【天震】三国無双─後期伝─キボンヌ肆【地駭】 at WARHIS
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1:隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE
07/02/10 18:40:01
諸葛亮の薨去から晋の統一まで、三国志後期時代の総合スレです。
初代スレが立った当初は三国無双の後期版を考えていくスレでしたが、
スレの進行とともにその時代の人物・戦役・文化などの考察を行っていくようになりました。
ステージやキャラモーションなどの無双の案ももちろん随時お待ちしています。
三国志後期(正史、演義とも)について語りたい人もどうぞご利用ください。

《前スレ》
【黄昏】三国無双─後期伝─キボンヌ参【黎明】
スレリンク(warhis板)
【盛者】三国無双―後期伝―キボンヌ弐【必衰】
スレリンク(warhis板)
三国無双―後期伝―キボンヌ
スレリンク(warhis板)

《参考リンク》
孔明死後の三国志に関する若干の考察
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)

※スレの住人さんが管理をされているブログ。
とても詳しく考察をされています。

2:可児クリームころっけ ◆CrabxxSe.g
07/02/10 19:00:47
か2?

3:無名武将@お腹せっぷく
07/02/10 19:31:11
>>1

この鯖でなんとか乗りきってくか

4:隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE
07/02/10 19:36:58
>>3
そだね。とりあえずネタ出ししておく。

三国時代、とりわけ後期に入ると魏では軍制の整備も明確なものなっていき、
それまで有事に際して臨時に任命され戦後には解任されていた督軍に代わって
より固定的な職官である都督があらわれ、都督制が長久化していったけど
蜀軍の軍制を見ると、地方の軍権を握る職官はいまだ督にも関わらず
都督も存在するという雑然としたものになっている。
姜維も督中外軍事に任じられていて戦争が終わっても軍権を持っていたし、
江州都督督軍の李豊は当地にあって対呉方面・食料輸送の運営を任されていたことから
蜀においては督が魏でいう都督を指していたことは分かるけど、
蜀における都督とは何か督とは違った権限を持っていたんだろうか?

5:隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE
07/02/10 20:46:03
個人的な推測を述べると、蜀が魏のように督軍制から都督制への転換をしなかった理由は
蜀は内治に集中できるほどに外界からの脅威が薄れていなかったということもあるだろうが、
当面の体制で決定的な不自由が無かったために完全な移行へと至れず伸び伸びになっていたのではと思う。

魏は三国の中でも広い版図を誇るぶん外敵の侵入を効果的に防ぐ手立てを必要としていたため、
有事に任命→戦後に解任という非効率的な督軍制を変革して都督を置く(常設化する)と同時に
地方で軍権を持つ都督に刺史を兼任させて軍政併せて集権化し、速やかな決断と行動を可能にしたが、
蜀では常設化された督、都督ともに刺史を兼ねることなく、刺史・太守の下で軍事を司る役職でしかなかった。
この差はやはり蜀は版図が小さく、地方分権的な政策を取る必要が無かったというところにあると思う。
当初、督を常設化すると同時に国境沿いに都督を配備したことから
その時点では魏のように軍制を転換させようと目論んだと考えることが出来るが、
暫く経って現実的にその必要がない、と判断されたから放置されたのではないかな。

そうでなければ無駄な二制度の並立という異常な事態が滅亡まで放置された理由の説明が出来ないと思うが、
何か別の意見があったら教えて欲しい。
なにぶん上に書いたことも推測をもとに書いているので。

6:無名武将@お腹せっぷく
07/02/10 22:56:52
新スレおめ
この手の良スレばかり落ちた
今回の措置はワケワカラン…

7: ◆Henri9gNlM
07/02/11 00:06:22
結局この板で継続する事にしたのかい?
さっきも落ちてたみたいだし、この鯖では少々先行き不安ではあるな。

>>4-5
都督制に関する本などは読んだ事が無いので、あまり大した事は言えんが、
個人的には、魏が都督州諸軍事と刺史を兼任させた、と言うのはあまり例が無いように思える。
曹休が都督揚州諸軍事と揚州刺史を、カン丘倹が都督豫州諸軍事と豫州刺史を、
王基が同様に都督豫州諸軍事と豫州刺史を兼任した事くらいしか見受けられない。
西晋にまで時代が下ると、そういうのも結構見られるんだけどね。

対蜀戦線では、刺史と諸軍事を兼任した人物は確か一人もいなかったはずだし。
ただ、郭淮や王基や陳泰らの例を見ると、刺史が政治専門と言うわけではなく、
有事の際は都督諸軍事の麾下として、ある程度の戦力を率いて敵に当たる、
というのが一般的だったようだけど。

8:隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE
07/02/11 00:41:28
往々にしてという点では乱暴な書き方だったが、
魏において都督中外諸軍事はもともとが宗室の親戚や腹心の功臣から派遣されて戦後に赦免されず
経歴と名望によって節を持ち、一般に数万、多い場合で10万人に達する兵を擁していたことから、
それでも地方の軍政の大権を掌握していたように思う。

9:無名武将@お腹せっぷく
07/02/11 01:52:18
ケ艾はわからないが、郭淮・陳泰に関しては征西将軍・都督雍涼諸軍事で
二州を統べる都督だったから両州の刺史を束ねていたのも不思議じゃないな

10: ◆Henri9gNlM
07/02/11 01:57:19
また落ちてたな。

>>8
「往々にして」という文言は>>4-5には見られないぞ。

あと、全軍の総司令官である中外諸軍事と、方面軍司令たる諸州の諸軍事では、一概に比較はできない。
有事に州刺史が、その州を統括する諸軍事の指揮下に入ってた事は確かなので、
少なくとも一定の指揮権を、諸軍事が州刺史に対して持っていた事も確かだろう。

そもそも、場所によっては州刺史と諸軍事は赴任する場所が違う可能性もある。
陳泰は王経に、「東西の軍勢が合流してから進むべきである」と語っており、
諸葛誕は楽綝を殺す際、自身の城とは違う場所で彼を殺したかのような記述がある。
戦争の絶えない地域では、刺史が或る規模の軍を指揮して、
諸軍事とは別の場所で有事に備えていたのかもしれない。

とにかくも、魏では本来州の行政を担当すべき州刺史が、軍事にもかなり関わっていた。
ひょっとすると、都督諸軍事が常設化した魏の時代においては、
刺史は軍事政治の別を問わず、諸軍事の補佐が任務だった可能性もある。
でもまぁ、基本的には州の行政は州刺史の領分だろうね。

11:無名武将@お腹せっぷく
07/02/11 01:58:54
なぁに、毎日ほっしゅほっしゅミ・д・ミ

大戦で後期人物も大量カード化されたし
こっそりと後期が今注目を浴びてます

12: ◆Henri9gNlM
07/02/11 02:39:57
話がそれたが、もともと蜀の都督や督軍に関する話だったな。

蜀の都督が刺史を兼任しないのは、蜀では益州刺史がそのまま蜀全体の刺史を意味するから、
それを兼任できるとしたら軍事や政治のトップしかあり得ないからだと思う。

蜀の都督や督〜というのは行政に対する命令権を持たず、あくまで軍事に対する指揮権のみを有していたんじゃないかな、と。
李厳がわざわざ、「巴州を置いて、そこの刺史にしてくれ」と要請したのも、
刺史という称号が欲しかったからじゃなく、巴の軍事だけでなく、政治をも掌握したかったからだろう。

あと、蜀で都督は江州都督と関中都督くらいだな。
先主伝では「魏延を都督とし、漢中を鎮させた」とあるが、
これは魏延伝他では、漢中都督ではなく督漢中と呼ばれているし、
基本的に蜀では、「督〜」で「〜の軍事を統括する職」という意味なんじゃないかな?

曹丕の禅譲の際の上奏では、曹仁や曹真や曹休や夏侯尚が、都督督軍として名を連ねてるそうだし、
江州都督督軍に関しては、単に魏の呼称を真似ただけで、「督〜」と大きな違いは無いんじゃないか、と思う。
漢中に次ぐ重要拠点なので、重みを持たせる為に大仰な呼称にした、とか。

うーん。でもよく分からんね。
不確かな知識であれこれ言うのもなんだし、今度都督制に関する本でも探して読んでみるわ。

13:無名武将@お腹せっぷく
07/02/11 08:04:37
魏では督というか諸軍事という方がしっくり来る

14:無名武将@お腹せっぷく
07/02/11 10:53:51
みみずんログ
URLリンク(mimizun.com:81)

15:無名武将@お腹せっぷく
07/02/11 11:04:54
>>諸兄
「六朝都督制研究」小尾孟夫(渓水社 ISBN4 87440-620-3 C3022)の
序章から第二章まで読んで見てから考察するといいかも知れんね

16:隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE
07/02/11 13:08:51
>>12
いろいろと失礼。

蜀の都督にはあと李恢→張翼→馬忠→閻宇と代替わりした庲降都督があるね。
彼らの諸業績を見ると蛮族の叛乱の鎮圧、南中諸軍の平定が見られるから
江州・関中と併せて蜀の都督とは国境線に置かれるものなのだと思う。

17:隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE
07/02/11 13:19:03
書き忘れた、失礼。

閻宇が羅憲を副将として置かれた巴東都督というのもあるが、
これは魏の侵攻を恐れた呉の要請で置かれたもので、
やはり国境線に駐屯するという性格は変わってないなぁ。

>>15
調べてみたらなかなか高い本だけど
読んでからのほうが考察に身が入るだろうな。

18: ◆Henri9gNlM
07/02/11 13:48:11
>>15
その本は読んでみたいと思ってたが、高い上に近場の図書館に無いんだよね。
どうしたもんか。

>>16-17
そういや、ライ降都督とその副官であるライ降副弐都督もあったな。
関中都督より有名なのに忘れてた。
巴東都督は分からんね。晋書や襄陽記では、「閻宇都督巴東」という記述があるが、
「巴東都督」そのものは出てきてない。
華陽国志に何かあったかもしれんが、今は読めない。
ただ、李厳を江州に異動する際、陳到が永安都督となっているので、
この永安都督の権限を大きくしたものが、そのまま巴東都督となったんだろう。
中都護李厳が江州にいた時には、その部下に永安都督陳到、江州都督費観がいたって事だな。

一番よく分からないのは関中都督かな。
単なる遥任なのか、或いは、例えば関城周辺などを都督する人物を関中都督と呼んだのか、
詳細がよく分からない。
劉備が皇帝に即位した頃には置かれており、滅亡の時には傅僉がその職に就いて関城を守備していた、
という事は分かるんだけどね。

国境に都督が置かれるのは当然と言えば当然かな。
敵の侵攻に際し、真っ先に対応しなければならないのは国境に駐屯している軍なので、
国境の諸地域に、周辺の戦力をある程度自由に動かせる職を置かないと、防衛が困難になる。
呉が滅んだ際、荊州が簡単に陥落したのは、それぞれの拠点がそれぞれの判断で動き、
一個の集団を為せなかった事も一因だしね。

19:無名武将@お腹せっぷく
07/02/11 13:59:54
漢中都督
魏延、呉懿、王平、胡斉

関中都督
呉懿、傅僉

江州都督
費観、李福、李厳(正確には違うと見るべきか?)、李豊(江州都督督軍)、ケ芝

永安都督
陳到、宗預、閻宇

庲降都督
ケ方、李恢、張翼、馬忠、張表、閻宇、霍弋

督広武(陰平郡)
廖化

督武興
蔣舒

督建威
張翼

20:無名武将@お腹せっぷく
07/02/11 14:05:18
石井仁先生が研究しつくしてる予感

21: ◆Henri9gNlM
07/02/11 14:11:33
>>19
督建威の張翼に加え、王嗣が西安囲督になっているので、
建威囲や西安囲以外の姜維が設けた囲、すなわち、武街、臨遠、石門、武城、建昌などにも、
それぞれ督が置かれていたかもね。

費観に関しては、江州都督と巴郡太守を兼任してたので、
軍事と政治双方の権力を持っていたんだろう。

22:無名武将@お腹せっぷく
07/02/11 14:16:17
関羽の都督趙累や張飛が暗殺された時に劉備に知らせを届けた都督などの都督は意味が違うよね?

23: ◆Henri9gNlM
07/02/11 21:13:17
>>22
そっちの場合、参軍とかと同じような意味で使われてるような感じだが、はっきりとは言えない。

初代ライ降都督のケ方は、南昌に政庁を置き、朱提太守を兼任していた。
そして江州都督の費観は巴郡太守を、督漢中の魏延は漢中太守を兼任していた。
つまり、劉備の時代は、各地の都督に太守を兼任させ、
軍事と政治双方を統括させていたと考えられる。
この辺りはビジオタの言うように魏の制度の模倣があるのかもしれない。

ただ、後年の、李厳の巴州刺史叙任要求から分かるように、諸葛亮時代に入って、
都督と太守の兼任を避け、且つ、魏のように都督が刺史(太守)への命令権を持たず、
純粋に諸地域の軍事のみを指揮するようにしたと思われる。

これが諸葛亮の嗜好によるものなのか、何かの理由があるのかは分からない。

24:無名武将@お腹せっぷく
07/02/11 21:15:48
>>23
李厳の巴州刺史要望を却下したように権力の分散を望まなかったんじゃないのかなあ?

25: ◆Henri9gNlM
07/02/11 21:37:28
>>24
諸葛亮は細かい所まで自分で管理するような人間だったらしいし、
軍事が行政に大きく干渉するのを嫌がったのかもね。
中央集権化を推し進めたかったけど、軍事に関しては中央集権しすぎるとかえって弱体化するので、
都督職を政治から分離する事で妥協した、ってとこなのかな?

26: ◆Henri9gNlM
07/02/13 00:54:22
ちょっと話が変わるが、唐代に維州ってのがあって、その政庁が姜維故城に置かれていた。
で、その姜維故城について、「人民中国」とかいう雑誌の2006年12月号に記事が載ってて、
それによると、姜維故城は247年の姜維による羌族討伐の際に築かれたもので、
その前後に汶山の太守となった王嗣が、263年にその地で姜維の訃報を聞き、
大恩ある姜維の名を城につけたらしい。

王嗣は蜀が滅ぶ前に死んでいるので、この逸話の信憑性は怪しいものだが、
姜維が城を築いたというのも、少し信じがたい。
247年は羌族の反乱鎮圧の他、隴西での羌族の反乱への干渉も行っているので、
悠長に城を築いている余裕があるのか?と思う。
また、姜維故城は広柔県の近くにあり、姜維の討伐した平康県とは直線で100km近くも離れているし、
どうして広柔県城ではいけなかったのか、という疑問もある。

いずれにせよ、唐代には姜維城と呼ばれていたようなので、姜維が何らかの形で関わってはいたんだろう。
王嗣に関しても、こういう逸話が残ってる以上、姜維との個人的な繋がりがあったと思う。
その「人民中国」だと、王嗣を汶山太守に推挙したのは姜維らしいし、
この逸話を信じると、なんだか王嗣は姜維の子飼いのような感じがするな。

27:無名武将@お腹せっぷく
07/02/15 01:11:25
すまん、スレが消えてたんで支援

28:無名武将@お腹せっぷく
07/02/16 23:30:36
一応保守

29: ◆Henri9gNlM
07/02/20 00:22:45
司馬懿を擁護する意見で、
「腹黒くて野心をギラつかせてる息子たちのせいで、司馬懿自身も必要上に腹黒く見られる」
なんてものをたまに見るが、「息子たち」と一括りにするほど、師と昭は似てないと思う。

司馬師の方は、中護軍は賄賂が横行していたが、司馬師が就任した途端に賄賂が無くなったりとか、
陳泰や諸葛誕の失策を咎めず、自身が責任をとったりとかの逸話もあるし、
頭から信じる事はできないとは言え、晋書景帝紀を読む限りは腹黒くは見えない。
少なくとも、「司馬昭の心は道行く人でも知っている」と言われた弟ほどではないだろう。

夏侯玄一派の誅殺と、曹芳の廃位も、命を狙われた事を考えれば、仕方ない面もあるしね。

まぁ、歴史上の人物としてなら司馬昭の方が好きだけどね、自分は。
功績を立てても立てなくても排除されそうだから、司馬昭に仕えたくは無いけど。

30:ミ・д・ミ
07/02/20 02:08:16
司馬昭之心、路人皆知。

31:無名武将@お腹せっぷく
07/02/20 06:13:10
司馬昭が後の時代だからそう見えるのだ!
実際には司馬一族の心は道行くでも知っているのだ!

と、いいつつ保守。

32:無名武将@お腹せっぷく
07/02/20 07:34:58
晋書はなぜか兄の師は持ち上げて弟の昭には冷たいんだよな
李世民が関わったとは思えん

33:無名武将@お腹せっぷく
07/02/20 07:43:57
育児イライラどう発散してる?育児板
スレリンク(baby板)

141 名前:名無しの心子知らず[] 投稿日:03/03/10(月) 22:53 ID:DvGFLzmy
浮気でストレス発散・・・

192 名前:キツネ[] 投稿日:04/04/19(月) 20:50 ID:Yl8B2LzA
私も、部屋で、タバコプカプカ。子供、娘2歳の近くで。泣きやまない時は、ビンタ
。ストレスだらけ。1日、タバコ、2箱。

248 名前:名無しの心子知らず[] 投稿日:04/09/24(金) 03:04:39 ID:FYZZtlFm
たまりにたまった悪がきへの思い。ある時おもいっきり頭なぐってやった。もっと殴ってやりたい。

267 名前:名無しの心子知らず[sage] 投稿日:04/10/24(日) 01:04:10 ID:KwUUn3a/
発散法は赤子放置で2ちゃん。

282 名前:名無しの心子知らず[sage] 投稿日:05/02/05(土) 19:04:54 ID:4+gVqtlV
旦那のおでこをバシバシ叩く。とにかく叩く。

306 名前:名無しの心子知らず[sage] 投稿日:2005/03/23(水) 00:46:46 ID:Ab3/+gku
叱る声も何度か同じマンションの住人に虐待じゃないかと疑われるような叱り方

307 名前:名無しの心子知らず[] 投稿日:2005/04/02(土) 23:31:07 ID:WtKjdAOb
赤さんに苛々することはあまりないけど夫に苛々しっぱなしです。
そういう時は夫をこきつかって茶わん洗いやら買物やら散歩やら全てやってもらってます。

34:無名武将@お腹せっぷく
07/02/22 00:02:02
ミ・д・ミ
最近どうした?

35:無名武将@お腹せっぷく
07/02/23 05:44:42
age

36:無名武将@お腹せっぷく
07/02/23 05:53:42
昭が「跡目は自分の子じゃなくて兄の子に……」っていう発言もあるし、人徳みたいなもんがあったんだろう

李世民も政敵として、己の野望の為に兄を殺したけど
個人的にどう思ってたかは別で、そこら辺の屈折した感情が晋書に現れてるとか?
小説的な見方だけどね
陳先生の小説十八史略の李世民が李建成を殺すシーンは凄く好きだな

37:無名武将@お腹せっぷく
07/02/23 09:23:54
どうしても司馬一族関係の記述は疑ってしまう、といいつつ保守。

38:ミ・д・ミ
07/02/24 09:22:50
週末age

39: ◆Henri9gNlM
07/02/24 18:41:45
司馬師の方が人徳がありそうだが、Koeiの三国志だと、近作では司馬師より司馬昭の魅力の方が高いんだよな。

まぁ、人格的な魅力はともかく、王経が高貴卿公に「司馬一族が天下の人心を掴んでいる」として、
クーデターを諌めていたし、高貴卿公の側近であるはずの王業や王沈ですら、
真っ先に司馬昭に高貴卿公のクーデターについて報告しているし、
人心掌握の手管には長けていたのかもしれない。

裴松之に「あり得ない」と一蹴されていはいるが、司馬昭が泣きながら夏侯玄の助命を嘆願する逸話もあるしな。

40:無名武将@お腹せっぷく
07/02/24 21:04:44
司馬師の前妻、夏侯玄の妹、夏侯徽の記事についてはどう思われる?
自分は鴆毒うんぬんから疑っているのだが。

「后知帝非魏之純臣,而后既魏氏之甥,帝深忌之.青龍二年,遂以鴆崩」

41: ◆Henri9gNlM
07/02/24 21:30:48
司馬師が殺したかどうか、という事であれば、恐らくは彼が殺したとは思う。

司馬師は夏侯玄一派を容赦なく殺し、張皇后と斉王を廃位にしている事からも、
自分にとって害になる相手に対しては苛烈な処置を行う人物に思える。
また、注釈の魏氏春秋の記述ではあるが、夏侯玄は、司馬懿よりも、
彼が死んで司馬師や司馬昭が実権を握る事を恐れた、という記述もある。
夏侯皇后を殺したのが司馬師なら、夏侯玄が彼を警戒するのもうなずける。

42:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 10:53:48
司馬氏が権力を握ろうとするならば夏侯氏と対立するのは必然だよなあ。

43:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 21:12:44
ところで、曹爽が起こした征蜀て提言者が夏侯玄の部下の李勝だったり
郭淮伝で夏侯玄が総大将?と取れるような記述があったりするけど
この戦も実は夏侯氏と司馬氏の対立が原因だったのかな?
だとしたら、曹爽一派が一掃されたとき夏侯玄だけ見逃されてるのが
ちょっと不自然に感じるんだけど・・・
それだけ夏侯玄の名声が絶大で司馬懿も手を出せなかったんだろうか?

44: ◆Henri9gNlM
07/02/25 21:13:58
そもそも、何で司馬師が夏侯玄の妹を娶ったかだが、これに政治的な意味は無いと思う。
司馬師が夏侯徽を娶った時期は記されていないが、五女をもうけた事を考えれば、
太和の初めくらいだろう。
この時点で司馬懿は政治の中枢にあり、大軍を指揮する立場でもあり、皇帝の寵も篤い。
殊更夏侯氏とくっつく理由は無い。

司馬師自身は、夏侯玄、何晏らと個人的な付き合いがあったので、この辺の関係から娶る事になったんだろう。
五女をもうけ、また、事ある毎に夏侯徽に相談した、という記述があるくらいだし、当初の関係は良好だったはず。
でもこれは、恐らくは明帝によってひびが入ったんじゃないかな、と思う。

明帝は、名を弄んでいるとして夏侯玄、諸葛誕らを憎み、罷免した。
これも詳しい時期は分からないが、一時は官に就いているわけだし、太和の末か、青龍の初めだろう。
丁度、曹真の死とも前後する時期だと思う。

で、ここからは妄想みたいなもんだけど、曹真が死に、司馬懿が更に権勢を高めている中で、
兄の夏侯玄も不遇をかこっており、曹氏、夏侯氏の権勢が弱まっていくのを感じ取った夏侯徽が、
司馬師、司馬懿を通して、夏侯玄の再度の任用を懇願した、と。
曹・夏侯一族の権力が弱まる事にデメリットを感じず、下手に夏侯玄を擁護して明帝に嫌われ、
司馬一族の栄達を阻害されてはたまらない司馬師はこれを拒否し、両者の関係が急速に冷えてった。

夏侯玄が寵を失っている今はいいが、代替わり等で再度夏侯玄が返り咲いた時に、
夏侯徽の存在は邪魔になる、明帝の御世なら殺してしまっても強い咎めは受けまい、
と考えた司馬師、或いは司馬懿が、殺すことを決意した、と。
こんな感じじゃないかな、と思ってる。

45: ◆Henri9gNlM
07/02/25 21:40:05
強く咎めを受けない、は言い過ぎだな。まぁ、夏侯徽を除く絶好の時期だった、と。


>>43
夏侯玄は都に召還されて以降、身を慎んでいたらしいし、
誅するだけの大義名分が無かったんじゃないかな。

46:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 22:18:29
ヘエー成る程。話は振ってみるもんだ。
でも婚姻の決定権は司馬懿にあるんじゃないのか?
夏侯尚、呉質とも曹丕と仲が良かったが、共に汚点を残していてなんだかなあ。
230年、呉質は陳羣を弾劾して司馬懿を推している。
夏侯徽が死んで、呉質の娘が離縁され、後妻に来たのは羊氏の娘。

北伐にあたり中立(?)の立場で沈黙していた司馬家は勝ち組なんだろうか?

47:無名武将@お腹せっぷく
07/02/25 22:26:19
師昭兄弟と陳泰は交友があったワケだが、
その後陳泰がドサ回りと中央の官職を行ったり来たりしているのが
その分かれ目か。


48: ◆Henri9gNlM
07/02/25 22:33:48
婚姻の決定権云々は考えていなかったが、あれは単に、
「夏侯玄と司馬師の友誼がもとであって、政略的な結婚ではないのでは?」
と言っているだけだから、決定権が司馬懿にあろうとあまり変わらないかな。

結婚についてはよく分からんね。
周代や春秋の頃には、媒氏だとか掌媒だとかって官があって、それが婚姻を媒介してたようだが。
漢の恵帝の頃には、十五〜三十で結婚しない女に罰を科したとか。

49: ◆Henri9gNlM
07/02/25 22:57:58
中央の官僚が、地方の太守や刺史を経験して戻ってくるのはよくあるが、
確かに陳泰は少し頻度が高いかもな。

正始年間(240-248)に田豫の後任として并州刺史に、
その後、尚書として中央に戻り、嘉平初年(249)には雍州刺史になった後、
正元二年(255)か甘露元年(256)にはまた中央に転じて尚書右僕射に、
間を置かずに、一時的な処置とは言え、今度は淮北諸軍事に転じ、
最後は尚書左僕射になって終わる。
これは、軍事に関して司馬一族からの信頼が厚いが故の人事に思えるな。

どうでもいいが、雍州での任期が一番長いんだな。

50:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 01:25:31
決定権と言うとおかしかったな。息子の伴侶を選ぶ人、と言うのか…。

笄礼が15〜20歳だから、その間を結婚適齢期とみるのか。
夏侯徽の生年が211年なので、輿入れは夏侯尚の死後で227、8ごろ?
15〜30歳で税金を課すのはアレだが立派な人口政策だけど、
礼の観点から結婚について国が口出しするってことは見たことないからな。
荀ケ伝を見る限り、許嫁つうのもあったみたいだが、
何かいい資料がないものかな (´・ω・`)

51: ◆Henri9gNlM
07/02/26 01:50:38
俺は風俗やら何やらには疎いからなあ。利害で考える方が先に立ってしまう。

詩経の國風には、「取妻如之何非媒則不得」などというのもあるが、
三国時代にまで媒を介す風習があったかは知らんし。

曹丕なんかは、甄氏を見初めて、そのまま父に許しを乞い、結婚しているな。

文化や社会風俗に詳しい人に教えを乞う方が良いかもしれん。

52:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 01:53:13
文学スレで聞いてみるか?w

53:無名武将@お腹せっぷく
07/02/26 23:10:48
さすがに結婚の話は続けられないね。文学スレはあの流れが収まってからだw
>>47で挙がった陳泰の話でもしてみるか。

氏の補足になるが、陳泰の後に并州刺史となった孫礼の伝には
「匈奴や鮮卑が強盛を誇ったため孫礼を并州刺史とした」という文がある。
のちの三公を起用する辺り、よほど并州が混乱していたんだろうか。

こういった経緯があって尚書として召し返されたのに、
雍州刺史になったというのは不思議な希ガス。
雍・并2州の兵で蛮族を討伐するという計画は前からあったものかも、と言ってみるテスト。

54: ◆Henri9gNlM
07/02/26 23:57:22
文学スレは最近盛況だからなぁ。盛り上がってるところに水差すのも悪いしな。

>>53
当時、司馬懿が太傅に祭り上げられ、何晏が尚書となり、曹爽一派の壟断が著しかったから、
司馬一族にも近く、清廉な人柄だった陳泰を召し返して尚書とする事で、
彼らに対する牽制としたのかもしれない。

後に陳泰が雍州刺史に転じた時も、雍州では羌族の反乱が頻発し、
更に蜀の侵攻も同時に起こっていたから、彼の能力に不安を感じて召し返したのとは違うと思う。
ただ、雍州では郭淮の補佐として赴任したから、最初から州の指揮を任せるのに不安を感じ、
歴戦の将である郭淮のもとで実戦経験を積ませようとしたのかもしれない。

また、雍并二州で蛮族を討伐する計画は、252年の事だから、少なくとも4年の期間があり、
計画が以前からあったにしては、250年以降蜀も大人しかったのに、何の動きもなかったのも変かもしれん。

ケ艾の匈奴分離政策進言もあるし、并州の動揺自体は長く続いていたのかも。

55: ◆Henri9gNlM
07/02/27 01:32:21
召し返される時は常に尚書台だし、司馬兄弟と陳泰は親友だったし、
陳泰は司馬師、司馬昭の側近中の側近で、全幅の信頼が寄せられていた事は間違いない。

陳泰が侍中を加えられたのは、皇帝を監視させようという目論見からかね?
でも陳泰は「賈充を斬るべきです」なんて言ってたしなぁ。

56:無名武将@お腹せっぷく
07/02/27 20:06:25
>>53
陳泰伝によれば雍州刺史就任は嘉平の初め。
嘉平元年(AD249)秋に郭淮らと共に蜀軍を防いでいるから、
この時点で雍州刺史であったと分かる。

この年の正月に都では正始の変が勃発し、
司馬懿によって曹爽・何晏らが粛清された。
この時、尚書陳泰は侍中許允と共に曹爽に同道していて
曹爽に司馬懿の元へ出頭するよう進言している。

結局、陳泰達の意見に従い無条件降伏したことによって
曹爽は族滅の憂き目に遭ったわけだが・・・
司馬一族と陳泰の交友関係から推測すれば、この時の陳泰の行動の裏には
司馬懿の意向があったのかもしれない。

建前上は政権を壟断する佞臣を粛清したことになっているが、
皇族の一員である曹爽を処刑したり、台閣のトップの大半が殺害されるほどの
政変に深く関わっていたことにより、陳泰は都に居辛い立場になったのではないだろうか?
それで、ほとぼりが冷めるまで雍州に出向していたのではないかと思う。


>>55
>陳泰が侍中を加えられたのは、皇帝を監視させようという目論見からかね?

加官の侍中は員外だし、そこまで深い意味は無いんじゃないか?
尚書台系の官職にある名士はたいてい侍中が加官されている気がする。

57: ◆Henri9gNlM
07/02/28 00:25:15
>>56
まぁ、陳泰が皇帝の傍に仕えた形跡はないしね。
単なる重み付けと見ればいいか。

雍州赴任については、確かに大規模な政変に関わってはいたが、
親司馬懿の連中が後に代わる事になるので、それほど居辛いって事もない気がする。
許允は都に残ってたわけだし。

同時に夏侯玄を呼び戻しているので、雍州が騒がしいまま手薄になる事を恐れた事の方が、
理由としては大きいと思う。
夏侯玄が雍涼諸軍事、夏侯覇が征蜀護軍で、夏侯玄を呼び戻せば夏侯覇も動揺して何かする事は予期できたろうし。

58:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 01:26:50
陳泰が曹爽らを説得したことは、晋書宣帝紀と曹爽の伝で微妙に流れが違ったな。
「曹爽は許允・陳泰を遣わせ司馬懿の意向を探らせた」 「(曹爽らといた陳泰が)自ら罪に服すよう説得した」
まあどっちも司馬懿シンパの行動のようだけど。

夏侯玄の穴はともかく、夏侯覇が出奔してしまったのが痛手だな。
事変の重大さが蜀や呉に知れ渡り、魏内部の皇族からも心が離れてしまう。
夏侯家と絶縁しなかったのは羊コぐらいなんだろうか。

59:無名武将@お腹せっぷく
07/02/28 22:05:59
>>58
>「曹爽は許允・陳泰を遣わせ司馬懿の意向を探らせた」 「(曹爽らといた陳泰が)自ら罪に服すよう説得した」

どちらにしても何故曹爽が陳泰達の言うことを聞いたのか謎だ。
陳泰が司馬家シンパなのは分かっていただろうに、なぜ一切抵抗せず降伏する道を選んだんだろう。
「ここで司馬懿に屈したところで、皇族に連なる自分に手荒な真似はできまい」と処分を甘く見ていたんだろうか。

60: ◆Henri9gNlM
07/02/28 23:37:34
許允って、この曹爽誅殺の件を見ると、陳泰と共に司馬懿に与してたように見えるが、
後に夏侯玄の政変の時には、直接関わっていないとは言え、夏侯玄側の人間として見られ、
流罪になってるんだよな。

結局こいつはどっち側だったんだろうか?

61:無名武将@お腹せっぷく
07/03/01 16:00:03
中国英雄
URLリンク(hobby9.2ch.net)

62:無名武将@お腹せっぷく
07/03/01 16:19:04
マルチ誘導厨乙

63:無名武将@お腹せっぷく
07/03/02 14:07:14
ミ・д・ミ フサー

64: ◆Henri9gNlM
07/03/03 00:16:31
今の話題と直接関係はないが、洮西の戦いの後、司馬昭が荀に語った言葉として、
「将に落ちんとする城を救い、而して益兵を求めず」とあるが、
王経が敗れたこの戦役では、ケ艾や司馬孚が派遣され、
その前の徐質が敗死した戦役でも、司馬昭が許昌から呼び戻され増援として派遣されている。

しょっちゅう増援を受けているのに、「而して益兵を求めず」ってのは少し変に思える。
例え陳泰が要求しなくとも、実際に援軍が送られ、陳泰はそれを活用しているのに、
こういう褒め方をするものなんだろうか?

65: ◆Henri9gNlM
07/03/03 01:40:33
知らぬ間に姜維北伐スレが中英に立っとる

66:無名武将@お腹せっぷく
07/03/03 01:56:15
>>65
三戦の考察系を全て中英に誘導しようとするハメ技ですな
他板のこと、三戦でもできまっせ

67: ◆Henri9gNlM
07/03/03 02:06:46
>>66
突然立ってたからびっくりしただけなんだよね。

1年以上も前に終わったスレだし、その頃から過疎スレだったので、
今更この板で復活させる必要もないと思う。
このスレと話題もかぶるだろうしね。

呉の軍師スレの次スレが中英に立てられたってのを見たんで、
中英に行ってみたらこれだ。驚きもするぜ。
今頃あんなスレを引っ張り出しても伸びるとは思えん。
中英住人に伸ばす意思はあるんだろうか?

68:無名武将@お腹せっぷく
07/03/03 02:15:08
>>67
呉軍師スレは三戦で次スレを立てる流れになってるし
当時の姜維スレは語りつくして過疎った面もあったから蜀総合スレでやろうという話だったな

姜維スレ懐かしいなw

69: ◆Henri9gNlM
07/03/03 02:32:52
確かに懐かしいな。

厚顔無恥な発言かもしれんが、あのスレの三スレ目に関しては、
俺が支えていたんじゃないか、ってくらい俺のレスで溢れかえっているからなぁ。
姜維の北伐に俺くらい情熱を燃やしてる人がいりゃいいが、
いなかったらまともにレスつかないまま落ちるんじゃないかと心配だよ。

あの頃より知識も増えたし、姜維とその北伐の考察もだいぶ変化したので、
姜維北伐スレに書き込む事もできなくはないが、姜維関連は殆どブログにぶち込んであるので、
今更やるのもな、という思いだ。

70:無名武将@お腹せっぷく
07/03/03 02:40:36
>三戦の考察系を全て中英に誘導しようとするハメ技

中英には三戦の受け入れを拒否したい人達もいることを忘れちゃいかん
彼らを追い出したのは三戦板だし

71:無名武将@お腹せっぷく
07/03/03 03:02:12
>>70その手の話はこのスレとは関係のない個人の観念の話だ
やめよう

72:無名武将@お腹せっぷく
07/03/03 06:27:08
スレリンク(warhis板:47番)
中英誘導厨警報

73: ◆Henri9gNlM
07/03/03 20:44:39
中英がどうのという話をいつまでも続けるのもどうかと思うし、>>64の続きでも。

司馬昭の発言は、やはり255年の戦役を評してのものだろう。
この時は、8月初旬に王経が敗れ、8月末に陳泰が姜維と接触し、狄道が開放されたのが9月末。
司馬孚が派遣されたのはその前、8月中旬の事。

つまり、「将に落ちんとする城を救い」というのは、8月以降の事であり、
それ以降に派遣された援軍は司馬孚という事になる。
恐らく陳泰からの報告によって、王経の大敗を知ったが、陳泰が援軍を要求しなかったため、
司馬昭が独断で司馬孚を派遣、しかし陳泰はその到着を待たずに戦役を終息させた。

援軍を要求しない陳泰の判断を誤りと考え、戦いが長期化し、
一時的な隴西の放棄をも覚悟して大軍を派遣したが、
その予想を覆して姜維を退けた陳泰を褒め称えたんだろう。
陳泰の自信が過信ではなく、計算によって裏付けられたものである事を称え、都督の理想像としたのだろう。
軍隊は派遣するだけでも大きな経済的負担になるからね。
できる事なら増援なしで処理するのが望ましいのだし。

74: ◆Henri9gNlM
07/03/03 22:31:52
司馬懿が襄平を包囲した時、その攻撃準備が整うのに要した期間は1ヶ月ほど、
しかも長雨に邪魔されてだから、それが無かったらもっと早かっただろう。

姜維が王経を包囲した時、予め攻城を想定し、その準備を伴った遠征だったなら、
遅くとも陳泰が到着する頃には包囲の陣地は完成していたはず。
城内の食糧も少なかったし、もし援軍がケ艾らの言うように様子見に徹していたなら、
案外あっけなく落ちた可能性もある。

陳泰が援軍を要求しなかったのは、第一次の援軍と手持ちの戦力、
それに麾下の涼州の戦力のみで拒止し得るという自信もあっただろうけど、
今から中央から援軍をもらったところで、到着する頃には城は落ちている、という考えもあったんだろう。
援軍を当てにしているようじゃ城を救う事はできない、と敢えて自分を追い詰める事で、
自身の中の果断さとかを引き出そうとしたんじゃないかな、という気もする。
自分の中の慎重な陳泰像とはちょっとずれるけどね。

襄平と言えば、司馬懿スレは関係ない話題で盛り上がってた割りに、
公孫淵討伐の話にゃあまり乗ってこないようだな。少し残念だ。

75:無名武将@お腹せっぷく
07/03/04 07:41:29
軍事に関しては不勉強なのであくまで印象なんだけど、
陳泰は国境の刺史として、何を保持するべきか分きまえた将軍だなと思ったことがある。
蜀を「攻略」することがあったら他の評価もあるかもね。

しっかし、先の話を長い間考えてみたけどミリだった。
晋初の功臣は曹爽らによって取り立てられて中央にいた人物が意外に多いし
陳寿もうかつに書けなかったのかもしれない。
逆に何晏たちもいい人材を見つけてたんだよなと思ったくらいだ。

許允については夏侯玄のアレのときは中領軍、鎮北将軍の叙任のタイミングといい、
疑わしきは流しとけ、というように見える。
許允自殺のセンもあるけど、事実関係は分からなかったんだろうね。
企てが確認されたとしたら、子供は高官に上らないかと。
(さすがに魏氏春秋の話は採れない…)

76:無名武将@お腹せっぷく
07/03/04 12:14:38
>陳泰が援軍を要求しなかったため、司馬昭が独断で司馬孚を派遣、
>しかし陳泰はその到着を待たずに戦役を終息させた。

こういうのって、結果的には援軍が不要ってことで、送った側が自分の不明を
明らかにされたって感じで現地の司令官との間に摩擦が生じたりしそうなもん
だけど、さすがに司馬氏と陳氏の関係が良好ってことになるのかな

77: ◆Henri9gNlM
07/03/04 19:04:15
>>75
曹爽誅殺に司馬氏側として深く関わっていたのなら、
夏侯玄らとの関係修復はすごく難しいように思えるんだよね。
でも、夏侯玄らのクーデターに際して、許允は夏侯玄らと親しかったという記述もある。

許允は王基によって、傅嘏、袁侃らと共に「正士である」として推挙されているから、
あっちについたりこっちについたりするようないい加減な人物ではないと思うんだけどね。

>>76
司馬氏と陳氏の関係もあるだろうし、陳泰が司馬昭と親友ってのもあると思う。
ただ、司馬昭は諸葛誕の乱で独断専行した王基を褒めており、
その後に行おうとした呉への攻勢についても王基に意見を聞き、それに従っているから、
そもそも、そんな事で腹を立てるほど器の小さい人物ではなさそうだ。

78:無名武将@お腹せっぷく
07/03/04 21:22:37
この板は近日中に取り潰されるようです。

続きは中国英雄板でやりましょう。
URLリンク(hobby9.2ch.net)

79:無名武将@お腹せっぷく
07/03/04 21:30:03
スレリンク(warhis板:53-54番)

ま た 誘 導 厨 か

80: ◆Henri9gNlM
07/03/05 21:58:25
こいつは後でブログにも図を入れて載せるが、毋丘倹の高句驪討伐について。

毋丘倹の高句驪討伐は、玄菟より出て諸街道を通り、梁口にて第一回会戦が催されている。
つまり、玄菟から南東方向に、広正面で前進し、沸流水上流域で合流した事になる。
会戦地集結であり、求心的な、外線作戦に近い機動を採っている。

その後、「馬をつなぎ、車をつるして丸都を登る」という記述がある。
この事から、常道とも言える沸流水に沿った追撃ではなく、
真っ直ぐに山を突き進み、丸都城に迫ったと考えられる。
丸都城は周囲7km、山を利用した堅固な城だから、それほど簡単には落とせないはずだけど、
毋丘倹があっさりと陥落させる事ができたのは、上記の奇策のお陰だろう。
恐らく、山を登ると同時に、囮として沸流水に沿った追撃もやってたと思う。

丸都城は南側が最重要な城門で、北側と東側が高地で近付きにくいから、
丸都まで撤退した位宮も、南側の防御に力を入れていたんだろう。
ところが備えの薄い北から毋丘倹が来てしまったので、簡単に落ちてしまった、と。

正直、この高句驪討伐だけ見ると、毋丘倹がかなりの名将に見えるんだよね。
反乱起こした時とは別人のようだ。
反乱起こした時は、麾下の将兵の動揺が激しく、しっかり掌握できてなかったらしいから、
仕方ないと言えば、仕方ないけど。
夏侯玄一派の誅殺と曹芳の廃位に怒り、司馬氏誅滅の為に立ったと言うのに。
司馬一族がどれだけ人心を掌握できていたか分かるというものだ。

余談だが、この高句驪討伐は無双ステージ考えやすそうだな。
今では殆ど需要無いだろうけどね。

81:隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE
07/03/07 12:19:27
司馬氏と魏朝廷の政争はよくこのスレで扱われるけど、
これに関連した事項なのにあまり扱われない竹林の七賢の阮籍とケイ康についてちょっと書いてみたい。

筆頭の阮籍は陳留阮氏(南家だが)ということもあって当時政治的影響力が強く、
司馬氏はこれを抱き込むために何度も招聘し、婚姻で取り込もうとしたこともあるが、
魏朝内の政争を見るにつけ官を辞して郷里へ引きこもるようになっていく。
これは李豊、夏侯玄誅殺に連座された者の縁者ということで監視の目が光っており、
事実鐘会などはたびたび罪に陥れるために時事を問いかけたりしていたからだろう。

阮籍の処世というのはこれと言って仕事もせず、仕官をしないケイ康らと付合い、
礼法の士は白眼視して政治の中枢から離れるというもので、
こうした態度は書状で詰問されているところでもある。
儒教の聖賢、名声、実、礼をよりどころにすべしと始まり、
実に外れたものの例を挙げ、阮籍の評判とその振る舞いの実像を書き、
阮籍の常の振る舞いへの警告、隠者全体の批判に及び、最後に阮籍へ国の務めを勧めている。
この当時の儒教の特徴である国の政治を動かすことを最上とする主張そのものだが、
阮籍は政治だけが全てではないと言い返し、国政に参画して利禄の道を進む当時の儒教を批判している。

ただし、阮籍は結局のところ司馬氏に仕えていて政治の場から離れることは出来なかったが、
それが現世の是非を忘れたおだやかな遊び、荘周の処世を慕いながら、
同じような処世をしていたケイ康が刑死し、阮籍が生き抜いた分かれ目だと思う。
ケイ康は阮籍と同じく礼俗から逸脱した行いをしていながら名声と影響力が強かったことから
「交友したものは誰も一度として喜怒の色を見たことがなかった。」との評判のままの慎重な処世を心掛けた人だが、
山涛への絶交の書で「毎に湯武を非り、周孔を薄んず」という言葉が司馬昭の逆鱗に触れて処刑されることになった。

82:隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE
07/03/07 12:20:02
阮籍とケイ康の思想の違いは、二人の作品からよく読み取ることが出来る。
阮籍は自分が神仙の類でないことが分かっているので憂いばかりが募る、と詠っているが
これは自分らしくふるまえば身を全うすることが難しい現実を理解し、
その上でそこからの逃避を願っていると読み取れる。
一方ケイ康は「養生論」で「導養し理を得て以て性命を盡くすに至れば、上は千餘歳を獲、下は數百年たるべし」
とさながら神仙のように生きることが出来る、と自分の著作に書いている。
阮籍と違って逃避をする余裕があり、それが政治権力を前にした迂闊な発言に繋がったのだと思う。

83: ◆Henri9gNlM
07/03/07 20:35:29
ケイ康と言うと、「声無哀楽論」とかだな。
「声音以って平和の体を為し、而して感ずる物常無し」
音楽自体に感情は無く、聴く者に生じるのだ、と。

老荘を好み、隠者を気取っていようと、権力者を批判し続ければ殺されるのも仕方ない。
隠者の類は好きではないので、俺自身が彼らについて考察する事はまずないな。
誰かの考察を拝借したりはするだろうけど。

ケイ康とかなら、文学スレでも扱ってくれそうだな。

84:隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE
07/03/07 21:43:24
>>83
文学そのものというより、名声を博していた文人の
政治の場における行動ということで文学スレよりここの方がふさわしいと思って出してみたんだよ。

ちなみに阮籍の場合も老荘を好み隠者を気取っていたのは事実だが、
ケイ康と違ってただそれだけの人物ではなく、
「当時の」儒教にこだわらなかっただけで、儒教そのものを否定していたわけではない。
実際に詠懐詩には、元来の理想に基づく儒者像が詠われているしね。
世説新語の任誕篇にあるが、王大が「阮籍は蹴中に壘塊あり、故に酒を須いて之を澆ぐ」と言っている通り、
本質を理解せず形式のみにこだわる風潮、儒教の正道がなされない政治に対する
胸のわだかまりを酒によってまぎらわせていたところが多く、
胸中の発露となる言動、思想が老荘と重なっていたというところなんだろう。

司馬昭が奔放な行動を取る阮籍を重用したのは地方の抵抗勢力にプレッシャーをかけてその排除を推し進めながら
在野の不平分子に寛容な態度を見せておくために、
少壮の人材の信望をつなぎうる良識派の人物を起用することを考えたというのが本当のところなんだろうが、
処罰されたケイ康とのそもそもの差を探るとなかなか細かいところにたどり着く、と思った。

85: ◆Henri9gNlM
07/03/07 22:23:15
両人の思想の差異を以って、処世の道を考えていくのも面白いかもしれんね。
だが、今の自分の知識では、竹林の七賢を云々するのについていくのは難しいな。

個人的には、司馬昭がケイ康を殺そうと考えたのは、ケイ康が毋丘倹を助けようと画した辺りだと思う。

86:無名武将@お腹せっぷく
07/03/08 12:04:23
このスレの次スレは世界史板でもいい
戦術理論などに詳しい住人が書いてくれるかもしれない

87:無名武将@お腹せっぷく
07/03/08 14:26:25
誘導厨、手法を変えたな

88:隠れ麋竺オタ ◆AQI/vjrPPE
07/03/08 17:28:58
ブログの丸都城攻略の手段の二つの可能性について……

一つ目の可能性を採るとすると、毋丘倹はもとより少ない兵力でもって敗走する位宮を追撃したことになる。
それなら高句麗側も、山道を越えて備えの薄い西北に襲来してくる毋丘倹本隊の存在を
察知してもおかしくない、と考えてしまう……。
推測できなかったのか、はたまた推測していても防ぎ得なかったのかは分からないが
こちらの場合だと高句麗は相当読みが浅いと言わざるを得ない。

個人的にはなるべく奇襲を敵に知らせないようにするために
ギリギリまで軍を分けず、国内城・南門に集中攻撃をかけると見せかけるほうが慎重な手法に見える。

毋丘倹の戦い方が名将と呼ぶにふさわしいものなら、
俺は下の可能性を採ったと考える……。

89: ◆Henri9gNlM
07/03/08 19:12:30
梁口会戦での位宮が、どれだけの被害を被ったかによるだろう。
もしくは、毋丘倹率いる奇襲部隊の戦力の方が小さかったという事もある。

以前、三国志漂流というブログで三国史記の記述を引っ張っているのを読んだが、
そこでは、位宮は沸流水沿いの数次に亘る会戦において、
二次までは勝利し、数千の首級を挙げ、第三次会戦において大敗、2万弱の戦死を被ったとある。

ただ、三国史記は12世紀に編纂されたものだし、信憑性という点では三国志に並ぶべくも無いので、
この内容はあまり信じられないね。
三国志によれば、毋丘倹は1万、位宮は2万の戦力を率いていたから、
最初の会戦で数千の戦死を被ったとしたら、その後に毋丘倹が勝利できたのがおかしい。

まぁ、俺の考察が正しいとは言えないわけだし、自由に可能性を考えていけばいいと思う。

90: ◆Henri9gNlM
07/03/08 22:42:23
ちょっと追記を。

梁口から丸都までは直線で50km程度なので、実際の行程も精々100km程度だろう。
対して、梁口から沸流水に沿って進み、鴨緑江を遡るルートだと、
地図上の距離でも200km近くになる。
山道だとしても、真っ直ぐ進めば2週間はかからない距離で、沸流水沿いなら10日強と言った所。

従って、位宮の軍勢を数日行程足止めできれば、敵の達する前に丸都へ到る事ができる。

次いで高句驪の戸数を見ると、3万戸とあり、位宮の率いた戦力は高句驪の有する殆どだと言うのが分かる。
蜀ですら28万戸に対して10万強という戦力であり、3戸に1人程度。
土地の痩せた高句驪では、3万戸から2万を抽出するのは限界に近いだろう。

従って、もし毋丘倹が高句驪の戸数をおおよそでも把握していたなら、
丸都が空っぽである事が分かったはず。
それならば、丸都を奇襲する部隊は少数で良く、
追撃部隊に戦力を大きく割く事ができる。

で、丸都近傍まで全軍で追撃した場合、敵が丸都に入っていると思うんだけど、
丸都は山なので、丸都近傍から山の裏手に回り込もうとする動きは、
察知されてしまう可能性もある。

だから個人的には、毋丘倹は梁口で軍を分け、追撃部隊に多数を割きつつ、
自身は少数の部隊を率いて、空っぽの丸都を奇襲したんだと思う。

91: ◆Henri9gNlM
07/03/08 23:10:35
3万戸に対して2万というのは、多分限界を超えているだろうけど、
東沃沮の5千戸、穢狛の2万戸もあわせて考えれば、動員できなくない兵数。

もう一つ、毋丘倹は高句驪平定の後、カナートを掘って灌漑をしている。
灌漑を必要とするという事は、地下水位が低かったり、雨が少なかったりする土地。
土地の状態とその利用法については、管子第五十八、地員篇に載っているので、
当時、地質学についてもある程度理解が進んでいた事は分かる。

もし毋丘倹自身の観察によって高句驪の土地の状態と灌漑の必要性が分かり、
彼自らが灌漑工事の指揮を執ったとしたら、彼は内政、と言うか土木に関して、
結構な見識と才能を有していたと言えるだろう。

ゲームだと、統率と武力がそこそこ高いだけの、大して使えない能力だけどね。

92:1(ry
07/03/09 01:58:19
いつも乙であります(`・ω・´)ゝ
文学スレでちょっとだけ嵆康だしてみますた。では、お邪魔しますた……

93:無名武将@お腹せっぷく
07/03/09 07:17:25
1タンだー乙

ここと文学スレ両方見てる人多いだろうなあ・・たぶん

94: ◆Henri9gNlM
07/03/10 00:55:38
>>92
わざわざ挨拶乙です

こちらで話題にした途端、向こうでやってくれたんで、
もしかして見てるのかとも思いましたが。

95:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 01:14:59
スレリンク(warhis板:55-56番)
この辺の背景を詳しく追ってみたいが、文学スレの方が良いかな。

96:文学スレの1(ry
07/03/10 02:52:23
もし後期スレで曹魏の文化政策を追ってくださるのならば、およばずながら参加するですが……。
でも、そのうち文学スレで雰囲気をみながらやったほうがいいかなという気もするです。

すみません、たいへんにお邪魔しますたorz。

97: ◆Henri9gNlM
07/03/10 21:32:15
ここは時代区分以外に話題を制限してないから、文化に関して語るのも当然良いと思う。

考慮すべきは、どっちで語った方が議論が進むのか、という一点じゃないかな?

98:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 21:39:53
文化政策を熱く語りたい人が何人いるのかが問題かとw
文学スレの方が人数がいる気はするが…時期を見て向こうでいいんじゃないかな。

99:無名武将@お腹せっぷく
07/03/10 21:43:56
一つのスレで完結させることもないんじゃないかな?

100: ◆Henri9gNlM
07/03/10 22:40:37
ところで、文化政策って具体的にどんな事を語るんだい?

経学と玄学の違いとか、清談の流行に伴う五石散の服用や飲酒とか、
当時の貴族が熱心に造営した園林の様子とか、そういうの?

101:文学スレの1(ry
07/03/11 00:01:19
うはー、まだ流れを横道にそらしまくってて済みませんorz。

>>95さんの背景だと、曹操・曹丕が詔にどう老荘思想をくいこませて施行したとか、
太学がどう保護されていたかとか、公主の文人への嫁ぎ先とか、九品中正法の影響とかでせうか?
ムムム、やっぱり文学スレ向きかなぁ……orz

102: ◆Henri9gNlM
07/03/12 01:08:40
どっちのスレが向いているかは分からんが、九品とかはもろにこのスレのストライクゾーンだと思うし、
>>99氏の言うように、どっちがだけでやる必要もないので、
話したい時に話したいところでやれば良いかと。

九品中正だと、晋代に発布された占戸制とか、譜牒を学ぶ事が重視されたりとか、
掘り下げれば色々ありそうだな。
ただまぁ、教科書に載るぐらいのものだし、本の受け売りとかも多くなりそうだけど。

103:文学スレの1(ry
07/03/12 01:52:19
Thxです!! なるほどー、九品中正法の文化への影響は、東晋以降になってくると
おもいっきりでてくると思うのですが、曹魏から西晋でというと、こまかくなってしまいますおね……
むしろ、曹氏の詔勅の内容とか、曹氏と司馬氏の公主の文人への嫁ぎ先とか、
わりと私的な動向の影響力がおおきいような気がするのですが……考えてみるです。
またROMりつつ、流れによっては参加してみるですー。お邪魔しますた(`・ω・´)ゝ

104: ◆Henri9gNlM
07/03/12 02:41:38
さすがに東晋はスレ違い、と言うか板違いだろうなぁ。
ただ、西晋時代の政策の影響を語る為に、補足的に話すなら問題ないように思える。

例えば司馬懿に関しても、対孟達とか対諸葛亮は範囲外だけど、
司馬懿自体は曹爽討ったり王凌討ったり、公孫淵討ったりしてるし、
さっきの九品中正にも関わっているから、このスレで語るべき人物の一人。
だから、司馬懿を語る為に対諸葛亮関連の話をしたところで、怒る奴はいないだろうし。

105:文学スレの1(ry
07/03/13 03:17:05
なるほどですー。自分は戦争とかぜんぜんわからないので、ムムムorz orz orz
とりあえず、本のうけうりにならない程度に>>101-103あたりをこっそり考えてみるです。

では、流れをとめてしまって非常にお邪魔しますた……orz orz orz。

106:無名武将@お腹せっぷく
07/03/13 13:54:51
ex22移転前保守


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