那珂川
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この項目では、関東地方を流れる河川について説明しています。

福岡県を流れる同名の河川については「那珂川 (九州)」をご覧ください。

徳島県を流れる那賀川については「那賀川」をご覧ください。

自治体については「那珂川町」をご覧ください。

同じ読みの中川については「中川 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

那珂川
茨城県水戸市を流れる那珂川
水系一級水系 那珂川
種別一級河川
延長150 km
平均流量96.1 m³/s
(野口観測所2000年)
流域面積3,270 km²
水源那須岳(栃木県)
水源の標高-- m
河口・合流先太平洋(茨城県)
流域 日本
栃木県茨城県福島県
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那須野が原と那珂川及びその支流 写真下箒川が那珂川に合流し八溝山地鷲子(とりのこ)山塊と鶏足山塊の間を東折する。 那珂川を渡る東北自動車道那須インターチェンジ

那珂川(なかがわ)は、栃木県北部那須郡那須町那須岳山麓を源とし同県東辺部を南に流れ、芳賀郡茂木町で東に向かい、茨城県を南東に流れてひたちなか市東茨城郡大洗町の境界部で太平洋に注ぐ、一級水系那珂川の本流である。
目次

1 概要

2 地理

3 那珂川開発史

3.1 水戸藩の河川開発

3.2 那須疏水事業

3.3 水害と治水事業

3.4 利水と発電

3.5 水質汚濁への対策(千波湖・霞ヶ浦)


4 七千山水源の森

5 那珂川水系の主要河川

6 那珂川水系の河川施設

6.1 河川施設一覧

6.2 用水路・導水路

6.3 那珂川水系のダム


7 脚注

8 関連項目

9 外部リンク

概要

関東地方第3の大河である那珂川は、関東随一の清流として知られ、日光国立公園の指定地域内である上流部を中心に、流域には自然が多く残され、中流域は那珂川県立自然公園に指定され保護されている。流域は魚類が豊富で、江戸時代にはサケが遡上する河川として知られ、那珂川で捕れたサケは水戸藩への献上品とされていた。初夏には栃木県から茨城県にかけての中流部及びその支流にアユを捕獲するための多数の観光やなが設置され、捕れたてのアユの塩焼きを楽しむ観光客で賑わうほか、天然アユを含め放流アユの友釣りを楽しむ釣り人の姿も多く見かけられる。栃木県大田原市佐良土(さらど)の那珂川河畔には県の水産試験場があり淡水魚の研究が行われているほか、淡水魚の水族館としては国内有数の栃木県なかがわ水遊園が併設されている。河口付近の那珂湊漁港の魚市場は朝から近隣の買い物客で賑わう。支流の涸沼はニシンの南限としても知られる。
地理

栃木県那須郡那須町那須岳山麓を源流とし、南東から南向きに流れる。同県茂木町で東折し、茨城県常陸大宮市を経て水戸市を流れ、ひたちなか市東茨城郡大洗町との境で太平洋に注ぐ。

支流を含め那珂川水系上流部は那須火山帯の南端部にあたり、那珂川水系流域には板室温泉那須温泉郷塩原温泉郷など数多くの温泉が点在する。また那珂川上流部は那須野が原北端部で渓谷を成し、JR東北本線黒磯駅の北側で栃木県道55号西那須野那須線(旧国道4号)晩翠橋を過ぎ、那須高原の降雨を集めながら徐々に川幅を広げる。大田原市を経て那須郡那珂川町との境界部で箒川を合わせ、那須烏山市付近から両岸に再び山が迫り、蛇行しながら荒川を合わせる。芳賀郡茂木町大瀬付近で東向きに流路を変え、逆川を合わせると間もなく国道123号の新那珂川橋付近に至り茨城県に入る。この付近は「北関東の嵐山」と呼ばれる御前山であり、景観の優れた地域である。茨城県に入って流れを南東向きに変え、御前山大橋を越えると緒川と合流、小場江頭首工を過ぎると再度南下し東茨城郡城里町那珂市の間を流れ、藤井川を合流した辺りで水戸市に入る。国田大橋を過ぎ田野川を合わせると河流は東に向きを変え、水戸市北部の低地を流れる。国道118号・千歳橋、国道349号・新万代橋、水府橋を過ぎ、水戸市とひたちなか市の間を流れるようになると中州が無くなり、下流部の河川の体になる。国道6号・水戸大橋付近で桜川を合わせ東進、大洗付近で涸沼川を合わせると直ぐに太平洋へと注ぐ。

那珂川流域は古来より穀倉地帯であり、水戸市以外に関してはあまり都市化されておらず、水田が多い。水系には汽水湖である涸沼千波湖などの天然湖が存在する。御前山から水戸市にかけては河岸段丘が発達している。
那珂川開発史

那珂川流域は古来より穀倉地帯で、多くの人間が住んでいた。常陸国は又の名を「常世の国」と呼ばれ、『常陸国風土記』においてもその豊穣ぶりがうかがえる。
水戸藩の河川開発

那珂川の利水が本格的に開発されたのは江戸時代のことである。1590年(天正18年)佐竹義宣は常陸全域を平定し、豊臣秀吉より常陸一国54万石を安堵された。義宣は水戸城を本拠に据え、領国経営を図ったが関ヶ原の戦いにおいて首鼠両端を持したために(義宣は西軍石田方に加担したかったが、父・佐竹義重が東軍徳川方への加担を強硬に主張し、西軍上杉氏と密約を結んでいたにも拘らず徳川軍に家臣を派遣)1602年(慶長7年)出羽久保田(後の秋田市)に減転封となった。

徳川家康は水戸を対伊達政宗の要衝として重要視し、5男武田信吉、10男徳川頼宣、11男徳川頼房を相次いで水戸藩主に据えて仙道筋の防衛を担わせた。このため水戸は急速に城下町が発展するが、城下は千波湖が現在の2倍の大きさで水害の被害を受けやすかった。このため家康は関東郡代伊奈忠次に命じて洪水調節かんがいを目的とした用水路の建設を命じた。


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