大宰府(だざいふ)とは、古代の九州に存在した日本最古の窓際族の左遷先で、実質刑務所。こちら葛飾区亀有公園前派出所でいう「さいはて署」に相当する。目次 大宰府は古代の朝廷が朝鮮半島南部の百済
1 概要
2 有名な収監者
2.1 藤原浜成
2.2 阿保親王
2.3 菅原道真
2.4 源高明
2.5 藤原伊周
2.6 平惟仲
3 その後の大宰府
4 関連項目
5 脚注
概要
北を上にもってくる一般的な地図では、西にある大宰府は都より左に位置するので、大宰府に送られることを左遷と呼ぶようになった。 都を藤原京に戻そうとして反乱を起こし逮捕される。彼の子孫が藤原京家 都を
3430
平城京
有名な収監者
藤原浜成
阿保親王
菅原道真
恐らく一番有名な収監者。男のくせに梅の香水がキツすぎて臭いという理由で収監されたとか、なんとか。大宰府に収監された人間は数多くいたにもかかわらず、何故か彼だけが特別扱いされて太宰府天満宮に祀られている。
源高明
アンナという女性と不義密通を重ねていたことがバレて逮捕された(俗にいうアンナの恋事件)。
藤原伊周
坊主のくせに性懲りもなく女通いを続ける花山法皇を、仏様に代わって成敗してしまったため、逮捕。さすがに可哀想だということで、その後釈放された。 よほど人相が悪かったのか、刑務官であるにもかかわらず、受刑者と間違われて収監されそうになった人。後に誤解が解けて大宰帥として赴任した。 大宰府の振興のために長年力を尽くしていた藤原北家の政治力が低下すると、送り込まれる犯罪者の数が減っていき寂れていった。そのしばらく後、大宰府の存在は税金の無駄遣いとして批判され、廃止に追い込まれてしまったと伝えられている。刑務官を努めていた武藤一族が、内訌や不慮の事故、合戦で捨石にされるなどして横死していったのも、大宰府衰退の原因とされている。 大宰府は形骸化したが、その後も武藤氏は大宰府の刑務官を名乗り、苗字も「武藤」から「少弐」に変えてしまった。「看守太郎」「看守次郎」などと名乗るようなものである。とんだDQN苗字と言えよう。武藤氏はあまり巨大な勢力を構築できなかったため、権威だけでもつけておこうと役職を苗字にしたらしい。しかしその権威付けも虚しく、戦国時代になって、肥前の熊に踏みつぶされて、少弐氏は滅亡した。その頃には大宰府は影も形もなくなり、この熊を収容する檻も存在せず、島津の鉄砲隊が沖田畷で射殺するまで、この熊の跳梁を許してしまうこととなった。
平惟仲
その後の大宰府
関連項目
大臣
左遷
流罪
福岡県
脚注^ 一方都では、都から遠く離れた田舎に位置することから「ダサい府」と呼ばれ忌み嫌われていたらしい。
にほんのおやくしょ
ほんぶ
なんでもや てんのう ゆうびん
きまり おつきあい ちょきんばこ とりひき こうつう
おひゃくしょう おべんきょう けんこう かんきょう くにをまもる
ねんきん てんきよほう やま ざおらる(にせもの)
きゃくほん ねんぐ おほみこともちのつかさ でじたる
更新日時:2021年3月6日(土)11:50
取得日時:2022/08/02 09:25