熊本藩
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熊本藩
外様
52万石 熊本藩の位置

熊本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した。52万。1871年肥後国熊本県)の球磨郡天草郡を除く地域と豊後国大分県)の一部(鶴崎佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城熊本市)に置かれた。
目次

1 歴史

1.1 戦国前期:菊池氏、阿蘇氏、相良氏の分割統治

1.2 戦国期:佐々成政の統治

1.3 戦国期:加藤・小西の二分統治

1.4 戦国期:加藤氏の統治


2 江戸期:細川氏の統治

3 明治以降

4 藩邸及び江戸での菩提寺

5 歴代藩主

5.1 加藤家

5.2 細川家


6 支藩

6.1 宇土藩

6.1.1 歴代藩主


6.2 肥後新田藩、のち高瀬藩

6.2.1 歴代藩主



7 家老等

7.1 藩主一門

7.2 上卿三家

7.3 重臣


8 領地

9 関連史料

10 脚注

10.1 注釈

10.2 出典


11 参考文献

12 関連項目

13 外部リンク

歴史 加藤清正公像。熊本城の入口の一つである御幸橋のそばにある。 熊本城
戦国前期:菊池氏、阿蘇氏、相良氏の分割統治

戦国大名となった各氏(菊池氏阿蘇氏相良氏)は、北部、中部、南部と各々に拠点を構えて、ほぼ平穏な戦国前期を送っていた。やがて菊池氏は阿蘇氏に飲み込まれる形となったが、阿蘇氏も身内の後継争い・内紛を繰り返し、最終的には豊後国大友氏によって旧菊池領は平定され、阿蘇氏もその影響下に入った。南で鹿児島・島津などの盾となっていた相良氏だったが、鉄砲伝来後、近代兵器を持った島津軍になすすべなく降伏。阿蘇氏も島津軍に次々と城を落とされ滅亡した。(九州平定 (日本史)

九州平定の寸前で島津軍は、大分・大友の要請により挙兵した秀吉の大軍に敗れ、肥後を放棄した。(秀吉の九州平定
戦国期:佐々成政の統治

豊臣秀吉より富山城主であった佐々成政に肥後の統治が命じられた。しかし佐々成政が改革を急ぐあまり反感を買い、肥後国人一揆が起きた。秀吉は、加藤・小西に鎮圧を命じ、一揆は収束。佐々成政は責任を取らされて自害させられた。
戦国期:加藤・小西の二分統治

肥後を平定した両氏は、肥後の所領を与えられ、加藤はおもに北部、小西は中南部を所領にした。慶長5年(1600年)、肥後南部24万石を領していた宇土城小西行長は、西軍につき、関ヶ原の戦いで西軍の敗将となり斬首、改易となった。
戦国期:加藤氏の統治

すでに肥後北部25万石を領有していた隈本城主加藤清正が、関ヶ原の戦いの戦功により行長の旧領を獲得し、また豊後国内にも鶴崎など2万石を加増され、52万石を領したことにより当藩が成立した。

清正は日本三名城に数えられる熊本城を築いた。また、城下町や道路網を整備し、新田開発、灌漑用水の整備により治水を図り、統治を安定させた。土木建設に力を注ぎ領内基盤整備の礎を築いた「清正公さん」(せいしょこさん)の人気は、今日の熊本においても非常に高い。

その一方で、近年の加藤清正研究では、朝鮮出兵に対応するために作られた動員・徴税体制や重臣達を支城主にして大きな権限を与える仕組みが百姓に重みになってのしかかり、更に関ヶ原の戦いやその後の天下普請などに備えるためにこの体制が解消されることなく継承され、農村の疲弊や重臣達の権力争いの原因となったことなど、清正治世の問題点も指摘し始めている[1]

加藤家2代忠広は、寛永9年(1632年駿河大納言事件に連座したとされる罪で改易され出羽国庄内に配流、加藤家は断絶した。
江戸期:細川氏の統治

代わって同年豊前国小倉藩より、細川忠利が54万石で入部し、以後廃藩置県まで細川家が藩主として存続した。国人の一揆が多く難治の国と言われていた熊本入部に際しては、人気のあった加藤清正の統治を尊重し、清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国し、加藤家家臣や肥後国人を多く召抱えたという。細川氏は、手永(てなが)という独自の地方行政制度を敷いた。

熊本藩には上卿三家といわれる世襲家老がおかれていた。松井氏(まつい:歴代八代城代であり、実質上の八代支藩主であった)・米田氏(こめだ:細川別姓である長岡姓も許されていた)・有吉氏(ありよし)の三家で、いずれも藤孝時代からの重臣である。そのほか一門家臣として細川忠隆の内膳家と、細川興孝の刑部家があった。支藩としては、のちに宇土支藩と肥後新田支藩(のち高瀬藩)ができた。

忠利は晩年の宮本武蔵を迎え入れ、島原の乱で活躍した。忠利死去の2年後の寛永20年(1643年)忠利への殉死をめぐり、森鴎外小説で有名な阿部一族の反乱が起きた。2代光尚は7歳の綱利を残して早死したので御家断絶の危機があったが、無事に3代綱利が家督を継いだ。3代綱利の時には、赤穂浪士大石良雄らの切腹を任された。 「細川九曜」紋

5代宗孝延享4年(1747年江戸城中で人違い(九曜家紋間違い)により旗本板倉勝該に斬られて死去。弟の重賢が急遽藩主の座に就いた。この事件のため、以後は細川家では九曜紋は「細川九曜:離れ九曜」に変えた。

重賢は宝暦5年(1755年藩校時習館を開き、行政と司法を分離して刑法を改正(律令法参照)、藩の機構を整備するなどの宝暦の改革を行い、中興の祖となった。 

江戸時代を通じて熊本藩では百姓一揆が無く(島原の乱の天草は唐津藩領)、農民は豊かで領地の統治は良かった。しかし藩財政は火の車で、藩は江戸大坂の大商人からの多額の借金は何度も踏み倒しており(藩内で一揆があれば改易・御家断絶があるが、大商人の借金を返さなくとも一揆の心配はない)、大商人達からは貧乏細川と嫌われたという。

幕末には藩論が勤王党、時習館党、実学党の3派に分かれた。実学党の中心は横井小楠である。彼は藩政改革に携わったが失脚。安政5年(1858年)福井藩松平慶永の誘いにより政治顧問として福井藩に移った。文久2年(1862年)江戸留守居役らと酒宴中に刺客に襲われ一人逃亡したという罪で翌年、熊本藩士の籍を剥奪された。

また、勤王党の中心人物宮部鼎蔵元治元年(1864年)の池田屋事件で死亡。これにより時習館党が主流となったが藩論は不統一のままだった。

戊辰戦争では、薩長主導の明治新政府に加わり、江戸無血開城後は、上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦した。


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