花見
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「花見」のその他の用法については「花見 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
花見をする義経(奥)と弁慶(手前)。『芳年武者無類』の内「九郎判官源義経 武蔵坊弁慶」。1885年(明治18年)刊。月岡芳年作。

花見(はなみ)は、主にを鑑賞し、の訪れを寿ぐ日本古来の風習である。桃の花でも行われる。


目次

1 概要

2 歴史

3 現在の花見

3.1 開花・満開時期の地域差

3.2 夜桜見物

3.3 花見団子

3.4 花見弁当

3.5 エア花見

3.6 諸問題


4 花見の樹種

5 日本国外の花見

6 日本の花見の名所の例

7 関連作品

8 脚注

9 関連項目

10 外部リンク


概要ワシントン大学アメリカ合衆国シアトル

桜は、日本全国に広く見られる樹木である。花見で話題になる代表的な品種ソメイヨシノクローンであるため、各地で「休眠打破」がなされてから各地のの一時期において、おおむね地域毎に一斉に咲き競い、日本人の季節感を形成する重要な春の風物詩となっている。

サクラは開花から散るまで2週間足らずであり、「花吹雪」となって散り行くその姿は、人のの儚さになぞらえられたり、または古来、「桜は人を狂わせる」と言われたりしてきた[1]

独りで花を眺めるだけでなく、多人数で花見弁当を愉しむ宴会を開くことが伝統的である。花を見ながら飲む花見酒は風流なものではあるが、団体などの場合、乱痴気騒ぎとなることも珍しくない(「諸問題」の項を参照)。陰陽道では、桜の陰と宴会の陽が対になっていると解釈する。

花見は訪日観光客の来日目的になったり、風習としてアジア欧米など海外に伝わったりしている[2]北半球南半球季節が逆転しているため、地域毎に年中行事としての花見の時期は異なる。

飲食型の花見

ピクニック型の花見

サイクリングと花見

ウォーキングと花見(大阪造幣局

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(動画)文京区の花見

歴史

歌川広重「浪花名所図会 安井天神山花見」(1834年頃制作[3][4]。踊りに興じる花見客。花見弁当に酒、三味線も見える。歌川国貞「六条御所花之夕宴」(1855年制作)[5]楊洲周延「千代田大奥 御花見」(1894年制作)[6]。大奥の女性たちの花見。

日本の花見は奈良時代貴族の行事が起源だといわれる。奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が鑑賞され、平安時代に桜に代わってきた。それはにも表れており、『万葉集』には桜を詠んだ歌が43首、梅を詠んだ歌が110首程度みられる。これが10世紀初期の『古今和歌集』では、桜が70首に対し梅が18首と逆転している。「花」が桜の別称として使われ、女性の美貌が桜に例えられるようになるのもこの頃からである。

日本後紀』には、嵯峨天皇812年3月28日弘仁3年2月12日)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催した[7][8]とある。時期的に花は桜が主役であったと思われ、これが記録に残る花見の初出と考えられている。前年に嵯峨天皇は地主神社の桜を非常に気に入り、以降神社から毎年桜を献上させたといい、当時、桜の花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人の桜好きの原点と見られる[9]831年天長8年)からは宮中で天皇主催の定例行事として取り入れられた。その様子は『源氏物語』「花宴(はなのえん)」にも描かれている。また、『作庭記』にも「庭には花(桜)の木を植えるべし」とあり、平安時代において桜は庭作りの必需品となり、花見の名所である京都・東山もこの頃に誕生したと考えられている[9]

鎌倉室町時代には貴族の花見の風習が武士階級にも広がった[10]吉田兼好は『徒然草』第137段で、身分のある人の花見と「片田舎の人」の花見の違いを説いている。わざとらしい風流振りや騒がしい祝宴に対して冷ややかな視線であるが、ともあれ『徒然草』が書かれた鎌倉末期から室町初期の頃には既に地方でも花見の宴が催されていたことが窺える。

織豊期には野外に出て花見をしたことが、絵画資料から確認される[11]。この時期の大規模な花見は、豊臣秀吉が行った吉野の花見1594年文禄3年))や醍醐の花見1598年4月20日慶長3年3月15日))がある[7]

花見の風習が広く庶民に広まっていったのは江戸時代といわれる。桜の品種改良もこの頃盛んに行なわれた。江戸で最も名高かった花見の名所が忍岡(しのぶがおか)で、天海大僧正1536年天文5年)? - 1643年寛永20年))によって植えられた上野恩賜公園の桜である。しかし格式の高い寛永寺で人々が浮かれ騒ぐことは許されていなかったため、1720年享保5年)に徳川吉宗浅草(墨田川堤)飛鳥山に桜を植えさせ[12]、庶民の行楽を奨励した。吉宗は生類憐れみの令以降途絶えていた鷹狩を復興させた際、鷹狩が農民の田畑を荒す事への対応策として、鷹狩の場に桜の木を植えることで花見客が農民たちに収入をもたらす方策をとったとされている。江戸の城下・近郊の花見の名所は上野寛永寺、飛鳥山、隅田川堤の他にも、御殿山 (品川区)愛宕山玉川上水など少なからずあった。この時期の花見を題材にした落語としては、『長屋の花見』や『あたま山』、飛鳥山の花見を想定して作られた『花見の仇討(あだうち)』などがある。江戸川桜花満開(「東京名所写真帖」 1910年7月発刊)[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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