厭味たらしい所があったので周りからは嫌われていた。特に加藤清正福島正則らいわゆる武断派からは会うたびに青汁を飲んだ直後のような表情をされるほど嫌われていた。

後世、パプテマス・シロッコとかいう思い上がったエリート官僚は、「三成はその活躍があまりに鮮やかすぎた為戦場での槍働きしか能が無い加藤清正福島正則からは嫉まれた、これだから天才の足を引っ張ることしか出来ない凡人は困る」と述べている。しかしシロッコ自身はその凡人にスイカバーで殺された。

実は清正や正則などは決して槍働きだけの猪武者ではなく内政も良くしていたのだが三成が官僚としての優秀振りを発揮すればするほど世間や週刊誌やマスゴミは清正や正則を猪武者としてこき下ろした。清正や正則らは当然憤慨したが「強者が弱者をいたぶるのは武士の風上にもおけない行為、イジメかっこわるい」という考えを持つ正直で誠実な彼らは世間やメディアを叩けなかった。

さらにそんな中で清正らは朝鮮出兵に狩り出されもはや精神崩壊寸前になっていたが、清正らはその憎悪を三成に向けることによって辛うじて己のアイデンティティを保ち、いつしか「三成が俺たちの悪口をメディアや世間に言いふらしてる」と思い込むようになった。無責任な連中の三面記事や噂話があらぬ誤解を招いてしまったのである。また戦国時代にはツンデレと言う概念が無かった為彼はとにかく要らぬ反感を招きやすかった。もし正則や清正が現代に蔓延しているようなオタク腐女子だったらむしろ三成に萌えていただろう、とジャーナリストの大谷昭宏氏は語っている。そんな清正や正則は見たくもないが。
そして関ヶ原へ 関ヶ原で戦う石田三成。 で、結局負けた石田三成。

1598年、秀吉はポックリ逝ってしまった。サルにしては知性にあふれ随分長生きだったが誰でも死ぬ時は死ぬものである。秀吉の跡を継いだ豊臣秀頼が幼稚園児の年齢であることをいいことに、待ってましたとばかりに徳川家康(狸)が天下を取ろうと行動を起こし、所謂ずっと俺のターンという反則技を使って日本を徳川色に塗り替えていった。

堪忍袋の緒が切れた三成は、家康が会津へ遠征して大阪城を留守にした隙を突いて、家康打倒の兵を挙げて大阪城に乗り込んだ。しかしこれこそが家康の罠であった。家康の狙いは、三成が糾合した反徳川連合(西軍と呼ばれた)を十把一絡げにまとめて滅ぼして、勢いそのままに豊臣の直轄領も大幅に削って一大名に落とし、家康自身が一気に天下を取ろうとしていた。三成が立ち上がると、豊臣家子飼いの清正や正則らは家康が三成に勝ったら、豊臣は天下を失うというのに、三成憎しで「三成のツラを吹っ飛ばしてやる!」と一斉に徳川サイドについてしまった。さらに三成が総大将に祭り上げた中国地方の大大名毛利輝元は家康の口車に乗せられて日和見になり、三成が慕う主君豊臣家まで、家康と三成どっちが勝っても「どや顔」ができるようにと日和見になり、三成が求めた秀頼名義の家康討伐令は発令されず、豊臣家の巨万の金銀も三成のためにびた一文支出されず、三成が自分自身の貯金をすっからかんに使い果たして戦仕度をせざるを得なかった。

かくして1600年、家康の三成間で関ヶ原の戦いと言う壮大なチェスと将棋のルールをごちゃ混ぜにして小サジ1杯の醤油を混ぜたような陣取りゲームが勃発した。

戦況は始めは五分五分でむしろ西軍(諸大名の妻子を人質に取る事で強引に引き入れられた武将が殆ど)に有利かもしれなかったが途中まで昼寝をしていた小早川秀秋愉快な仲間達(彼らは後に造反組と呼ばれた)が裏切り戦況は一気に逆転、西軍は壊滅した。三成は名家老島左近命がけの時間稼ぎのおかげで何とか落ち延びたが結局捕らえられた。
最期 石田三成の最期の姿である。

捕らえられた三成は市中を引き回しにされたり1000個のパイを顔面に投げつけられたりゲロゲーロに飲み込まれて体内で胃液に溶かされそうになったりと弄られまくった。

しかしその最中も三成は堂々とした態度を保っていた。もっともムカツク雑兵に「干し柿要らんか?」と言われた時は、「健康に悪いから要らん!」と突っぱねたのだが、「おいおい、もうすぐ死ぬのに健康も何も無いだろ」とツッコミを入れられて赤っ恥をかく一幕もあったが、この時は舌先三寸でごまかした。

家康はその三成の辱めを受けても堂々たる態度に感動して落涙したと言う(これは狸芝居だったと言う説もある)。しかし流石に飽きてきたので夕暮れ時に六条河原に敷かれた六畳の畳の上で斬首された。最期の言葉は「三成死すとも自由は死せず」だったと言う。斜陽の豊臣政権を最後まで支えたサムライの死に全米の腐女子が泣いたという。
人物

いわゆる能吏として語られることが多いが、三成自身は「俺は
官僚であるよりサムライでありたい。一日中書類を書くより地雷原の中丸裸でぴー」と語っていたという。これは数に転んでしまう典型的な能吏である長束正家増田長盛とは明らかに違う点であり、このことから三成はオタク腐女子問わず人気が高い。

三成は実は猫の化身だったという説がある。あのツンデレぶりも猫であるならば納得できる。島左近もまた実は猫であったらしく、現在の佐和山城近辺でその姿を模した神像を見ることができる。

現在大阪城に保管されている肖像画から身長の推測が行われ、1hydeであると試算された。


この項目「石田三成」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ)


更新日時:2021年5月1日(土)20:08
取得日時:2021/07/27 18:17


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