北条守時
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北条 守時(ほうじょう もりとき、1295年 - 1333年)は、源北条王朝の最後の執権、ラストエンペラーである。

極楽寺流直系の赤橋家当主。義弟(妹婿)である足利尊氏の土壇場の裏切りのせいで、執権でありながら幕府内で孤立し、憤死に近い最期を遂げた。通称「孤独執権」。
生涯

 北条義宗に始まり、北条氏の中では得宗家に次ぐ家格を持つ赤橋流の直系に生まれ(義宗―久時―守時)、家の慣例に倣って将軍守邦親王から「守」の字を貰った。若い頃から枢機に参加、順調に出世し、執権、連署に次ぐ地位の一番引付頭人にまで登り詰める。しかしこの頃の幕政は御内人、有体に言えば執権の執事である長崎円喜と高資親子、その一族によって掌握、壟断されており、おまけに時の執権、得宗家当主の北条高時は病弱で主体性がなく、賄賂や不当な裁決が横行し、北条氏とその取り巻きによる専横に対する御家人らの反感も高まって各地から不満が噴出、「悪党」と呼ばれる下層から成り上がった新興勢力が台頭し、鎌倉幕府は斜陽を迎えていた。守時もこの状況を苦慮していたようだが、海千山千の長崎親子に頭を抑えられていた。

 1324年、持病が重篤化したことに加え幕府内のいざこざに嫌気が差した高時は、厭世観に取り付かれていきなり出家すると、我侭にも鎌倉を脱走してしまった。守時は慌てて高時を連れ戻しに、北条氏揺籃の地である伊豆まで行ったが、長崎親子ら幕僚の面々は得宗の棟梁の脱走さえ意にも介さず、後継ぎを高時の嫡男万寿丸(北条邦時)にするか、高時の弟北条泰家にするかで内輪揉めを起こしていた。この内訌は万寿丸派の円喜が銭を用いて評定に発言力のある連中を篭絡したことで円喜・邦時に軍配が上がるが、赤子に負けたことに憤慨した泰家が抗議の意も兼ねて出家する騒動に発展する。

 円喜はひとまず万寿丸が成長するまでの中継ぎとして金沢流北条氏北条貞顕を執権に推挙、人の良い貞顕はホイホイ承諾するが、いずこからか「貞顕が政権を得宗家(高時ら北条の嫡流)から強奪しようとしている」という風聞が流れ、モンペとして有名な高時・泰家の母覚海尼がこの風聞を鵜呑みにしてブチ切れ、太刀を手に取り貞顕を殺さんと暴れまわった。覚海尼の鬼気に周章狼狽した貞顕は僅か10日で執権職を放棄、執権職は空位になってしまう。覚海尼、泰家、有力御家人で覚海尼の実家の安達時顕らを敵に回すことを恐れて北条一門皆尻込みして執権の座に付こうとしない中、肝の据わった守時は「じゃあ俺が」と盥回しを引き受け16代執権に就任することとなる。この時、祖父・義宗の代に改めていた苗字を赤橋から北条に改めている。

 だが執権に就任した事で泰家や安達らからは怨嗟の眼差しを向けられ、時に刺客を放たれ、覚海尼にも貞顕同様疑われて寝首を何度も掻かれそうになり、政務を執り行おうにもやはり海千山千の長崎親子の掣肘を度々受けた。無責任にも執権をやめた貞顕は自分の事など棚に上げ、「執権殿も大変ですなあ」などと呑気に言ってのけ、守時はストレスから胃痛に悩まされるようになった。「こんな仕事ホイホイ引き受けるんじゃなかった」と彼は心の底から後悔した。1331年には高時が側近達と共謀して長崎親子の暗殺未遂を起こすという暴挙をやらかした。この暗殺未遂は長崎親子が未然に察知したことで頓挫し、側近達は処罰され、高時も暗殺未遂に全く関与していない守時までも権威が失墜してしまった。その結果、長崎親子はますます幕府内で発言力を増し、守時も高時も長崎親子の前では手も足も出せなくなった。

 幕府が内輪で揉めている最中に、反幕府勢力の首魁として隠岐へ島流しされていた後醍醐天皇は島を脱出し、楠木正成などの悪党や反北条の御家人らを糾合し、破竹の勢いで幕府軍を駆逐していっ? 4d5d ?ので、対抗すべく幕府は大軍を投入。幕府軍有利になったものの、有力御家人の足利高氏が寝返って京都を制圧した事で、趨勢は一気に後醍醐天皇側が有利となる。

 高氏は守時の妹・登子を娶っており、守時にとって高氏は義弟である。しかも高氏の妻子(登子と、その息子・足利義詮)は人質として、鎌倉の守時の屋形に滞在していたが、脱走されてしまった。この時の顛末はドラマでは、政治が腐敗して支持を失った鎌倉幕府を執権として立て直せず、守時は高氏ならあるべき武家の世を作ってくれると信じて、人質を逃がしてあげたとベタに描かれている。そして後日譚になるが、その義詮は後に室町幕府2代将軍となって、守時が果たせなかった夢である安定した武家の世を築いていくことになった。

 さて謀反人の義兄として守時に対する幕府内の風当たりはにわかに強まり、足利との密通を疑われ、ついに現職の執権でありながら長崎親子の主導で高時より謹慎を命じられた。しかし、その直後に討幕を掲げる新田義貞が大軍で鎌倉へ押し寄せると、謹慎中の守時は最後の執権としての矜持を示そうと、自ら捨て石となって鎌倉の手前の洲崎へ出陣し、ヤケクソになって敵兵を斬りまくった後、勝手に自己満足して腹を十字に引き裂いて果てた。それから間もなく、高時、貞顕以下北条一族、長崎円喜親子、安達時顕らも自害して果て、鎌倉幕府は滅亡した。
人物・評価

 自害の直前、家臣南条高直らを相手に中国の古典を引用して長々と説教を垂れたというエピソードが古典「太平記」にあることから、謹直だが頑固な人物と評されることが多い。また、自害の際の潔さは一兵でも多く道連れにせんと奮闘した大仏貞直と対比されることが多く、貞直を支持する人々から守時は「諦めが悪い」といちゃもんをつけられている。

 妹を高氏に嫁がせてしまったがため、守時は幕府内で孤立してしまったものの、その御蔭で足利尊氏を主人公とする物語では、敵方の人物でありながらヒロインの兄という立場上好意的に描かれる事が多い。また、腐敗した末期鎌倉幕府の象徴である長崎親子ら幕府首脳陣から「裏切者の義兄」として敬遠されたことも、後世の人々の同情を集めるプラス要素となった。


先代
北条貞顕鎌倉幕府執権
第16代:1326年 - 1333年次代
(王朝崩壊)


更新日時:2020年10月24日(土)11:26
取得日時:2021/06/20 13:14


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