美輪明宏
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美輪 明宏

基本情報
出生名丸山 臣吾(まるやま しんご)(幼名)
別名丸山 明宏(まるやま あきひろ)(本名及び旧芸名)
生誕 (1935-05-15) 1935年5月15日(83歳)
出身地 日本長崎県長崎市
学歴国立音楽大学附属高校中退
ジャンルシャンソン
職業シンガーソングライター俳優演出家タレント
担当楽器
活動期間1952年 -
レーベルキングレコード
事務所オフィスミワ
公式サイト ⇒o-miwa.co.jp

美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年昭和10年)5月15日 - )は、日本シンガーソングライター俳優演出家タレント長崎県長崎市出身。本名:丸山 明宏、幼名 臣吾(しんご)。海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。愛称はマルさん。自らの個人事務所である、オフィスミワ所属。

1971年までは本名の丸山 明宏名義で活動していた。兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男。
目次

1 略歴

1.1 長崎時代(1935年5月15日- 1951年)

1.2 歌手 丸山明宏

1.3 俳優 丸山明宏

1.4 美輪明宏への改名と体調の悪化

1.5 黒蜥蜴再演


2 人物

2.1 交友関係

2.2 その他


3 作品

3.1 シングル

3.2 オリジナルアルバム

3.3 編集アルバム

3.4 企画アルバム

3.5 ライブアルバム

3.6 ボックス・セット

3.7 オムニバス

3.8 映像作品


4 出演

4.1 舞台

4.2 映画

4.3 テレビドラマ

4.4 バラエティ他

4.4.1 NHK紅白歌合戦出場歴


4.5 劇場アニメ

4.6 テレビアニメ

4.7 ラジオ

4.8 CM

4.9 携帯公式サイト

4.10 音声ガイド


5 著書

5.1 単著

5.2 共著


6 脚注

6.1 注釈

6.2 出典


7 参考文献

8 外部リンク

略歴
長崎時代(1935年5月15日- 1951年)

1935年昭和10年5月15日長崎県長崎市において、作一、ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼称された遊郭街であり、「世界」という名前のカフェを経営していた。1941年12月、イギリスアメリカ合衆国との戦争体制に入った中で、美輪明宏の父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。美輪明宏(10歳)は、長崎市への原子爆弾投下時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)の自宅におり無事だったが[注釈 1]、その後、近くの防空壕で待機した後に、6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする[注釈 2][注釈 3]

1945年昭和20年)8月9日、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅において、美輪明宏(10歳)は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の「万寿姫」の絵を製作していた。自身が製作した絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、原子爆弾が長崎県に投下された。何千ものマグネシウムを焚いたような白い光だった。美輪明宏は、雷光かと思い、天気の良い日なのにと不思議に思う。しかし、直後には、世界が息を止めたような深い静寂に包まれるのを実感したと言う。その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。お手伝いに促され2人で布団をかぶると空襲警報が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こし3人で防空壕に向かうが、景色が一変していることを知る。隣接する劇場は天井が崩れ落ち、勤労奉仕の女子挺身隊の宿舎は形を残していなかった[2]

原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返金を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。

終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では、同期に西岡武夫がいた。
歌手 丸山明宏

エンリコ・カルーソーベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、1951年の春、美輪明宏(15歳)は、国立音楽高等学校(現・国立音楽大学付属高等学校)進学の為、上京する。家業の倒産をきっかけに高等学校を中退する。その後、進駐軍のキャンプ廻りをしながらジャズを歌唱する。2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。翌1952年、美輪明宏(17歳)は、新宿駅で寝泊りしていたが、銀座7丁目にあるシャンソン喫茶「銀巴里」(1951年?1990年)の美少年募集の張り紙広告をきっかけに、シャンソン喫茶「銀巴里」との専属契約を交わし、歌手デビューを飾る。国籍・年齢・性別不詳として売り出す。

次第に人気を博し、三島由紀夫吉行淳之介野坂昭如大江健三郎中原淳一遠藤周作寺山修司なかにし礼等、文化人の支持を得る。

1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。元禄時代の小姓衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツ等を身に纏いユニセックスファッションと[注釈 4]、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マス・メディアから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する[3]


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