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目次

1 ここから下に書き込んでください。

2 名称

3 由来・縁起

4 位置についての諸説

4.1 ネパールの主張


5 ギャラリー

6 参考文献

7 脚注

7.1 注釈

7.2 出典


8 関連文献

9 関連項目

10 外部リンク

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カピラ城(かぴらじょう)とは、紀元前4–6世紀ごろに存在した小国、あるいはその土地。釈迦の出身地として著名である。カピラヴァストゥ、カピラワットゥとも(後述)。

位置については長らく忘れ去られ、20世紀になってから政治がらみの論争が起きており、学術的な裏付けのある最終結論が出ているわけではないが、いずれにせよ現在のインドネパール国境付近に位置する。
名称

サンスクリット語:Kapila-vastu カピラヴァストゥ

パーリ語:Kapilavatthu カピラワットゥ

漢訳音写:迦卑羅婆率、迦毘羅婆蘇都、迦毘羅衛など多数

訳:蒼城、蒼住城、黄赤城、黄頭居処、黄髪仙人住所、赤澤国、妙徳城など

なお、カピラはある仙人(リシ)の名で、「ヴァストゥ」「ワットゥ」とは「土地」を意味する言葉である。
由来・縁起 カピラヴァストゥを出発した浄飯王が王子に会いに行くと、空中を歩くシッダルダ(パネル下段に頭部のみ見える)に遭遇し、ベンガルボダイジュの木(下左角)を与える場面

釈迦族の住所であり、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)はここで育った。

地名の由来については、一説には、釈迦以前にこの地にカピラ (Kapila) という黄色い髪の毛をしたリシ(仙人)が住んでいたことからそう名づけられたという。また一説には、カピラを祀っていたことに由来する、とも。

南伝仏典によると、釈迦族の祖先である甘庶王(かんしょおう、Okk?ka、オッカーカ)はサーケタという地で王国を築いていた。しかし、その四男五女が王に追放されてヒマラヤの山側に至ると、カピラ仙がいるこの土地に落ち着き、ここで1つの王国を築いたという。その初代の王名はオッカーカ・ムカ (Okk?ka mukha) という。北伝仏典では4王子とする。

カピラ城からヴァイシャリー(毘舎離)までは51由旬、またアノマー河(Anom?)(英語)まで30由旬、王舎城からは60由旬あったという[要出典]。

釈迦晩年に、毘瑠璃王により殲滅された。西暦5世紀の初頭、法顕がこの地を訪れた際、城址はすでに荒地になっていて、わずかに民家が数10戸があったのみと『法顕伝』に記されている。
位置についての諸説

カピラヴァストゥは、法顕5世紀に、玄奘7世紀に訪れてそれについて書いたように、ブッダ入滅後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教イスラム教がとってかわり、それらの宗教のもとにあったインドやネパールの国家ではブッダのことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった[注釈 1]

そうしてカピラヴァストゥは忘れ去られ、長らくの間一部の専門家だけが興味を持っていたにすぎなかったが、再び人々の大きな関心事となって浮上したのは20世紀も後半になってからのことだった。ネパール側とインド側で、愛国心などもからみ、位置を巡って異なった見解が唱えられるようになったのである。

一説では、現在の場所でいうネパールタライ地方とされ、ティラウラコット(英語版)だと見なそうとする動きがある。また別の説では現在のインドのウッタル・プラデーシュ州シッダールトナガル県ピプラーワー(英語版)(ピプラフワとも) といわれる[2]。ネパール側とインド側の見解の相違は解消されそうもない。ネパール側はピプラーワーはブッダが頻繁に訪れた王宮だと見なしているのに対して、インド側はピプラーワーこそがカピラヴァストゥだと定義しているのである。

日本では立正大学の研究員が1970年代にネパール当局との共同発表でティラウラコットをカピラヴァストゥと断定し、長澤和俊は一般人向けの多くの新書でこれが正解だとしているが、学界の通説ではない。坂詰秀一らは1980年代後半にタライ平原の仏教遺跡2箇所で発掘調査を行っている[3]
ネパールの主張

ネパールは世界遺産の候補地として、UNESCOに1996年9月2日付でテライ平原西部のルパンデヒ郡(英語版)ルンビニ地区およびティラウラコットをブッタ生誕地候補として申請し、ルンビニ地区のみ1997年に候補地リストに掲載されている[注釈 2]


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