藤原信長
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この項目では、平安時代の公家について説明しています。藤原氏を称していた戦国大名については「織田信長」をご覧ください。

 凡例藤原信長
時代平安時代中期 - 後期
生誕治安2年(1022年
死没寛治8年9月3日1094年10月14日
別名九条太政大臣
官位従一位太政大臣
氏族藤原北家御堂流
父母父:藤原教通、母:藤原公任の娘
兄弟静円、信家通基歓子、信長
藤原定頼の娘
藤原長家の娘
藤原公能の娘
源資家の娘
子澄仁
養子:兼実、藤原知房
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藤原 信長(ふじわら の のぶなが)は、平安時代中期から後期の貴族関白太政大臣藤原教通の三男。


目次

1 生い立ち

2 関白職をめぐる争い

3 官歴

4 系譜

5 参考文献

6 脚注


生い立ち

治安2年(1022年)、内大臣であった教通の三男として生まれる。同母兄の信家は教通の兄・頼通の養子、通基は教通の父・道長の養子となった。これは、まだ内大臣であった教通の子息として貴族としてのキャリアを出発するよりも、摂関の地位にあった道長・頼通の養子となったほうが官位昇進に有利だったためと考えられる。現に初叙の際に、現職の関白頼通の養子信家は正五位下、すでに死去していた道長の養子通基は従五位上、信長は従五位下という差がつけられている。その後の昇進も信家・通基のほうが信長よりも迅速であった。

しかし、信家(康平4年〈1061年〉没)・通基(長久元年〈1041年〉没)ともに実子のないまま教通に先だって没したことから、信長は三男ながら教通の後継者となった。
関白職をめぐる争い

治暦4年(1068年)4月、道長が生前に定めておいた方針に基づいて、父教通は頼通から関白職を譲られて73歳にして就任した。ただし教通の関白職は本人一代限りとし、教通の跡は頼通の子息が継ぐことになっていた。

関白職を獲得するまでの教通の忍従、特に頼通に対して従順であることは、ほとんど卑屈の域に達するものだった。頼通が太政大臣に昇進したことの祝賀に際して、左大臣教通は頼通にひざまづいて礼をしたという。これを聞きつけた異母弟能信が「大臣ともあろう者がひざまづいて礼をするなど聞いたこともない」と批判した。これに対し教通は「自分は道長から「頼通を父と思え」と言われたのだ。父に対する礼儀としてひざまづいて礼をするのは当たり前のことだ。能信は道長からそんなことを言われたことはないだろう」と、死ぬまで権大納言どまりで関白など望むべくもなかった能信を逆に皮肉ったという。ところがいったん関白に就任すると、教通はこれを自身の子である信長に譲ることを考え始める。教通は頼通が健在でいる間はたびたび関白の辞表を出したり、兼任していた左大臣を辞して頼通の嗣子師実に譲ったりして、頼通を油断させていたが、実はこれも、自分のあとに師実が左大臣となれば、師実の義兄(頼通の養子)で内大臣の源師房が右大臣となり、空いた内大臣には首席の大納言の信長が昇進できるという読みがあってのことだった。いよいよ死期が近づいた頼通から関白を師実に譲るよう求められると、教通は天皇の裁可が必要だとしてこれを拒んだ。裁可を求められた後三条天皇も教通の留任を支持し、頼通は師実の関白就任を見届けることなく、延久6年(1074年)2月、失意のうちに83歳で死去した。

内大臣の信長には関白になる資格は充分にあった。教通が頼通の死後すぐに信長に関白を譲らなかったのは、姉の上東門院彰子が87歳にしてなお健在であり、道長の遺言の生き証人としてにらみをきかせていたためである。しかし彼女も同年10月に死去し、教通から信長への関白職継承を妨げるものはなくなったかに見えた。

しかし、さらに進んで師実を完全に失脚させるためには、教通にも時間が不足していた。翌承保2年(1075年)9月に教通も80歳で死去してしまう。信長は、教通の死去を公表せず時間稼ぎを図ったが、ときの白河天皇は教通の死の翌日にはあっさりと師実に内覧の宣旨を下してしまった。信長が内大臣だったのに対し師実は左大臣だったので、これはごく自然なことだった。また白河は師実の養女・中宮賢子を深く愛していたので、この点でも信長は不利であった。10月には信長は公式に教通の死を天皇に報告し、教通が管理していた氏長者の印などを師実に引き渡さざるを得なくなった。これを受けて師実は正式に関白となった。

同年12月信長は右近衛大将に任じられ、そのお礼言上の参内などは行っているが、やがて太政官に出仕しなくなった。師実が関白となったことが不満だったのである。教通の死後、太政官は、左大臣が師実、右大臣が師房、内大臣が信長、その下に権大納言が5名在任するという構成になっていたが、師房が承保4年(1077年)12月に70歳で死去するとその後任は補充されなかった。出仕していない信長を昇進させるわけにはいかず、一方、5名の権大納言のなかから信長の頭越しに新しく大臣を任命することは、信長に対する重大な侮辱であり、とてもできることではなかった。

大臣が事実上ひとりしかいないという異常な事態は、このあと丸2年以上続く。白河天皇も関白師実も、ストライキを続ける信長をどうすることもできなかったのである。この信長の行動の背後には、天皇・師実に不満をいだく貴族たちの一定の支持があったものと考えられている。しかし承暦4年(1080年)8月にいたって、業を煮やした天皇と師実はついに動くことになった。本人の意向を無視するかたちで信長を内大臣から太政大臣に昇進させたのである。当時の太政大臣はすでに摂政・関白にその権限を吸収されていただけでなく、左大臣以下の大臣のように実務に関わることもなくなった完全な名誉職だった。表向きは昇進であるが、事実上の左遷である。兼任していた右近衛大将も、太政大臣が他の官職を兼ねることはありえないことから自動的に解任となり、権大納言源顕房が改めて任命された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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