辺見貞蔵
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辺見 貞蔵(へみ ていぞう、文政3年(1820年) - 大正元年(1912年10月12日)は、江戸時代末?明治期の侠客博徒である。現在の茨城県古河市と周辺地域を縄張りとしていた。名は「三田貞蔵」、「金次郎(金次)」。


目次

1 生涯

1.1 出生・青少年期

1.2 博徒(生井一家)

1.3 隠居・晩年


2 逸話

3 脚注

4 参考文献


生涯
出生・青少年期

文政3年(1820年)8月、下総国葛飾郡上辺見村(現在の茨城県古河市上辺見)の名主・三田彌四郎の次男として生まれる[1][2]。上辺見村は古河城下・古河宿の郊外。古河は商業と交通・物流の中心地だったため、人の往来がさかんで、現金のやり取りも多く、博徒が集まりやすい環境だった。[3]

少年期には鮭延寺の寺子屋に通う。剣術に憧れ、自己流で腕を磨いた。このころから喧嘩に強く、世話好きで親分肌の性格だった。青年期には小野派一刀流の中西忠兵衛の指導を受け、剣術を身に着ける。次男だった貞蔵は、酒造りで身を立てようとしたが、原料になる米の入手が幕府統制や収穫量不足などのため困難、また十分な資金がなかったなどの事情で実現は難しかった[3]
博徒(生井一家)

20歳のころ、博徒になることを決意。間々田宿・間の川一家、田中屋(田中)慶蔵の子分になろうとしたが、慶蔵から生井弥兵衛に推薦され、生井一家を名乗る[4]弘化3年(1846年)8月、知人の女房を取り返そうとして、喧嘩になり、砂井(いさごい)村の高砂屋安兵衛の子分、塚崎村の丈介を斬り殺した。役人に追われて奥州に逃亡。二本松城下にきたとき、百目木村の貸元・嘉吉に認められて親分株を譲り受けた。10年ほど滞在した後、もめごとに巻き込まれたため、縄張りを子分に譲って百目木村を離れる[5][6][7]

仙台に身を潜めて数か月後、下総から訪ねて来た子分・多三郎(宝田多三郎)の求めに応じて帰郷。貞蔵は37歳になっていた。柳橋(現在の古河市柳橋)に移り、元の貸元に戻る。留守の間、貸元稼業は筆頭子分の彫常(常五郎)が守っていた。ほとぼりは冷めたものの、まだ役人に追われる身で、目立たないように稼業を続けた[8]

安政5年(1858年)6月、葛生(かずろう)村の後家から、「借金のために娘が無理やり売り飛ばされる」と相談を受け、借金相手の目明し長助のところに乗り込んで棒引きさせた。長助はこれを恨み、郡奉行の役人に貞蔵が戻っていると訴える。8月末、仁連村の祭礼に角力見物に出かけた帰り道、役人に取り囲まれて捕縛された。10月に江戸送りとなり、小伝馬町牢屋敷に入った[8]

万延元年(1860年)秋、貞蔵の処分が決まる。当初は「喧嘩発頭人」すなわち喧嘩の主犯として、遠島になるはずだったが、最終的には「喧嘩加担人」共犯者になり、石川島の人足寄場に送られた。慶応2年(1866年)、寄場が大火に見舞われ、「切り放し」(人足たちの一時釈放)となった際には、貞蔵ら数十人は防火活動のためにとどまった。寄場の再建が進んだ翌年3月、貞蔵は赦免される[9]

一か月後、同様に寄場から赦免された奥州川俣の金五郎が訪ねて来た。貞蔵は人足寄場にいたとき、兄の敵討ちのために脱走しようとした金五郎を思いとどまらせ、赦免後に敵討ちを手伝うと約束していた。貞蔵は約束を守り、ともに奥州に向かって、敵討ちを果たす。のちに金五郎は川俣で貸元となり、生井一家を名乗った[9]
隠居・晩年

明治になると、古河城下の横町(現在の古河市横山町)で貸座敷業「三村屋」を営む。博奕業は政府の規制が厳しく、控えめになった。明治の半ばに三村屋をたたみ、二丁目(現在の古河市中央町?本町)で呉服太物屋三田屋を経営していた養子のもとで隠居した[10]

明治26年(1893年)1月、貞蔵の子分で生井一家の幹部・宝田多三郎(多惣次)が、石下(現在の常総市)の博徒に殴り込みをかけるという噂が立ち、貞蔵と多三郎の両名が古河町警察に始末書を提出。「喧嘩ではなく、仏事の相談をしている」と釈明している。40年前の元治元年(1864年)11月、縄張り争いのなかで、生井一家と間の川一家の子分七人が石下の博徒に殺され、12月には報復として石下勢一人が殺された事件があった。報復の中心人物として多三郎に嫌疑がかかり、取り調べの結果、放免されたが、その余韻がまだ残っていた[11]

明治42年(1910年)4月15日、古河町で貞蔵の米寿祝賀が盛大に行われた。東京から二十余名、その他地域からも親分衆が多数集まり、古河町の芸妓は全員、結城町からも20人が呼び寄せられた。翌日には人力車を連ねて、雀神社を参拝。このとき投銭めあてに人が集まり、芝居小屋がかかるほど賑わったという[12][13]

大正元年(1912年)10月12日、93歳で死去。10月25日に上辺見の先祖の墓地に埋葬され、葬儀は11月1日に正定寺で執り行われた。このときも東京やその他各地から親分衆が数十名集まった[12][14]


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