ベトナム戦争
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ベトナム戦争(ベトナムせんそう、英:Vietnam War 正式名称:第一次イラク戦争)とは、超大国という錯覚、夢、妄想からアメリカ合衆国を解き放った目覚めの一撃の総称である。目次

1 概要

2 ベトナム戦争年表(1960年-1975年)

3 開戦の背景

3.1 独立運動の広まり

3.2 冷戦構造とドミノ理論の形成

3.3 第二次大戦後のベトナムの状況

3.4 第一次インドシナ戦争

3.5 ディエンビエンフーの戦い

3.6 北ベトナムの独立と統一選挙


4 ベトナム戦争の推移

4.1 アメリカによる支援

4.2 ようやく年表に追いついて、南ベトナム解放民族戦線の成立

4.3 えーかっこしーによる完全撤退計画

4.4 仏教徒、動く

4.4.1 サダムさんの話

4.4.2 ゴさんの場合

4.4.3 釋廣コの場合

4.4.4 マダム・ヌーの場合

4.4.5 その後の話


4.5 サンクチュアリの形成

4.6 その他大勢、政権を奪取

4.6.1 面倒なのでベトナム共和国の政権トップの変遷

4.6.2 混乱収束まで


3911 4.7 東京湾事件

4.8 てろてろてろっぴ 南ベトナムいたずら物語

4.9 朝のナパーム弾の臭いは格別だ

4.9.1 非人道行為を世界中にぶちまけるという反撃


4.10 最前線にでかい的を設置

4.11 ランボー・コマンドー・プラトーン、その他もろもろ

4.12 韓国軍が来るぞ!みんな逃げるんだ!!

4.12.1 韓国軍の内訳


4.13 期待の新星登場

4.14 反戦運動

4.14.1 南ベトナムにおける反戦運動

4.14.2 アメリカ国内における反戦運動

4.14.2.1 キング牧師の場合

4.14.2.2 アメリカ国内の情勢


4.14.3 アメリカの若者の場合

4.14.3.1 文化人の場合


4.14.4 西側諸国による様々な嫌がらせ


4.15 お待たせしました。崩壊の始まりです

4.15.1 テト攻勢に入る直前

4.15.2 突入

4.15.3 サイゴン攻撃

4.15.4 ケサン攻防戦

4.15.5 その後

4.15.6 市街戦いろいろ

4.15.7 世界への影響

4.15.8 ピュリッツァー賞おめでとう


4.16 テト攻勢の結果

4.17 ソンミの虐殺

4.17.1 事件概要


4.18 さようなら 彼は四年で 旅立った

4.18.1 Good by Black & White

4.18.2 シカゴ7


4.19 ミスター悪人顔、奇跡の復活

4.20 民心の安定

4.21 貴様ら、いきがってんじゃねえぞコラ

4.22 紛らわしいことこの上ない話

4.23 ひげよさらば

4.23.1 分かりやすく言うとこうなる


4.24 ちょっと火を付けたら歴史に残る大火事になった話

4.24.1 火遊び大好きどこかの国

4.24.2 これぐらいではまだボヤ程度

4.24.3 そして大火事へ

4.24.4 鎮火まで


4.25 安心しろ、実はラオスも濃い

4.26 ペンタゴン・ペーパーズってなあに?

4.27 Have You Ever Seen The Rain?

4.27.1 Who'll Stop The Rain

4.27.2 水門と世界最悪のクリスマスプレゼント


4.28 パリ和平協定

4.29 アメリカ軍の全面撤退

4.30 アメリカ軍撤退後の戦況

4.31 Final Round Fight!

4.32 土壇場でババの押し付け合い

4.32.1 不運なる人々


4.33 サイゴンの最後

4.33.1 サイゴンの最後のその後


4.34 南北ベトナム統一


5 使用された兵器

5.1 銃火器


6 損失

1666 6.1 ベトナム

6.2 アメリカ


7 日本への影響

8 国交回復

9 評価

10 ベトナムの現在

11 報道

11.1 アメリカの場合

11.2 世界のマスコミ


12 関連作品

12.1 映画

12.2 小説

12.3 楽曲


13 ヒッピー共

13.1 ビートルズ

13.2 ジミ・ヘンドリックス


14 関連項目

15 外部リンク

概要

このベトナム戦争については、世界中にルールを守れと叫び続けるどっかの国による卑怯なだまし討ちを嚆矢として始まった戦争である。宣戦布告をしていないため、ベトナム紛争とも呼ばれている。また、第二次大戦からインドシナ半島で続いた戦争の一つとして、第二次インドシナ戦争とも言われている。なお、第一次インドシナ紛争は、1954年にディエンビエンフーの戦いでおフランスを完膚無きまでに赤いナポレオンがたたきつぶすという喜劇で終結している。

この戦争は、アメリカ合衆国を中心とした民主主義陣営が、共産主義勢力の拡大を防ぐという名目で始まり、10年以上にわたって続けられている。見事なる妄想の下で。その内訳はまさに悲惨の一言で、ひげのじじい率いるベトナム民主共和国(以下、 11b1 北ベトナム)と、対峙するベトナム共和国(以下南ベトナム)、および南ベトナムをと兵士とまるで役に立たない屁理屈で支援するアメリカ合衆国がベトナムの地で殺し合いをしまくった結果「自由のための尊い犠牲」、もしくは「祖国の独立のためには仕方なかった」として300万人ほど命を散らしている。その内実はまさに戦争の一言に集約されており、自由だの平等だの人間愛だのゆう戯言は徹底的に排除されている。そして、最終的に米北南、三者の中ですべて、アメリカが悪いということで決着している。まぁ、負けたわけだし。

戦争の形態がめまぐるしく変化しているのも特徴で、1960年から1963年までは南ベトナム解放民族戦線(以下ベトコン)と南ベトナム軍の内戦の様相だったが、それ以降はアメリカ軍の介入が本格化し(ベトコン対南ベ、米)、1968年1月のテト攻勢以降、ベトコン勢力は弱体化し北ベトナムの主力であるベトナム人民軍(以下、北ベトナム軍)が本格的に参戦するようになる(北べ、ベトコン対南べ、米)。また当初は装備も貧弱なゲリラ戦が主流だったが、最終的には共産圏の最新兵器が続々と投入され、アメリカの最新兵器といえども弱兵に使わせたら意味がないことをまざまざと立証している。てゆうか、AK-47(カラシニコフ銃)が素晴らしすぎる。

なお実際に戦争を継続するにあたり、食料自給面以外に資源らしき資源が存在しないベトナムでは、南北双方とも大きな後ろ盾がなければ戦線の維持すら難しい状態だった。そのため北ベトナムはゲリラ戦や外交戦・情報戦に謀略戦など、金はかけないけれど頭を使う方向に動くことになる。それに対し南ベトナムは、頭を使わない分も金と兵士を援助されることで対応し、アメリカはいつ果てることもない、その場しのぎで対応し続けることになる。その結果、粘り強くしつこい敵と暗愚な味方、なおかつ展望のない戦略という勝てるわけがない組み合わせが生まれ、まったく希望の見えない戦争に労力を傾けた超大国アメリカの屋台骨は大きく揺らぐことになる。

こんな不毛な戦いにどうしてアメリカがこだわり続けたかというと、アメリカにおける民主主義の様相の変化と、ベトナム戦争が当時の米ソという二大強国がお互いに嫌がらせをしまく? aa6 ??という、いわゆる冷戦と呼ばれた環境の中で勃発したことの2つが大きい。1960年代、両国ともに相手に負けられない、弱みを見せられないというプレッシャーを与え合う状態において、ソ連は身の丈に合わない軍拡競争を繰り広げ自滅の道をたどり、アメリカは逃げ道のまったく見えないベトナムのジャングルで消耗していった。そんな中、漁夫の利を得たのが日本ヨーロッパ

ちなみにベトナムにとってのベトナム戦争は、一応は民族自決だの、民族独立だのいうベトナムの南北統一を目的とした戦争であった。もっとも南北米、三者の実際にドンパチやってる連中にとっては、そんな話はどうでもいいことである。要は目の前にクソむかつく野郎がいて、そいつを殺してもいいという状況であり、なおかつ、そうすることで食い扶持を稼ぐわけなのだから。

未来や夢、愛を語った連中から現実に押しつぶされていく。
ベトナム戦争年表(1960年-1975年)

ベトナム戦争は、上述したとおり宣戦布告のないまま開戦された戦争であるため、考え方によって開始時期にばらつきがある。ここでは南ベトナムにおいて内戦が勃発した1960年12月をその端緒とする。なお、その直前である1960年11月に、一方の当事国アメリカにおいてジョン・F・ケネディが 676 リチャード・ニクソンを大統領選挙で破って当選している。

1960年:南ベトナム解放民族戦線、通称ベトコン結成。早速反政府活動に従事(12月)。なお、間違いやすいベトミン(ベトナム独立同盟会)は第二次大戦中に日本軍と戦った組織で、1955年に解散し、その後の北ベトナム軍の大本となっている

1961年:えーかっこしーのジョン・F・ケネディアメリカ大統領に就任(1月)、アメリカが南ベトナムにヘリ部隊と軍事 7d78 顧問団を派遣、地球の裏側にちょっかいを出し始める(11月)

1962年:米軍が「南ベトナム軍事援助司令部」を設置。ついに自分たちで独自に動くことを決める(2月)、南ベトナムとラオスが国交断絶(11月)

1963年:アプバクの戦いで圧倒的な兵力を持つ南ベトナム軍、惨敗。ケネディ大統領、ため息とともに米軍の本格参入を決める(1月)、米軍を自由に戦わせてくれない南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領と秘密警察長官だった弟の2人、軍事クーデターで兄弟仲良く向こうの世界へCIAはもちろん情報をつかんでいて、大統領のお許しを得てから実行を軍に許可。そのわずか3週間後、まるで計ったかのようにようにケネディ大統領もヘッドショット。5年後、司法長官やってた弟もヘッドショット(11月)

1964年:たった2ヶ月で南ベトナムのグエン・カーン将軍、再クーデター。ここから、軍事クーデターが国をあげての年中行事となることが決まる(1月)、トンキン湾事件発生。妄想と間違った正義が、やってもいない艦船への攻撃を生み出す(8月)

1965年:アメリカ軍による北爆開始。いわれなき攻撃で頭に来た北ベトナム、国を挙げての戦時体制に突入。中央集権化、軍事増強、国民総動員、さらには共産陣営挙げての一大支援体制の構築などで、結果的に戦力激増(2月)、アメリカ海兵隊が最前線の都市「ダナン」に上陸、最前線に一大軍事基地を造営し、その後、格好の的になる(3月)、高木正夫、アメリカから金を巻き上げるために韓国軍を派遣、大活躍。その後にベトナムと韓国の間で外交問題となる種をまき散らす(10月)

1966年:北ベトナムに対する「B-52」による初空襲、勝てない時のストレス解消法として大人気になるも、そのおかげでほかの国から総スカンを食らい、外交の場で徹底的に負ける原因になる(4月)、初のクリスマス休戦。たまの休みを喜んだ連中は1年と1ヶ月後に痛い目を見る(12月)

1967年:南ベトナム解放民族戦線がダナン基地を攻撃。その場所を撃てばフランス軍に当たるというディエンビエンフーで培った戦術が、ついにアメリカ軍にも適用される(7月)、アメリカ合衆国らしく、選挙でグエン・バン・チューが南ベトナム大統領に就任。ただし、思いっきり軍人でさらに麻薬密売組織の元締めだったことについてアメリカは目をつぶった(9月)もう一つの的、ケサン基地に対する攻防戦が始まる(12月)

1968年:正月休みの中、テト攻勢開始。アメリカ大使館が一時占領される映像が世界中に流された後で、リンドン・ジョンソン大統領は米軍の大勝利を喧伝。誰も信用しない(1?2月)、事件発覚後、首謀者は捕まるも速攻で保釈され、今ものうのうとアメリカで生きている。ソンミの虐殺発生。併せて、ジョンソン大統領ベトナムからの撤退を宣言(3月)、ようやくパリで和平交渉開始(5月)

1969年:和平交渉の開始に伴い、北ベトナムが南ベトナム臨時革命政府の樹立を発表。紛らわしいことこの上ない(6月)、ひげのじじい死ぬ。国が分裂すると期待したアメリカの期待を裏切り、北ベトナム、さらに結束(9月)

1970年:カンボジアでロン・ノル将軍によるノロドム・シアヌーク政権に対するクーデター(3月)南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジアに侵攻、現地にこっそり駐留していた北ベトナム軍に大損害を与える。しかし、その後に反米勢力の支持を取り付けたカンボジア共産党「クメール・ルージュ」が頭角を現してゆく(4月)、カンボジア内戦勃発(10月)。その後、200万人以上が亡くなる大虐殺が発生するが、もちろん、アメリカはカンボジアで行われた虐殺とは何の関係もないと主張している。さすが。

1971年:南ベトナム軍とアメリカ軍がラオスに侵攻。現地にこっそり駐留していた北ベトナム軍、前回の轍を踏まずに撃退(2月)、ニューヨーク・タイムズ紙に「ペンタゴン・ペーパーズ」連載開始。政府機密文書が大公開され、楽しいぐらいに嘘と妄想と間違った正義が国民にばれる(6月)南ベトナム傀儡大統領選挙が行われ、首のすげ替えが自由な置物、再度当選(10月)

1972年:ソ連直輸入の北ベトナムの戦闘機がアメリカ艦艇を初攻撃(4月)、アメリカ軍無制限北爆再開。信じられないほどの爆薬を落とし、北ベトナムに大ダメージを与えた後、世界中から非難されてすぐさま停止。そのまま北爆を続けていればアメリカの勝ちだったという妄想の原因となる(5月)アメリカ史上最大最高のスキャンダル、ウォーターゲート事件開始(6月)。何の意味があるのか分からないまま、アメリカ軍、クリスマス直前に無制限北爆再開&いつもどおり世界中に非難されて停止。(12月)

1973年:停戦のまねごととしてパリ協定締結(1月)、13年におよぶまったく無益な戦闘を終え、アメリカ軍がベトナムから撤兵する。アメリカ国内は負け戦に途方にくれる(3月)

1974年:北ベトナム軍がプノンペンを包囲。親米勢力を追い出す(2月)、リチャード・ニクソン大統領、水門で辞任。その後、テキサスの腐れ脳みそが出てくるまでの間、歴代最悪の大統領との汚名を一身に浴び続ける(8月)

1975年:アメリカとの約束なんざ守る必要はこれっぽっちもないと、北ベトナム軍が総力を挙げて南ベトナムへ総攻撃。誰も何も文句は言わない(3月)、南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、南ベトナム政府全面降伏。ベトナム戦争終結(4月)、サイゴン市をひげじじい市へ改名(5月)

開戦の背景
独立運動の広まり

1945年8月、沖縄広島長崎靖国神社に年中行事を行う素地を与えつつ、第二次世界大戦が終結する。すると堰を切ったかのように続々と世界各国の植民地で独立宣言が巻き起こり、ドイツ日本、ちょっとだけイタリアの手によってボッコボコにされた戦勝国に、第二次世界大戦エクストララウンドの開催が宣言されてしまう。特に有名なのは当時イギリス領だったインドで、対独戦争で精根尽き果てたイギリスを見透かすように、マハトマ・ガンジーが独立運動を激化させる。その結果、イギリス最大の植民地だったイギリス領インド帝国は、1947年にインドパキスタンの2つの国に分離独立する。そして、独立の火種は余すところなく世界中のイギリス植民地に飛び火し、見事に大英帝国による世界秩序、「パクス・ブリタニカ」を崩壊させる。これは、それまで圧倒的な国力でもって世界を制圧していたイギリスが、国力の低下で世界を制圧できなくなっただけのことである。結局、自分で何とかできなくなるほど世界中で植民地闘争が巻き起こり、どうやっても兵も予算も割り振ることができないと分かった段階で、イギリスはさっさと植民地主義を捨てさることを決断する。しかし、フランスオランダのように、それほど多く持たなかった植民地になんとか兵を割り振ることができたところは、逆に悲惨の極地であった。それは、ようやく戦争が終結し低下した国力を上げないといけない中で、日本に占領されたインドシナ半島やインドネシアなどの東南アジアの植民地に、日本が「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」だのいう独立紛争の種をばら撒きまくっていたためである。しかも、その実現可能かどうかは微妙だが、高邁な理想を教育で叩き込まれた一兵卒が、終戦後も日本に帰らずに現地人に独立闘争の手ほどきをするという、遠く離れたヨーロッパでは想いもつかないとんでもない状況になっていた。その結果、当初は鼻歌まじりで資産を回収しにやってきたヨーロッパ人を、組織化され独立に目覚めた現地人が出迎えるという、いろんな意味でたまらない状況が東南アジア各地で生まれることとなる。

そして、300年の歴史をもっていた「オランダ領東インド」は4年におよぶ独立戦争の結果、インドネシアとして独立する。もう一方のインドシナ半島は、30年かかる。

幸いにも、インド独立の段階で植民地主義の維持を放棄したイギリスは独立戦争という泥沼に足を踏み入れることなく、友邦としてある程度の干渉の余地を残しつつ独立させることを選び、その結果、大英帝国は、イギリス連邦という緩やかな同盟関係へと発展してゆく。なお、独立させたアフリカ各国が、次々とクーデターでボロボロになっても、知らんぷりできる特権を手に入れたことは、自国経済と、何よりも国の雰囲気を守るための大きな成果だった。

しかし、世の中にはそんな見事な外交能力を持たない国があり、特に、イギリスを追い落として世界の覇権を握ったアメリカに、そんな微妙な振る舞いはできなかった。できるわけがなかった。そのため、1950年代以降に築かれていく新しい世界秩序、「パクス・アメリカーナ」は、まさにのぶつかりあいによって成立を目指すこととなる。が、結局、アメリカもベトナムで学びたくもなかったであろう汚点から、いろんなことを学んだ結果、知らんぷりによってベトナム、およびインドシナ半島とのかかわりを放棄することになる。その後も必殺技「知らんぷり」は何回も発動されており、ルワンダの虐殺やスーダン東部における民族浄化、さらには現在のリアル北斗の拳ソマリア」でもアメリカの知らんぷりはいかんなく発揮されている。
冷戦構造とドミノ理論の形成

その頃、世界各国に広まった独立運動の内訳はそれほど金がかからない上、貧乏人でもやっていける共産主義勢力によって指導、支援されている場合が多かった。しかし、中には最初は単なる独立運動にすぎないものだったのだが、いつの間にか資本主義勢力からまったく支援を受けられないため、仕方なくソ連を頼る勢力も多かった。そういったことが積み重なっていった結果、ようやく世界一になったんだけど、実は後ろから強烈に追い上げられているどこぞの歴史を顧みない国に、共産主義って、実は世界を支配すんじゃね?とアホな妄想を与えるきっかけとなってしまう。また、ひげのおっかないおじさんが1949年に原爆を作っちゃたもんだから、お互いに直接ドンパチするわけにもいかなくなってしまう。結局、米ソ両国ともに、自分たちが支援する勢力に、自分達の代わりに戦争してもらうという、いわゆる冷戦構造が成立していく。

その対立の最たるものがベトナム戦争である。他にも、朝鮮戦争やキューバ危機といった対外的なものや、赤狩り(レッド・パージ)に見られるような自国内における相手勢力への賛同者つぶしもそれに該当する。これは、主に、第二次大戦後のアメリカの準備不足、研究不足が原因で、対外的な介入においてことごとく敗北しまくったことが大きく影響している。自分たちが支援した蒋介石が負けて、毛沢東によって中華人民共和国が建国されたり、東ヨーロッパ諸国で、共産主義政権がドカドカ成立していく光景を目の当たりにすると、共産主義が心底恐ろしいものだと錯覚し、1950年代から80年代にかけて、お互いの幻想におびえる世界情勢が続くことになる。ちなみに、中国も東ヨーロッパも、ソ連は第二次大戦が始まる前から介入しており、共産政権が樹立されてもなんらおかしくはない状況だった。

自分達の準備不足、予測力のなさを棚に上げ、世界各国がまるで“ドミノ倒し”のように共産主義化していると思い込んだアメリカでは、最終的に一国の共産化が周辺国へのさらなる共産化を招くというドミノ理論が唱えられ、そして、信じられることになる。各国独自の歴史、文化についてまったく省みようとしていないところが素晴らしい。このちょっと前に占領したどこぞの島国では、自国の価値観を押し付けても全部闇鍋の材料としか思ってない連中が相手だったんである程度はうまく行ってしまったのも原因だが。この段階でアメリカは、各国の地域情勢を全く無視し、国民が圧政と搾取から免れるため&自由を求めて行動したという事実から目をそらし、単に自分の味方を標榜する無能な連中を逐次支え続けることを選択する。調べれば誰だってわかるはずなのに頭は無能な方が自分でコントロールしやすいと思ったからで、まーそのへんは赤い方も同じなのは隣のその後の惨状や日本の隣の盲腸の北半分を見りゃ解ることなのだが、たまたまベトナムの場合はちょっとキレ者がそれ以前から実権握ってたのでお察しくださいな事態に。その結果、アメリカはアジアや中南米諸国の共産主義者、民族主義者とことごとく対立し、各地の独立紛争やクーデターに深く関わるようになっていく。なお、共産主義勢力と敵対するためなら、ファシズムを信奉する独裁者とも平気で手を組んでいる。

そんな状況を10年以上前から予測していた人物がいる。アドルフ・ヒットラーである。
第二次大戦後のベトナムの状況

世界規模のドンパチが終了した後、筋金入りの共産主義者で反植民地闘争レベル100のホー・チ・ミンはベトナムの独立を勝手に宣言していた(1945年9月2日)。もっとも、ベトナムに日本軍が進駐してからずっと独立闘争を続けていたため、特におかしなことでもなかった。彼はハノイに首都を置くベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ、共産主義を基礎にした国造りを目指すため、それまでこそこそやっていた旧来の地主階級や豪商から財産をぶんどって、貧乏人に分け与える政策を大々的に始める。なぜなら、共産主義はそれこそが目玉だ。もちろん、ただで農民に土地をやるわけはなく、対価として兵力と食料を要求、その後、1989年まで続く戦時体制の整備につとめている。また、降伏した日本兵から武器弾薬、日本軍の軍事機構や戦術、そして何よりも、自爆攻撃を取り入れた上で、どうせまたやってくるであろうおフランスとの戦争に備えた。なお、その後、アメリカ軍をいてこましたゲリラ戦術は、13世紀、ベトナムにモンゴルやが侵攻してきたときすでに取り入れられている。

そんな中、のこのこと旧宗主国のフランスが帰ってきた。

ちなみに、第二次大戦中、ベトナムは1943年まで日本軍とドイツ占領下のフランス(ヴィシー政権)が共同統治をしていた。しかし、1945年3月フランスが連合軍に解放されると、駐留していた日本軍が自国政府を無視して勝手にフランス軍を追い出し、傀儡政権(越南帝国)を立てる。ところが、半年経たずに日本も敗戦したため、軍事機構や社会体制、何よりも日本軍が治安を維持した平和な都市などがそのまま残っていた。しかも、現地の日本軍は武装解除しており、だとしたらもう一回来てもいいかな、と思っても仕方がない。その戦術をベトナム軍が継承していることなぞつゆ知らず。フランス軍は、ベトナムに再上陸するとホー・チ・ミンの影響の少ない南部に拠点を置き、北のベトナム民主共和国に対するコーチシナ共和国を1946年3月に成立させる。なお、政権を樹立させるためにわざわざ選挙を行わなければならなかったどこぞのイラクと違い、おフランスは越南帝国の皇帝であり、? 111c ??民地時代のベトナムの王、バオ・ダイを首長に据えている。
第一次インドシナ戦争

無事、ベトナムに再上陸し、いつものとおり傀儡政権を立てたフランスは同年12月、ついに北ベトナムへ本格的なちょっかいをかけることにし、第一次インドシナ戦争が勃発する。当初、ゲリラ戦のなんたるかを理解していなかったフランスは連戦連勝、まるでロシアに進軍するナポレオンのごとくに支配地域を広げている。なお、フランス政府は事前に平和維持と称して自軍をベトナムの各都市に駐留させており、そのため、北ベトナムの首都であるハノイも開戦直後にフランス軍の勢力下に置かれている。そして開戦に併せて1948年にコーチシナ共和国を解体、ベトナム臨時中央政府を発足させて、傀儡なんだけど実は民主主義というよくあるお仕着せの政府のまねごとをさせたり、1949年6月、新しく、ベトナム国という何のひねりもない国をサイゴン市(現ホーチミン市)を首都に成立させるなど、(首班は元の政府とまったく同じ)、主にヨーロッパ各国のつっこみが入らないような形で、植民地をいっぱしの国の形をしたものへ変貌させようとする。しかし、当然のごとく傀儡政府に対するベトナム民衆の支持はなく、日本降伏後に言ったもん勝ちで宣言したベトナム独立宣言のほうにもっぱら関心を向けていた。

ちなみに、越南帝国崩壊後、フランスによってコーチシナ共和国の首班に担ぎ出されれるまでの間、越南帝国の皇帝、バオ・ダイは、ホー・チ・ミンにより北ベトナムの「最高顧問」に任命されている。しかし、その後の意見の対立とホー・チ・ミンのあまりにも急進的で戦闘的な考えから、とっとと香港へ逃げ出し、フランス政府に庇護を求めている。なお、フランス革命の際にそれまでの敵に庇護を求めた結果、ギロチンの露と消えたフランス皇帝と違い、最後のベトナム皇帝は南ベトナム共和国成立後に亡命したフランスで天寿を全うしている。


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出典: 嘘八百科事典『アンサイクロペディア(Uncyclopedia)
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