浜松陸軍飛行学校
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教導飛行師団 第4教導飛行隊

1945年(昭和20年)7月10日、軍令陸甲第103号[* 21]が下令され、それまで航空要員の教育と作戦行動を兼務していた浜松ほか各教導飛行師団は教育部隊と作戦部隊に分離改編された[60][61][62]。教育専任となったのは、それまで6個編成であった各地の教導飛行師団を統合し地名を冠称しない教導飛行師団(司令部は従来の宇都宮教導飛行師団基幹)1個とその指揮下の第1から第6までの教導飛行隊である[61][60][63]。浜松教導飛行師団は第4教導飛行隊となった[64][61]。作戦部隊としては第27飛行団司令部が浜松教導飛行師団の人員から編成された。三方原教導飛行団は編制に改正はなかった。

同年8月、御前会議ポツダム宣言の受諾が最終決定され、8月15日正午より太平洋戦争の終戦に関する玉音放送が行われた。8月18日、全陸軍は与えられていた作戦任務を解かれ[65][66]、各部隊は逐次復員を行った。

浜松陸軍飛行学校本校の跡地は、同年9月以降アメリカ軍の不時着用飛行場として使用された。1952年(昭和27年)10月、警察予備隊を改編した保安隊が同地に保安隊航空学校を開設した。1954年(昭和29年)7月、航空自衛隊が発足すると操縦、整備、通信の各学校が同地に置かれ、翌1955年(昭和30年)9月には航空自衛隊浜松基地となった。
浜松陸軍飛行学校 練習部

1939年(昭和14年)9月より欧州で第二次世界大戦が始まると、翌1940年(昭和15年)よりドイツ軍は相当数を有していたパラシュート降下部隊を対北方および西方作戦で使用し、十分な成果を得ていた。日本陸軍では以前よりソビエト連邦の同様部隊計画の情報を入手して対抗戦闘についての研究はある程度されていたが、航空事情の未成熟などが原因で自国の部隊編成までは考えられてれていなかった[67]

1940年10月欧州駐在勤務を終えて帰国した陸軍大学校教官、井戸田勇中佐陸軍大臣官邸において東條英機陸相ほか陸軍首脳に落下傘部隊を含むドイツ軍の用兵について説明し、これ以降落下傘部隊の建設が本格化することとなった[68]。参考とするドイツ軍における落下傘部隊の所属(空軍)や飛行機その他の器材等の関係により、部隊建設の担当は陸軍航空本部と定められた。同年11月末、浜松陸軍飛行学校練習部臨時編成要領(軍令陸甲第56号)が裁可された[68][69][70]

同年12月、浜松陸軍飛行学校に練習部が設置された。編制は部長(中佐または少佐)以下、部員(主計将校、軍医、軍属を含む)、教官(少佐または大尉、および尉官)であり、落下傘降下に関する調査、研究と試験、および将校と下士官からなる練習員230名前後を教育する計画であった。部員と教官には航空総監部、教育総監部、陸軍技術本部陸軍航空技術研究所陸軍戸山学校からの兼務者を含み、陸軍全体の力を結集して落下傘部隊を育成する姿勢であった[71]。また部員には医務関係者の比率が通常よりも多めに配置され、身体検査および事故に対する救急措置への配慮がなされていた[68]。練習部の初代部長には河島慶吾[* 22]中佐が補職された。

1941年(昭和16年)1月初めまでに練習部は編成を完結し、落下傘降下部隊要員は東京市牛込区にある陸軍戸山学校に移り約1か月間の訓練ののち、同市世田谷区読売遊園にあった落下傘塔を利用して降下の基礎練習を実施した。同時に浜松では落下傘降下時の飛行法等についての研究が行われた[72]。基礎的な練習および研究を終了した降下要員はふたたび浜松に集結して飛行機からの降下訓練を実施した。しかしさらに多量の要員教育を企図を秘匿しながら円滑に行うには浜松および三方原では不適当とみなされ、同年5月練習部は満州白城子陸軍飛行学校に移転した。この陸軍飛行学校練習部が陸軍挺進練習部の基幹となった。
年譜

1918年12月 - 臨時航空術練習委員が発足。

1919年3月 - 静岡県三方原に臨時航空術練習爆撃班を設置。

1925年5月 - 陸軍航空学校開設。

1925年5月 - 飛行第7連隊練習部を設置。

1926年10月 - 飛行第7連隊を静岡県浜名郡に移駐。

1933年8月 - 飛行第7連隊練習部を浜松陸軍飛行学校として独立。

1936年 - 静岡県三方原に分飛行場を設置。

1937年4月 - 愛知県東春日井郡に分飛行場を設置。

1940年12月 - 浜松陸軍飛行学校練習部を設置、落下傘降下練習を行う。

1941年5月 - 浜松陸軍飛行学校練習部を廃止、同練習部は白城子陸軍飛行学校に移転。

1944年6月 - 浜松陸軍飛行学校を浜松教導飛行師団および三方原教導飛行団に改編。

1945年4月 - 浜松陸軍飛行学校令を廃止。

1945年7月 - 浜松教導飛行師団を教導飛行師団 第4教導飛行隊に改編。

1945年8月 - 終戦。以後、逐次復員。

歴代監督官
飛行第7連隊練習部

浜松陸軍飛行学校の前身となった飛行第7連隊練習部の部長は次のとおり。

春田隆四郎 少佐:1925年5月1日
[73] - 1926年8月6日(1925年8月7日、中佐に進級)[74]

井下忠助 少佐:1926年8月6日[75] - 1928年3月24日(1927年3月1日、中佐に進級)[76][77]

値賀忠治 中佐:1928年3月24日[78] - 1929年8月1日[79]

佐藤覚一 少佐:1929年8月1日[80] - 1930年8月1日[81]

佐々誠 中佐:1930年8月1日[82] - 1931年8月1日[83]

下重長四郎 中佐:1931年8月1日[84] - 1932年8月8日[85]

本名文誠 少佐:1932年8月8日[86] - 1933年8月1日

浜松陸軍飛行学校

浜松陸軍飛行学校の設置により初代の校長は飛行第8連隊長、値賀忠治大佐が補職された。1935年8月より校長は中将または少将とされた[87]

値賀忠治 大佐:1933年8月1日[88] - 1935年8月1日

佐野光信 少将:1935年8月1日[89] - 1937年8月2日(1936年3月7日、中将に進級[90]

牧野正迪 中将:1937年8月2日 - 1938年6月1日

増野周万 少将:1938年7月15日 - 1939年8月1日 (1939年3月9日、中将に進級[91]

寺本熊市 少将:1939年8月1日 - 1940年8月1日

儀峨徹二 中将:1940年8月1日 - 1941年10月15日

須藤栄之助 少将:1941年10月15日 - 1943年1月29日

山本健児 少将:1943年1月29日 - 1944年6月10日[92]  


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