生長の家
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宮城事件は信者の田中静壱が鎮圧した[15]根本博は生長の家の教義にしたがい終戦後も内モンゴルソビエト連邦と戦った。
戦後の法人化と政治への参加

戦後は西洋思想家の著作の邦訳も行っていたが、その翻訳作業の助手の募集を見た者の中に、後に雅春の養嗣子となり、第2代総裁となった荒地清超(後の谷口清超)がいた。清超は1946年(昭和21年)に雅春の一人娘の恵美子と結婚する。

1949年(昭和24年)に「生長の家教団」として宗教法人格を得て、組織の再構築を行った。その後は妊娠中絶反対運動などでも積極的に政治活動を行うようになり、伊勢神宮の神器の法的地位の確立(一宗教法人の私物ではなく皇位継承と特別な関係のあるものと主張)や、靖国神社国家護持運動など右派活動を行った[16]。さらに、建国記念の日の制定や、元号法制化に教団を挙げて協力した他、「優生保護法廃止(堕胎禁止・反優生学)」「帝国憲法の復原・改正」を掲げて生長の家政治連合(生政連)を結成し玉置和郎村上正邦田中忠雄寺内弘子自由民主党公認候補として参院選に送り込んだ(この付近の経緯は、公明党を生んだ創価学会とよく似ている。公明党の前身は創価学会文化部から出た無所属議員である)。

1978年(昭和53年)の第2回相愛会男子全国大会(日本武道館で開催)の時には、玉置和郎中川一郎黛敏郎また130名程の国会議員が参加し、渡米中だった、時の首相・福田赳夫から祝電が届いた。

また、学生運動が再高揚した1969年(昭和44年)には、生長の家学生会全国総連合(生学連)を中心に生長の家青年会生長の家政治連合の後押しを受け、他の保守系諸団体と共に全国学生自治体連絡協議会(以下「全国学協」)[17]を結成し、「学園正常化」と「YP体制打倒」「反近代・文化防衛」を掲げて、全国の大学で全日本学生自治会総連合と激しく衝突した[17]

日本青年協議会(以下日青協)は[18]ただし、組織的には生長の家教団とは全く無関係の組織である。また、日青協の学生組織である反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)は、全国学協内の路線対立、分裂によって生まれた組織である。1973年(昭和48年)に、全国学協中執を中心とする一派が自立草莽・実存民族派路線、反米帝・民族解放路線[19]を採択したのに対し、もう一派は、反ヤルタポツダム・反憲・民族自立路線の下に新たに反憲学連を結成した。

現在、日青協や、伊藤哲夫の興した「日本政策研究センター」は、「日本を守る国民会議」の後継団体である日本会議の加盟団体として、神社本庁やその傘下の神道政治連盟念法眞教仏所護念会崇教真光キリストの幕屋等、生長の家以外の保守的宗教団体と強い関係を構築している。保守的宗教団体に数えられることもある世界基督教統一神霊協会原理研究会とも、全国学協の草創期に一時部分的に共闘したことがある[20]
政治活動の撤退と「国際平和信仰運動」の提唱

1978年に雅春は生長の家総本山に移住し政治活動の一線から退いた。生長の家の政治運動には初期から内部での路線対立は存在した[21]が、この頃から政治運動に積極的な「飛田給派」と否定的な「教団派」(本部派)の対立が激しくなる。しかし、1982年時点では教団派の理事長が更迭されるなど飛田給派の影響力が強かった[22]。なお、飛田給派と本部派の名称の由来はその拠点となった場所がそれぞれ「生長の家飛田給道場」と「生長の家本部」だったからである。

1983年(昭和58年)、当時の理事長の徳久克己は飛田給道場の創設者ということもあり飛田給派の人間であると見られていた[23]が、優生保護法改正を巡って自由民主党と対立したことを理由に、生長の家政治連合の活動を停止を決断した[23]1985年(昭和60年)6月17日に雅春が死去し、娘婿の清超が第2代の総裁に、妻の恵美子が第2代の白鳩会総裁に就任。同年、日本を守る国民会議から脱退し生長の家は自民党やその支持団体と距離を置くようになった。

1988年(昭和63年)4月26日には雅春の妻で初代白鳩会総裁の輝子が死去。その後1990年平成2年)11月22日には、清超の次男の谷口雅宣[24]が副総裁に就任し、清超と共に講習会への講師としての出講を行うようになっていく。


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