周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 呉の軍師を語るスレ
at WARHIS
[
2ch
|
▼Menu
]
■コピペモード
□
スレを通常表示
□
オプションモード
□このスレッドのURL
■項目テキスト
700:無名武将@お腹せっぷく 07/01/21 06:01:45 >>699 ホウ統伝をちゃんと読み返せばわかるだろうけど ホウ統は周瑜が南郡太守になる前に郡の任命によって功曹になっている 時期は劉表政権か曹操南下後か定かにされてないが 当然曹仁が南郡にいた時も彼は南郡の役人を務めていただろう 上が曹操軍→孫権軍→劉備軍と変わっていっただけで 彼が南郡の功曹として南郡太守に仕えていたことに変わりは無い 701:無名武将@お腹せっぷく 07/01/21 08:53:11 >>690 長江ラインを固めて守るのに不利な徐州を捨て、 今以上に防御を硬くするというのが呂蒙の考えなわけだけど その >呉の存在そのものを危険にする行為だった思う。 というのは聞けば聞くほど意味不明だ。 分かりやすく説明してくれ。 702:無名武将@お腹せっぷく 07/01/21 12:48:17 >>697 張温伝で「山越の討伐さえ済めば曹丕と正面からことを構えるつもりだ(と諸葛亮に伝えてくれ」という言葉が出てくるし、 諸葛格など後年においても山越討伐は出てくるが、それは「入蜀段階で平定に明け暮れている状態」を意味しないだろ。 前にも述べたが国力をそちらに回さなければならないほど悩まされていたのは呉主伝にも残る200〜206年で、 この間は実際黄祖討伐に赴くも国内の山越が蠢動したため撤退を余儀なくされてる。 しかし賀斉らの活躍もあり、国内の不安勢力掃討の意味ではこの時点で一段落ついており、 それが黄祖討伐の成功や赤壁の開戦を可能にした。 これ以後の山越討伐の話題は呉主伝に登場しなくなり、国力を注いだ治安事業から地方官による人員補充的なものになってくる。 その史跡は地方管理を任される部下の伝に「〜〜人を降伏させ、〜〜人を兵士として軍に編入した」という形でのみ残されるようになる。 国内を悩ます賊というより開発の余地あるフロンティアとして受け止められるようになっていく。 >>698 そもそも以前に官職に任命されていようと新しい支配者が気に入らないなら著名な名士は去る。他に幾らでも士官先があるのだから。 龐統は周瑜の死後その遺骸を届けに赴き、後に「貴方は以前周瑜の功曹であって〜、主君が変われば現在の主君に云々〜」 とあり、「呉に仕えていたわけで南郡に仕えていたわけじゃない」なんてどうして言える?単に周瑜死後に鞍替えしただけだろう。 現に劉備軍に行った時は従事兼県令として既に「彼は南郡の功曹として南郡太守に仕えて」居ない。 第一仮に龐統が南郡に仕えてるだけでその支配者に服従しているだけだとしても、呉の占領に対して 荊南で随一とも言える龐統ほどの名士が(全くコネ等に関係なく)黙って職務に励んでくれるなら、どっちにしろ荊州士人に対するコネなんてなくても支配は安定することになるだろ。
次ページ
最新レス表示
スレッドの検索
類似スレ一覧
話題のニュース
おまかせリスト
▼オプションを表示
レスジャンプ
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch
4533日前に更新/228 KB
担当:undef