東海道新幹線(とうかいどうしんかんせん)とは、東京より名古屋を経て、大阪へ至るベルトコンベヤーの通称である。目次 旅客輸送に対応可能としているが、運営するJR倒壊はあくまで貨物専用であるとしている。よって他の新幹線と比較して、サービス、旅情、そして温情に欠ける。高速で非常に時間に正確な運行で知られるが、貨物用の設計であるため安全で快適な旅は保証されておらず、JR側も旅客営業規則
1 概要
1.1 過密なダイヤグラム
1.2 「新幹線をご利用ください。」運動
2 開業までの経緯
2.1 新技術の開発
3 歴史
3.1 開業期
3.2 1975年 - 食堂車の連結、そしてついに新幹線は海外へ
3.3 1982年 - 0系新幹線(・○・)襲名・北へと延びる新幹線
3.4 1987年 - ニュー新幹線登場[-○-]・車両も会社も世代交代へ
3.5 1992年 - 時速270km新幹線(-н-)・民営化後初の新型車両のぞみ号登場
3.6 1997年 - ギネスブックに載った戦闘機新幹線(\∀/)・東海道デビュー
3.7 1999年 - 初代新幹線引退・量産型新幹線⊂-_-⊃が本当の海外へ
3.8 2003年 - のぞみ号雄飛・さらなるスピードの時代へ
3.9 2007年 - 車体傾斜によるN700系登場{。∝。}・ドリフト走行の時代へ
3.10 2010年 - 500系新幹線東海道から引退・GO WEST!!
3.11 2012年 - 300系新幹線引退・N700系は第二世代へ
3.12 2017年 - トラブル相次ぐ新幹線・安全神話崩壊の危機
3.13 2018年 - どんどん増えるよN700系・第三世代登場
3.14 2020年 - 700系新幹線引退・N700系一強の時代へ
3.15 将来へ向けた展望・新幹線の未来
4 駅
4.1 東京駅
4.2 品川駅
4.3 新横浜駅
4.4 小田原駅
4.5 熱海駅
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4.6 三島駅
4.7 新富士駅
4.8 静岡駅
4.9 掛川駅
4.10 浜松駅
4.11 豊橋駅
4.12 三河安城駅
4.13 名古屋駅
4.14 岐阜羽島駅
4.15 米原駅
4.16 京都駅
4.17 新大阪駅
5 運用種別と車両
5.1 のぞみ
5.2 ひかり
5.3 こだま
5.4 ドクターイエロー
6 関連項目
概要
それでもJR倒壊のドル箱中のドル箱路線であり、その勢力範囲はJR他社のシマである東京?熱海間(JR束)や米原?新大阪間(JR酉)にも及んでいる。これにより、JR倒壊は全JR中で最もほくほくな会社となっている。そんな背景もあってか、現在建設中のリニア中央新幹線の資金源にこの路線の収益の一部が活かされてたりする。 東海道新幹線は数ある新幹線の中でも超がつくほど過密ダイヤで運行されているのが特徴である。これは、日本でも屈指の人口集中地区がいくつも並び、軽く100万人を超える人口を擁する政令指定都市や、東京都特別区1区だけでも軽く50万人は超える各都市から別の各都市へと行き来するサラリーマンや有名芸能人、大阪のおばちゃんやシロガネーゼ、鉄道教徒といった多岐にわたった人種が乗車するという、極めて流動人口が多い事による。 利用者はそれぞれ「自分の出身地こそが一番!」と思っている奴ばっかりなので、わざわざ別の都市に行き来する利用者はもれなくツンデレなのではないかと言われている。しかしその割合など、詳細については秘密結社・JR倒壊の最大の機密事項となっているため定かではない。 それと同時に、学生の長期休暇を中心にJR6社で仲良く発売される青春18きっぷの強制救済乗車路線となっている(なお、新幹線特急券と乗車券は別に買う必要がある)。そのためか、東海道本線の各接続駅でしばしば「便利で快適な新幹線をご利用ください。」運動を実施中である。これについては、JR倒壊の社員がかなり徹底して教育されており、乗客がJR倒壊の駅員に何を尋ねても「新幹線をご利用ください。」と返してくるだろう。 …と、丁寧かつ妥当と考えられる返事が返ってくる事だろう。 日本には戦前より弾丸列車計画と呼ばれる高速鉄道の計画があったが、国土が山がちで、平地でも大小さまざまな河川があるため、勾配やカーブを避けては通れなかった。そこで海外の技術者に「日本の鉄道のレール幅は1067mmでいいんじゃないの。領土が狭く、小柄な日本にはお似合いだぜ」という適当な挑発に乗せられてしまい、土地代やトンネル代などをケチりまくった結果、日本の鉄道は狭軌路線が基本として出来上がってしまった。 これに懲りた政府は、戦後になって新幹線計画がある程度現実味を帯びて来た頃「絶対に標準軌で作るんだ。カーブがあるなら、トンネルや鉄橋を惜しげもなく通す。関ヶ原に雪が降る?とにかく土を積み上げとけばいいだろ。時間がないんだよ。目視で緊急停車が不可能なら、人や自動車は線路内に一切入れないように、踏切なしで造ろう。侵入者対策には、架線に電気を流すついでに、柵にも高圧電流でも流しておけばいいじゃん」とばかりに、東海道本線とは全く異なる新線を新たに通すことになった。 それまでの東海道本線は、特急 ソフト面においても新幹線開発には特別な背景があった。戦時中に軍事兵器の開発をした人々も、戦後の就職口の中にこの新幹線計画の部門があり、多数この新幹線建設に関わっていたという。その時の技術を生かして、より安全に高速運転し、なおかつそれを安全に停車させる技術のほか、無線技術をもって確実に目視不可能な信号機を路線上に置かず、信号速度をその都度運転台で受信できるための秘密道具である自動列車制御装置(ATC)の開発に携わったといわれ、技術者は下半月型前ポケット さらに、実験段階ですでに窓ガラスの強化にも力を入れていた。実際に鶏肉を200km/hの速度でぶつけたり、同じく松阪牛をぶつけたり、同じく検閲により削除をぶつけたりして、これに合格した強化ガラスが前方の安全性を保つ目的で使われた。 そしてなにより高速化において必要となるのは、巨大な電力とモーターの力であった。そのため、直流よりも高速化に有利といえる交流60Hz・25000Vでの電化が全区間で採用された(一方、
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東海道本線は未だに乾電池1000個を直列につないだ電圧と同じである)。またこれだけの高圧電流は、新幹線の柵に侵入者対策をするのにも最適であった。一部の奇特な趣味の持ち主といえる感電マニアには「これでは死んでしまう」と不評だったが、当然ながら国鉄は別の意味で「東海道本線をご利用ください。」と返答した。 まさに新幹線とは、大和魂を持つ者たちの技術や開発力によったものだったと言えるだろう。
過密なダイヤグラム
「新幹線をご利用ください。」運動
「トイレはどこですか?」→「新幹線(のトイレ)をご利用ください。」
「羽田空港に行きたいのですが、どの路線でしょうか?」→「(品川まで)新幹線をご利用ください。」
開業までの経緯
新技術の開発
歴史
開業期1964年に東京?新大阪間全線開業を迎える。建設計画や実験線での条件をクリアし、実際に建設されるルートなどが固まり、着工後わずか5年で完成させ、東京オリンピック開催までに開業にこぎつけた。当初はまだ実験的要素が強く、12両編成のひかり号とこだま号が1時間に1本ずつそれぞれ交互に30分おきに走るという、どこかのローカル線のようなダイヤだった。ひかり号は途中名古屋と京都のみに止まり、所要時間は東京?新大阪間で4時間と、自宅で朝食を食べて、駅弁で昼食をとり、おやつの時間に間に合うよう配慮されていた。対するこだま号は各駅停車タイプで、本来途中駅を何駅も通過して長距離を高速運転するという優等列車の常識を覆し、各駅停車タイプの特急という概念を確立した。所要時間は東京?新大阪間で5時間ちょうどだったが、それまでの在来線特急つばめ号やこだま号が東京?大阪間で7時間以上かかっていたため、大幅なスピードアップとなった。なお、関西では割と有名なある漫才師のコンビ名も、これらの列車からとられたものであるが、なんとなくその立場が似ているのは偶然の一致だろうか。まあそんなこと考える奴おれへんやろ。んなこと言われたら往生しまっせ。話がバラバラや。1965年
1975年 - 食堂車の連結、そしてついに新幹線は海外へ駅弁じゃ物足りないという食いしん坊な乗客の要望により、日本食堂によって経営される食堂車
1982年 - 0系新幹線(・○・)襲名・北へと延びる新幹線みちのくへと向かう東北新幹線(別名:鈴木新幹線)が、大宮駅始発による暫定開業し、そのすぐ後に上越新幹線(別名:角栄新幹線)も開業する。これらの路線専用に作られた200系新幹線が登場したことにより、東海道の新幹線車両に初めて0系新幹線の名前が与えられた。それまでは、「あれ」とか、「何をこうするやつ」とか訳のわからない夫婦ゲンカの元となるような呼び名や、「あの速いの。」とか、「飛行機みたいな顔した、高速で地上を走る汽車。」などと呼ばれ、明確な名称がなかった。しかし、新幹線の原点と言う意味で、東海道新幹線車両を0系と名付けたのは、賢明な判断であったといえよう。この0系新幹線こそが今後開発されてゆく新型車両すべての基本となった。200系新幹線は、外観上、東海道の青色(参考までに、この東海道新幹線が纏う青色は、新幹線ブルーという正式名称がある)とは異なり、帯色が緑色のラインというはっきりとわかる違いがあるが、見掛け上0系とそっくりに、かつ豪雪にも耐えられるように、線路は通る新幹線のもの、線路の上にある雪の塊などふっ飛ばせばいいというある意味ジャイアニズム的発想なコンセプトを加え、より頑丈に鋼鉄材をベースで作られた。このことが、後に起こる新潟県中越地震で大きな奇跡を起こす要因の一つとなるのだ。2004年10月23日、東京発新潟行きのとき325号が長岡駅数十キロ手前を約210km/hで走行中、この大地震の揺れをもろにくらって中間車両が一部脱線しつつも2km近い距離を脱線したまま走行し、なんとか安全に停車した。他の幸運な要素(偶然上り新幹線とのすれ違いがなかった、高架橋が阪神大震災の教訓により強化されていたため走行路線そのものが崩壊せずに済んだなど)も関わっていたことも事実だが、それでも死傷者は0人という栄誉を与えたのである。これは、一歩間違えればヨーロッパの高速鉄道事故のような大惨事が起こっても不思議ではなかった状況を回避し、その乗客150名余りと新幹線安全神話を守り抜いたということである。これと同時に、マスコミの適当な報道により、脱線したことだけを取り立てて、JR東日本を散々悪者扱いするかのように言ったが、視聴者や多くの専門家がこれに苦笑し、人命よりも不安を煽り、会社叩きするほうが大事なのかと、その頭の悪さを露呈しただけであり、ばっちりとマスコミどもの自滅と不信者を増やすことにも大いに貢献した。また、国鉄がもはや崩壊寸前であることとは別に、東海道新幹線も順風満帆に営業されたことにし、海外より借用していた借金を毎年滞りなく返済しており、なんと、前年には新幹線建設費をすべて完済したのだ。この後、時速220kmで運転するひかり号の中に、ついに東京?新大阪間を3時間を切って走るものが現れた。まさに速度面だけでなく、あらゆる付加的要素も含めて、東海道新幹線の最盛期ともいえた時代であった。
1987年 - ニュー新幹線登場[-○-]・車両も会社も世代交代へ
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100系新幹線登場。初の2階建て車両付き列車で、ニュー新幹線と呼ばれ、中間に2両(後にグランドひかりという愛称のつく4両連結したものも登場)の配置がなされた。下段には一部ビュッフェ、上段がグリーン車になっていた。このグリーン車は、みな羨望のまなざしでそれを見送っていた。一度はここに乗りたいという乗客も多かったという。営業最高時速は220km/hだったが、沿線に住むうるさい住民が、うるさいとうるさく言われたため、実は275km/h出せる能力がありながら、この騒音の問題を解決できず、その能力を全く発揮できぬまま、その後を生きることになる。これとは別に、この前後した時期に、こだま号の中には、編成内の一部に細胞死を起こした編成が現れ、実は東海道新幹線でも12両編成の営業車が再び見られるようになっていた。また4月1日、国鉄がJRへと、貨物も含む7社のJRへと分割民営化された。東海道新幹線は全区間がJR東海のものとなる。よく上がる話としてJR東海は、大人の事情で強引に作られた会社と言われているのだが、実は、JR各社の中でも、国鉄が残した巨大な負債(莫大な借金)をも同社に最も多く抱えさせられることにもなった。そのためJR東海株の配当金が、JR東日本やJR西日本のそれよりも明らかにしょぼかったり、JR東日本は2割引、JR西日本は半額だというのに、JR東海の株主優待券は1枚につき1割引となっている。
1992年 - 時速270km新幹線(-н-)・民営化後初の新型車両のぞみ号登場300系新幹線登場。JR西日本と共同開発と称して、JR東海がメインで270km/h運転を基本とする新種別となるのぞみ号専用車両として営業開始。ところが、明らかに0系や100系より乗車中の騒音がひどく、最高速度を上げるために、車体が在来車両よりも軽いことが逆に災いして乗り心地も悪く、故障が多発した。当然マスコミも恣意的にこれを取り上げ、当初設定されていた「のぞみ301号」が利用客の多い名古屋駅や京都駅をも通過したことと、何より後期増産は0系を置き換えるために製造が続けられた経緯もあってか、未だに鉄道マニアの多くから恨まれている新幹線である。しかし、東京?新大阪間で、停車駅を一部増やしながらも、2時間30分に近づく所要時間にまで短縮された。何よりこの300系は、それまでの形式の面影をどこかに残しながらも、今までの新幹線より近未来的なデザインを採用したことから、この車両のファンも少なからず存在し、初ののぞみ号としての栄誉が評価もされている。残念ながら、後述するが100系と似たような事情もあって短編成化はされずに、順次廃車されることとなる。
1997年 - ギネスブックに載った戦闘機新幹線(\∀/)・東海道デビュー[
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編集]500系新幹線登場。全編成がJR西日本開発、所有の新幹線であり、山陽新幹線ではすでに300km/h運転デビューをしていたが、同年東海道にも、JR東海からJR西日本へと乗り入れられた(ただし、東海道区間では過密ダイヤのために最高速度は問題があるということで、時速270kmに抑えられていた。その後に登場した700系、N700系も同じ)。走る巨大電気ウナギとしてメタリックな塗装をしている。車体が新幹線ブルーとホワイトが基調の車両の中でも、特に東海道ではひときわ目立って、異彩を放っていた。500系は、山陽新幹線での高速走行によってギネスブックを書き換え、戦闘機のような前面がウリで、先頭車がやたらと長く、側面の車体が丸い。それが災いして、他の車両と定員が合わないことや妙な圧迫感があるという理由や、その他JR東海によるいろんな言いがかりを元に、JR東海の手によって2010年東海道から叩き出されることとなる(詳細は後述)。なお、なぜか試作車を作らず、各車両へ課せられるOJTを基本とすることに定評があるJR西日本の唯一の試作車が存在した車両でもあり、この500系とは似ても似つかぬ風貌をしていたことから、実はこの車両は試作車ではなく、浜名湖