B.J.ペン
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BJ・ペン
基本情報
本名ジェイ・ディー・ペン
(Jay Dee Penn)
通称ザ・プロディジー (The Prodigy)
国籍 アメリカ合衆国
生年月日(1978-12-13) 1978年12月13日(39歳)[1]
出身地ハワイ州カイルア[1]
所属ノヴァウニオン
→BJ・ペンズMMA/ジャクソンズMMA
身長175cm
体重66kg
リーチ178cm
階級ウェルター級ライト級
フェザー級
バックボーンブラジリアン柔術
テーマ曲Hawaii '78" into "E Ala E
イズラエル・カマカヴィヴォオレ
総合格闘技戦績
総試合数30
勝ち16
KO勝ち7
一本勝ち6
判定勝ち3
敗け12
引き分け2
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韓国雑誌の表紙に起用されたペン

ジェイ・ディー・"BJ"・ペン[2](Jay Dee "B.J." Penn、1978年12月13日 - )は、アメリカ合衆国男性総合格闘家柔術家ハワイ州カイルア出身。BJ・ペンズMMA主宰。元UFC世界ライト級王者。元UFC世界ウェルター級王者。UFCホール・オブ・フェイマー。UFC史上2人目の二階級制覇王者。

ブラジル人以外の柔術家では史上初のムンジアル黒帯の優勝者。名ボクシングトレーナーのフレディ・ローチから絶賛されるほど優れたボクシング技術も持つ。また、UFCでライト級とウェルター級の2階級制覇を達成しただけでなく、ミドル級ライトヘビー級でも強豪と互角以上に渡り合った。

総合格闘家のリーガン・ペンは実弟。


目次

1 来歴

1.1 UFC復帰


2 人物・エピソード

3 戦績

4 獲得タイトル

5 表彰

6 ペイ・パー・ビュー販売件数

7 出演

7.1 CM


8 脚注

9 関連項目

10 外部リンク


来歴

裕福な家庭で育ったが、少年時代はハワイ島でケンカにあけくれる毎日を送っていた。17歳の頃、近所にできた柔術道場を見学に行くが、そこで年下の少年にあっさり締め落とされ、「この技術を覚えたら島で無敵になれる」と入門を決意した[3]

ブラジリアン柔術の修行でアメリカ本土へ渡り、ハウフ・グレイシーに弟子入り。ノヴァウニオンに移籍し、2000年アンドレ・ペデネイラスから黒帯を授与された。

2000年7月、世界柔術選手権の黒帯ペナ(-67kg)級で優勝、ブラジル人以外の選手として初めてアダルト黒帯の部を制した。

2001年5月4日、総合格闘技デビュー戦となったUFC 31でジョーイ・ギルバートと対戦し、パウンドでTKO勝ちを収めた。

2001年11月2日、UFC 34宇野薫と対戦し、開始11秒でスタンドパンチの連打によるKO勝ち。

2002年1月11日、UFC 35の世界ライト級タイトルマッチでジェンス・パルヴァーに挑戦。腕ひしぎ十字固めを極めパルヴァーがタップアウトするシーンもあったが、ラウンド終了と同時だったため無効に。結果は0-2の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。

2002年9月27日、UFC 39において世界ライト級王座決定トーナメント1回戦でマット・セラと対戦し、3-0の判定勝ちで決勝進出を果たした。

2003年2月28日、UFC 41の決勝戦で宇野薫と再戦し、1-1の判定で引き分けて王座獲得に失敗した。

2003年10月10日、地元ハワイのRumble on the Rock 4五味隆典と対戦。3Rにチョークスリーパーによる一本勝ち。五味は「試合したら怖いと思うのはBJくらい」と語っている[4]

2004年1月31日、UFC 46の世界ウェルター級タイトルマッチでマット・ヒューズと対戦し、チョークスリーパーで一本勝ちを収め王座獲得に成功した。直後にK-1FEG)と契約したことで、2004年5月にUFC世界ウェルター級王座を剥奪された。

2004年5月22日、K-1 ROMANEXドゥエイン・ラドウィックと対戦し、肩固めで一本勝ちを収めた。

2005年3月26日、HERO'S旗揚げ戦において無差別級契約でリョート・マチダと対戦。マスト方式の判定0-3で敗れたものの、15kg以上の体重差があるにもかかわらず互角に渡り合う[5]
UFC復帰2006年9月、アローヘッド・ポンド・オブ・アナハイムで公開計量を終え、ステアダウンを行うマット・ヒューズ(左)とペン

2006年3月4日、2年1か月ぶりのUFC参戦となったUFC 58ジョルジュ・サンピエールと対戦し、一進一退の攻防の末に1-2の判定負け。

2006年9月23日、ジョルジュ・サンピエール負傷によりUFC 63の世界ウェルター級タイトルマッチでマット・ヒューズに挑戦。打撃や変形三角絞めなどで序盤は圧倒しながらも試合中に肋骨を痛め失速、3RにパウンドによるTKO負けを喫し王座獲得に失敗した。

2007年The Ultimate Fighter 5のコーチを務め、2007年6月23日のフィナーレでは同じくコーチを務めたジェンス・パルヴァーと対戦、チョークスリーパーで一本勝ちし、5年半ぶりにリベンジを果たした。

2008年1月19日、UFC 80の世界ライト級王座決定戦でジョー・スティーブンソンと対戦。1Rに右肘打ちで大流血に追い込み、最後はチョークスリーパーで一本勝ちを収め王座獲得に成功、ランディ・クートゥアに続く2階級制覇を達成。サブミッション・オブ・ザ・ナイトを受賞した。当初は暫定王座決定戦として予定されていたが、王者ショーン・シャークUFC 73において行った薬物使用でタイトルを正式に剥奪されたため、正王者の決定戦にスライドする形となった。試合後、観戦していたシャークに対戦を呼びかけ、シャークもオクタゴンへ上がり対戦を受諾した。

2008年5月24日、UFC 84でショーン・シャークとUFC世界ライト級タイトルマッチで対戦。スタンドの攻防で優位に立ち、ラウンド終了間際に膝蹴りでダウンを奪うとパウンドを連打。3R終了時のTKO勝ちにより王座の初防衛に成功した。試合後のマイクでは「Do you want GSP?」と観客を煽り、ジョルジュ・サンピエールとの再戦をにおわせた。

2009年1月31日、世界ライト級王座を保持したままUFC 94でUFC世界ウェルター級タイトルマッチでジョルジュ・サンピエールと再戦。戦前、世界中で「現代MMA最高の一戦」と銘打たれた試合であったが、終始ポジショニングで優位に立たれ、パウンドによるダメージの蓄積で4R終了時にコーナーストップによるTKO負けを喫し王座獲得に失敗した。試合後、「GSPがインターバルにワセリンを背中に塗っていた」としてネバダ州アスレチック・コミッションに提訴したが敗訴に終わった[6]。(後に同コミッションは外用物質の使用を禁止条項に加え、それは俗に「BJペン・ルール」と称される[7]。)

2009年8月8日、UFC 101の世界ライト級王座防衛戦でケニー・フロリアンと対戦。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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