前田智徳
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エピソード

3年時の甲子園大会後、熊工には
西武を除く11球団、前田の自宅にも8球団のスカウトが挨拶に訪れ、中でも地元九州のダイエーは上位指名を示唆するなど熱心だったが、同年11月に行われたドラフト会議では広島が4位指名する一方ダイエーからの指名はなかった。前田は会見場でテレビ中継を見た後1時間近く泣き続けた。前田は一旦プロ入りを拒否。何度訪問しても口を開かない前田に痺れを切らした宮川(村上)スカウトは「ダイエーは指名しなかったが、俺達は(指名の)約束を守ったぞ。男だったら約束を守れ」と叱責、とつとつと打撃理論を語った。前田は宮川の人間性に惹かれて広島入りを決意。同年広島が指名した6名の選手のうち、入団が決定したのは前田が最後だった[1]

デビューして間もない頃、二宮清純に「理想の打球は・・・」と尋ねられたところ、「ファウルならあります」と答えた。また1992年の二宮のインタビューで「打席に立つ目的は?」と聞かれて、しばらく考え込んだ後、「理想の打球を打ってみたい、ということかなぁ」と答えた[2]

1994年に三村敏之が監督に就任した際、前年まで3・4番だった前田と江藤の打順を入れ替えた。しかし共に不調に陥り「僕は4番というタイプではない。長打力のある江藤さんが4番を打つべきです」と三村に意見し3番に戻っている。その後2000年に達川晃豊が監督に就任した際にも4番に指名されたが、「自分は4番を打つだけの打者ではない」と固辞し金本を4番に据えるよう懇願。結局は達川の説得に折れて承諾、4月の月間MVPを獲得したもののその後は不振に陥り、後に「(4番を打つのは)気持ち的に中途半端で、あまり前向きになれなかった」と語っている。その後も歴代首脳陣から何度も要請されているものの、足に不安材料を抱えることから「4番打者は全試合出られるような人間でないとダメ」と固辞している。

マスコミの前では寡黙なことが多いため「求道者」「侍」と呼ばれる。「野球をやっている間は、本音はあまり言わないようにしている」と語っており、決勝打を放ったり好成績をマークした試合でもヒーローインタビューを受けることは少なかったが、主将に指名された2006年からは積極的にお立ち台の要請を受けるようになった。また同年オフのカープ特番やファン感謝デーでは饒舌ぶりを披露した。凝り性で執着心が強く、事ある毎に涙をこぼす。そして自他共に認める無類の照れ屋でもある。

プレー中に笑顔を見せる事は滅多にないが、2007年ガリバーオールスターゲーム第1戦(東京ドーム)の7回裏、ソフトバンク馬原孝浩の直球をすくい上げるようにスイングし、右中間に飛び込むオールスター初本塁打を放った。一塁を回ったところで打球の着地点を見届けると拳を握り締め、さらに三塁手前で笑顔で手を叩いて小さくガッツポーズを取りホームイン。ダッグアウト前でナインと嬉しそうにハイタッチを交わした。前田は「落合さん(博満・セ監督)からは『楽しめよ』と言われていたし、ファン投票で選んでもらったからには頑張りたかった。三振だけはしないようにと思っていたが、まさか本塁打になるとは思わなかった。本当に嬉しかった」と話した。

2008年マツダオールスターゲームにファン投票で選出された際「ありがたい気持ち。ただ、試合に出ていない選手が選ばれるのはどうかなと。元気な姿を見せたいが、元気がない」と不本意な成績からノミネートの経緯など投票システムに疑問を投げかけている。

イギリスの大手雑誌社の「Wallpaper*社」から広島の著名人特集の代表として取材を受け、2008年9月号に掲載された。

チームメイトとなった石井琢朗は彼を「生きた教科書」と呼び、キャンプ中も彼の打撃練習を熱心に見ていた。しかし、写真撮影は「ブログに載せるから嫌だ」と断られた。

前田語録

高校3年時の
1989年夏、高校野球選手権熊本大会の決勝(藤崎台県営野球場)で東海大二高と対戦。0-1と熊工が1点リードして迎えた4回表の前田の打席で、東海大二側ベンチは勝負を避けても構わないと指示。投手・中尾篤孝がそれに従ってボールを2つ先行させた際、前田はバットを持ったままマウンドに歩み寄り「勝負せんかい!!ストライク入れんかい!」と怒鳴った。これに中尾が「何やと!」とやり返したため、球審が間に割って入った。プレー再開後、中尾が勝負を挑んだ球をライトスタンドへ打ち込んだ。中尾(卒業後協和発酵硬式野球部入り)は後に「今となってはいい思い出です」と語っている。この試合に勝った熊工は甲子園に出場。初戦の日大三島戦で1回表にタイムリーヒットを放ったが、攻撃が終わっても「だめです。俺はもうだめです」と頭を抱え込んで泣き崩れ、守備につこうとしなかった。前田は同学年の元木大介を強くライバル視しており、本塁打を連発する元木に負けじと臨んだ初戦で打ち損じたことに納得できなかったという。これ以前にも、練習などで打撃に納得できないと深く考え込んだり、時には当たり散らしたりすることが何度もあったという[3]

1990年、プロ入り後初の日南の春季キャンプでは打撃マシンを相手に快打を連発。高卒同期入団の浅井樹は後に「同い年で自分より凄い男を初めて見た」と振り返っている。ある日の練習中達川光男に「打席でどんな球を待っとるんや?」と訊かれ「いや、来た球を打つんですよ」と答え、達川は「凄いな、お前」と感心した[4]

1992年9月13日の対巨人24回戦(東京ドーム)、1-0と広島リードで迎えた5回裏二死無走者、川相昌弘の中前への当たりに飛び込んだが後逸、ランニング本塁打で同点となる。前田は8回表一死一塁の場面で決勝打となる勝ち越し2ランを放ち、ガッツポーズを見せた後涙を流しながらダイヤモンドを一周した。後日、決勝本塁打について「最悪でも、あれぐらいはやらなきゃ取り返しがつかないと思った」と振り返り、また本塁打後の涙について「自分に悔しくて涙が出た。ミスを取り返さなければいけなかった次の打席(6回表二死二塁)で中飛。それに腹が立って泣いたんです。最後に本塁打を打ったところでミスは消えない。あの日、自分は負けたんです」と語っている[5]

1994年5月18日の対巨人戦(福岡ドーム)で、広島は巨人・槙原寛己にプロ野球史上15人目の完全試合を許し敗れたが、前田はこの試合を欠場しており「この借りはいつか返す」と誓っていた。そして同年7月9日の同カード(広島市民)で槙原からバックスクリーンへ本塁打を放った。前田は「完全試合以来、槙原さんが出てくると(気持ちが)熱くなった。明らかに普通とは違った緊張感がありました。そうした逆境が僕を燃えさせるんです」と語った[6]

1995年に右足のアキレス腱を完全断裂した後、打撃をはじめ走塁や守備などプレー全般に精彩を欠いたことを嘆き「この足(右足)はもう元通りにはならないだろうし、いっその事、もう片方(左足)も切れて欲しい。そうすれば、身体のバランスが良くなるらしい。それで元に戻るんだったら」と語った。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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