池上競馬場
是非お友達にも!
★暇つぶし何某★

[Wikipedia|▼Menu]

池上競馬場
施設情報
通称・愛称池上競馬場
所在地東京府荏原郡池上村字徳持495[1]
座標北緯35度34分10秒
東経139度42分0秒座標: 北緯35度34分10秒 東経139度42分0秒
起工1906年(明治39年)6月
開場1906年(明治39年)11月24日
閉場1910年(明治43年)
所有者東京競馬会
管理・運用者東京競馬会[2]
収容能力開場時 1号館、2号館。観客 約6,000人、厩舎は13棟180頭収容[3]。明治41年には1?3号館、厩舎21棟[4]
コース
周回右回り、1,609メートル(1マイル)
馬場1907年(明治40年)春場所までは土、1907年(明治40年)秋場所からは観客席側半面は芝[5][6]。コース幅約33.6メートル[7]
テンプレートを表示
1932年(昭和7年)の池上6?8丁目付近図。池上競馬場は1910年(明治43年)に廃止されたが1932年(昭和7年)になっても池上競馬場の痕跡が地図上にも残っている。鉄道の線路や駅の位置は現在の東急池上線東急多摩川線と同じなので池上競馬場の位置と大きさが確認できる。この地図に残っているのは競馬場のコースの内濠である。

池上競馬場(いけがみけいばじょう Ikegami Racecourse)は、1906年明治39年)から1910年(明治43年)まで東京府荏原郡池上村の南方に存在した1周1マイルの競馬場。設置・運営者は東京競馬会


目次

1 概略

2 池上競馬場が企画された背景

2.1 明治39年までの日本の競馬の概要

2.2 日露戦争と馬政

2.3 司法・内務省の抵抗


3 子爵加納久宣

4 東京競馬会の設立

5 土地と馬の用意

6 池上競馬場の施設

7 池上競馬場の開場

7.1 入場券


8 池上競馬場のレース

9 馬券

10 明治天皇と池上競馬場

10.1 帝室御賞典競走


11 馬券黙許時代

12 混乱と馬券の禁止

13 馬券禁止後の池上競馬

14 池上競馬場の閉鎖

15 資料と研究

16 脚注

16.1 注釈

16.2 出典


17 参考文献


概略

池上競馬場は東京・池上に明治時代末1906年明治39年)から1910年(明治43年)までの5年間だけ開設された、1周1マイルの競馬場である。池上競馬場の位置は現在の大田区池上6?8丁目あたり(池上駅の南方の一帯)になる。池上競馬場では日本人の手によるはじめての馬券が発売され[† 1]、日本競馬の新しい時代である馬券黙許時代(明治39?41年)を切り開いた競馬場である。

所有者/運営者は東京競馬会で、東京競馬会は加納久宜と補佐役の安田伊左衛門が中心となって1906年に設立され、東京競馬会を政府と陸軍が支援して池上競馬場は開場した。政府は後続の競馬場の模範たるべく、また、賭博の弊害を生まぬように池上競馬場を上品な競馬場にしようと観客は紳士・淑女に限るとし、入場料を高額にさせ、東京競馬会は池上競馬場に玉座や高級料理店などを設置した。競馬は毎年春と秋の2シーズンに各4日間、1日に9?12レースほどが行われた。競走馬は雑種か馬種を特定できない内国産馬(日本国内で生まれた馬)とサラブレッド系が中心の豪州(オーストラリア)産馬(いわゆる濠サラ)が主体で騎手は東京競馬会が免許を発行した騎手で主に日本人が務めた。池上競馬場以外の競馬場所属馬も出場し、一般レースのほかに初期には軍馬と軍人によるレースも行われている。

池上競馬場は大盛況で東京競馬会は高収益を上げたが、池上競馬場の盛況をみて日本各地に競馬場が乱立して混乱を招いた。1908年(明治41年)に馬券は再禁止され、馬券の売り上げ収入が無くなった日本の競馬は政府の補助金によって運営される補助金競馬時代に移り、1910年(明治43年)東京競馬会を含む東京周辺の競馬4団体が合同して目黒競馬場に集合し、池上競馬場は廃止された。「東京競馬会 池上競馬場」

明治39年(1906)、加納久宜(1848 - 1919 子爵)や安田伊佐衛門(1872 - 1958 陸軍中尉)らが発起人となって、東京競馬会を設立、荏原郡池上村の耕地に池上競馬場を建設した。同年11月から12月にかけて、同競馬場で、日本人による最初の馬券を発売した洋式競馬が開催され、大盛況を呈した。回転する2匹の競走馬(旗をさした騎士を乗せている)の玩具が描かれている。『世渡風俗圖會』では、「新發明競馬競漕運動手遊賣」という商売の中で、この玩具が描かれている。??清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「東京競馬会 池上競馬場」より抜粋[8]
池上競馬場が企画された背景
明治39年までの日本の競馬の概要

明治初期の日本では、横浜の外国人居留地で盛んに競馬が行われ(横浜競馬場)、神戸外国人居留地でも競馬は行われていた(神戸居留地競馬[9]。また、日本人の手による競馬も東京の招魂社競馬三田戸山上野のほか札幌函館、鹿児島など地方でも行われていた[10]。とくに1884年(明治17年)に開設された上野不忍池競馬は、国家的祭典とも屋外の鹿鳴館とも位置付けられるものであった[11][12]。しかし、当時の日本では馬券は非合法で売ることはできず、経営難の為に1892年(明治25年)に上野不忍池競馬は閉鎖された[13]。上野に限らず、日本人による競馬場は厳しい経営状況であった。東京では競馬場は1898年(明治31年)までにすべて閉鎖され[14]、地方でも函館、札幌などで有志の努力によって細々と競馬が行われていただけだった[15][16]

1906年(明治39年)までの日本の競馬では横浜競馬場でのみ馬券は発売されていたが、それは1899年(明治32年)までは治外法権によって、それ以降も既得権益と外交上の配慮によって馬券発売が黙許されていたことによる(横浜競馬を主催する日本レースクラブの会長はイギリス大使の兼任で日本レースクラブの主力はイギリス人であったため、当時世界最強国だったイギリスの感情を損ねることや、1902年(明治35年)に結ばれた日英同盟に影響を及ぼすことを政府は恐れた)[17]

横浜競馬場以外の日本の競馬がすべて経営難に陥り、東京では競馬が全滅した[14]のと比較して、経営も安定し順調に開催を続ける横浜競馬場の事例を見れば、競馬の開催・維持に馬券発売による利益確保が必須であることは誰の目にも明らかになっていた[10][18]


是非お友達にも!
◇暇つぶし何某◇

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:137 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:FIRTREE