袁術とその配下を語り ..
196:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 21:40:54
>>192
うんと、時系列で言うと。
孫堅が豫州刺史になったのは袁術の配下となった時で董卓とまだ実際に戦闘を交える前だから初平元年(190)前半。
孫堅が死んだのは初平3年(192)、英雄記には初平4年(193)正月七日とあるので初平3年の後半であろう。
少なくとも
> 孫堅が豫州刺史となる。しかし孫堅はその翌年劉表と戦い戦死する。
ということはあるまい。
また孔伷が死んだ年はというと。
許靖は豫州刺史孔伷が死ぬと揚州刺史陳禕を頼ったと許靖伝にある。
陳禕は初平3年(192)に死ぬのでそれ以前であることは間違いないであろう。
で、陳禕がいつから雍州刺史だったか?
曹操が徐栄に敗れた時の揚州刺史は陳温。ちなみに陳温はこの後、衛尉として洛陽に入って董卓に殺されたらしい。
だから陳禕が揚州刺史になったのは初平元年(190)中であるが中ごろ以降?
この辺はちょっと自信がないが、ぎりぎりだけど孫堅が豫州刺史に任命されたのは孔伷の存命中だと思う。
197:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 21:42:30
>>193
オレは↓を参照してる。
URLリンク(www.sinica.edu.tw)
三国志もちくまので当たりをつけてから、↑で確認してる。
198:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 21:45:40
>>193
> てことは劉表ははじめは袁術と組もうとしてたって事?
この時点では単に特に対立してなかっただけじゃないかな?
董卓包囲網を敷いていた時だし。
199:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 21:53:27
おかしいな。
董卓軍系列スレでも語られてたが、劉表って董卓が派遣した刺史だろ?
200:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 21:59:08
袁術を後将軍に任命したのも、袁紹を勃海太守に任命したのも董卓。
その他の事例を見ても、董卓の子飼い以外は外に出て皆反旗を翻してる。
201:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 22:43:46
>>193
手軽なやつはないんじゃない?俺が知らないだけかもしれんが。
一応岩波書店ってとこから全10冊(+1冊)刊行されてるが一冊14,000円もする。
おれはブルジョワじゃないから、袁術の記述のある第八冊だけ持ってるw
>>196
>孫堅が死んだのは初平3年(192)、英雄記には初平4年(193)正月七日とあるので初平3年の後半であろう。
ああこれか、これは簡単にまとめるために孫堅の死亡年は初平2年の説を採用していたんだよ。
>曹操が徐栄に敗れた時の揚州刺史は陳温。ちなみに陳温はこの後、衛尉として洛陽に入って董卓に殺されたらしい。
>だから陳?が揚州刺史になったのは初平元年(190)中であるが中ごろ以降?
そうか、では孔チュウ在命中のことかもしれないなぁ。勉強になった。
>>199
俺も>200が言うようおかしくないと思うが?
そういえば袁術が劉表と争いだしたのはなんでだ?
202:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 22:54:10
>そういえば袁術が劉表と争いだしたのはなんでだ?
それこそ、董卓が劉表を派遣したからだと思うんだが。
当時荊州は袁術・孫堅に支配されていて、
その領地を切り取るために劉表が派遣されたんだと思ってたが。
203:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 22:57:55
>>201
> そういえば袁術が劉表と争いだしたのはなんでだ?
悪い人たちがやって来てみんなを殺した
理由なんて簡単さ そこに弱い人がいたから〜♪
つまりそこに荊州があったから。
ってか孫堅は
「同舉義兵、將救社稷。逆賊垂破而各若此、吾當誰與戮力乎!」
(皆して義兵を挙げたのは、漢の社稷を救おうとしてであった。
ところが逆賊が敗れかかると、もう各自がこんなことを始める。
俺は誰と力をあわせてゆけばいいのか。以上ちくま訳)
とか嘆いておきながらこれだからな。
孫堅のどこが忠烈の士なんだ?
204:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 22:58:55
海賊をだまし討ちにするあたり
205:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 22:59:34
>>202
なら後漢書の記述はどうなるんだ?
最初は袁術を取り込もうとしたが、うまくいかなかったってこと?
206:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 23:03:19
>>202
兗州刺史劉岱と東郡太守橋瑁は共に周毖や伍瓊らの推挙を受け董卓に任命された。
しかし、両者共に曹操の檄文に呼応し対董卓同盟に参加した。が、同年中に劉岱は橋瑁を殺害して王肱を東郡太守につけた。
任命する者の思惑と任命された者の思惑は必ずしも一致していない。特に異とするに当たらない。
207:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 23:12:46
劉表が董卓に叛逆していたとなると、
その後李カクと良好な関係を築き、張繍を受け入れたことが矛盾するような。
208:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 23:14:47
>>192
>てかジャコウは董卓じゃないか?
>天帝=献帝
>ファルコ=コウホスウ
>ジャコウに反乱起こした将軍=シュシュン
>青の将軍・緑の将軍=リカクシ
おみごとwww
209:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 23:16:32
>>207
状況が変われば外交関係も変わるだろ?
結局、劉表は袁術と対立するようになるんだし、そうなったら董卓の後継と結ぶのも至極当然。
李傕だって前に敵対したからといって同盟を拒んでも不利になるだけ。
なんで関係を固定して考えるの?
210:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 23:21:46
李カク政権は袁術派とも同盟してたよな。
211:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 23:22:14
劉備なんかありとあらゆる陣営と結んでるしな
212:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 23:29:40
公孫瓚の傘下で袁紹・曹操軍と戦う。
曹操に攻められた陶謙の救援に向かい、陶謙の死後に徐州を領有することになるが、
何故か袁紹も劉備が徐州を治めることは自分の希望に沿ったものであると言ってる。
さらに曹操とは対戦中だったのが呂布の横入れで何故か共闘に転じ、呂布に敗れる度にバックアップしてもらってる。
うーん、魑魅魍魎のごとし。
213:無名武将@お腹せっぷく
07/03/19 23:39:49
>>211
徐州で反乱するが何故か臧覇らとは友好的
袁紹の元では文醜と共に騎兵5000を率いる
のち豫州ゲリラに転じ、張繍の後釜として劉表の保護下に入る
荊州では劉キを推し立て、曹操に対抗するため孫権と同盟
荊州の主に収まると劉璋に迎えられるが反攻
関中から逃げてきた馬超を迎え益州を奪う
張魯が攻められた時は援軍を出そうとした
絡んでない群雄は遼東の公孫氏くらい?
214:無名武将@お腹せっぷく
07/03/20 01:23:30
あ・・・
曹真伝読んでたらこんなものを見つけてしまった・・・
「魏書」にいう。曹ショウ[召β]は忠誠で才略があり、太祖によって信任されていた。
初平年間、太祖が義兵を起こすと、曹[召β]は仲間を募り、太祖につき従って
活躍した。当時、豫州刺史の黄エン[王宛]が、太祖を殺害しようとした。
太祖は難を逃れたが、曹[召β]だけが殺害された。
ま た 豫 州 刺 史 か !!
初平年間・・・これは・・・袁術勢力なのか?わけがわからん・・・
215:無名武将@お腹せっぷく
07/03/20 05:39:01
黄琬は中平5年(188)に豫州牧になった後、
翌年の永漢元年(189)9月に司徒、12月に太尉になってる。
翌年の初平元年(190)の2月には同官を免ぜらて、光祿大夫に。
その後、司隷校尉になるが同3年6月に長安に戻ってきた李カクに殺された。
太尉免官から司隷校尉になるまで1年半以上空いてるけど、
その間に豫州刺史にはなってないんじゃないかなぁ。
※黄琬の前任の司隷校尉と思われる趙謙が同官に就くのが
初平2年の7月以後。
216:無名武将@お腹せっぷく
07/03/20 13:44:36
>>196
訂正。
> ちなみに陳温はこの後、衛尉として洛陽に入って董卓に殺されたらしい。
ぼめん。これ陳温じゃなくて張温だった。
で、陳温の死期はちょっとわからない。
袁術伝によると、九江まで下がった時に揚州刺史陳温を殺したとある。
その注に引かれてる英雄記には陳温が病死すると袁紹は袁遺を送ったが袁遺は敗れ、袁術が陳瑀を揚州刺史に任命したとある。
呂範伝の注だと揚州刺史陳禕が死ぬと袁術は陳瑀を揚州の牧に任じたとある。
陳温が病死し、陳禕が継いだがやはりまもなく死んだので、袁紹が袁遺を送ったが敗れ、袁術が陳瑀を任命した。
という流れなのかな?袁遺が送られたのは陳禕の存命中かもしれないけど。
あと後漢書のとおり袁術を南陽太守につけたのが劉表だとすると、上表した時期は荊州刺史に任じられる前。
劉表は荊州刺史に任じられた時、袁術が魯陽で陣取っていたために兵を率いていけず単身で任地に向かったとある。
217:無名武将@お腹せっぷく
07/03/20 16:17:06
呉景が丹楊太守周昕を追ったのは陶謙存命中。孫策伝より。
218:無名武将@お腹せっぷく
07/03/20 16:27:37
徐州南部は笮融が陶謙についていたが好き勝手やっていた。
曹操が陶謙討伐に来ると広陵太守趙cの下に逃げ込み賓客として遇されたが頃合いを見て趙cを殺し略奪を行って広陵を去った。
これで徐州南部が空白になり、陶謙の後を継いだ劉備と曹操に圧迫されて東方に手を伸ばしてきた袁術とが激突するという流れなのかな?
219:無名武将@お腹せっぷく
07/03/20 19:13:58
>>197>>201
サンクス
>>194
漢文、大学入試レベルだからわからんが、そうなのか・・・
でも索引は便利だよね
>>178>>179>>182
疑心暗鬼ってのもありえるんじゃない?
袁術が事情があって食糧輸送できないんだけれど
孫堅軍末端の腹減らしてる兵士なんてそんなの知ったこっちゃなく
人間不満があると、仕方ない事情があるってより
誰かが悪いって不満のぶつけどころがある方を好むから
「ぜってー、本部の奴ら、俺らが手柄立ててんの妬んで嫌がらせしてるよな」
ってな話になって、孫堅も自分じゃなくてよそに不満が向いてりゃ安心だから
「そうなんだよ、実は上の奴らが・・・
ってな感じのやり取りが、そのまま史実として定着したとかw
つか、袁術軍は慢性的な兵糧不足でしょ
荊州中の兵集めて董卓征伐に行ったら
横から劉表が来て豪族懐柔して
もう一個別に荊州軍作っちゃったから
袁術の下にいる荊州軍はちゅうぶらりん状態
荊州中の兵を宛からの収入だけで養わなきゃいけないんだったら
そりゃ苛酷な取立てにもなるわな
220:無名武将@お腹せっぷく
07/03/20 21:01:51
> 陳温が病死し、陳禕が継いだがやはりまもなく死んだので、袁紹が袁遺を送ったが敗れ、袁術が陳瑀を任命した。
陳温と陳禕は同一人物じゃないかって言う説もあるよ。
郭シが郭多って呼ばれてたみたいに。
221:無名武将@お腹せっぷく
07/03/20 21:07:50
陳禕は許靖伝にしか載ってないからねえ。
その可能性もなくはないけど、それ以上ではない感じ。
222:無名武将@お腹せっぷく
07/03/20 21:08:45
あ、呂範伝にも載ってたわ。自分で書き込んどいてw
223:無名武将@お腹せっぷく
07/03/21 04:16:13
>>215
よくそんなに調べたなw尊敬するわw
>太尉免官から司隷校尉になるまで1年半以上空いてるけど、
>その間に豫州刺史にはなってないんじゃないかなぁ。
ふむ、確かに。その時期は孫堅と周グが豫州刺史を争ってるはずだもんね。
なら>>214のは何かの間違いと見るべきか?
>>216
>ぼめん。これ陳温じゃなくて張温だった。
うん、どうりでその話が見つからないわけだwてか「ぼめん」ワロタwそれはねーよw
>あと後漢書のとおり袁術を南陽太守につけたのが劉表だとすると、上表した時期は荊州刺史に任じられる前。
なるほど、確かに荊州刺史になってからじゃ腑に落ちない点が多いもんね。
今更だが、劉表が袁術を南陽太守に上表するまで袁術は洛陽にいたの?
224:無名武将@お腹せっぷく
07/03/21 10:14:53
>>223
> 今更だが、劉表が袁術を南陽太守に上表するまで袁術は洛陽にいたの?
んにゃ、南陽。孫堅と合流した時。
ちょうど董卓討伐の旗揚げをした時分。
だからなんでそこで洛陽にいる劉表が上表したのかは、良くわからない。
225:無名武将@お腹せっぷく
07/03/21 19:31:49
>>224
>んにゃ、南陽。孫堅と合流した時。
>ちょうど董卓討伐の旗揚げをした時分。
俺はこのあたりの時系列がいまいちよくわからないんだが、これは断定できる?
226:無名武将@お腹せっぷく
07/03/21 19:48:12
>>225
史書の記述が間違ってなければという条件付でね。
袁術、董卓から離れて南陽へ。
孫堅、荊州刺史王叡をぬっ殺し北上、さらに南陽太守張咨をぬっ殺し、袁術の配下に。
劉表、上表して袁術を南陽太守に、袁術、上表して孫堅を豫州刺史に。
袁術は魯陽に屯し、孫堅は陽城で董卓と対峙。
これが後漢書袁術伝の流れ。
荊州刺史王叡が孫堅に殺されたので、劉表が荊州刺史に任命される。
赴こうと思ったけど、袁術が魯陽に屯していて兵を率いていけねえ。
単身、宜城へ向かう。
これが後漢書劉表伝の流れ。
宜城は南郡、襄陽の南東ね。
このような経緯があるので、宜城に入ってから上表して袁術を南陽太守に推すことはちょっと考えられない。
227:無名武将@お腹せっぷく
07/03/21 19:48:34
曹操が都から逃亡したときは都に居たんだよね
228:無名武将@お腹せっぷく
07/03/22 05:35:41
>>226
>史書の記述が間違ってなければという条件付でね。
意味深だなw間違ってる気もしないではないってかんじか?w
俺も俺なりに調べてみたんだが、ちょっと気になることが出てきた。
それは「三国志」において袁術が南陽太守とされてるのを見かけないことだ。
ちょっといいかげんに調べたから、もしかしたらあるのかもw
まず武帝紀によれば、初平元年春正月、「後将軍」袁術、その他大勢、が同時に挙兵とある。
この時点で袁術の肩書きがただの後将軍ってことは、袁術が南陽太守になるのは挙兵後だよな?
もし劉表が洛陽にいるときに上表したとするなら、反乱軍である袁術を南陽太守にできるのか?
それともう一つ公孫サンの袁紹の罪状を訴えた上表文にも後将軍袁術とある。(魏書公孫サン伝、典略の注)
何故か後漢書の公孫サン伝の上表文には袁術のくだりが載ってないw
これが上表されたとき(初平二年?)劉表はとっくに荊州刺史になってるよ?
俺は後漢書の記述は誤りではないか、と思うんだが。どうよ?
229:無名武将@お腹せっぷく
07/03/22 05:36:54
あ、あと>>215
>その後、司隷校尉になるが同3年6月に長安に戻ってきた李カクに殺された。
これってどこに載ってる?
230:無名武将@お腹せっぷく
07/03/22 19:41:35
>>229
後漢書の献帝紀
231:無名武将@お腹せっぷく
07/03/22 20:01:52
>>228
> もし劉表が洛陽にいるときに上表したとするなら、反乱軍である袁術を南陽太守にできるのか?
袁紹は旗揚げしてから沮授を取り立てるのに上奏文を送ったりしてる。
懐柔のためにそうすることもあるだろう。後漢書の一文は唐突な感じを受けるとはいえ、否定する根拠としては薄いと思う。
あと公孫瓚の上表文も根拠としてはどうかな?
孫堅に関して破虜将軍であることを書いてないわけだし、袁術に関しても官職の全てではなく最も重要な官職である後将軍だけを記述したとも考えられる。
232:無名武将@お腹せっぷく
07/03/22 22:10:16
>>230
サンクス
>>231
ふーん・・・じゃあ劉表の上表の件は謎のままだな。
233:無名武将@お腹せっぷく
07/03/23 22:45:10
豫州刺史問題、証拠不十分でこれ以上話進まなそうだから別のネタ振るね
周瑜ってなんだかんだいっててもずっと袁術のところにいるよね
逃げたければ孫策の江東討伐のとき助勢したまま帰ってこなきゃいいのに帰ってきてるし
叔父が更迭されて袁胤と太守入れ替えになったときにも近くなんだから見切りつけて孫策の元に行っちゃえばいいのに行かないで寿春に戻ってるし
結局周瑜が孫策の元に来たのって袁術が曹操に再起不能なまでに惨敗してからだよね
あいつ袁術皇帝即位のときその場にいたんじゃないの?
234:無名武将@お腹せっぷく
07/03/23 23:35:16
>>233
袁術は建安二年に帝号を唱えた。
周瑜は周尚と共に寿春に戻るも袁術が失敗するだろうと見て取り居巣の長になることを願い出て、許されて居巣へ赴き呉に入った。
これが建安三年のこととある。
だから多分いたw
ところで周尚っていつ丹楊太守になったんだ?
周昕を呉景が追い、劉邕が来ると初めこれを迎えたが、劉邕は呉景が袁術に任命された丹楊太守であるので逆に追い出した。
このタイミングで周尚は袁術に任じられたでいいのかな?
235:無名武将@お腹せっぷく
07/03/23 23:35:51
あう。劉邕じゃなくて劉繇ね。
236:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 12:37:49
結局袁術の勢力図としては荊州北部の南陽郡、豫州全域と揚州北部の淮南郡といったところなのかな?
して、西方は曹操に押されて徐々に根拠地を南東に移し、徐州南部を劉備と争うことになるといったところか。
237:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 14:01:26
張挙、闕宣よりマシ?
238:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 18:18:55
あ、豫州も係争の地となっていたから全域ではなく大部分というべきだったかな?
239:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 18:27:19
>>234
>>このタイミングで周尚は袁術に任じられたでいいのかな?
多分そうだと思われ。
この周尚なんだが、寿春に戻ったあとどうなったんだろう?
周瑜同様離反したのかな?
>>236
ゲームなんかだと弱小勢力として描かれてるけど、実際はとてつもなくスゴイよなw
>>237
だまらっしゃい!!陛下をそのような賊と比べるとはどういうつもりじゃ!!
にしても袁術は皇帝を名乗ったことによって、必要以上に悪く書かれてるよな。
「そのとき袁術は二心を抱いていたから・・・」とか「袁術は皇帝になろうと考えていたから・・・」とか
無理矢理過ぎwどう考えても長年温めていた構想とは思えねーよw
240:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 20:18:26
劉協より袁術が優れていたのは火を見るより明らか。
もし劉協が群雄として出てきていれば王朗のような弱小勢力で終わっていただろう。
241:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 20:21:54
袁術はどうやって豫州の影響下に置いたのかねえ?
その過程が良くわからん。汝南が地元だから?
242:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 21:57:20
>>239
あのあたりで一番の名門だから結構高い地位与えられてた可能性はあるな(さっさと死んでる可能性もあるが)
離反してたら史書に載ると思うよ。周家にとってそれは「誇るべきこと」だから
周尚と周瑜と袁渙は袁術即位のときにも抗議したって記述無いから
怒られないように皆と同調して万歳してたんじゃないの?
で、あとで皆で黒歴史化w
ゲームでさ、そろそろ汝南太守として孫香出してくれないかな?
孫策の一回りくらい小さめの能力で
実際彼は演義に出ないからマイナーだけどがんばってたほうだと思うよ
>>241
孔伷に譲られてとか地元民から頼まれてとかだったら
それも絶対魏の史官が黒歴史化するだろうねw
243:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 22:06:50
>>242
> 孔伷に譲られてとか地元民から頼まれてとかだったら
袁術が孫堅を豫州刺史につけたのは孔伷死去前っぽいんだけどね。
その後、袁紹が送り込んできた豫州刺史と争ってるし、それはどうなんだろうな?
地域の賊たちを保護し手懐けていたって感じな気がする。
244:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 22:22:13
何気に歴代光栄三国志シリーズの中では、初代の袁術の能力値が実像に近い気がしてきた
劉備がいなかったら、袁術ももう少し勢力を快復させることができたんだろうか?
それとも、劉備が徐州牧に就いた時点で、結構ジリ貧だったのか?
245:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 22:30:02
>>244
>>236で示したとおりジリ貧になる一歩前ってところだと思う。
劉備と徐州を争ってたらちゃっかり共闘してたはずの呂布が居座っちゃったし、その後は曹操が押さえちゃった。
一方、揚州は揚州で劉繇と争ったが、孫策がそのまま離反しちゃった。
246:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 23:35:53
孫策には少なからず目をかけていたのに……。
恩知らずもいいところだな(笑
247:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 23:42:58
李カク、公孫サン、汝南の勢力、孫策、陳宮あたりのどれかが思い通りに動いてればなあ。
248:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 23:47:29
>>247
李カクにしてみりゃ、「こっちの台詞だ」なんだろうけどなw
袁術・公孫サン・陶謙が揃って負けちゃったからな。
249:無名武将@お腹せっぷく
07/03/24 23:56:50
ただ袁術が直轄支配を志向していたかというと微妙なんだよね。
間接支配でいいやみたいな。徐州とか揚州とか。
曹操にしても青州と徐州は臧霸に委託統治してたみたいだしな。
250:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 00:06:53
>>249
太守とか刺史を任命はしても自分に関しては南陽太守以外は後将軍一本で通そうとしてたみたいだからなあ。
軍事と任命権だけ握っていて後は他のヤツにやらせりゃいいやっていうつもりだったのかねえ?
251:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 12:20:19
豫州でも北部は劉備が豫州牧だったし、豫州でも鉄板は汝南くらいだったかもしんない。
南陽郡、汝南郡、淮南郡くらいで後はその近辺に影響力があった程度かも。
252:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 19:13:10
南陽群は荊州だよー。
豫州の所属群はURLリンク(mujin.parfait.ne.jp)
参考
URLリンク(ja.wikipedia.org)漢代の地方制度
253:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 19:54:51
>>252
?
ずっとそのつもりで話してきたつもりだけど?
>>236参照ね。
254:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 20:44:03
>>249臧覇って本当に元山賊か?って思うほど出世してるなww
255:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 22:01:20
一応陳国も勢力範囲だよね
256:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 22:23:09
>>242
>離反してたら史書に載ると思うよ。周家にとってそれは「誇るべきこと」だから
なるほど。そういやそうだよなw
>怒られないように皆と同調して万歳してたんじゃないの?
ワロタwでも考えられなくもないからなぁw
>>254
あまりに凄いから、ほんとは地元の名士だったのでは?とも思えてくるから困るw
あーあと賊で言うと張燕も凄いよなwこいつも成り上がりすぎw
てかこのスレほんとに三戦板か?w活気ありすぎだろw
257:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 22:55:45
親父は一応県の役人だったし、数十人の食客を養えるだけの経済力もあったようだから、
卑しい身分ではなかったんだろう
258:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 23:15:30
>>257
臧覇のことなら、本文と注で全然違うからな。
「奴寇」なんて名は奴隷や下層と断言はできなくても、少なくとも知識人階級っぽくはない。
本文は美化(=捏造)されてる気もするんだが。
259:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 23:44:20
無双と蒼天しか三国志を知らない連中に、
曹操も袁術に負けて命からがらやっとこさ
逃げ帰った事があるって言っても
全然信じてもらえなかった。
260:無名武将@お腹せっぷく
07/03/25 23:49:53
そんなやつら最初から聞く耳ないから相手にするな
俺も無双厨の友達に何言っても無駄だったから
261:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 00:14:08
三国無双3なんか、軍義の後で袁術と孫堅が会った時になぜか袁術の方が頭を下げていて、
何も知らなかった俺は袁術は孫堅の部下なのかー、と勘違いしたぞ。
262:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 00:21:26
>>261
あれは酷かった。
263:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 00:25:34
>>261
マジかよ・・・それは酷いな・・・
264:
07/03/26 13:39:10
正直言ってスレタイとずれた話出すぎ
265:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 15:04:53
>>261
孫堅への食料の配給カットイベントとかのせいじゃないのか?
266:265
07/03/26 15:07:03
ああ、だから袁術が孫堅に詫びてる場面でも有ったんじゃないか?と。
267:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 15:08:08
実際詫びるかなあ?
268:265
07/03/26 15:23:37
いや、演義じゃ詫びてるでしょ、たぶん。
吉川三国志だと袁術じゃなくて袁紹だけど。
269:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 20:10:32
張勲
袁術の将。
初平三年(193)春、陳留で曹操・袁紹連合軍に敗れた袁術が九江に移ると大将軍に任じられた。ただし、大将とかその程度の意で官職としてのものではあるまい。
建安二年(197)、袁術が帝位に就くことに呂布が反対したことから袁術と呂布の仲がこじれた。袁術は韓暹・楊奉らと組み呂布討伐軍を張勲に率いさせた。
しかし、呂布は陳珪の策を用い韓暹・楊奉は離反させたため、張勲は大敗を喫し軍を返した。
建安四年(199)冬、行き詰った袁術が袁譚を頼って青州へ向かう途中に死ぬと孫策の元に身を寄せようと考えたが、廬江太守劉勲の捕虜となった。
孫策が劉勲を破ると張勲は麾下数百人を引き連れて、何故か曹操の元に見寄せた。
その後は不明。
270:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 20:14:27
>>269
曹操の元に身を寄せたのは「劉勲」。「張勲」とするのは誤訳。
張勲は劉勲の捕虜になったところから不明。
ちなみに劉勲は曹操と旧知であり、曹操に帰順後は軍議にも参加していたが、
曹操と親しいことを笠に着て好き勝手やったために粛清されている。
271:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 20:27:54
>>270
なるほど。
一緒に降り、張勲より前に名前が出てる楊弘の消息がないのに、張勲だけ消息が載ってるって言うのも不自然だね。
劉勲は留守にしてる本拠地を孫策に攻め取られたんだから、そのまま曹操の元に降ったととる方が正解だね。
すると張勲は若輩ながら尊敬の念を抱いていた孫策麾下となれたのか、それともその前に劉勲に殺されたのか……
272:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 20:36:38
>>265
あべこべだよ。
その食糧支援カットイベントの前振りとして、に袁術が孫堅に頭下げながら
「田舎武者め、今に見てろよ」というシーン。
273:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 21:31:18
>>272
なんだかなあ……
橋蕤
袁術の将。
袁術と共に蘄陽を攻めたが、陥とせなかった。初平三年(193)春のこと?
建安二年(197)年、袁術は帝号を称えることに反対した呂布を張勲を派遣して討たせようとしたが敗れた。
その後、袁術は秋九月に陳に侵入したが、曹操が征伐に来ると橋蕤を李豊、梁綱、楽就と共に残し、自らは逃走した。
橋?は苦に屯したが、楽進や于禁に包囲され敗れて斬られた。
李豊、梁綱、楽就はこの一件しか名前が出てこない。
蘄陽攻めの件で何夔伝に「術與橋蕤?攻圍?陽」と連名で挙げられる辺り、もしかしたら当初は半ば独立した勢力的な存在だったのかもしれない。
274:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 21:50:36
横光三国志で袁紹が孫堅に詫びる為に斬った人誰?
275:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 22:24:16
周瑜もねえ
袁術が結局成功できないだろうと観測したので
っていったって
建安三年だったら仮に年の初めの事だって
すでに橋蕤たち有力武将が討たれて
袁術が本拠地から出撃できない状態になってるんだから
みんな薄々わかってたころじゃないの?
そのころまでついていったんだったら洞察力は人並みだと思うぞ
あと県の長って左遷ぽくない?
それと今日なにげに検索してこんな記事見つけたんだけど
URLリンク(www.weblio.jp)
切羽詰ってるのにそんなのんきなこと言ってるから皆に舐められるんだよw
276:無名武将@お腹せっぷく
07/03/26 22:47:18
>>275
> あと県の長って左遷ぽくない?
と言っても周瑜自身はそれまで無位無官だったから。
277:無名武将@お腹せっぷく
07/03/27 02:09:34
>>275
天然だな、袁術様は。
278:無名武将@お腹せっぷく
07/03/27 04:48:24
義侠を気取ったのはポーズだけじゃなくて
そういうのが好きな性分もあるのね
279:無名武将@お腹せっぷく
07/03/27 05:08:00
袁術って意外とそういったエピソードもってるよねw
袁術絡みの話を読んでて、「あぁ、こんなことしたら(言ったら)袁術怒るよ・・・」とか
「こいつ殺されるんじゃ・・・」って思うことがよくあるが、実はハッピーエンドなんだよなw
280:無名武将@お腹せっぷく
07/03/27 18:51:39
たとえひとりになっても正論が吐ける人間が好きなんだろうね
閻象のときもその場で取りやめにしてるし
281:無名武将@お腹せっぷく
07/03/27 20:17:58
そのあたりは懐深いよね
印象だけだけど袁紹とかより
282:無名武将@お腹せっぷく
07/03/27 21:16:29
>>249
あらためて袁術関連をみてくと確かにそんな感じだね。
各地の賊と結んで親分気取り・盟主気取りはするけれどそれだけで満足して、その地を支配して強固な組織をつくるという方向性には向かわないという印象。
豫州・徐州近辺は後々まで賊勢力が残存してるあたり、豊かだけど難治の地で完全に支配下に置くということが難しかったという側面もあるのかもしれないけれど。
283:無名武将@お腹せっぷく
07/03/28 00:08:30
>>275
このころには沛国の相・陳珪は追い出されてたんだね
陳珪は大嫌いだからいいんだが
284:無名武将@お腹せっぷく
07/03/28 00:24:57
後漢書はこれが読みやすいね
URLリンク(www.geocities.co.jp)
285:無名武将@お腹せっぷく
07/03/28 21:32:33
袁術ってさ、死ぬ前に蜜が飲みたいって言ってて
確かにそれはそれで贅沢なんだけどさ
その直後血を吐いて死んでるとこから察するに
病気が悪化しすぎて、固形物がのど通らなくて
滋養のある飲み物飲んで、やっとのことで生きてたんじゃないの?
286:無名武将@お腹せっぷく
07/03/28 21:35:41
死ぬ前に食いたいものを食いたいと言って何が悪い。
現代人の方が余程贅沢
287:無名武将@お腹せっぷく
07/03/28 23:05:33
>>286
一応袁術フォローしてるんだからそんなに怒らないでよ
自分が言いたかったのは袁術のは贅沢じゃなくて延命措置ってこと
贅沢ってのはどれだけ手間暇かかったかで決まるんで
現代人が同じことしてても機械化されてるんだから贅沢にはならないってことが多い
288:286
07/03/28 23:32:31
>>287
いや、別におまいに言った訳じゃないけど
289:無名武将@お腹せっぷく
07/03/28 23:54:03
なんだと!
俺に言えよ…
290:無名武将@お腹せっぷく
07/03/29 21:20:29
>>288
過剰反応でスマン
でも袁術の「贅沢伝説」って見方の違いだと思うんだよね
以下かなり妄想入ってるけど
あの当時漢の宮廷を引き継いだ李カクは
地方からほとんど収入ないし商業網分断されてるから楽師や細工職を養うまでの余裕が無い
ほかの群雄もまだまだ地盤固めに夢中で面倒見てくれそうに無い
そんななか彼らは袁家の威光を頼って袁術のところに来た
で、袁術も名家の使命感として中華の伝統のともし火を消してはならないとか思って保護した
それが一般兵士から見たら、あんな無駄飯食いども置きやがってってなるんじゃないかな
で、保護してもらった楽師や職人は
混乱した世の中でここだけは文化が残ってる。天命はこの人に移った
とか思ってて、その空気で袁術即位したんだと思うんだがどうだろうか?
291:無名武将@お腹せっぷく
07/03/29 21:42:35
李カクが袁術を頼ったって見方はどうかな?
李カクの方が立場が上か、良くて同等って感じだと思うよ。
どうも李カクは朝臣たちとは良好な関係にあったように見えるんだよね。
李カクが政治を専断したというイメージが強いけど、
李カクが開府を許された時点では三公の権限も機能していた。
つまり袁術派との同盟は、李カクとそれを支持する朝臣の共同作業の可能性が高い。
李カクと朝臣が対立していたってのは、印象操作だと思う。
李カクを支持していた朝臣(鍾ヨウとか賈クとか)が後にみんな曹操に仕えたから。
292:無名武将@お腹せっぷく
07/03/29 22:28:59
>>291は
献帝が長安脱出
董承らが奉戴
董承が袁術配下の萇奴と組んで曹操に対抗
曹操が献帝を許昌に迎え入れる。董承もこれに従う
という一連の動きはどんな感じに解釈してるの?
293:無名武将@お腹せっぷく
07/03/29 22:46:39
>>292
献帝はそもそも脱出という形で長安を脱してはいないはず。
張済が李カク・郭を仲裁して帝を東へ移すことを提案。
李カク・郭はそれに同意している。
後に郭が変心して帝を襲撃し、
これが発端となって西涼軍閥vs楊奉・韓暹・董承という構図になったと見ている。
洛陽に帝が到着した時点で、曹操は上洛の意志を見せて曹洪を派遣している。
(その曹洪は、董承と萇奴が防いでいる)
しかしその後、韓暹と董承の間に権力争いが勃発。
劣勢な上に官位も無い董承は曹操を招きいれ、楊奉・韓暹を出し抜いた。
ちなみに、
董承が帝の姻戚になったのは許都に移動してから。
それ以前はただの「董卓の故将」。
李カクに従わずに帝を連れて逃げたり、同僚の楊奉・韓暹を欺いたり、
挙句の果てに曹操を暗殺しようとしたりとかなりの変節漢だな。
294:293
07/03/30 17:11:05
洛陽にできた董承の政権は明らかに弱くて粗悪であったと思う。
それこそ、李カク政権のほうがよほど強大で朝臣達にも力があった。
「帝を擁した弱小勢力が袁術を頼る(つまり袁術>朝廷という構図)」が発生したのは、
董承のあたりからじゃないかなと俺は考えている。
李カク政権は先述のとおり有力で、李カクと袁術の立場は同等か李カク優位だったろう。
袁術・公孫サン・張燕・陶謙らによる袁紹・曹操一斉攻撃は李カクの差し金である可能性すらある。
(直前に、袁術・公孫讃・陶謙は李カクによって爵位を引き上げられている)
295:無名武将@お腹せっぷく
07/03/30 20:45:06
>>259
>曹操も袁術に負けて命からがらやっとこさ
逃げ帰った事があるって言っても
この話どこに載ってるの?
296:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 00:17:03
>>293>>294
董承は確か董太后の甥だから昔からの外戚だったはず
>洛陽にできた董承の政権は明らかに弱くて粗悪であったと思う。
は同意だし、李カクが朝臣達にも力があったのは確かだと思うが
朝臣達は心の中では嫌ってたと思うよ
なにしろ彼らが大事にしてる儒教の祭礼より新興宗教に熱上げてるんだから
それにもともと自分たちよりずっと格下だったわけだし
武官より文官のほうが上だって意識あるし
そんな彼らの代表が董承で、ちょうどいい機会見計らって帝奪ったんじゃないかな
>「帝を擁した弱小勢力が袁術を頼る(つまり袁術>朝廷という構図)」が発生したのは、
このあたりも史書からは不明だよね。何か書きたくないことでもあるのかな?
曹操が萇奴を破ったって記述は無いでしょ
これって袁術が方向転換して萇奴を呼び戻したのかな?
297:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 00:19:13
>>296
軍事力の差だろうな。
李傕と董承。
298:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 00:36:49
董卓の族子である董承と、曹操暗殺に関わった董承は別人だってきいたけど本当?
299:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 00:52:24
俺に聞いてるの?
300:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 01:02:31
>>293
>昔からの外戚
違うよ。全然違うよ。
董承は董貴人の父。つまり献帝の舅だよ。
董貴人が劉協の妃となったのは許都に行ってからだから、
董承が劉協と婚姻関係になったのもそのあたりからだよ。
そもそも董承は始め董卓の将だったわけで、董太后の一族じゃないんだ。
>内心嫌っていた
感情的なものは知る由も無いが、
立場の問題で言えば朝臣は李カクを支持していたと思う。
そして、李カクの脚を引っ張ってやろうなどとはあまり考えていなかったように思える。
郭は李カクとの内乱の際、李カクへの対抗として公卿や朝臣を拉致しているね。
李カクと朝臣の間がギクシャクしていたなら、郭は朝臣を拉致ったところで何も得にならない。
むしろ、李カクが朝臣に邪魔されることなく政治を専断してしまって、郭の不利になるはずなんだ。
(ただ、郭は相当のアホなのでこれを計算していたかは怪しい)
そして、先述の理由で董承が朝臣の代表になったって可能性は低い。
最後に曹操の件。
これは単純に、曹操が洛陽を攻略しきれずにいたところ、
洛陽内で権力争いが発生し、「董承が曹操に寝返った」って問題。
曹操にヨイショした記述であれば「董承が曹操を引き入れてくれた」だけど、
帝や袁術にしてみれば「董承が権力争いに勝利するためだけに逆賊・曹操と内通しやがった」だからね。
袁紹死後の袁譚と同じくらい自分本位な奴だよ。
結局のところ、董承は勤皇の士でもなんでもないんだよ。
楊奉や韓暹を欺いて、曹操を引き入れた時点でね。
そして、挙句の果てにはまた権力の座に目がくらんで曹操暗殺を計画。
301:300
07/03/31 01:12:27
補足。
洛陽政権も、「董承が代表」みたいなイメージがあるけどこれがそもそもおかしい。
そのとき董承は無官(か、雑号将軍)で、楊奉が車騎将軍、韓暹が大将軍、張楊が大司馬。
どうみてもこの三人が政権の中心人物です。本当にありがとうございました。
そんでもって、曹操を引き入れた董承はこの中心人物三人を蹴落としてるんだよね。
ここからも、洛陽内の権力争いは楊奉・韓暹・張楊vs董承って構図が見えてくる。
付け加えれば、董承は帝に信任されてるわけでもないし、呼び寄せたのは逆賊の曹操。
権力争いは、単に董承の野心から発生したものじゃないかと考えてる。
萇奴と一緒に曹洪を防いだのは、あくまで武将としての仕事だったんじゃない?
董承は楊奉・韓暹・張楊の指示を受け、萇奴は袁術の指示を受け、共に曹洪を防いでたんじゃないかな。
302:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 01:27:03
たしか安集将軍だったね
303:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 07:28:48
>どうみてもこの三人が政権の中心人物です。本当にありがとうございました。
この言い回し、まだ使ってる奴っているんだな。
304:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 09:51:23
結局、権力争いをする李傕と郭は朝臣に迷惑がられていたわけで。
真っ向から逆らえないという理由で消極的な支持はしてたであろうが。
董承も献帝のお傍近くにあったとはいえ、武力はなかったので曹操と通じたのであろう。
この辺の一連の動きに忠とかを持ち出してくると見誤るものが多くなるね。
305:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 10:33:16
>>304
あの内紛は、李カク+朝臣に郭+樊稠がケンカを売った構図なんじゃないかと。
三公の政治が無視されたのは、郭・樊稠が開府を許されてから。
そして、それ以前(例えば、馬騰戦のあたり)から郭や樊稠は李カクに敵意を持っている。
樊稠が殺されるまで、郭・樊稠は李カクや朝臣を圧迫していたように思えるよ。
李カクによる樊稠殺害も、自分や朝臣のアドバンテージを取り戻す上での有効な一打だった。
そもそも、宰相としても能力を発揮していた李カクと、
単なる猛将の域から脱せなかった郭を同列に扱うのは無理がある。
自分たちと共に政治を行なう李カクとそれに反発して暴れまわる郭を「両方迷惑」と思うはずがない。
郭は嫌われただろうけど、李カクと朝臣の関係は良好だったと思えるんだがなぁ。
そして、何度も言うけど董承は献帝のお傍近くになんて居なかったんだって。
韓暹との政争に負けて、献帝を放って洛陽から逃げちゃったりしてるくらいなんだから。
董承はあの時点では献帝の舅や叔父なんかではなく、ただの董卓の故将。
それも、李カク・郭らに遠く及ばない小粒の武将。
忠を持ち出して見誤ってるのはそちらではないかな?
「董承は忠臣」っていう印象が抜けきっていない気がする。
306:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 11:17:20
> そして、何度も言うけど董承は献帝のお傍近くになんて居なかったんだって。
ん?長安を出てからの話なんだが……と思ったら許に移ってからの話だったか。
> 忠を持ち出して見誤ってるのはそちらではないかな?
>「董承は忠臣」っていう印象が抜けきっていない気がする。
どちらにも「忠」なんて口だけ、自分の都合だけだったと思ってるけど?
307:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 11:24:58
>>306
董承が舅になったり衛将軍とか車騎将軍とかになったのは、許に移ってからだね。
最初から偉いイメージがあるのは演義の影響かもしれない。
そう考えると、董承の「韓暹が政治に口を挟むのが不満」って理由が怪しくなってくる。
大将軍の韓暹は政治に干渉して然るべき立場にいる(その政治が悪政か善政かは知らない)。
大司馬の張楊、車騎将軍の楊奉も同様。しかし、董承はそういう立場にいない。
>どちらにも「忠」なんて口だけ、自分の都合だけだったと思ってるけど?
そうだったか。勘違いだった、スマン。
308:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 13:13:00
紫紺に染まる〜は何度でもやってしまうな。
309:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 13:13:40
誤爆
310:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 16:33:23
菫卓の一族って、菫卓暗殺時に粛清されたんでなかったけ。
菫承は、菫卓と血のつながりはないのかなぁ。
と、三国志と言えば横山⇒吉川⇒蒼天しか読んでない俺がしゃしゃり出てみる。
311:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 16:54:40
>>310
董承は、董卓暗殺時には
李カクらと共に牛輔の軍にいたんだよ。
312:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 17:15:41
後漢書の伏皇后伝見てたらこんな文章見つけた。
曹陽で李傕らの軍に敗れて逃亡中のこと。
> 宮皆步行出營。后手持縑數匹、董承使符節令孫徽以刃脅奪之、殺傍侍者、血濺后衣。
皇后の持っている衣服を、使符節令の孫徽に命令してそれを奪い取らせる董承w
313:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 17:29:25
董承最低だなwww
314:310
07/03/31 20:42:10
馬謄『国の礎とも仰ぐべきお方』って、横山&吉川三国志のセリフは一体なんだったのか…
その後、蒼天で単なる小心者のようにされてたのがすごく違和感あったわけだけど、
上の文章読むと、それよりひどい…
まるで横山が描く董卓か、蒼天に描かれる劉遙のようだw
315:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 22:01:36
ちょっと待って、混同が起こってるよ
ウィキペディアにも書かれてるけど董承はふたりいるんだよ
Wikipedia項目リンク
三国志先主伝 裴松之注
「臣松之案 董承 漢靈帝母董太后之姪 於獻帝為丈人 蓋古無丈人之名 故謂之舅也」
というわけで曹操暗殺計画の董承は河間董氏で董太后の甥
もう一人の董承は隴西董氏で董卓の親族
この手の混同で一番多いのが劉岱だね
Wikipedia項目リンク
同姓同名で字まで同じで同じ地域で活躍してたら、間違えるなって方が無理
316:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 22:13:52
> 先主未出時、獻帝舅車騎將軍董承辭受帝衣帶中密詔、當誅曹公。
か。
どの董承がどっちの董承なんだ?
317:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 22:14:15
自分で読んだわけじゃないからあれなんだけど
集解のほうには董太后の甥ってのは誤りとあるそうな
318:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 22:31:55
董承を董太后の一族と言ってるのは、三国志先主伝の「献帝舅」に対する裴注だけみたいだ
でもこの董承は牛輔の部曲にいた董承と同一人物
董卓は董太后の同族を称したから、董承が董卓の一族なら彼も董太后の同族を称したとしても不思議はないよね
319:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 22:44:35
>>315
wikiなんて全然資料にならないだろw
320:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 22:46:53
正史呂布の強さについて考察するスレ
スレリンク(chinahero板)
321:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 22:47:20
wikiの三国志のとこって全くあてにならないだろ
322:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 23:16:09
最初に孫引きでスマンと断っておく(「正史三国志」を紛失してしまった)
>>317
「先主伝集解」には「霊帝(劉宏)の母董太后の甥で、献帝の叔父にあたるとするのは誤り」と書いてあるそうだ
URLリンク(mujin.parfait.ne.jp)
それと>>312は
その衣服は李カクとの内通が疑われている段煨が贈った物だったんじゃないの?
323:無名武将@お腹せっぷく
07/03/31 23:25:12
袁 術 ちゃんちゃんちゃん
324:無名武将@お腹せっぷく
07/04/01 09:10:49
>>323
そういえば最近袁術出ないねw
325:無名武将@お腹せっぷく
07/04/01 09:18:19
そういえば献帝一行が逃げてるときに、船が定員オーバーになっちゃって、
余分なやつ斬りまくったのも董承だったよなw
演義では李楽だか誰だかのせいにされていたが。
董承こえぇwww
326:無名武将@お腹せっぷく
07/04/01 11:27:49
>301
張楊は大司馬っていっても本拠地からたまに出てくるだけ
楊奉、韓暹は軍勢持ってるから高官に就けられてるけど
楊奉、韓暹配下はともかく朝臣は董承が中心じゃないの?
朝臣がにわか高官よりも地位のそれほどでもない漢の旧臣に期待を寄せるのって金禕とかの例もあるし
もと白波賊の頭目が貴族たちの信望を集められるとは思えないのだが
327:無名武将@お腹せっぷく
07/04/01 11:57:33
だからー。その董承も董卓の故将なんだって。
なんで朝臣の中心人物になれちゃうのさ。
董承は漢の旧臣でも、貴族から支持を受けた人物でもないんだよ。
出自の賤しさなら楊奉・韓暹とどっこいだ。
あと、朝廷が長安を出た時点で既に朝臣の力は衰えきって、
権力者が貴族や朝臣の信望を集める必要はなくなっていた。
曹操が献帝を擁した頃には既に、朝廷の力は限りなく0だったろう。
(そして、この漢朝の衰退こそが袁術の斜陽だったとも言える)
朝臣の力も弱まり、袁術のような勤皇の名族も、李カクのような名宰相もないなら、
軍勢を持っている楊奉・韓暹が洛陽政権の中心人物になるのは、当たり前のことじゃないか?
328:無名武将@お腹せっぷく
07/04/01 18:31:35
>>327
不思議に思うんだが、何故そこまで断言できるんだ?
329:無名武将@お腹せっぷく
07/04/01 20:25:20
「董承も董卓の故将」ってのはわかった
だけど
>(そして、この漢朝の衰退こそが袁術の斜陽だったとも言える)
ってのはなんで?
330:無名武将@お腹せっぷく
07/04/01 20:44:12
>>329
勤皇であることが何のアドバンテージにもならなくなったからだと思ったわけ。
「軍勢が強ければ良い。朝廷の意向なんて無視して構わない。
もっと言ってしまえば、軍勢さえ強ければ朝臣の支持を得なくても良い」
李カク政権崩壊をきっかけにそんな世界に変わっちゃったんだと考えてる。
袁術はいままで、朝臣の支持を得ることで有利に戦ってきたけれど、
朝廷が力を失ったことで好き勝手やってきた袁紹・曹操に追い風が吹いてきたんじゃないかな。
無駄に断定口調になったのはすまなかった。あくまで俺の考え。
331:無名武将@お腹せっぷく
07/04/01 21:50:16
李カクにしたって地方支配を再建できたわけでもないし、朝廷をないがしろにしまくった袁紹や朝廷を強権支配して使えるとこだけしゃぶって捨てた曹操の方が正しかったということでしょ
332:無名武将@お腹せっぷく
07/04/02 14:46:16
真の自治スレの下で、三戦板を復興させましょう。
三戦板の皆さん、どうか参加して下さい。
【住民のための】 三戦板自治スレッド 【自治を】
スレリンク(warhis板)
333:無名武将@お腹せっぷく
07/04/03 03:50:51
このスレ見るとむかし袁術こそ真の英雄だと友達みんなをオルグしていたり
徐庶が義人かどうかで友達と殴り合いの喧嘩になったという人がいた
というレスがどっかにあったのを思い出した
そんだけ
334:無名武将@お腹せっぷく
07/04/03 16:52:03
>>333
ここにいるぞ
335:無名武将@お腹せっぷく
07/04/03 20:02:02
袁術関連はこのサイトが面白い
URLリンク(hosokawa18.exblog.jp)
336:295
07/04/03 20:02:39
これだけ待ってレスがないってことはガセってことでおk?
337:無名武将@お腹せっぷく
07/04/03 20:45:20
ガセって何が?
338:295
07/04/03 20:50:59
>>337
いや、>>259の話のソースが知りたいんだが教えてくれないか?
339:無名武将@お腹せっぷく
07/04/03 23:13:54
あるんじゃないか?
340:無名武将@お腹せっぷく
07/04/04 00:49:33
>>335
そこを紹介するならパクり元の此処も紹介しとけや
URLリンク(www.geocities.co.jp)
341:無名武将@お腹せっぷく
07/04/04 02:40:39
他人のサイト勝手に晒すなよ
それとも本人が宣伝してんの?
342:無名武将@お腹せっぷく
07/04/04 02:48:03
勉強になるサイトならがんがん紹介してもらった方がいいんだが。。。
341がなんで怒ってるのか理解できん。
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