肥前国
[Wikipedia|▼Menu]

「肥前」はこの項目へ転送されています。

日本海軍の戦艦「肥前」については「レトヴィザン (戦艦)」をご覧ください。

佐賀県に存在した町については「肥前町」をご覧ください。

肥前国

■-肥前国
■-西海道
別称肥州(ひしゅう)[1]
所属西海道
相当領域佐賀県長崎県対馬市壱岐市除く)
諸元
国力上国
距離遠国
数11郡44郷
国内主要施設
肥前国府佐賀県佐賀市肥前国庁跡
肥前国分寺佐賀県佐賀市
肥前国分尼寺佐賀県佐賀市
一宮與止日女神社(佐賀県佐賀市)
千栗八幡宮(佐賀県三養基郡みやき町
テンプレートを表示

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
目次

1 沿革

1.1 近世以降の沿革


2 国内の施設

2.1 国府

2.2 国分寺・国分尼寺

2.3 神社

2.4 安国寺利生塔


3 地域

3.1 郡

3.2 中世荘園公領

3.3 江戸時代の藩


4 人物

4.1 国司

4.2 守護

4.2.1 鎌倉幕府

4.2.2 室町幕府


4.3 戦国時代

4.3.1 戦国大名

4.3.2 豊臣政権の大名


4.4 武家官位としての肥前守


5 肥前国の合戦

6 脚注

7 参考文献

8 関連項目

沿革

火国(ひのくに)、後の肥国(ひのくに)の分割によって7世紀末までに成立した。肥後国が『続日本紀』に初めて見える持統天皇10年(696年)までのどの時点かに、肥前国と肥後国との分割があったと推定される。

肥前国風土記』は、全国で5つだけの、ほぼ完全な形で残る風土記の1つである。

室町時代末期にポルトガルスペインの宣教師が相次いで来訪してからは西洋の窓口の一つとなり、天正少年使節団を出すなどした。
近世以降の沿革

旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(807村・691,443石余)。幕府領長崎奉行が管轄。太字は郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。

佐賀郡(95村・95,677石余) - 佐賀藩蓮池藩、小城藩

神埼郡(46村・41,936石余) - 佐賀藩、蓮池藩

基肄郡(13村・12,776石余) - 対馬府中藩

養父郡(15村・17,901石余) - 佐賀藩、対馬府中藩

三根郡(11村・14,537石余) - 佐賀藩

小城郡(59村・41,137石余) - 佐賀藩、小城藩

杵島郡(55村・67,773石余) - 佐賀藩、蓮池藩

藤津郡(36村・33,033石余) - 佐賀藩、蓮池藩、鹿島藩

松浦郡(345村・216,161石7斗5升) - 幕府領旗本領唐津藩、佐賀藩、蓮池藩、小城藩、平戸藩福江藩、対馬府中藩

彼杵郡(56村・82,565石余) - 幕府領、佐賀藩、大村藩、平戸藩

高来郡(76村・67,942石余) - 幕府領、佐賀藩、大村藩、島原藩


慶応4年

2月2日1868年2月24日) - 幕府領が長崎裁判所の管轄となる。

5月4日(1868年6月23日) - 長崎裁判所の管轄地域が長崎府の管轄となる。

旗本領の一部(五島氏領)が福江藩領となる。


明治2年

6月20日1869年7月28日) - 長崎府の管轄地域が長崎県の管轄となる。

8月7日(1869年9月12日) - 府中藩が改称して厳原藩となる。


明治3年(1870年)9月 - 旗本領の残部(松浦氏領)が長崎県の管轄となる。

明治4年

7月14日1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が佐賀県蓮池県小城県唐津県平戸県福江県鹿島県大村県島原県および厳原県の飛地となる。

11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により、藤津郡・杵島郡・佐賀郡・神埼郡・三根郡・養父郡・基肄郡および松浦郡の一部(後の東松浦郡西松浦郡域)が伊万里県、彼杵郡・高来郡および松浦郡の残部(後の北松浦郡南松浦郡域)が長崎県の管轄となる。


明治5年5月29日1872年7月4日) - 伊万里県の管轄区域が佐賀県(第2次)の管轄となる。

明治9年(1876年

4月18日 - 第2次府県統合により、佐賀県の管轄区域が三潴県の管轄となる。

5月24日 - 杵島郡および松浦郡の一部(後の東松浦郡・西松浦郡域)が長崎県の管轄となる。

6月21日 - 藤津郡が長崎県の管轄となる。

8月21日 - 全域が長崎県の管轄となる。


明治16年(1883年5月9日 - 藤津郡・杵島郡・佐賀郡・神埼郡・三根郡・養父郡・基肄郡および松浦郡の一部(後の東松浦郡・西松浦郡域)が佐賀県(第3次)の管轄となる。

国内の施設
国府

国府は、『色葉字類抄』によると、佐嘉郡にあった。現在の佐賀県佐賀市大和町惣座にあった。8世紀前半に造営され、そのまま移転せずに規模を変化させているが、10世紀に入ると急速に縮小していく。1975年昭和50年)から1984年昭和59年)までの発掘で政庁などの遺跡が発見された。

内陸にある国府に通じる国府津(外港)が、現在の佐賀市諸富町大津にあったと推定される。現在、惣座の国庁跡は嘉瀬川沿い、大津は筑後川沿いにあって直接通じていないが、古代は嘉瀬川(『肥前国風土記』等記載の佐嘉川に比定)の流路が異なり両地点が舟運で結ばれていた可能性がある[2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE