江戸幕府
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江戸幕府

創設年1603年
解散年1867年
代表征夷大将軍
対象国 日本
地域 日本
前政府 豊臣政権
後政府 明治政府
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江戸城天守 日光東照宮陽明門

江戸幕府(えどばくふ)は、1603年征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。
目次

1 概要

2 幕藩体制

3 財政

4 大名

5 江戸幕府の役職

5.1 大名役

5.2 旗本役

5.3 幕末に新設された主な役職


6 江戸幕府の組織図

7 脚注

8 参考文献

9 関連項目



概要

徳川家の当主が正二位内大臣右大将に叙任され、征夷大将軍に任じられて260余りの武家大名と主従関係を結び、彼らを統制するという制度は、1600年代後半までに確立された。その将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「」、さらに両者が複合した権力の体制を「幕藩体制」と一般に呼んでいる。ただし、「幕府」及び「藩」の語は幕末期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの、江戸時代を通じて使用されていたわけではない。それまでは、将軍の政府は「公儀」「公辺」などと漠然と呼ばれていた[1]

幕府の始期及び終期については諸説あるが、征夷大将軍の任官時期に着目する場合には、家康がはじめて将軍職に任じられた1603年3月24日慶長8年2月12日)から、いわゆる王政復古の大号令によって15代将軍徳川慶喜の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府の廃止が宣言された1868年1月3日慶応3年12月9日)までとなる。終期には他にも1867年11月9日(慶応3年10月14日)に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行った時、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)の江戸開城とする説もある。

徳川将軍家が実質的に日本を支配した、この260年あまりの期間を一般に「江戸時代」と呼ぶ。江戸幕府は日本の歴史上、鎌倉幕府及び室町幕府に続く最後の武家政権である。

また、江戸幕府の統治下にあった江戸時代は江戸幕府による平和を意味するパクス・トクガワーナ(Pax Tokugawana)(en:List of periods of regional peaceを参照)とも称される。
幕藩体制 初代将軍・徳川家康

幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、将軍の政府である幕府と、将軍と主従関係を結んだ大名の政府であるで構成されていた。将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は当該知行内において独自に統治を行う権限を一定程度有した。なお、「藩」の語が公称として用いられるようになったのは明治時代のことで、公文書では「領」「領分」、あるいは「領知」などが使用された。公称としての藩は、1868年(明治元年)に公布された政体書によって設けられ、1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃止された。

江戸幕府の支配においては、将軍と大名の主従関係を確認するための軍役として、各藩大名に対して参勤交代や、築城・治水工事などの手伝普請が課せられた。

初代家康、3代家光、5代綱吉、8代吉宗、11代家斉など、親政を行ったとされる将軍も存在するが、基本的に政治の多くの部分は老中を初めとする幕閣に委ねられた。権力の集中を避けるため主要な役職は複数名が配置され、一か月交代で政務を担当する月番制を導入し、重要な決定は合議を原則とした。常置の最高職である老中及び臨時に置かれる大老、その補佐役である若年寄譜代大名から選任され、大目付・三奉行(寺社奉行町奉行勘定奉行)等の要職には譜代あるいは旗本が充てられて実務を担った。幕府組織は後期にはその全貌の把握が困難であるほど巨大化・複雑化し、幕末には老中の月番制を廃止して、国内事務・会計・外国・陸軍海軍の各総裁を専務する等の改革が行われた。

幕府は「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、自らも1大名として領分(天領・御領)を支配し、京都所司代大坂城代遠国奉行郡代代官などの地方官を設置した。
財政

初代将軍徳川家康の時期に、勘定奉行が取り仕切る勘定方が設置されたが財政は安定しておらず、赤字などによりしばしば幕政改革が行われた。

幕末の1866年(慶応2年)には既にイギリスオリエンタル・バンクの支店が横浜に設立されていたと言われ、幕府は長州征伐のため、同年同銀行と600万ドルの借款契約を締結した[2]
大名「近世大名」も参照

大名は以下のように分類された。

親藩:徳川氏の一族

譜代大名関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた大名家

外様大名:関ヶ原の戦い以降から徳川家に仕え始めた大名家(関ヶ原の戦いで東軍として戦った豊臣系大名も含む)

この分類は、政権内の権力において大きな差となっていた。特に、幕府の要職に全て譜代大名をもって充てた事は、鎌倉幕府、室町幕府からの大きな転換であった。鎌倉・室町幕府においては、時によっては将軍家・執権すらしのぐほどの有力御家人守護大名が要職に就いていた。また、豊臣政権末期の五大老制は、有力大名による集団指導体制であり、外様大名である徳川家康の政権簒奪を防ぐことができなかった。これに対して、江戸幕府では譜代大名が幕府の要職を独占していた。元々は豊臣政権時代に一大名に過ぎなかった徳川家康のさらに臣下であった譜代大名は、さほど有力ではない小大名が中心であり、徳川家以外の他の有力大名は、地方を統治する外様大名として中央政権の要職に就くことが無くなった。つまり、徳川将軍個人の独裁体制ではないものの、徳川家という枠組において独裁体制を敷いていたのである。またこのことにより、あまり政治に関与しなかった将軍であっても、幕閣の完全な傀儡になることはなく、政権の簒奪も未然に防止することが可能となった。

しかしながらこれは、親藩や有力外様大名が幕閣よりも「目上の立場」になる事を意味し(例えば井伊家は譜代大名筆頭であるが、外様大名筆頭の前田家や、御三家御三卿よりは下の席次であった)、幕末期において問題点として噴出する事となった。当時の大老である井伊直弼は強権をもって反対者を弾圧したが、その報復である桜田門外の変に倒れ、以降の江戸幕府は諸大名の統制が困難になり、大政奉還及び江戸開城を迎える事となった。
江戸幕府の役職
大名役

御側御用取次はもともと高級旗本の役職だったが、拝命後ある程度の時を経てから大名に取り立てられる場合が多かった。

大老・大老格(幕府成立当初は大政参与も置かれたが後に大老と統一)


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