芋煮会
[Wikipedia|▼Menu]

芋煮会(いもにかい)とは、日本の主に青森県を除く東北地方各地で行われる季節行事で、河川敷などの野外にグループで集まり、サトイモを使った鍋料理などを作って食べる行事である。

呼称には地域差があるが、ここでは総称として「芋煮」「芋煮会」という呼称を用いる。 河川敷で行なわれる芋煮会(山形風芋煮 仙台宮城風芋煮
目次

1 概要

2 歴史

2.1 起源

2.2 多様化

2.3 山形県村山地方

2.3.1 江戸時代

2.3.2 明治時代以降


2.4 年表


3 呼称の分類

4 料理の分類

4.1 豚肉みそ味

4.2 とりすき風

4.3 牛肉しょうゆ味

4.4 寄せ鍋風

4.5 その他


5 芋煮会シーズン中の様子

6 主な芋煮イベント

6.1 岩手県

6.2 山形県

6.3 福島県

6.4 東北以外の芋煮会

6.5 海外の芋煮会


7 類例

7.1 ●青森県の野外鍋料理イベント

7.2 ●愛媛県の「いも炊き」

7.3 ●エビイモを用いる鍋物


8 その他

9 参考文献

10 脚注

10.1 注釈

10.2 出典


11 関連項目

12 外部リンク

概要

芋煮会は、親睦を深める行事として、家族・友人・地域・学校・職場などのグループで行われている。山形県、宮城県では特に盛んに行われ、秋の風物詩となっている。また、新潟県関東地方では、地域イベントを中心に芋煮会が行われている。芋煮会を開催する人々にとっては野外での宴会(またはお楽しみ会)のひとつであり、花見の芋煮会として双璧をなす。

在来種の種芋苗を用いた東北地方でのサトイモ栽培では、収穫時期が例年10月頃になるため、一般的な芋煮会も大抵10月初旬から徐々に行われ始める。その後、大体10月下旬から11月初旬にかけてがピーク期となり、紅葉シーズンの終了、または、初雪が降ると共に終息する。

平成に入る頃からは、「町おこし」や「食のイベント」として大規模な芋煮イベントも行われるようになった。これらのイベントの内いくつかは、一般的な芋煮会のシーズンである秋とは異なる開催時期のものもあり、東北では盛夏や晩夏の開催例が見られ、関東では、春の開催例や東北では寒さのために既に下火となっている11月末の開催例も見られる。

なお、飲みニケーションのように、芋煮とコミュニケーションを合わせ、芋煮会での交流を表す「イモニケーション」との造語を使用している者もいる[1][2]
歴史
起源

サトイモが日本に伝わったのは縄文時代とされるが、里芋は煮て食べるよりは茹でるか焼くか蒸すかが主な調理法であったと考えられるため、「芋煮」の成立は更に後世と考えられる。

江戸時代の不作に備えてサトイモも作られており、「芋煮」自体は家庭料理としても食べられていたが、サトイモの収穫時期に合わせて「芋煮会」の原型とみられることが農村部で行われていた。ただし、江戸時代には豚肉牛肉などの肉類は一般に食べられていなかったため、現代のように芋煮に肉は入っていなかったと考えられる。「芋煮会」の原型は、野外で集団で鍋料理を囲む収穫祭的な意味合いの行事だったが、村をあげてのものだったという記載はないため少人数で行ったとされる。また、都市が未発達でほとんどの国民が農村に居住していた当時、わざわざ「河原」まで出かけて行ってやる必要性は無かった(現代の都市部では木造住宅が密集するため、火災防止目的で「河原」や「キャンプサイト」等、火気使用可エリアで行う)。なお、中秋の名月(芋名月)に団子ではなくサトイモなどを供えていたかつての風習[3]との関係も不明。

サトイモの種芋は穴を掘って地中での保存が可能だが、食用のものは7℃ - 12℃に保たないと腐敗する(温度が低すぎても保存できない)ため、寒冷地の東北地方で越冬させるには囲炉裏や屋根裏などの温度が高いところでの保温が必要だった。その保存の難しさから、厳冬期前に消費する意味合いもあって「芋煮会」の原型が行われたと考えられる。また、青森県に「芋煮会」がないのは当時のサトイモの栽培限界より北にあったこと、東海地方以西で行われないのは、サトイモの保存が容易だったことなどが考えられる。

民俗学者野本寛一は、「芋煮会」はこのようなサトイモの収穫祭が発展したものではないかと述べている[4]
多様化

1980年代には、旅館やアウトドア施設が花見などと同様に「芋煮会プラン」を商品化し始め、シーズンに入るとタウン情報誌新聞折込チラシなどで多数の広告を見るようになった。また、アウトドア施設(フィールドアスレチック)、遊園地温泉旅館の他、紅葉スポット(紅葉狩り)、渓流釣りカヌー)、海岸砂浜(釣り)など、何か別のアミューズメントとの組み合わせで芋煮会が行われるようになった。対して、以前の中心地である「河原」での芋煮会は、今も主流であるものの、往時と比べて少なくなってきた。現在では、地域のイベントとして定着しているところもある。

近年は、ホテルのレストランを中心に芋煮を含め、様々な秋の味覚を取り揃えた季節限定コース料理も供されるようになり、収穫祭的な芋煮会の楽しみ方は多様化が進んでいる。
山形県村山地方
江戸時代

山形県村山地方では、江戸時代の芋煮会の原型の様子をあらわす話がいくつか伝わっている[5]

中山町長崎では、里芋を鍋で煮て食べるときに鍋をかけたという言い伝えのある「鍋掛の松」が1917年(大正6年)まで残っていた。鍋は、近くの小塩地区の名産だった里芋「小塩芋」と、船に積んできた棒鱈と、最上川でとれたザッコ(雑魚)をいっしょに煮たものだったという。長崎は、1693年(元禄6年)の最上川五百川峡・黒滝の開鑿までは酒田港と結ぶ最上川舟運の終着港として賑わっていた。このことから、元禄時代以前の船頭たちが積荷を使って鍋をしたのが芋煮会のはじまりであると山形の郷土史家である烏兎沼宏之は述べている[6]。鍋掛の松は、芋煮のルーツをあらわす伝承遺跡として復元されている[7]

文化文政時代(19世紀初頭)には、山形に移り住んだ近江商人たちが、京都の芋棒に思いを馳せながら、ニシンと里芋を煮て紅花取引の慰労会をしたという。

また、1845年(弘化2年)には、山形藩藩主の秋元志朝が、館林藩に転封されるときに芋煮の野宴を張ったとされる。
明治時代以降

明治時代(19世紀後半から20世紀初頭)になると、街の粋人たちが「野掛」といわれた山の芋煮を川原でもするようになり、1892年(明治25年)ころから川原での芋煮が定着した[5]。以降、芋煮会は、山形に置かれていた歩兵第32連隊の兵たちや山形高等学校 (旧制) の学生が行ったり、見合いや商談、送別の場となったりした。

芋煮に牛肉が使われるようになったのは、昭和の初め(1920年代後半)頃からである[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE