仏教 議論スレッド 24
at PSY
928:神も仏も名無しさん
11/10/28 21:00:19.49 5bycr32G
もちろんビルマ系は素晴らしいと思う。
四念処をヴィパサナとか言わないし、
ましてや、サマタが要らないなんて言わないでしょ。
それより、あの攻撃性と大乗への無理解は可笑しいと思うよ。
例えば心経もテーラワーダの教義で認められないかもしれないけど、
少なくとも無我や空性の体験があれば、あんな論理的包括関係で否定するような
しょうもない話はしないと私は、不遜ながら思うのだけど。
929:教皇
11/10/28 21:18:37.99 /XdszBML
哲学というのはニーチェの以降、客観的真理を求めるとかそういう方向じゃなくなって来たんだな
この私、この自分にとっての真理
百人百様の真理があるとね。
まあ実際、現実の民衆が、自分固有の真理を追求して生きているかというとそうでもないがね
社会の価値観に従って
不十分な人生を生きてる
ご隠居のような御用学者が共同体の真理こそが上位の真理であるとヘーゲルみたいな事を言い出すからさ。
さて、ニーチェみたいな発想になると「哲学」自体が成立しない訳だ
誰かの真理はその人に取っての真理であり他人に移植出来ない。
何が真理とはその人の「体質」が決めるという訳だ。
女の好みだって人それぞれだしな
「若いうちに勉強しなさい」みたいな親父の説教が役に立たないのは
勉強したから成功するなどという安易な方程式で
人生の成功不成功が決まる訳ではないし
人によっては勉強しない方が成功する場合もある訳だ。
則ち親父に取っての真理と私にとっての真理は違う訳。
それはまあおっしゃる通りだが、それでは哲学は成立しない
この親父に取ってもこの息子に取っても有用な何かを言語によって創造したい訳だ。
真理を押し付けるのではなく、人をより自由にする思想
そして自由な人間がさらに人生を充実して生きる為の方法を知識として残したい。
よく「部屋の整理術」とかおばちゃん先生が教えてたりするじゃん
だけどああいう整理術はそのおばちゃんにしか不可能な訳
こう言うのじゃないのね
930:神も仏も名無しさん
11/10/28 21:33:21.20 vTeonANG
>>925
ああ、でも↑の書のは、結局そういうこと( >止に入 ることなしに観察すること)か・・。
けど、だとするなら、パーリにおける禅定の次第は、こういうもんだしな・・。
それは大念処経でも変わらない。
ただ、厳密に言えば、それらは随観(anupassanA)であって、観(vipassanA)ではないということになるし、
たぶん貴方の言うヴィパッサナー(観)も《「縁起を観ること」限定のものであり、且つsamatha(止)の経由後》
だから、そこに齟齬が生じているのでしょうね。
上記書物でも、またDN22でも、
そうした随観(anup-)の先に(阿羅漢果として)観(vip-)を見ているけれども、
≪両者含めて(呼称として)観(vipassanA)、つまり止(samatha)と対なる瞑想、手法として位置づけられている≫、
とは言えるんじゃなかろうか。 あくまで推測だけど。
DN22でも、辛うじて法の随観が全て述べられた後、実践する期間云々に入る前の註に
『〈以上、(1)出入息、(2)四威儀、(3)四正知、(4)三十二様相、(5)四界確定、(6)〜(14)九墓地、
(15)受随観、(16)心随観、(17)蓋把握、(18)蘊把握、(19)処把握、(20)覚支把握、(21)諦把握、
という二十一の業処が延べられている。そのうち、(1)、(4、)(6)〜(14)の十一は安止の業処である〉。
なお、
〈これらのすべてに、観の確立(abhinivesa=《vipassanA-abhinivesa》)は生まれるのか。
【生まれない】。というのは、威儀、正知、蓋、覚支においては観の確立が生まれることはなく、
【残りにおいて】生まれるからである〉と言われる。』
とあるから、随観(anup-)と観(vip-)は厳密に分かつべき、というのも一理あるわけだが・・。
通常の語用に於いて、そういう厳密な使い分けがあるかどうかは、現場の人間でないんで、申し訳ないが不明。
その辺は、経典もしっかり読みつつパーリ式の禅定をやってる人に聞かないと・・w
931:教皇
11/10/28 21:41:53.33 /XdszBML
仮に、客観的にニートとかフリーターだとしても
「ふざけんな。俺様は貴族だ!」と高貴な人生を送るのがニーチェイズムだ。
ある意味で詫び寂びの価値観に近いかもしれない。
客観的状況がどうであろうと「私は上位の人間である」と己自身を定義する者
それこそ超人である。
人間よ。卑屈になるな。
貨幣経済や奴隷道徳に洗脳され、己を低く見てはいかん。
己自身こそ、無条件に尊敬されるべき
宇宙の究極主体なのであると
道徳に騙されるな!
とまあこんな感じだ。
ご隠居思想とちょっと違う気がするよねw
ニーチェの思想は人生に勇気と希望を与えるが
ご隠居思想は、おっさんは偉いんだ、生活者であるおっさんをもっと尊敬しろという
「おっさんのイデオロギー」と化している
そこに何か嫌らしさを感じて、賛同出来ないんだろうね
ニーチェみたいな聖なる過激さゆえにじゃなくて
俗物過ぎて嫌われる訳だ
932:神も仏も名無しさん
11/10/28 21:45:13.53 Q/DntmHI
ニーチェって自殺したんじゃなかったっけ
933:教皇
11/10/28 21:48:09.72 /XdszBML
ニーチェの思想とご隠居思想は異質だと思う。
ニーチェ思想は人間の限りない可能性を認めるものだが
ご隠居思想は生命の名に置いて人間を抑圧するものだ。
ニーチェイズムからすると爆破解体しなくてはならない腐臭に満ちた思想である
まさに解放の哲学の仮面を被った忌まわしきプラトン主義の再来
道徳を説く梅毒患者
気をつけろ!
934:教皇
11/10/28 21:52:00.90 /XdszBML
ご隠居思想とニーチェは正反対である
ご隠居思想は人間を「生命と言う一般概念」の枠に閉じ込め、飼い馴らそうという「嫌らしいオヤジズム」から生じた。
実に不健康な宗教である。
まさに思想とはその人間の体質から生まれる
ご隠居の先祖は間違いなくプラトンである
935:教皇
11/10/28 21:54:47.45 /XdszBML
ご隠居は釈迦やイエスという超人が嫌いなのだ
それはオヤジズムに反するからである
それゆえ、善きもの美しきもの強きものを目指す人間を「生命」の名に置いて裁く訳である
まさにこれはキリスト教会の司祭ではないか!!
ふざけんな!!!
936:神も仏も名無しさん
11/10/28 21:55:39.28 vTeonANG
>>925
(つづき)
片山さんも、経紹介文の中で、
『この四念処(四念住)は観(ヴィパッサナー)随観(アヌパッサナー)の行法として知られるものであり、
仏教固有の、また仏教の最も重要な実践の一つであると言ってよい。』
としているから、四念処の先が観であるという認識ではあろうと思う。
が、大法輪での初回では、こう記している。
(連載本文中には、道元始め天台の止観にも触れつつだから、踏まえた上でのことと思うが)
『止観とは、すなわ止の修習と観の修習です。「止」(samathaサマタ)は、諸煩悩を寂止させる心の修習、
またはその静まりをいいます。「定」の因であり、心が一点に集中する心一境性を本質とします。
それに対して、「観」』(vipassanAヴィパッサナー)は、三界における身心の相(無常・苦・無我)を観察し、
道・果・涅槃にいたる智慧の修習、またはその智慧をいいます。苦の生滅を知る智慧、「慧」の因であり、
知る慧を本質とします。たとえば釈尊は・・・・略(Dhp277-279偈)・・・・と。これは「観」という「清浄にいたる道」
を示されたものです。智慧によって諸行の無常、苦を見るとき、また諸法の無我を見るとき、苦を離れる。
苦は苦でなくなる。生死という輪廻の苦は、すなわち輪転の苦のない涅槃である、と言われたものです。
苦は苦であり、苦ではない、というのです。この観は「大念処経」に説かれる最上の実践であり、智慧でもあります。』
とあるから、観の前提、前段階という位置付けではあっても厳密な区別はしていないようだ。
その後も
『すでに触れたとおり、心の静まりを保つ「止」という実践に対して、「観」は洞察の智慧であり、智慧の実践です。』
『本経は、その止観の「観」を主に説き、「念」「念処」を所縁、対象として観る念処観を明らかにしたものです。』
『仏の教えを根本から学ぶ者、ヴィパッサナー(観)の瞑想をする者、・・・・この経の理解は不可欠であります。』
とある。道元さんも多く引用されてるが、総じて、寛容な使い方といえる。
また、「止」が前提であることは、“禅定を修する上でのありふれた前提”という感じだ。(いや、実際そうであろうし。)
こういう点は、やっぱり『パーリは見解が低い』発言のネタになっちゃうかね・・?www
937:神も仏も名無しさん
11/10/28 21:55:43.92 Q/DntmHI
教皇って人も自殺願望があるの?
938:神も仏も名無しさん
11/10/28 21:57:38.09 vTeonANG
リロしてないから、>>928への返答としてはちょっとズレルw (928の反例になってるかもなw)
939:教皇
11/10/28 21:58:58.30 /XdszBML
ご隠居はまさにニーチェが批判した存在そのものだよ
それがニーチェ思想をバックにして超人批判をする訳だから恐ろしいよな
何と言う悪。何と言う醜さであろうか
940:教皇
11/10/28 22:01:12.43 /XdszBML
ニーチェは自殺してないっすよ
いやしかしご隠居という宗教や哲学を泥を塗りまくった究極レベルの俗物のおかげ、我々の思想が鍛えられたのは確かだな
941:教皇
11/10/28 22:06:05.67 /XdszBML
私は高貴な人間だ(キリッ
942:神も仏も名無しさん
11/10/28 22:08:51.37 Q/DntmHI
調べたら自殺じゃなかった、発狂した後病死だね
943:教皇
11/10/28 22:21:31.09 /XdszBML
ゴーリキーの小説に『どん底』というのがあって黒沢明が映画化して有名だが、あの中に「殿様」って奴が出てくるんだな。
千秋実が演じてて、それはそれで楽しいんだが
あの殿様は勘違いしている。
殿様とは身分ではなくて生き様なんだ。
生き様が殿様だったら
いくら落ちぶれても殿様です。
しかし殿様という身分に執着していれば
その身分を失えばただのコジキな訳です。
944:神も仏も名無しさん
11/10/28 22:28:12.17 vTeonANG
>>936補
つまり、止観を言うときに、
・《完全なる「止」の成就》の後に「観」を修する(実践する)か、
・「止」「観」を《併習》するのか
(両者を均等に、或いは偏ることなく、或いは常に「止」によって調身調心して「随観」「観」を修するのか)、
という違いなのかな。 今言われているポイントは・・。
945:《アラシを呼ぶ男》 ◆Arasi/MT2E
11/10/28 22:37:43.15 08bvhMDP
Mariah Carey - 100
URLリンク(www.youtube.com)
946:神も仏も名無しさん
11/10/28 22:44:16.30 vTeonANG
>>944補
で、基本的に、
『修習、実践の実際、行じるにあたっての具体的方法論として』後者だろうと思うんだよな・・。
少なくとも「随観」を示す念処経はそうだ。
もし、後者であるなら、そもそも禅定というものが「止」の状態が基本・ベースなれば、
わざわざ「止」を成就してからと言う必要は無く、
寧ろ、特に「観」「随観」を修める際に、それが「観」「随観」を修める方法として特化提示される感じで。
また、止と観が同時には無いことを鑑みれば、併修・併習されるもの、という見方の方が妥当な気もする。
それとも、「止」を会得・成就しないうちは「観」「随観」に入らない、入らせない、という形であるべきなのかな?
この辺は、実地にやってみんと判らんか・・・w
947:神も仏も名無しさん
11/10/28 22:54:00.77 Q/DntmHI
コジキから殿様に成りあがった者は殿様という地位を失うともとのコジキに帰っちゃうみたい。
948:教皇
11/10/28 23:12:44.10 /XdszBML
仏教はニーチェ思想すら解体してしまう面がある訳だ。
殿様根性もコジキ根性も「条件付け」の結果であって、生来の条件付けを一枚一枚剥がして行って真の自由な境地を手に入れようというね
現に釈迦は殿様だった訳で殿様という人生にも苦悩がつきものだったのだろう。
殿様もコジキも「不自然」な在り方であり
人為的に作られた行動パターンな訳だ。
それらを全て剥がして行き、無我の境地になること。これが仏教の目的なのだから、「より善い」条件付けを身につけようというニーチェイズムとは方向性がちょっと違う。
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