竹下登
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日本の政治家竹下 登たけした のぼる
1988年、アムステルダム・スキポール空港にて
生年月日1924年2月26日
出生地 日本 島根県飯石郡掛合村
没年月日(2000-06-19) 2000年6月19日(満76歳没)
死没地 日本 東京都港区
出身校早稲田大学商学部
前職掛合中学校教員
所属政党自由民主党
称号正二位
大勲位菊花大綬章
商学士(早稲田大学・1947年
名誉博士中国人民大学1994年
配偶者竹下直子後妻
親族竹下儀造祖父
竹下勇造
武永貞一伯父
竹下亘異母弟
DAIGO影木栄貴
北川景子(孫の妻)
サイン
第74代 内閣総理大臣
内閣竹下内閣
竹下改造内閣
在任期間1987年11月6日 - 1989年6月3日
天皇昭和天皇
今上天皇(明仁)
第90代 大蔵大臣
内閣竹下内閣
在任期間1988年12月9日 - 1988年12月24日
第86-87代 大蔵大臣
内閣第1次中曾根内閣
第2次中曾根内閣
第2次中曾根第1次改造内閣
第2次中曾根第2次改造内閣
在任期間1982年11月27日 - 1986年7月22日
第84代 大蔵大臣
内閣第2次大平内閣
在任期間1979年11月9日 - 1980年7月17日
第38代 建設大臣
内閣三木内閣
在任期間1976年1月19日 - 1976年9月15日
その他の職歴
第38代 内閣官房長官
1974年11月11日 - 1974年12月9日
第35代 内閣官房長官
1971年7月5日 - 1972年7月7日
衆議院議員
1958年 - 2000年6月2日
島根県議会議員
1951年 - 1958年)
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竹下 登(たけした のぼる、1924年大正13年)2月26日 - 2000年平成12年)6月19日)は、日本政治家位階正二位勲等大勲位

島根県議会議員(2期)、衆議院議員(14期)、内閣官房長官(第3538代)、建設大臣第38代)、大蔵大臣(第84868790代)、内閣総理大臣第74代)、自由民主党幹事長自由民主党総裁(第12代)などを歴任した。


目次

1 概要

2 来歴・人物

2.1 生い立ち

2.2 帰郷

2.3 政界への進出

2.4 新派閥経世会の誕生

2.5 内閣総理大臣

2.6 総理大臣退任後


3 エピソード

4 略歴

4.1 受賞歴


5 栄典

6 家族・親族

6.1 竹下家

6.2 親戚

6.3 略系図


7 語録

8 著書

9 脚注

9.1 注釈

9.2 出典


10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク


概要

自由民主党の最大派閥であった経世会の創設者。総理大臣としてはふるさと創生1億円消費税導入などを行った。リクルート事件により総辞職したが、その後も政界に甚大な影響力を誇り、経世会支配の時代を築いた。

昭和最後の内閣総理大臣であり、平成改元の際の内閣総理大臣でもある。
来歴・人物
生い立ち

島根県飯石郡掛合村(現・雲南市)に父・竹下勇造、母・唯子の長男として生まれた。竹下家は300年つづいた旧家で、江戸時代には庄屋を務め、幕末1866年から[1]代々造り酒屋を営んでいる[2]。登は竹下家12代当主である[3]

1941年昭和16年)、旧制島根県立松江中学校を卒業する。

旧制松江高等学校を受験するも失敗し、1年間の浪人生活をおくったのち、第一早稲田高等学院に入学。

1944年(昭和19年)4月早稲田大学商学部に入学。その直前の3月素封家の娘・竹内政江と学生結婚をする[4]

1944年(昭和19年)8月、軍隊に入ると同時に、陸軍特別操縦見習士官の第四期生に志願する[4]飛行第244戦隊に在隊。

1945年(昭和20年)3月、実母・唯子が41歳で京都の病院で死去[5]

1945年(昭和20年)5月、妻・政江が自殺。妻の自殺理由に関する噂は生涯、竹下を苦しめた。自殺する少し前、舅・勇造による執拗な“交渉”に思い悩んでいた政江は、竹下に相談するため、わざわざ島根から上京していたが、竹下は「お前の方に問題がある」と逆に叱責したという[6]

1946年(昭和21年)1月、遠縁にあたる遠藤直子と結婚。同年11月、大学在学中掛合村の農地委員に立候補し、当選。戦後の農地解放地主生まれでありながら率先して取り組む。

1947年(昭和22年)9月、早稲田大学商学部を卒業する、商学士(早稲田大学)。
帰郷

郷里・島根に帰り1947年(昭和22年)12月より地元掛合中学校代用教員英語科)となる。後日内閣総理大臣に就任した際に「元中学校の英語教師が日本の総理大臣になる」と世界中のマスコミに報道され、外国で英語でスピーチを行ったこともあるが、実際の英語力は時代背景もあるがお粗末なものだったらしい。

かたわら、青年団活動に身を投じた。岩瀬達哉著『われ万死に値す?ドキュメント竹下登』77ページに当時の教員仲間の証言がある。元同僚教師は「そもそも竹下先生が代用教員となったのは、青年団運動をやるためだったと聞いています」、「普通、青年団の活動というのは一日の仕事を終えた夕方からはじまるものです。竹下先生はそれまでの間何をするでもなくブラブラしていた。大学まで出て昼間から遊んでいたのでは何かと世間体が悪い。ですから当時掛合中学の校長だった鹿田三郎さんが心配して代用教員の職を世話したのです」と述べている。その時の鹿田校長は竹下に「ここらは田舎だからDDTPTAの違いが分かれば良い」と、代用教員になることを依頼したという。

のちに竹下の側近として活躍した野中広務とは既にこの時代に知り合っている(野中と時間を打ち合わせして同じ山陰本線夜行列車で上京したこともある。また野中の妻は竹下の掛合中学校の代用教員時代の教え子の一人である)。ほかにも鳥取県野坂浩賢千葉県浜田幸一とも青年団活動を通じて親しくなり、国会活動の際には党派をこえた友情関係があったとされる。
政界への進出

奥出雲の山林大地主である田部長右衛門(第23代)1959年より島根県知事を3期12年務めた)より、強い支援を得て政界へ進出。島根県議会議員2期を経て、島根県全県区から第28回衆議院議員総選挙に34歳で立候補し、1958年(昭和33年)5月に初当選。同じく初当選を飾った金丸信安倍晋太郎とは終生深い信頼関係を築く。その後も衆議院議員総選挙で、連続14回当選した(最後の選挙区は小選挙区制になっての初の選挙で島根2区から出馬)。

自民党内では佐藤派、後に田中派に所属。師とあおいだ佐藤栄作と、佐藤派五奉行の1人で早大雄弁会の先輩でもある橋本登美三郎の寵愛をうける。1964年(昭和39年)11月佐藤内閣が誕生すると、内閣官房長官に就任した橋本の推薦で内閣官房副長官となり、次代をになうニューリーダーとして次第に頭角をあらわす。

また、長女・一子が金丸信の長男・康信に嫁ぎ、金丸信との盟友関係はより一層強固なものとなった。この結婚は佐藤栄作の妻・寛子のすすめによるという。

1971年(昭和46年)7月、47歳で第3次佐藤内閣内閣官房長官として初入閣。田中内閣でもふたたび内閣官房長官となる。その後も三木内閣建設大臣第2次大平内閣大蔵大臣を歴任した。中曽根内閣では4期連続して大蔵大臣に就任。在任中は1985年(昭和60年)にドル高是正のために先進5カ国の「プラザ合意」に参加するなどした。
新派閥経世会の誕生

1985年(昭和60年)2月、派閥領袖の元首相・田中角栄に反旗をひるがえすかたちで、金丸らの協力を得て田中派内に勉強会「創政会」を結成。当初はなかなか煮え切らない竹下の態度を周囲は心配したが、田中との会談中「俺がもう一回やってからお前がやれ」との発言に決意を固めたといわれている。反田中派の動きに激昂した田中の猛烈な切り崩しに遭うも、田中はそのさなかに脳梗塞で倒れる。

やがて田中派内部は派閥会長の二階堂進派と創政会派、そして派内融和の中間派の三つにわかれる。その後、二階堂と竹下はしのぎを削るが二階堂は高齢で資金力が乏しく、また田中の威光が弱まった結果、中間派を取り込んだ竹下は1987年(昭和62年)7月、「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下派には田中派141人のうちの118人が参加し党内最大派閥の領袖となった。田中の意に反した竹下派への参加を潔しとしない田中派メンバーは徹底的に追い詰められ、田中派会長の二階堂を中心とする少人数のグループ(二階堂グループ)へと転落した。

このときのメンバーだった橋本龍太郎小渕恵三梶山静六小沢一郎羽田孜、そして田中側近の小沢辰男に近いことから当初参加せず後から参加した奥田敬和、口が軽いとみられ早稲田の後輩ながら誘われなかった渡部恒三は後に竹下派七奉行と呼ばれた。後の幹部に野中広務綿貫民輔村岡兼造らがいた。また、のちに民主党代表となる鳩山由紀夫岡田克也も若手として所属していた。

このころ新人代議士となった武村正義石破茂は田中派新人候補として衆院選出馬を希望したが滋賀県全県区山下元利鳥取県全県区平林鴻三がそれぞれの選挙区で田中派現職だったため、武村には安倍派会長安倍晋太郎を、石破には中曽根派幹部渡辺美智雄を紹介し国政進出のチャンスをあたえた。
内閣総理大臣1988年トロントサミットに出席訪米時に政府専用機として使用された日本航空マクドネル・ダグラス DC-10型機からおりる竹下と妻・直子

経世会を結成した1987年(昭和62年)の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人をおさえ第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任。首相としては初の地方議会議員出身者で、同時に初の自民党生え抜き(初当選は保守合同後初の総選挙:1958年5月)であった。また竹下は昭和最後の総理大臣でもあった。

激しい党内抗争を間近で見てきた経験から、政権発足にあたって「総主流派体制」を標榜、総裁選を争った安倍を幹事長、宮澤を副総理・蔵相に起用するなど各派閥から比較的均等に人材を起用。加えて自派の強固な支えもあって盤石な政権基盤を持つと考えられた竹下内閣は、長期政権になるとの見方が一般的だった[7]

首相時代の答弁は「言語明瞭・意味不明瞭」と評され、回りくどい表現が多いことで有名だった。

おもな施策では、全国の市町村に対し1988年(昭和63年)から1989年平成元年)にかけて地方交付税として一律1億円を支給するふるさと創生事業を実施。また、野党や世論に強硬な反対意見が多かった税制改革関連法案強行採決で可決し、日本初の付加価値税である消費税を導入。日米貿易摩擦の懸案の一つだった牛肉オレンジについて、日米間の協議で輸入自由化することで合意の3点があげられる。

消費税導入前夜、竹下は、親交のあった西部邁に会い、「竹下さんは地獄を見た方だから、消費税導入はできる。むしろ彼でなければできないでしょう」「腹をくくれ」と迫られ、「くくった」と呼応していた。[8]

消費税導入では支持率を落としながらも何とか乗り切ったが、1988年(昭和63年)に発覚したリクルート事件が予想外の広がりを見せ、政治不信が高まった。竹下自身の疑惑も追及され、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が1989年(平成元年)4月26日自殺している。

こうした状況のなか内閣支持率調査で3.9%という数字も現われ、他の調査でも7%[9]程度の数字まで落ち込むまでにいたり、財界も石原俊(経済同友会代表幹事、日産自動車会長)らが公然と竹下の退陣をせまり、1989年(平成元年)6月3日に内閣総辞職に追い込まれた。内閣総辞職直前には竹下登邸周辺でデモもおきた。この竹下邸は旧佐藤栄作邸である。

なお、現職首相として靖国神社に参拝しなかったのは石橋湛山以来。
総理大臣退任後

首相辞職後も表向きは「玉拾いに徹する。」と言いつつも、宇野宗佑海部俊樹宮澤喜一という歴代の内閣誕生に関与するなど、政権に強い影響力を持っていた。しかし、1992年(平成4年)に東京佐川急便事件が発覚。1987年(昭和62年)の総裁指名に関連したほめ殺しで知られる皇民党事件が報道されるなど、ますます政界不信が高まり自民党支持が減る原因となった。

1992年(平成4年)10月、東京佐川急便からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなった。竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などを行い、小渕を強引な形で後継会長に据えた。これに反発した小沢、羽田らが新派閥・改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂した。竹下は国会で皇民党事件に関して証人喚問を受けた。折から政治不信が高まり、政治改革関連法案の成立が急務となったが、1993年(平成5年)の通常国会での成立が困難となり、小沢・羽田派は会期末の6月宮沢改造内閣に対する不信任案に賛成し自民党から離脱、新生党を結成した(党首は羽田孜)。そして同年7月18日総選挙で自民党は過半数割れし、新生党、社会党日本新党など非自民8党連立による細川内閣が誕生。竹下はこの選挙で自民党公認が得られず無所属で立候補したが13回目の当選を果たした。

自民党は1994年(平成6年)の社会党との連立による村山内閣発足を機に政権に復帰。村山内閣誕生に竹下も深く関与したことから再び隠然たる影響力を持つようになり、村山内閣後は竹下派出身者による橋本内閣小渕内閣を実現させた。

竹下は、1999年(平成11年)4月から体調不良のため北里研究所病院に入院、表舞台に出ることは少なくなった。代わって、竹下と同じ島根県出身で「竹下の黒子」といわれていた参議院議員青木幹雄が政界の実力者として取り上げられることが多くなった。容態は次第に悪化し、4月に小渕が倒れたとの一報を聞いたことも手伝い、引退を決意する[10]。そして2000年(平成12年)5月1日、病床で録音した竹下の引退宣言のテープを、当時の小渕派の最高幹部たちが本人不在のなかで記者会見において発表した。そこで次回の衆議院議員選挙に立候補しないことを表明し、政界からの引退を宣言した。引退表明後は議員でなくなったことで気力が失われたのか急激に弱っていったという[11]

第42回総選挙期間中の2000年(平成12年)6月19日、北里研究所病院にて膵臓癌、発表では脊椎変形症による呼吸不全のため死去、76歳没。6月21日に築地本願寺にて密葬が行われた。法名は顕政院釋登涯。選挙区地盤を譲られた異母弟の竹下亘錦織淳民主党)らを退け当選している。

竹下を偲び、生前交流があった関係者の好意、浄財によって、7回忌に当たる2006年(平成18年)5月、竹下登記念館が建てられた[3]
エピソード

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年2月)


初当選した衆院選の公示日に出雲市の目抜き通りで「島根に生まれ、島根に育ち、やがて島根の土になる」と第一声を上げた。

口癖は「?だわな」。これは出身地の方言(出雲弁)の影響である。

国会答弁などでは、はきはきと発言するが文章全体の意味がつかめないという、言語明瞭・意味不明瞭な竹下語を駆使し、野党に言質をあたえることがなかった。竹下の秘書出身で、のちに参議院のドンとよばれた青木幹雄にもこの傾向があったとされる。

「気配り・目配り・金配りで総理になった」といわれる人間関係の達人であり、与野党・財界・官界に幅広い人脈を持ち、どこにも敵をつくらない人物だった。他派閥の中曽根康弘によく仕え、総理時代はライバル派閥の安倍晋太郎と盟友関係を築いた。他に宇野宗佑、海部俊樹、藤波孝生河野洋平三塚博森喜朗武村正義、他党では村山富市山口鶴男矢野絢也塚本三郎などと交流があった。「反経世会」を掲げた小泉純一郎(後に首相)とも大蔵大臣-大蔵政務次官としてコンビを組んだ間柄であり、悪い関係ではなかった。

早稲田大学のOB親睦会である稲龍会の名誉会長であり、母校を通じた人脈も重要だった。岡田克也の政界入りの契機となったのは、竹下が早大の後輩として親しかった岡田元也に声をかけたことである。

宮澤喜一は竹下に対して「あなたの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」などと言い放ち、温厚な竹下も「あれは許せないよ」と怒っていたという。もっとも、その話を聞いた佐々淳行が、「でも早稲田でも試験くらいあったんでしょう?」と尋ねたところ、竹下は「それがね、無試験だったんだよ」と答えた由である[12]

清和会に所属していた作家石原慎太郎(竹下内閣で運輸大臣)も、(回顧録ほかの)独自の文章表現で、政治的な天才と評している。なお石原は宮澤をもっとも毛嫌いしていた。

1988年(昭和63年)、消費税導入が可決されるとリクルート事件の影響もあって国民から厳しい批判を浴び、内閣支持率は史上最低に落ち込んだ。しかし竹下は「消費税を導入したことは後世の歴史家が評価してくれる」と語った。実際、現在において竹下内閣の最大の功績は大平、中曽根両内閣が実現できなかった消費税導入を実現したこととする見かたが一般的である。

自社さ連立政権で行政要職経験もないまま突然内閣総理大臣の職に就いた村山富市は、同い年の竹下が党派を超えて「良き相談相手」だったと語っている[13] (竹下は1924年(大正13年)2月26日生まれ、村山は同年3月3日生まれと1週間しか誕生日が離れていない)。竹下もまた、為替問題など村山に初歩から教えたことを述懐している[14]

民主党衆議院議員の辻元清美は、これまでで一番おもしろいと思った政治家は誰かとの質問に真っ先に竹下の名前をあげている。

佐藤政権時代、ズンドコ節の替え歌を作り「講和の条約吉田で暮れて 日ソ協定鳩山さんで 今じゃ佐藤で沖縄返還 10年たったら竹下さん トコズンドコ ズンドコ」と宴席で歌っていた。田中政権の時は佐藤の部分が「今じゃ角さんで列島の改造だ」となる。

経世会の議員は中選挙区時代に自民党同士の争いになった場合でも落選することが少なかった。「選挙上手」が多いことで知られていたが、これは竹下の選挙戦略を用いていたため、といわれる。竹下自身「私の専門は選挙学」と言い、周囲から「選挙の神様」と呼ばれていた。

総理就任後、2週間も経たないうちに首相官邸にて右翼団体幹部と面会し、一部からはその見識を問う声が上がった。

長年田中派の後継者と見られていながら、頭をおさえられ耐え忍んでいたため、当時NHKで放送されていたドラマになぞらえておしんと呼ばれていたこともあった。

孫の影木栄貴DAIGOや妻の直子によると、総理に就任し帰宅した時の一声は「アイムソーリ、ボクソーリ」で、この台詞がお気に入りだったという[注釈 1]

竹下内閣消費税を導入した際、DAIGOは張本人の孫という事で学校などでは随分と責められたと言い(本人曰く「超バッシングされた」)、教師からも「お前のじいさんがあんな下らん税を導入しやがって!」となじられたという。なお、トークでこのエピソードを披露する際は、祖父の内閣支持率最低記録「8%」とを引っ掛け、「俺の学校での支持率も低下した」と回想する。

ジャーナリストの後藤謙次によれば、孫のDAIGOが髪を青く染めたとき、竹下は「おい後藤、ロックってのは髪を青くしなきゃできないのか」とたずねたという。

絶対に人の悪口をいわないことで有名だった。また、「石橋どころか二重橋でも叩いて渡る」といわれたほどの異常な慎重さでも知られる。

他人を怒らないことでも知られていた。航空隊員として出征した竹下は当時すでに結婚していたが、基地を訪ねてきた妻・政江を痛罵した。しかしそれにショックを受けた政江は、島根に帰った後自殺してしまう。このことがトラウマになった竹下は以後他人を叱れなくなったという。

リクルート事件もあって首相在任中は週刊誌を中心に金権政治批判を受けていたが、週刊誌を告訴するよう迫った側近に対し、「権力者というものはそういうことをすべきではない」と側近をたしなめた。


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