浜松陸軍飛行学校
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1919年(大正8年)1月より11月まで、ジャック=ポール・フォール[* 1]大佐を長とする「フランス航空団[* 2]」とよばれる航空教育軍事使節団が来日し[3]、教育指導、技術開発指導その他を行った際には[4][5][6]、爆撃の教育はフランス航空団の助言を取り入れ静岡県三方原で行われた。

同年4月、陸軍航空の現業軍政と専門教育を統轄する陸軍航空部が設立され[7]、同時に所沢に陸軍航空学校が開設された[8]。同校の学生は甲種、乙種、丙種にわけられ、そのうち丙種学生は機関工術、射撃、爆撃等の修習をする学生であった[9]。同年12月、陸軍航空学校教育部は分科[* 3]ごとに教育班を新設したが、爆撃班[* 4]は飛行機に適当なものがなく、業務も活発ではなかった[10]
飛行第7連隊 練習部昭和初期に使用された八七式重爆撃機

1925年(大正14年)3月、陸軍初の爆撃部隊として飛行第7連隊の新設が着手された[11]。同連隊の編制は本部、第1大隊(重爆撃機)、第2大隊(軽爆撃機)、練習部および材料廠[* 5]を予定し、所沢陸軍飛行学校で行われていた爆撃の教育と研究は飛行第7連隊練習部が担当することになった[12]。5月、練習部が設置されたが同時期すでに偵察および戦闘分科には下志津陸軍飛行学校明野陸軍飛行学校がそれぞれ設立されていたことに比べ、爆撃分科の教育と研究は遅れをとっていた。これは陸軍の航空に対する価値判断もさることながら、適当な爆撃機の配備が遅れたことが原因である[13]

飛行第7連隊は当初東京府北多摩郡立川町に置かれ[14][15]1926年(大正15年)10月、静岡県浜名郡曳馬村(現在の浜松市中区北西部)に移駐した[16][17][* 6]。練習部における教育は被教育者を「修業員」として入隊させるかたちをとって行われた[18][19][20]
浜松陸軍飛行学校

1933年(昭和8年)5月、陸軍飛行学校令が改正され(軍令陸第10号)、同年8月に施行された[21]。この改正で浜松陸軍飛行学校が開設された。前述学校令の第3条で浜松陸軍飛行学校が行う教育と調査研究および試験の科目は、爆撃、爆撃操縦、爆撃器材と爆弾の取り扱い等に関する諸学術[* 7]、ならびにこれらに関する兵器および器材と定められた。設立当初における学校の編制は研究部が置かれず、陸軍航空本部長に隷属[* 8]する校長のもと、幹事、本部、材料廠、および学生であった。同校は当初、飛行第7連隊内に設置された[22]。のちに学校本部などの建物を西南方の神久呂村(現在の浜松市西区北東部)に新築するが[23][24]、浜松陸軍飛行学校は滑走路などを飛行第7連隊(あるいはその後継部隊)と共用し、最後まで飛行場の敷地内で実戦部隊との併存であった。

1935年(昭和10年)3月、陸軍中央は軍備の強化を図るため昭和十年軍備改変要領[* 9](軍令陸乙第3号)を定めた[25][26]。これにもとづき同年8月、従来の陸軍飛行学校令が廃止され浜松陸軍飛行学校令(軍令陸第13号)が施行された[27]。同令の第1条で浜松陸軍飛行学校は「学生ニ爆撃飛行隊ニ必要ナル諸学術ヲ修得セシメ(中略)且爆撃飛行隊ニ必要ナル兵器及器材ノ研究及試験ヲ行フ所トス」と定められた。同じ第1条では前項のほかに「下士官候補者ニ航空兵科下士官タルニ必要ナル教育ヲ行ヒ」かつ「航空部隊ノ運用ニ関スル教育及研究ヲ行フ」ことも規定されている。条文の文言にもとづき学生の区分に戦術学生が加わり、そのほかに被教育者には下士官候補者も含まれるようになった。学校の新編制は校長、幹事、本部、教育部、研究部、練習隊、下士官候補者隊、材料廠、学生である。

浜松陸軍飛行学校令により、同校の被教育者は次のとおり定められた(1935年8月時点)。


戦術学生

航空部隊の運用に関する学術を修習する者。航空兵科の尉官、若干名。必要に応じ、他兵科(憲兵科を除く)尉官を戦術学生とすることも可(学校令第2条)。修学期間は約6か月。通常毎年1回入校。


甲種学生

主として戦術および爆撃に関する学術を修習する者。航空兵科尉官。必要に応じ、他兵科(憲兵科を除く)尉官を甲種学生とすることも可(学校令第2条)。


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