田中浩康
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田中博康」とは異なります。

田中 浩康横浜DeNAベイスターズ #67
2017年3月11日、横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本
出身地京都府木津川市
生年月日(1982-05-24) 1982年5月24日(35歳)
身長
体重177 cm
77 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手一塁手外野手
プロ入り2004年 自由獲得枠
初出場2005年4月6日
年俸2,200万円(2018年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


尽誠学園高等学校

早稲田大学

ヤクルトスワローズ
東京ヤクルトスワローズ
(2005 - 2016)

横浜DeNAベイスターズ (2017 - )

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田中 浩康(たなか ひろやす、1982年5月24日 - )は、京都府木津川市出身のプロ野球選手内野手)。右投右打。横浜DeNAベイスターズ所属。ヤクルト時代


目次

1 来歴・人物

1.1 プロ入り前

1.2 ヤクルト時代

1.3 DeNA時代


2 詳細情報

2.1 年度別打撃成績

2.2 年度別守備成績

2.3 表彰

2.4 記録

2.5 背番号


3 脚注

4 関連項目

5 外部リンク


来歴・人物
プロ入り前

小学校2年生のときに野球を始める。中学2年になる春に千葉県から京都府木津川市木津第二中学校に転校し、ボーイズリーグのチーム、奈良スターズ(現・南京都ニュースターズ)に入団する。

高校は香川県尽誠学園高等学校に入学し、1年時と2年時に二塁手として全国高等学校野球選手権大会に出場[2]

2001年早稲田大学に入学。1年春から二塁のレギュラーに定着し、東京六大学リーグ戦の全試合に出場。3年秋にベストナインに選出。青木宣親と1・2番、また鳥谷敬と二遊間を組み、走攻守揃った二塁手として活躍する。4年時にはキャプテンを務め、鳥谷が抜けた後のショートも担った。史上24人目となる大学通算100安打以上を放つ。大学通算95試合出場、368打数102安打、打率.277、6本塁打、44打点。

また、大学時代は1年春の開幕明大1回戦に1番セカンドで出場(4打数4三振)して以来、全試合全イニング出場のまま4年秋のシーズンを迎え、「鉄人」とも呼ばれたが、同シーズンの法大戦で左手に死球を受け骨折、その後も試合出場は続けたものの、かすり傷の影響で全イニング出場は叶わなかった。

2年時(2002年)に第1回世界大学野球選手権日本代表メンバーに選出。2年 - 3年時(2002年 - 2003年)の2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表メンバーに選出される。

2004年11月17日に行われたプロ野球ドラフト会議で、ヤクルトスワローズが自由獲得枠で田中の独占交渉権を獲得。交渉の結果、契約金1億5,000万円(出来高分の5000万円を含む)、年俸1,500万円(金額は推定)という最高の条件で入団した[3]
ヤクルト時代2008年バッティングフォーム

2005年は開幕一軍入りを果たすも、出場機会を得られないまま5月限りで二軍落ちとなる。一時不調に陥るが、8月にはイースタン・リーグで月間MVPを獲得。二軍では新人ながら打率.286の成績を残した。

2006年はオープン戦が絶好調で、WBCで怪我をした岩村明憲の不在もあり、2番二塁手で初の開幕スタメンの座を掴んだが、岩村の復帰までに結果を残せず、以降はグレッグ・ラロッカが本来の二塁に入りポジションが空かず、二軍落ちとなった。しかし7月に宮本慎也の怪我により空いた遊撃手として一軍へ昇格。その後、宮本が復帰すると一時スタメンから外れるが、今度はラロッカが離脱。結果的に一軍に定着し、公式戦初本塁打を放つなどの活躍を見せ、9月には5番での起用もなされた。最終的に75試合出場、打率.266、5本塁打、22打点と結果を残した。

2007年はラロッカが退団し、開幕から二塁手のレギュラーとして起用される。春先は去年同様にオープン戦絶好調でありながらシーズン開幕後パッタリ当たりが止まり併用になるが、5月ごろには本来の力を発揮し、レギュラーに定着した。中盤に2番二塁手として、早稲田大学時代に1・2番を組んだ1年年上の青木と再びスワローズで1・2番を組み、8月25日には自身初のサヨナラヒットを放つなど、チームに欠かせない戦力となった。3年目にして自身初の規定打席に達し、132試合に出場して、打率.295、5本塁打、51打点、また、リーグ最多の51犠打、8三塁打を記録。初のベストナインにも選出された。

2008年は開幕で3安打猛打賞を記録すると、4試合で11安打を放つなど打率が急上昇。4月終了時点で打率4割を維持していた。夏場でも3割を保ち、後半失速するも.290の高打率を残した。守備に関しても前年の8失策から半減の4失策で守備率.995とリーグトップ、守備機会も両リーグトップの堅守を魅せた。チームで唯一の全試合出場を果たした。一方で、同年監督に就任した高田繁が、足を使う野球を浸透させチームは12球団一の総盗塁数を残すものの、自身は4盗塁7盗塁刺の結果に終わってしまい上位打線を担える選手だけに盗塁技術向上が今後の課題となった。オフには守備の評価が球団と食い違い、12球団初の契約更改保留者となった。この年の8月に開催された北京オリンピック野球日本代表の1次候補に名前が挙がる。

2009年も開幕から二塁のレギュラーでスタート。当初は7番だったが、川島慶三の不振で7月からは2番に定着した。8月までは打率.282と例年並みの成績を残すが、9・10月に月間打率.172と失速し、打率.258、4本塁打と自己最低の成績に終わり、打撃に課題が残る年となった。犠打の成功率が高く、38犠打でリーグ最多犠打を記録した。守備では積極的にボールに飛びつく堅守で幾度となくチームを救い、7月10日の横浜戦では、同点の9回表一死一、三塁のピンチで二塁ライナーをジャンピングキャッチし、チームのサヨナラ勝ちにつなげた。失策はわずか3、守備率.996は2年連続二塁手部門でリーグ最高だった。

2010年は開幕当初から打撃好調でスタートを切り、チームが貧打で低迷する中でも打率3割を維持しチームの要として活躍。一時は打率が自身最高となる3割2分台まで引き上げ終盤の失速を補い、自身初のシーズン通しての打率3割を記録した。また、長打力の低い打者でありながらリーグ3位の67四球を選ぶなど、選球眼の良さを発揮し、自己最高の出塁率.385を記録。守備でも堅守の印象を強めたもののその半面でイージーミスも増えてしまった。

2011年は打撃面で不調が続き、打率.252という低調な成績に終わった。それでもリーグトップの62犠打(歴代3位)を記録するなど、2番打者としてチームに貢献した。

2012年はチームの新たな方針として1番打者に指名される。しかし、シーズン途中からラスティングス・ミレッジ比屋根渉雄平が1番に座ることとなり、例年通り繋ぎ役として2番に固定された。6月23日の巨人戦で通算250犠打を達成するなどリーグトップの40犠打を記録。


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