井伊直弼
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…安政の大獄[編集]将軍継嗣問題、安政五ヶ国条約で直弼はあまりに多くの敵を作りすぎ、反感を買いすぎた。終いには孝明天皇から水戸藩に直弼を暗殺せよとの密勅が届けられたほどであった。身の危険を感じた直弼は、将軍継嗣問題で一橋派の妨害に貢献した大奥を頼ろうとした。しかし大奥はネラーと同じで「敵に回すと恐ろしいが、味方につけると頼りない」、豪奢な生活をしているだけのやかましい女の烏合の衆でしかなく、直弼が頼っても「ふーん」とそっけない態度を取るばかりであった。そもそも、冷静に考えて姦しい烏合の衆が政治的な後ろ楯になれるはずがないことぐらいは直弼も承知のはずなのだが、藁にも縋る想いだったのだろう。

ならばやられる前にやると言わんばかりに、直弼は自分に異を唱えるものは軽重問わず片っ端からひっ捕らえ処分することを決意する。腹心の長野や島田左近らを使い、各地に投網を伸ばして嫌疑のかかる者を一網打尽にした。かくして空前絶後の大弾圧である安政の大獄が始まった。吉田松陰らプロ市民を唱道していた思想家や、水戸藩の重臣などが処刑され、水戸斉昭を筆頭に雄藩の諸大名や公家などが大勢謹慎などに処された。

また天皇の許しがない違勅条約を結ばれた事に関しては、「わしは帝のお許しこそ必要だと言ったのに、条約交渉担当の岩瀬忠震と老中の松平忠固が押し切っちゃったせいだ」と直弼は言って、全責任を岩瀬と松平忠固におっかぶせて罷免した。
桜田門外の変

無論この弾圧は、一橋派や尊王攘夷派の怒りに、油を注ぐ結果となった。直弼は今更ながら、自身の片腕ともいうべき老中の間部詮勝に安政の大獄の責任をおっかぶせて罷免した。自分の保身の為には、躊躇なく片腕だろうが切り捨てるという非情と打算は、現代の政治家の模範といえよう。しかし間部罷免の狙いは直弼自身への批判の矛先を逸らすことだが、結果からみれば全く効果はなかった。1860年3月3日雛祭りの日、大奥のやかましい女達のご機嫌を取るべく江戸城へ登城中、水戸と薩摩の浪士らに襲撃され、その凶刃に直弼は倒れた。世に言う桜田門外の変である。当日は季節はずれの豪雪で、護衛は皆雨合羽を羽織、刀に袋を掛けていたため動作が鈍り次々と斬り捨てられ、かごの中にいる直弼も討ち取られたというのが通説だが、武術の達人である直弼を端武者の浪士達ごときが白兵戦で殺せるはずが無い。実際は遠距離からバズーカやライフル銃で狙撃し、直弼はバズーカの直撃を喰らい即死した。この時直弼を狙撃した、唯一薩摩から襲撃に加わった有村次左衛門は、直弼の肉片が爆発とともに飛び散るのを見て「へっ、汚ねぇ花火だ!」と罵ったという。

ただし異説も有り、直弼はバズーカやライフルの弾丸を剣で斬り捨てて応戦し、浪士達が十字砲火を何十発も食らわせてようやく直弼を死に至らしめたといわれている。この辺の逸話はコーエーのアクションゲーム「幕末無双」の中で描かれている。

直弼の死後、安政の大獄を進めた幕府政治はおかしいという非難が公然と沸き起こる。慌てた将軍徳川家茂と幕閣たちは、すべて死んだ直弼のせいだと全責任をおっかぶせて、彦根藩の領地を35万石から25万石に減らし、直弼の腹心であった長野主膳を処刑した。責任を他人におっかぶせてしまうことは直弼の特技であったが、直弼の死後に井伊家が同じ目を蒙る側になるとは皮肉であった。なお水戸藩の過激派は天狗党の乱を起こしたが、彦根に近い敦賀で幕府軍に捕えられて皆殺しされた。天狗党を殺害した者は勿論、「直弼公の敵を討ち取ってやる!!」と憤激した彦根藩士であった。天狗党員は、殺害される直前には鰊倉に監禁されていた。
逸話

直弼の苛烈な性格を端的に示す逸話としてこんなものがある。城外の屋敷でくすぶっていた頃、下着泥棒が直弼の屋敷に忍び込み、10枚を越す直弼のふんどしを盗んだ。盗んだ後で男のパンツだと分かった泥棒は失望してそれを川に流し、下流に大量のパンツが流れ着いているのを庶民に発見されて直弼は大恥をかいた(井伊家のものは皆赤いふんどしを穿くという藩祖直政依頼の因襲があったのですぐ直弼のふんどしだと分かったのである)。直弼は激怒し草の根を掻き分けてでも泥棒を探せと命じ、自らも各地に足を運んで泥棒を探した。やがて直弼の熱意が結実し泥棒が捕らえられると、これを逆さ磔の残虐刑に処した。
一期一会

多くの人から忌避された直弼だが、茶道への造詣が深かった直弼は礼儀作法を重んじ、峻厳な人物であったものの、非常に礼節を弁えた紳士であったという。相手を詰る時も、うんこまんこお前の母ちゃん出ベソなどという罰当たりな言葉を使う事は無く、知的ユーモア皮肉を交えて風刺するように非難したという。もっとも、相手にとってはその皮肉が罵詈雑言よりも鋭く突き刺さったようで、直弼は厭味な奴であると言う印象を助長させる結果になった。

一期一会の精神を重んじたが、直弼はこの言葉に「その人を一度も見ることなく寸評を下すのは愚の骨頂だ」「人の器量や人格は第一印象で大体が知れる」という意味を含ませていた。安政の大獄の折も、吉田松陰ら殺害対象者の処刑の場面にわざわざ出向いて会釈し、あの世で幸せになれよなどと優しい言葉を掛けてやった。直弼なりの善意であったが、水戸藩士鵜飼幸吉などは直弼に向かって唾を吹きかけたという。全員に声を掛けた後、直弼は「一人残らず死に値する人間だった。自分の裁量が誤ってなくてよかった」と述懐している。
直弼と猫

直弼は大変な猫好きでも知られており、彦根藩主時代には居城の彦根城に1000匹を超える猫を住まわせていた。また直弼は猫に英才教育を施し、人並みの知能を持った猫に育て上げた。それらの猫のうち数匹は明治新政府における枢要なポジションで活躍したり、詩人として文壇にデビューしたりして人間顔負けの活躍をしたという。名高きひこにゃんも直弼の薫陶を受けた猫である。また夏目漱石の「吾輩は猫である」も、井伊直弼が育てた喋る猫にアイデアを得て書かれた。



9b6 直弼は国賊か

尊皇攘夷派の巨魁吉田松陰や、攘夷派の牙城である水戸藩の藩士を多く処刑したため、直弼は売国奴、国賊と指弾されることがあるが、直弼自身、長野主膳に師事して国学の研鑽を積んでおり、どちかといえば大攘夷主義者であった。つまり、直弼は志を画一する同志達を弾圧、処刑したことになるが、何故そんなことになったかというと、彼らは攘夷という点では同志であったが、幕政の方針にいちゃもんをつけたり、長州藩の連中や京都の公家においては倒幕まで画策している輩もいたため、同志であると同時に、幕僚という観点から見れば抵抗勢力であり、不倶戴天の敵であった。直弼は、彼らが幕府の敵であるということを重視し、弾圧、処刑という果断に踏切った。血の雨を降らせたがゆえ忌避された直弼だが、役職と個人の立場を峻別できる人物で、決断力もあった。日和見ばかりしている事無かれ主義者の政治家は、模範にして欲しいものである。
関連項目

彦根市

水戸市

敦賀市
1191

更新日時:2019年3月24日(日)21:07
取得日時:2021/07/17 08:44


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