前田智徳
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前田語録

高校3年時の
1989年夏、高校野球選手権熊本大会の決勝(藤崎台県営野球場)で東海大二高と対戦。0-1と熊工が1点リードして迎えた4回表の前田の打席で、東海大二側ベンチは勝負を避けても構わないと指示。投手・中尾篤孝がそれに従ってボールを2つ先行させた際、前田はバットを持ったままマウンドに歩み寄り「勝負せんかい!!ストライク入れんかい!」と怒鳴った。これに中尾が「何やと!」とやり返したため、球審が間に割って入った。プレー再開後、中尾が勝負を挑んだ球をライトスタンドへ打ち込んだ。中尾(卒業後協和発酵硬式野球部入り)は後に「今となってはいい思い出です」と語っている。この試合に勝った熊工は甲子園に出場。初戦の日大三島戦で1回表にタイムリーヒットを放ったが、攻撃が終わっても「だめです。俺はもうだめです」と頭を抱え込んで泣き崩れ、守備につこうとしなかった。前田は同学年の元木大介を強くライバル視しており、本塁打を連発する元木に負けじと臨んだ初戦で打ち損じたことに納得できなかったという。これ以前にも、練習などで打撃に納得できないと深く考え込んだり、時には当たり散らしたりすることが何度もあったという[3]

1990年、プロ入り後初の日南の春季キャンプでは打撃マシンを相手に快打を連発。高卒同期入団の浅井樹は後に「同い年で自分より凄い男を初めて見た」と振り返っている。ある日の練習中達川光男に「打席でどんな球を待っとるんや?」と訊かれ「いや、来た球を打つんですよ」と答え、達川は「凄いな、お前」と感心した[4]

1992年9月13日の対巨人24回戦(東京ドーム)、1-0と広島リードで迎えた5回裏二死無走者、川相昌弘の中前への当たりに飛び込んだが後逸、ランニング本塁打で同点となる。前田は8回表一死一塁の場面で決勝打となる勝ち越し2ランを放ち、ガッツポーズを見せた後涙を流しながらダイヤモンドを一周した。後日、決勝本塁打について「最悪でも、あれぐらいはやらなきゃ取り返しがつかないと思った」と振り返り、また本塁打後の涙について「自分に悔しくて涙が出た。ミスを取り返さなければいけなかった次の打席(6回表二死二塁)で中飛。それに腹が立って泣いたんです。最後に本塁打を打ったところでミスは消えない。あの日、自分は負けたんです」と語っている[5]

1994年5月18日の対巨人戦(福岡ドーム)で、広島は巨人・槙原寛己にプロ野球史上15人目の完全試合を許し敗れたが、前田はこの試合を欠場しており「この借りはいつか返す」と誓っていた。そして同年7月9日の同カード(広島市民)で槙原からバックスクリーンへ本塁打を放った。前田は「完全試合以来、槙原さんが出てくると(気持ちが)熱くなった。明らかに普通とは違った緊張感がありました。そうした逆境が僕を燃えさせるんです」と語った[6]

1995年に右足のアキレス腱を完全断裂した後、打撃をはじめ走塁や守備などプレー全般に精彩を欠いたことを嘆き「この足(右足)はもう元通りにはならないだろうし、いっその事、もう片方(左足)も切れて欲しい。そうすれば、身体のバランスが良くなるらしい。それで元に戻るんだったら」と語った。前田は走攻守全てに於いて常に完璧なプレーを目指すのが信条であったが、満足にプレーする事ができなくなったのが余りに不本意だったのだろうか、1996年頃から「俺の野球人生は終わった」「前田智徳という打者はもう死にました」「プレーしているのは僕じゃなく、僕の弟です」「あれは高校生が打っていたんです」などといった発言を繰り返す。またこの頃から打撃成績に関しては具体的な目標を掲げないようになり、理想の打球へのこだわりも薄れ、個人成績の目標として挙げるのは「公式戦全試合出場」だけとなった[7]

このアキレス腱断裂は、前田の野球人生にとって大きな転機となった。前田は1996年春のあるインタビューで「怪我する前は“自分がどこまで成長できるか”と考えると、毎日が楽しかった。(野球をやってきて)これまで努力した事はない。普通通りの事をやっていただけ。コーチから新しい事を教わっても、すぐ出来た。神様から与えられた素質、天性だけで野球をやっていたのが(怪我で)全て崩れ、訳が分からなくなってしまったんです」と語っている。また、右アキレス腱には既に前年から不安を抱えており、早く治さなかったことを後悔していたと明かしている[8]

「がんばって」と声をかけた女性ファンに対し、前田が「お前に言われんでも分かっとる!」と怒鳴り付けた、という逸話がファンの間で語り草になっている。これは1998年9月15日付の朝日新聞に掲載されたもので、この際前田は車の中から怒声をあげたと言われているが、その状況には不自然な点が多々ある上、由来についても「女性ファンが常連の追っかけである」「記者が又聞きした話を誇張したもの」など諸説あり、このエピソードそのものの真偽は定かではない。しかしそれ以来、このエピソードは前田の代名詞として「お前に言われんでも○○」といった形で頻繁に用いられている[9]

2000年江藤智FAの権利を行使して巨人へ移籍。新4番として迎えた3月31日、開幕戦の対巨人1回戦(東京ドーム)では、2回表に回ってきた初打席で巨人先発上原浩治から先制ソロ本塁打、4回には二塁打、8回にも犠飛を放つなど3得点に絡み、5-4で逃げ切った。前田はヒーローインタビューで開幕4番について「はっきり言って、気持ち的には中途半端で入った。前向きに考えるのが難しかったけれど(監督に)『チームのために頑張ってくれ』と言われた。それがいい結果で出たんでよかった」と話し、さらにチームのムードについて「やっぱり緊張感の中で勝てたのは大きいし、これから頑張っていきたいと思う。みんなで力を合わせて頑張るっていうのがウチの野球なんで」と語った。この「みんなで力を合わせる」という文言は同年シーズン序盤、前田の常套句となった[10]

同年7月、アキレス腱が伸び切って炎症が悪化し断裂の恐れがあることが判明した。27日に左アキレス腱の腱鞘滑膜を切除する手術を受け長期離脱。フリーエージェントの権利を獲得したが10月30日に記者会見で「まだ乗り越えなくてはいけない物がたくさんあるし、カープで最後までいいプレーをしたいという気持ちになったので、今回はFA宣言というものは自分には関係ないという気持ちです。大きな怪我もあったがここまでやれるとは思わなかったし、チームとファンに恩返ししたい。今年権利を行使しないということは、来年もしないという事です」と、広島に残留する旨を表明した。

2004年秋、「このままではチームに迷惑が掛かってしまう」と、指名打者制度があるパ・リーグ球団への移籍を直訴したが、交換条件が合致せず広島残留が決まった。翌2005年1月にグアムで自身初の海外自主トレを敢行。2月の春季キャンプでは「守備重視」というチーム方針もあってレギュラー特権を剥奪される厳しいスタートとなったが、毎日早出・居残りで鍛錬を続けた。キャンプ中盤の2月14日、練習後の取材に応じた前田は「今までのように(マイペースで)調整させてもらっている立場じゃない。周りから『走れん』とばかり言われているが、文句を言われんように、また走れるようになりたい。試合で(身体を)作っていくのがベストだし、オープン戦もできれば全部出たい。賭けだよ、賭け。駄目なら賭けはおしまい」とシーズンへの意欲を見せた。

2006年シーズン後の秋季練習の初日に「うまく打撃のコツもつかみたいし、そのためにはバットを振るのは普通のこと。
◇ピンチです!◇
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Momi