紙芝居
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東京・浅草にて、紙芝居『黄金バット』を上演する男性。

紙芝居(かみしばい)は、絵を見せながら演じ手が語って進める芝居的パフォーマンスのことで、主に子供たちを対象にした簡易な芸能である。

明治時代以降存在した「立絵」の紙芝居と、世界恐慌時代に立絵が廃れた後で誕生した「平絵」の紙芝居とに大きく分けられるが、今日では単に「紙芝居」と言う場合平絵の紙芝居を指す。この項目では主として、世界恐慌時代に誕生した「平絵」の紙芝居について解説する。


目次

1 概要

2 紙芝居の系譜

2.1 源流

2.2 「立絵」から「平絵」の紙芝居へ

2.3 「平絵」の紙芝居

2.3.1 街頭紙芝居


2.4 教育紙芝居(印刷紙芝居)

2.5 戦後

2.5.1 手づくり紙芝居

2.5.2 手作り平和紙芝居

2.5.3 新しいメディア



3 紙芝居の作り方

4 紙芝居に関わる人々・団体

5 脚注

6 参考文献

7 関連文献

8 関連項目

9 外部リンク


概要

台本に沿って描かれた数枚から十数枚の絵をその筋書きに沿ってそろえて重ね合わせ、演じ手は、1枚目から順に観客に見せながら、筋書きとセリフを語っていく。見せ終わった絵は、横に引き抜いて裏に回し、物語を展開させていく。

紙芝居は「絵」と演じ手の「語り」が主体である。これに対して

普通の
芝居演劇)は複数の「人=役者」が主体。

人形芝居(人形劇)は「人形」と演じ手の「語り」が主体。

絵本の読み聞かせでは、「絵」が主体で「語り」は「従」。

現在の日本で隆盛を誇るマンガは、紙芝居の「語り」や動きを「絵」に書き込んだものと見ることもできる。アニメは絵とセリフが主体であり紙芝居にかなり近いが、観客は「受身」に終始する。
紙芝居の系譜

現在見る形式の紙芝居のうち、「街頭紙芝居」は、戦前と戦後に1回ずつのブームに沸いた後、内容が教育的でないなどの批判に遭って自主規制したため自由奔放な発想を失ったこともあり、お株をテレビに奪われて急速に衰退していった。

現在では、街頭紙芝居はほとんど廃れたが、幼稚園、保育園、図書館などで紙芝居が利用されている。また一般市民が「手づくり紙芝居」を楽しんでいる[1]
源流

古来より、日本には「絵解き」と言って、絵を見せながら物語を語って聞かせる伝統があった。『源氏物語』にも、女房が姫君たちに絵巻を見せながら物語る場面が出てくる。寺では僧侶が曼荼羅や寺の縁起を「絵解き」で参拝者たちに語って聞かせた。

時代が下り、江戸時代から明治・大正にかけて、小さな穴から箱の中の絵を覗くのぞきからくり縁日の見世物小屋で楽しまれた。絵だけではすぐあきられるので、これに語り(のぞきからくり節)をつけたものが人気を博した。

また同じ時期に寄席や縁日で楽しまれた、写し絵、手影絵、影絵眼鏡もまた、「絵を見せながら語る」という点で、紙芝居の源流と言うことができる。写し絵は和紙のスクリーンにガラス板に描いた絵を投影する幻灯の一種だったが、無声映画の登場で廃れる。
「立絵」から「平絵」の紙芝居へ

紙芝居の源流は「立絵紙芝居」とされる。「写し絵」が廃れた後、興行師の丸山善太郎が立絵紙芝居を考案する。三遊亭圓朝の弟子だった新さんは師匠の勧めで落語を諦め、木版刷り絵や写し絵用のガラス板を描いていたが、写し絵が衰退し失業する。丸山は新さんの絵に着目し、立絵紙芝居を制作した。これは竹串に14-15cmの切り抜いた絵を貼りつけ、小型の舞台で動かすもので、当初は祭礼縁日の小屋掛け興行だった。しかし1901年(明治34年)頃になると小型の舞台を担いで街頭で上演する「街頭紙芝居」が登場する。人気の題目は「西遊記」でその他は歌舞伎に題材をとったものが多く、大人向けのものも多かったという[2]

大正期に入ると人気は廃れるが、1923年(大正12年)の関東大震災後は子供の娯楽として人気となる。その流行から警察の取り締まりの対象となり、見料を取るかわりに飴を売って代金を徴収するというやり方が広まった。1929年(昭和4年)、浅草区菊屋橋警察署管内で立絵紙芝居そのものが禁止されると、後藤時蔵が絵を見せながら解説し、飴を売るという「平絵紙芝居」を考案する。1930年(昭和5年)に、第1作「魔法の御殿」、第2作「黒バット」に続き、3作目の「黄金バット」(後藤時蔵作、永松武雄画)が大人気となる[2]

この頃の紙芝居は一枚一枚手書きで、大きさも現在の半分ほどだった。紙芝居業者が紙芝居の作家や画家を雇い、「貸元」として紙芝居屋に有料で紙芝居を貸し出し営業させるという制度も、1930年(昭和5年)に始まる。1935年(昭和10年)の東京市の調査によれば、市内に約二千人の紙芝居業者が居たという。しかし子供の興味をひきつけるための荒唐無稽なストーリーや過激な表現が教育上問題とされるようになる。また路上で水飴や煎餅を売り歩いていたことで衛生上の問題も指摘された[1]
「平絵」の紙芝居
街頭紙芝居

「紙芝居屋」にはトーキーの隆盛で追われた活弁士や不況による失業者なども多く、子供たちからは紙芝居のおじさんと呼ばれていた。紙芝居のおじさんは自転車に紙芝居と水飴などの駄菓子を積んで街頭を回って、拍子木を打ったり法螺貝を吹いたりして子供を集めて駄菓子を売り、人数が集まれば紙芝居を始めた。紙芝居のおじさんはたいてい話が佳境に入ったところで「続きはまた来週」と話を止め、次回に期待させた。

紙芝居屋が町を回って子どもを集め、駄菓子を売って紙芝居を見せる、という営業形態が成り立つのは、小銭を持って子どもが簡単に集まってくる場所に限られた。姜竣は農村には紙芝居はなかったとしている[3]

主な作品

魔法の御殿:後藤時蔵脚本・永松健夫画。なお脚本は口伝でひろめられた。

黒バット:鈴木一郎脚本。白骨面に黒マントの怪盗が活躍する紙芝居。

黄金バット:黒バットを倒した正義のヒーロー。鈴木一郎脚本、永松健夫画。後期の『黄金バット ナゾー編』は鈴木一郎原作で加太こうじが脚本と絵を担当した。

世界

少年タイガー

墓場奇太郎(ハカバキタロー):民話『子育て幽霊』を紙芝居向けに脚色した作品。ゲゲゲの鬼太郎#誕生の経緯も参照。

内容

男の子向け - 活劇もの、冒険物語、時代劇

女の子向け - 悲劇もの、継子いじめ、孝行美談、怪談、悲話

幼児向け - 漫画

教育紙芝居(印刷紙芝居)

やがて紙芝居を教育目的に取り入れようとする動きが出てくる。教会の日曜学校で伝道活動をしていた今井よねは、子供たちが街頭紙芝居を楽しんでいるのを見て、1933年(昭和8年)年、「紙芝居刊行会」を設立して紙芝居『クリスマス物語』(今井よね編集、板倉康夫画)を制作。これが日本初の印刷紙芝居だった[1]

松永健哉は今井の福音紙芝居に影響を受け、1937年(昭和12年)「日本教育紙芝居連盟」を設立。教育紙芝居運動を進める[4]。 高橋五山は全甲社という出版社を興し、1935年(昭和10年)、「幼稚園紙芝居」全10巻を発行した。高橋は幼稚園に売り込むが当初は下品な街頭紙芝居のイメージがあり、門前払いされることが多かったという。その後、教育紙芝居は保育現場で急速に普及、昭和20年代には保母が幼児にせがまれるまま紙芝居ばかり読んでいる「紙芝居中毒」を指摘されるまでになった[5]

その後、日本教育紙芝居連盟を母体に「日本教育紙芝居協会」が設立されると、体制擁護の姿勢を取り、戦時中は戦意高揚のプロパガンダとして国策紙芝居が全国で演じられた[4]
戦後

戦争に協力していた日本教育紙芝居協会は批判を受け、1945年(昭和20年)12月に自発的に解散した。GHQはメディアの検閲を始めたが、紙芝居も大量処分され、検閲印の押されたものが実演許可された。1946年(昭和21年)頃から復活した街頭紙芝居は人気を集めたものの、エロ・グロ描写によりたびたび問題とされるようになる。やがてテレビが普及すると街頭紙芝居は姿を消していく[1]

1950年(昭和25年)には、高橋五山、佐木秋夫、稲庭桂子らが「教育紙芝居研究会」を結成し、再び保育の現場で印刷紙芝居が利用されるようになった[4]
手づくり紙芝居

1960年代になるとTVの台頭で街頭紙芝居が廃れたのち、母親が我が子やその友達のために作って見せる「手づくり紙芝居」が各地で作成されるようになり、サークルなどもできはじめた。紙芝居の双方向性が見直され、自治体や公共図書館が主体となって「紙芝居まつり」や「手づくり紙芝居コンクール」などのイベントを中心に、全国各地の個人・団体が活動しており、地道に力を伸ばしつつ、紙芝居文化を継承している。
手づくり紙芝居コンクール


神奈川県手づくり紙芝居コンクール

箕面手づくり紙芝居コンクール

手作り平和紙芝居

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