貴族_(中国)
◇ピンチです!◇
■暇つぶし何某■

[Wikipedia|▼Menu]

ウィクショナリーに貴族の項目があります。

中国史における貴族は、魏晋南北朝時代から末期(220年 - 907年)にまで存在した血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。後漢豪族を前身とし、において施行された九品官人法により貴族層が形成された。北朝ではこれに鮮卑匈奴といった北族遊牧民系統の族長層が加わり、その系譜を汲む・唐でもこの両方の系統の貴族が社会の支配層の主要部を形成した。中国史学では、貴族が社会の主導権を握っていた体制を貴族制と呼ぶ。

貴族は政治面では人事権を握って上級官職を独占することで強い権力を維持し、その地位を子弟に受け継がせた。このことにより官職の高下が血統により決定されるようになり、門地二品・士族と呼ばれる層を形成した。一方、文化面では王羲之謝霊運などを輩出し、六朝から唐中期までの文化の担い手となった。隋代に導入された科挙により新しい科挙官僚が政界に進出してくるようになると貴族はこれと激しい権力争いを繰り広げるが、最終的に唐滅亡時の混乱の中で貴族勢力は完全に瓦解した。

貴族という用語は日本の歴史学界で使われる用語であり、当時の貴族による自称は士・士大夫・士族であった。これに倣い中国の歴史学界では士族の語が使われる。

この項目では特に注記の無い限り、宮崎市定『九品官人法の研究』をもとに記述する。


目次

1 歴史

1.1 前史(-220)

1.2 魏・西晋(220-316)

1.3 東晋・宋・斉(316-502)

1.4 梁・陳(502-589)

1.5 北朝(316-589)

1.6 隋・唐(589-907)


2 貴族制の構造

2.1 政治

2.1.1 人事制度

2.1.1.1 選挙・辟召・任子制


2.1.2 官品制度

2.1.2.1 清濁の別

2.1.2.2 士庶の別と流外官



2.2 社会・経済

2.2.1 家格


2.3 文化

2.3.1 三教

2.3.2 四学



3 研究

3.1 概説

3.2 研究史

3.2.1 前史

3.2.2 九品官人法の研究

3.2.3 論争の時代

3.2.4 停滞から再活性化


3.3 貴族制理解

3.4 研究者ごとの内容

3.4.1 川勝義雄

3.4.1.1 豪族共同体論

3.4.1.2 門生故吏関係


3.4.2 越智重明

3.4.3 矢野主税

3.4.4 渡邉義浩

3.4.5 川合安


3.5 日本以外での研究


4 注釈

5 出典

6 参考文献

6.1 論文集

6.2 論文・専門書


歴史
前史(-220)

代の族的集団を基盤とする都市国家社会においては大夫と呼ばれる族集団の族長層である支配者階層があり、族集団の祭祀を主催し軍事の枢要を占めて、その下の庶(民衆)とは隔絶する存在であった。この両階層を総称した士大夫という呼称は、後世に儒教が周代を理想時代としたこともあり、後世の支配者層により自らの雅称として盛んに使われた。この項で述べる漢代の豪族・魏晋南北朝の貴族ともに自称は士族・士大夫であり、当時において貴族という呼称は使われていない。

前漢中期より、各地方において経済的な実力を持った者たちが当地の農村を半支配下に置いて、豪族と呼ばれる層を作った。武帝によって導入された郷挙里選により、豪族たちは一族の子弟を官僚として中央に送り出すようになった。中央で官職を得た豪族たちは次第にその階層を固定化して貴族へと変化しだした。
魏・西晋(220-316)

220年文帝により、九品官人法が施行された。九品官人法はまず官職を九段階の官品に分ける。そして中正という役職が地方の輿論を基に人物の判定を行い、その人物が最終的にどの官品まで上るべきかを裁定する。これを郷品と言い、通常初めて任官するときは郷品の4品下の官から始まる。この初めの官を起家官と呼ぶ。

この制度は本来は才能優先で人材登用をするためのものであった。しかし豪族たちが郷品を決める中正およびその後の昇進を決める尚書吏部を掌握し、人事権は事実上豪族たちの手に握られるようになった。そうすると中央で権力を握った豪族たちの地位はそのまま子孫に受け継がれるようになった。こうなると官職は個人の才能ではなく、血統により決定されることになり、地位の固定化が進み、豪族の貴族化が促進された。

魏において司馬懿が権力を奪取する際に州大中正が導入されたことで、更にこの傾向は進んだ。それまで中正はの下の行政区分であるにのみ置かれていたが、州に中正が置かれたことにより、中央の大官たちの意向が中正の選任に強く反映されるようになり、貴族層の固定化が一層進むようになった。竹林の七賢

中正は地方の輿論をもとに郷品を下す。そのため、貴族の子弟たちは自分の存在をアピールするために社交界で名を売ろうとした。このような猟官活動は明帝の時に一時弾圧されることもあったが、その傾向は改まらなかった。竹林の七賢に代表されるような清談や、また『世説新語』に登場する「ブタを人の乳で育てた」などといった奢侈もまた名を売るための手段であった。

実際に就く官職においても貴族とそうでない者とでは差別された。これを清濁の別という。例えば郷品二品の者が起家として就く職と郷品六品の者が最終的に到達する職とでは同じ六品官であっても対等ではない。門地二品の者たちは細々とした雑務が多い職・軍職・地方官などを濁官と呼んで嫌い、逆に秘書郎・著作佐郎など実際に行う仕事は少なく意見を述べることができる官は清官と呼んで好んだ。このような「俗世間の雑事にはとらわれず、高見を世間に問う」というスタイルは清談と通ずるものであり、そのような人物を理想とする貴族の好みが強く反映されたものである。
東晋・宋・斉(316-502)

魏はその後、西晋禅譲を行い、さらに西晋もまた36年という短い統一期間の後に匈奴の漢(前趙)により一旦滅亡し、皇族の司馬睿が江南に逃れて東晋を立てた。この時、貴族たちは司馬睿と共に南遷する者とそのまま華北に残った者に分かれた。

司馬睿を迎え入れ東晋政権を安定させるのに尽力したのは主に現地の土着豪族である。しかし東晋が安定すると政権の枢要な地位に就いたのは彼ら現地の豪族ではなく、司馬睿と共に南渡した華北の貴族たちであった。その代表は、王導王羲之琅邪王氏謝安謝霊運らの陳郡謝氏である。現地の豪族たちは二流貴族として差別を受け、この不満から一部の者が反乱を起こすこともあったが、大勢としては東晋政権に従うことで地位を保つ道を選んだ。北来貴族・南人貴族ともに華北の混乱が江南にまで及び、貴族としての地位が完膚なきまでに破壊されることを最も恐れていたので、東晋政権が崩れることを望まなかったのである。

その後、曲がりなりにも安定政権を築いた東晋であったが、その権力基盤は脆弱であり、貴族たちの歓心を買い、離反を防ぐために官職をばら撒くことを行った。郷品のうち、一品は皇族や大官の子などだけが得られる特別のものであってまず与えられることはない。そして西晋代には郷品二品もまた貴重であり、大抵は郷品三品から始まっていた。しかしばら撒きにより名門であれば郷品二品が珍しくなくなり、次第に郷品二品と三品以下との間にはっきりとした線が引かれるようになる。郷品二品の家は門地二品と呼ばれ、三品以下の家は寒門・寒士と呼ばれる。また庶民が任官して昇進しても寒士より更に低い所で壁に当たることになる。これら庶民出身の官吏は寒人と呼ぶ[注釈 1]

東晋の初めごろはこれら北からの亡命者が増えることはそれだけ労働力を増やすことになり、大いに歓迎された。


是非お友達にも!
◇暇つぶし何某◇

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE