浜松陸軍飛行学校
◇ピンチです!◇
★暇つぶし何某★

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

浜松陸軍飛行学校

1933年(昭和8年)5月、陸軍飛行学校令が改正され(軍令陸第10号)、同年8月に施行された[21]。この改正で浜松陸軍飛行学校が開設された。前述学校令の第3条で浜松陸軍飛行学校が行う教育と調査研究および試験の科目は、爆撃、爆撃操縦、爆撃器材と爆弾の取り扱い等に関する諸学術[* 7]、ならびにこれらに関する兵器および器材と定められた。設立当初における学校の編制は研究部が置かれず、陸軍航空本部長に隷属[* 8]する校長のもと、幹事、本部、材料廠、および学生であった。同校は当初、飛行第7連隊内に設置された[22]。のちに学校本部などの建物を西南方の神久呂村(現在の浜松市西区北東部)に新築するが[23][24]、浜松陸軍飛行学校は滑走路などを飛行第7連隊(あるいはその後継部隊)と共用し、最後まで飛行場の敷地内で実戦部隊との併存であった。

1935年(昭和10年)3月、陸軍中央は軍備の強化を図るため昭和十年軍備改変要領[* 9](軍令陸乙第3号)を定めた[25][26]。これにもとづき同年8月、従来の陸軍飛行学校令が廃止され浜松陸軍飛行学校令(軍令陸第13号)が施行された[27]。同令の第1条で浜松陸軍飛行学校は「学生ニ爆撃飛行隊ニ必要ナル諸学術ヲ修得セシメ(中略)且爆撃飛行隊ニ必要ナル兵器及器材ノ研究及試験ヲ行フ所トス」と定められた。同じ第1条では前項のほかに「下士官候補者ニ航空兵科下士官タルニ必要ナル教育ヲ行ヒ」かつ「航空部隊ノ運用ニ関スル教育及研究ヲ行フ」ことも規定されている。条文の文言にもとづき学生の区分に戦術学生が加わり、そのほかに被教育者には下士官候補者も含まれるようになった。学校の新編制は校長、幹事、本部、教育部、研究部、練習隊、下士官候補者隊、材料廠、学生である。

浜松陸軍飛行学校令により、同校の被教育者は次のとおり定められた(1935年8月時点)。


戦術学生

航空部隊の運用に関する学術を修習する者。航空兵科の尉官、若干名。必要に応じ、他兵科(憲兵科を除く)尉官を戦術学生とすることも可(学校令第2条)。修学期間は約6か月。通常毎年1回入校。


甲種学生

主として戦術および爆撃に関する学術を修習する者。航空兵科尉官。必要に応じ、他兵科(憲兵科を除く)尉官を甲種学生とすることも可(学校令第2条)。修学期間は約6か月。通常毎年1回入校。


乙種学生

主として爆撃操縦に必要な学術を修習する者。新たに飛行機操縦を修得した航空兵科尉官。必要に応じ、他兵科(憲兵科を除く)尉官を乙種学生とすることも可(学校令第2条)。修学期間は約3か月。通常毎年1回入校。


操縦下士官候補者

主として爆撃操縦に必要な学術を修習する者。各隊より分遣された航空兵科下士官候補者。修学期間は約3か月。毎年1回入校。


戦技下士官候補者

主として空中射撃、空中戦闘、および爆撃に必要な学術を修習する者。下志津陸軍飛行学校で戦技下士官候補者の課程を終了した者。修学期間は約6か月。毎年1回入校。


その他

臨時に各兵科(憲兵科を除く)将校以下を召集し[* 10]、必要な教育を行うことも可(学校令第4条)。

戦術学生は従来まで下志津陸軍飛行学校の担当であった。被教育者の居住は学生は校外、下士官候補者は校内と定められていた。

同年から翌1936年(昭和11年)にかけて浜松陸軍飛行学校と飛行第7連隊は従来の飛行場および爆撃場の北隣である三方原に用地を取得して爆撃場と分飛行場を整備した[28][29]。また1936年12月には同校に化学兵器に関する研究および教育を行う化兵班が設置された[30]。さらに1937年(昭和12年)4月、飛行機操縦者急速養成教育のため愛知県東春日井郡と愛知郡にまたがる本地原陸軍演習場[* 11]の一部(現在の尾張旭市南部)を分飛行場とした[31]

1938年(昭和13年)7月、浜松陸軍飛行学校令改正(軍令陸第13号)が施行された[32]。この改正で同校の被教育者から下士官候補者が除外され、学校の編制は校長、幹事、本部、教育部、研究部、材料廠、および学生となった。

浜松陸軍飛行学校令により、同校の被教育者は次のようになった(1938年7月時点)。


戦術学生

航空部隊の運用に関する学術を修習する者。航空兵科の少佐または大尉。必要に応じ、他兵科(憲兵科を除く)の将校を戦術学生とすることも可。修学期間は約6か月。通常毎年1回入校。


甲種学生

戦術および爆撃に関する学術を修習する者。航空兵科大尉。必要に応じ、他兵科(憲兵科を除く)の将校を甲種学生とすることも可。修学期間は約6か月。通常毎年1回入校。


乙種学生

爆撃操縦に必要な学術を修習する者。新たに飛行機操縦を修得した航空兵科尉官。必要に応じ、他兵科(憲兵科を除く)の将校を甲種学生とすることも可。修学期間は約3か月。通常毎年1回入校。


その他

臨時に各兵科(憲兵科を除く)将校以下を召集し、必要な教育を行うことも可(学校令第3条)。

同年12月、天皇に直隷し航空兵科専門の教育を統轄する陸軍航空総監部(以下、航空総監部と略)が設立され、浜松陸軍飛行学校はそれまでの陸軍航空本部長にかわり、陸軍航空総監(以下、航空総監と略)が管轄する学校となった[33][34]「ハマヒ」の文字を図案化した尾翼マークの浜松陸軍飛行学校九七式重爆撃機

1940年(昭和15年)7月、浜松陸軍飛行学校令が改正され(軍令陸第16号)、同年12月より施行された[35]。改正学校令の第1条では「爆撃飛行隊(軽爆撃飛行隊ヲ除ク以下之ニ同ジ)」の文言が織り込まれ、それまで重爆撃機と軽爆撃機の双方に関する教育と研究等を行ってきた浜松陸軍飛行学校は、以後重爆撃機分科のみを担当することとなった[* 12]


是非お友達にも!
★暇つぶし何某★

[次ページ]
[記事の検索]
[おまかせリスト]
[ブックマーク登録]
[mixiチェック!]
[Twitterに投稿]
[オプション/リンク一覧]
[話題のニュース]
[列車運行情報]
[暇つぶしWikipedia]

Size:93 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE