足利義教
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江戸時代の浄土真宗本願寺派の学僧「義教(ぎきょう)」とは異なります。

 凡例足利義教
紙本著色足利義教像
(愛知県一宮市妙興寺蔵)
時代室町時代中期
生誕応永元年6月13日(1394年7月11日
死没嘉吉元年6月24日(1441年7月12日
改名春寅(幼名)→ 義円(法名)
→ 足利義宣 → 足利義教[1]
別名籤引き将軍、籤将軍、還俗将軍、悪御所、万人恐怖
戒名普広院殿善山道恵禅定門[1]
墓所十念寺
崇禅寺安国寺(首塚)
官位従五位下左馬頭従四位下参議左近衛中将従三位権大納言右近衛大将従二位右馬寮御監従一位内大臣左大臣淳和奨学両院別当贈太政大臣
幕府室町幕府 第6代征夷大将軍
(在任:正長元年(1428年) - 嘉吉元年(1441年))
氏族足利氏足利将軍家
父母父:足利義満、母:藤原慶子
兄弟義持義嗣、義教、義昭法尊、ほか
妻正室:日野宗子、正親町三条尹子
側室:日野重子、小宰相局、少弁殿、東御方、ほか
義勝(7代将軍)、
政知堀越公方)、
義政(8代将軍)、
義視(10代将軍足利義稙父・大御所)、ほか
猶子
小倉宮教尊(小倉宮聖承息)、
教賢(一条兼良息)、
義快(二条満基息)、
政超(九条政忠息)

足利 義教(あしかが よしのり、正字体:義ヘ)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、正字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。
目次

1 生涯

1.1 将軍就任まで

1.2 将軍就任

1.3 幕府の権威復興へ

1.4 延暦寺との抗争

1.5 永享の乱

1.6 関東平定と中央集権の実現

1.7 最期


2 人物・評価

3 義教と訴訟

4 墓所・肖像

5 官歴

6 系譜

7 義教の偏諱を受けた人物

8 脚注

8.1 註釈

8.2 出典


9 参考文献

10 登場作品

11 関連項目

生涯 足利義教像(法観寺蔵)
還俗間もない頃の姿と伝わる
将軍就任まで

応永元年(1394年6月13日足利義満の五男として生まれた[2][3]。幼名は春寅。

応永10年(1403年)6月、青蓮院に入室し、応永15年(1408年)3月4日に得度して門跡となり義圓(義円)と名乗った。同じ日に異母弟の足利義嗣が従五位下に叙爵されており、義圓は義満の後継者候補から外れた[4]。応永20年(1413年)頃には准后宣下を受けている[註 1]。応永26年(1419年)11月に153代天台座主となり、「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ将来を嘱望されていた。その後一時大僧正も務めた[1][2][5]
将軍就任

第5代将軍・足利義量は将軍とは名ばかりで実権は父の足利義持が握っていたが、応永32年(1425年)に義量が急死した後も、僧体の義持が引き続き政治を行なった。その義持も応永35年(1428年)1月に病を得るが、危篤に陥っても後継者の指名を拒否した。そこで三宝院満済管領畠山満家ら群臣たちが評議を開いた結果[1]石清水八幡宮籤引きを行い[註 2]、義持の弟である梶井門跡義承大覚寺門跡義昭相国寺虎山永隆・青蓮院門跡義圓の中から次期将軍を選ぶことになった。

1月17日、石清水八幡宮で籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封された。後継者に定まったのは義圓だった。このことから彼は籤引き将軍とも呼ばれる[註 3][6]。結果は19日に諸大名によって義圓に報告され、義圓は幾度か辞退したが、諸大名が重ねて強く要請したため応諾した。これを受けて、同日中に青蓮院を退出して裏松(日野義資)邸に移った。この時、後小松上皇称光天皇共に日野資教(有光の父で義資の大伯父にあたる)を勅使として義圓の相続を賀したという[6]

幕閣は権力の空白状態を埋めるべく、1日も早い将軍就任を望んだが、義圓は元服前に出家したため俗人としてはいまだ子供の扱いであり、無位無官だった。さらに、法体の者が還俗して将軍となった先例もなく[註 4]武家伝奏万里小路時房は法体の者に官位を与えるのは罪人に官位を与えるようなものであると反対し、義圓の髪が伸びて元服が行えるようになってから次第に昇任させるべきと回答、公卿の大半も同意見だった。幕閣はこの意見に従い、義圓の髪が生えるまで待つことにした[7]。幕府は将軍の書状である御教書を発給させて義圓に政務を執らせようとしたが、これも朝廷の反対に遭ったために管領下知状で代用することとなった[8]

3月12日に義圓は還俗して義宣(よしのぶ)と名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。4月14日には従四位に昇任したが、将軍宣下はなかった。このため鎌倉公方足利持氏が将軍となるという流言が走り、京都に不穏な空気が流れた。

同年の正長元年(4月27日に改元)7月6日、称光天皇が危篤に陥った。


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