鈴木 嘉和(すずき よしかず、1940年 - 1992年?)は、「風船おじさん」として知られたピアノ調律師。
目次
1 略歴
2 家族
3 ファンタジー号事件
3.1 事件の概要
3.2 ファンタジー号
3.3 マスメディアの反応
3.4 その後
4 脚注
5 参考文献
6 関連事項
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東京都生まれ。国立音楽大学附属高等学校 を卒業後、ヤマハの契約社員となり、東京都小金井市でピアノ調律師を営む。
1984年、44歳のときに音楽教材販売会社ミュージック・アンサンブルを起業して、ピアノカラオケというピアノの録音テープの販売を開始。銀座ではパブレストランや麻雀荘などを経営していたが、いずれもうまくいかず、1990年にミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産。借金苦に陥る。ビニール風船26個を付けたゴンドラ(飛行船)「ファンタジー号」による太平洋横断で借金を返済すると債権者に語っていたという[1]。
1989年に横浜市で開催された横浜博覧会にテナント出店をしたが会場内における立地が悪いこと、博覧会自体の集客が順調でないことから経営が不振となった。これに対し博覧会運営当局が対策を取らないことに抗議して同年7月30日に高さ30メートルの塔に博覧会のマスコット「ブルアちゃん」のぬいぐるみを着てよじ登り7時間立てこもって、警察によって連れ降ろされた。抗議の際には出店に3,000万円を要したとしていた。
この抗議の後、鈴木は独自の客寄せとしてヘリウム風船の浮力で高さ10メートルから20メートルに浮かぶ「空中散歩」を自費で博覧会場に設置した。
経営する銀座のパブに出資してもらったことから[1]、1991年7月から歌手のグラシェラ・スサーナのマネージャー業をしていたが、1992年になって、契約を解消[2][3]。
1992年4月17日には、警察官の制止を聞かずに東京都府中市の多摩川河川敷から九十九里浜を目指してヘリウム風船で飛び立ち、東京都大田区大森西七丁目の民家の屋根に不時着する事故を起こしている[3]。民家は瓦が壊れる被害を受けたが、鈴木からは弁償も挨拶もなかったという[2]。
この初飛行の後、NHKのラジオ番組にゲスト出演し、その際、風船による太平洋横断計画について語っている。しかし、この4月の実験飛行の失敗によって、マスコミ各社は鈴木に距離を置くようになっていったり[2]、風船のヘリウムガスを売ってもらえなくなった[4]。
同年11月23日に「ファンタジー号」に乗り、太平洋横断を目指し出発したが、数日後消息不明となった(後述参照)。
1992年5月に国立音楽大学のピアノ科講師でピアニストの石塚由紀子と3度目の結婚[1]。石塚は2000年に著作『風船おじさんの調律』(未來社・ISBN 4624501292)を出版した。
2003年6月に、義理の娘の石塚富美子がバイオリン奏者「fumiko」としてデビューした。
1992年11月23日、当時52歳の鈴木嘉和が、ヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ「ファンタジー号」で試験飛行を行うことになった。
鈴木に電話で呼び出された同志社大学教授の三輪茂雄と学生7人、朝日新聞の近江八幡通信局長、前日から密着していたフジテレビのワイドショー『おはよう!ナイスデイ』取材班、そして鈴木の支持者らが琵琶湖湖畔に集まった[2]。
この日の名目はあくまで200メートルあるいは300メートルの上昇実験ということだった[1][4]。しかし、120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、16時20分頃「行ってきます」と言って、鈴木はファンタジー号を係留していたロープを外した。