江戸
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この項目では、武蔵国にあった、東京都区部の前身である地名、地域、都市について説明しています。

当地にあった城郭については「江戸城」をご覧ください。

当地に拠点を置いた武家政権については「江戸幕府」をご覧ください。

日本の歴史区分のひとつについては「江戸時代」をご覧ください。

日本の氏族については「江戸氏」をご覧ください。

惑星については「江戸 (小惑星)」をご覧ください。

日本国有鉄道→東日本旅客鉄道が保有した和式客車については「江戸 (鉄道車両)」をご覧ください。

江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 1853年の青山通り宮益坂上(左)?青山2丁目(右)、麻布長谷寺(中央下)近辺。根岸信輔蔵。

江戸(えど) [1]は、東京の旧称であり、1603年から1867年まで江戸幕府が置かれていた都市である。

現在の東京都区部の中央部に位置し、その前身及び原型に当たる。
目次

1 概要

1.1 江戸の行政・司法(および警察)

1.2 幕末の江戸と明治初頭の東京


2 歴史

2.1 徳川氏以前の江戸

2.2 徳川時代の江戸

2.3 江戸の人口


3 江戸の範囲

4 神社仏閣

4.1 神社

4.2 寺院

4.3 廟

4.4 江戸近郊


5 江戸の生活と文化

5.1 娯楽

5.2 服装

5.3 食

5.4 江戸の識字率

5.5 諺・故事成語


6 江戸から東京へ

7 江戸を題材にした作品

7.1 小説

7.2 随筆

7.3 映画・テレビドラマ


8 著名な出身者

9 小江戸

10 脚注

11 外部リンク

12 関連項目

13 関連書籍

概要

江戸は、江戸時代に江戸幕府が置かれた日本政治の中心地(行政首都)として発展した。また、江戸城徳川氏将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も天領を支配する領主である徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあり、武陽(ぶよう)と呼ばれることもあった。

徳川氏は関ヶ原の戦いに勝利し1603年に征夷大将軍となると、徳川氏の本拠地の江戸は一気に重要性を増し、徳川家に服する武将(大名)に江戸の市街地普請を命じ、山の切り崩しや入り江や湾の埋め立て等を行い、江戸の大規模な拡張を行い、旗本御家人などの武士、家臣、その家族らが数多く居住するようになるとともに、町人が呼び寄せられ、江戸は急速に拡大した。1612年(慶長17年)には江戸町割が実施され[2]1623年元和9年には武家地に町人が住むことが禁じられた。1635年(寛永12年)に参勤交代が始まると、新たに大名とその家族のための武家屋敷が建設された。

1657年3月2日(明暦3年旧暦1月19日)には、明暦の大火が発生し、多大な被害が生じたが、その後も市街地の拡大が続いた。

江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した町(下町)に大別される。江戸時代前期には、「山の手が武家屋敷で、下町が町人の町」と一般的に言われていたが、江戸時代中期以降の人口増加によって、山の手に町人町が存在(千代田区の一部が挙げられる)したり、逆に下町に多くの武家屋敷が存在するなど、実際はかなり複雑な様相を示していた。江戸の都市圏内には非常に多数の(そして多様な)町が存在するようになり「江戸八百八町」とも言われるようになり、18世紀初頭には人口が百万人を超え、世界有数の大都市(一説によると当時の世界一)へと発展を遂げた。膨大な数の庶民によって多彩な文化が開花した。また、江戸は循環型社会(リサイクルが根付いている社会)であった[3]。江戸の住人は「江戸者」「江戸衆」「江戸人」などと言ったが、江戸で生まれ育った生粋(きっすい)の江戸の人や、根っから江戸者らしい性質(小さなことにこだわらず、だが意地張りで、しばしばせっかちで短気、等々)を備えた町人が江戸っ子と呼ばれた。→#江戸の生活と文化

なお、江戸には一千を超える仏教寺院が存在した。
江戸の行政・司法(および警察)

最初、江戸の「町方支配場」の行政・司法は江戸町奉行南町奉行および北町奉行)が管理した。町奉行が管理したのは あくまで町方のみであり、神社や寺院の私有地である「寺社門前地」や江戸城・大名屋敷等の「武家地」は町奉行の管理(支配)は及ばなかった。

だがその後、1745年(延享2年)に寺社門前地内の町屋を江戸町奉行が管理することが正式に通達され、門前町町屋・寺社領町屋440箇所、寺社境内借家有の分127箇所、合計567箇所が町奉行の支配となった。江戸町方支配場・寺社門前地の町数は享保8年(1723年)に1672町、延享3年(1746年)に1678町、天保19年(1843年)には1719町に増えた。『江戸図説』によると天明年中(1785年頃)の江戸町数1650余町の内、町方分1200余町、寺社門前地分400余町で、他に大名上屋敷265ヶ所、中屋敷・下屋敷466ヶ所[注 1]、「神社凡そ200余社」「寺院凡1000余所」との記述がある。

町奉行の管理領域だけでなく、「江戸御府内」の範囲も時代によって変化があり、特に寺社門前地をどう取り扱うかについては幕府役人の間でも混乱があったことを伺わせる書簡が残っている。1818年(文政元年)には江戸御府内を「朱引」、町奉行の支配領域を「墨引」と呼び、江戸御府内であっても町奉行の支配下ではない地域が郊外にできた(これらの地域は武家屋敷と武家所領、寺社門前地と寺社所領などで、御府内であっても一部で代官支配体制が続いており、武家屋敷と共にかなりの農地が存在し、また一部では町屋を形成していたと考えられている)。また1854年安政元年以降は新吉原品川・三軒地糸割符猿屋町会所までが町奉行の支配下に入った。
幕末の江戸と明治初頭の東京

徳川幕府は実に260年ほども続いたが、幕末には内政でも外政でも、また後継者選び等でも問題が山積の状態となり混乱を来たした。

1862年(文久2年)に参勤交代が緩和され、江戸の武家人口が激減。政治的中心も京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しないような状態であった。徳川家と敵対する勢力によって一連の軍事的また政治的クーデターである明治維新が行われ、1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書によって江戸は「東京」と改称され、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された。また天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。

明治維新により徳川将軍家が静岡に転封された際にも人口が減少した。明治2年(1869年)に東京府は新たに朱引を引き直し、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めた。この時の朱引の範囲は江戸時代の「墨引」の範囲におおむね相当し、安政年間以降一時的に江戸に組み込まれた品川などは、東京とは別の町として扱われ、町数も1048(『府治類集』)に減った。翌年には、最初は京都にあった明治新政府も東京に移され、(江戸時代の200年以上、江戸は行政首都であったわけであるが、再び)日本の事実上の首都となった。1871年廃藩置県が行われ、東京府は新・東京府に置き換わった。
歴史
徳川氏以前の江戸

「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。

平安時代中期(930年代頃)に成立した『和名類聚抄』にはまだ江戸と言う地名は登場せず、豊島郡に「湯島郷」「日頭郷」、荏原郡に「桜田郷」が存在したと記されている。湯島郷は現在の文京区湯島、日頭郷は同区小日向、桜田郷は千代田区霞が関の旧称である桜田であったと推定されている。


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