貴族_(中国)
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中国史における貴族は、魏晋南北朝時代から末期(220年 - 907年)にまで存在した血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。後漢豪族を前身とし、において施行された九品官人法により貴族層が形成された。北朝ではこれに鮮卑匈奴といった北族遊牧民系統の族長層が加わり、その系譜を汲む・唐でもこの両方の系統の貴族が社会の支配層の主要部を形成した。中国史学では、貴族が社会の主導権を握っていた体制を貴族制と呼ぶ。

貴族は政治面では人事権を握って上級官職を独占することで強い権力を維持し、その地位を子弟に受け継がせた。このことにより官職の高下が血統により決定されるようになり、門地二品・士族と呼ばれる層を形成した。一方、文化面では王羲之謝霊運などを輩出し、六朝から唐中期までの文化の担い手となった。隋代に導入された科挙により新しい科挙官僚が政界に進出してくるようになると貴族はこれと激しい権力争いを繰り広げるが、最終的に唐滅亡時の混乱の中で貴族勢力は完全に瓦解した。

貴族という用語は日本の歴史学界で使われる用語であり、当時の貴族による自称は士・士大夫・士族であった。これに倣い中国の歴史学界では士族の語が使われる。ただし、日本の学界における貴族制の理解と、封建地主制を前提とした中国の学界における士族制または門閥制の理解には相違があり、現状では完全に同義の用語というわけではない[1]

この項目では特に注記の無い限り、宮崎市定『九品官人法の研究』をもとに記述する。
目次

1 歴史

1.1 前史(-220)

1.2 魏・西晋(220-316)

1.3 東晋・宋・斉(316-502)

1.4 梁・陳(502-589)

1.5 北朝(316-589)

1.6 隋・唐(589-907)


2 貴族制の構造

2.1 政治

2.1.1 人事制度

2.1.1.1 選挙・辟召・任子制


2.1.2 官品制度

2.1.2.1 清濁の別

2.1.2.2 士庶の別と流外官



2.2 社会・経済

2.2.1 家格


2.3 文化

2.3.1 三教

2.3.2 四学



3 研究

3.1 概説

3.2 研究史

3.2.1 前史

3.2.2 九品官人法の研究

3.2.3 論争の時代

3.2.4 停滞から再活性化


3.3 貴族制理解

3.4 研究者ごとの内容

3.4.1 川勝義雄

3.4.1.1 豪族共同体論

3.4.1.2 門生故吏関係


3.4.2 越智重明

3.4.3 矢野主税

3.4.4 渡邉義浩

3.4.5 川合安


3.5 日本以外での研究


4 注釈

5 出典

6 参考文献

6.1 論文集

6.2 論文・専門書

6.3 一般書・総合


歴史
前史(-220)

代の族的集団を基盤とする都市国家社会においては大夫と呼ばれる族集団の族長層である支配者階層があり、族集団の祭祀を主催し軍事の枢要を占めて、その下の庶(民衆)とは隔絶する存在であった。この両階層を総称した士大夫という呼称は、後世に儒教が周代を理想時代としたこともあり、後世の支配者層により自らの雅称として盛んに使われた。この項で述べる漢代の豪族・魏晋南北朝の貴族ともに自称は士族・士大夫であり、当時において貴族という呼称は使われていない。

前漢中期より、各地方において経済的な実力を持った者たちが当地の農村を半支配下に置いて、豪族と呼ばれる層を作った。武帝によって導入された郷挙里選により、豪族たちは一族の子弟を官僚として中央に送り出すようになった。中央で官職を得た豪族たちは次第にその階層を固定化して貴族へと変化しだした。
魏・西晋(220-316)

220年文帝により、九品官人法が施行された[2]。九品官人法はまず漢代の官職を九段階の官品に分ける[3]。そして中正という役職が地方の輿論を基に人物の判定を行い、その人物が最終的にどの官品まで上るべきかを裁定する[4]。これを郷品と言う[2]。官品と郷品はいずれも一品から九品までの等級からなり、中正がある人物が二品官になり得る才能があると判定すればその人物の郷品は二品となった[5]。郷品として判定された等級の官品にすぐさま任官するわけではなく、通常初めて任官するときは郷品の4品下の官品の官から始まる。この初めの官を起家官と呼ぶ[6]

この制度は本来は漢魏の交代の際に、漢代の官位制の腐敗を除きつつ漢の官僚機構を魏のそれに統合し、才能優先で人材登用をするためのものであった[7]。しかし豪族たちが郷品を決める中正およびその後の昇進を決める尚書吏部を掌握し、人事権は事実上豪族たちの手に握られるようになった。そうすると中央で権力を握った豪族たちの地位はそのまま子孫に受け継がれるようになった。こうなると官職は個人の才能ではなく、血統により決定されることになり、地位の固定化が進み、豪族の貴族化が促進された[8]

魏において司馬懿が権力を奪取する際に州大中正が導入されたことで、更にこの傾向は進んだ[9]。それまで中正はの下の行政区分であるにのみ置かれていたが、州に中正が置かれたことにより、中央の大官たちの意向が中正の選任に強く反映されるようになり、貴族層の固定化が一層進むようになった[9] 竹林の七賢

中正は地方の輿論をもとに郷品を下す。そのため、貴族の子弟たちは自分の存在をアピールするために社交界で名を売ろうとした。このような猟官活動は明帝の時に一時弾圧されることもあったが、その傾向は改まらなかった[10]竹林の七賢に代表されるような清談や、また『世説新語』に登場する「ブタを人の乳で育てた」などといった奢侈もまた名を売るための手段であった[10]


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